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 第10回世界史講座は11月26日(土)午後2時より、「前漢のおとろえから魏晋南北朝時代」をテーマにしておこなわれました。受講者は6名でした。
 前回欠席した人がいましたので、中国史の最初からおさらいをしました。漢の時代には貧富が拡大し、豪族が出現してきたこと。そして、皇帝権力の拡大のなかで宦官が現れたが、宦官は中国史のなかで重要な役割を果たした。「史記」を書いた司馬遷や製紙法を発明したといわれている蔡倫、また、明の時代に南海遠征の隊長となった鄭和なども宦官にさせられた人たちであった。宦官は「琉球王国」にもいたことが、「テンペスト」というテレビドラマにも出ていたと指摘された。宦官というものが世界の各地域で存在したにもかかわらず、沖縄を除く日本にはなぜ現れなかったのか、という疑問があるが、私は、日本には牛や馬などの家畜を去勢するという風習がなく、それが人間を去勢するという風習を持たなかったことにつながっているのではないかと指摘した。
 また、後漢末期に起こった「黄巾の乱」という農民反乱について、なぜ黄色なのかという説明をおこなった。それは、五行思想からきており、漢は火徳の時代であり、次は土徳の時代になる。中国で土と言えば黄色であり、だから次の時代を表す黄色の幟などをかげたのである。五行思想については、このブログの「干支のはなし」を読んでください。
 三国時代については、明の羅漢中が書いた「三国志演義」で有名であるが、この話は蜀の劉備などが主人公となっており、史実とはかけ離れていると思われる。また、関羽については、このブログの「三国志の関羽が神となった」を読んでください。
 三国時代の主役は華北を支配した魏であり、邪馬台国の卑弥呼も朝貢してきて魏の王から「親魏倭王」の称号を得ている。魏は蜀を滅ぼしたが、魏の将軍司馬炎が魏に代わって晋を建国し、晋は呉を倒して中国は晋によって統一されるが、この頃華北一帯に異民族が侵入し、五胡十六国時代となる。これに対し江南では、晋の一族が南の健康(現南京)を都とする東晋を建国した。そして、華北は鮮卑が建てた北魏によって統一され、南北朝時代に入り、この時代を一般に「魏晋南北朝時代」と呼ばれている。
 この時代に南朝では「六朝文化」と呼ばれる貴族文化が花開き、詩・絵画・書道などの文化が生まれた。また、中国社会に大きな影響を与えた仏教が発展するとともに道教もこの頃確立した。
 朝鮮半島では、前1000年頃に農耕が成立し、前1世紀には高句麗が成立し、南部では、4世紀はじめには百済・新羅が成立し、高句麗をあわせて朝鮮三国時代とよばれる。
 日本列島でも前1世紀には小国が成立し、漢の支配した楽浪郡に朝貢しており、1世紀には倭の那国が後漢光武帝に朝貢して、「金印」を与えられている。3世紀には邪馬台国の卑弥呼が魏に朝貢しており、4世紀には大和政権が成立しており、5世紀にも南朝の宋に五人の王が朝貢していたという資料が「宋書倭国伝」に残されているが、これが「倭の五王」である。
 以上がまとめですが、参加者からすばらしい質問が出ました。それは、「中国の王朝は交替するが、そこには血のつながりはないのですか。」という疑問です。日本の歴史では、天皇は交替しても血のつながりはあると言われている。もちろん中国では、血のつながりは全くない。中国の歴史では、堯・舜・禹という伝説があり、血のつながりよりも、優れた人物が出てくればその人に王の位を禅譲するというのが理想とされている。中国の歴史をみると、血のつながりどころか、漢民族ではない、異民族の支配者が皇帝を名乗った時代がある。元王朝はモンゴル民族、清朝は女真族(満州族)である。ではなぜ日本の歴史では、「万世一系」(実際はそうではない)といわれるような天皇制が古代から続いていったのか。その答えは難しい。先ず第一に、日本が島国であり、異民族の侵入というものが、元寇以外にはほとんどなかったということが挙げられる。次に、日本よりも高い文化を持った国が近くにあり、支配者は堪えず中国などから高い文化を取り入れることによって支配を続けることが可能であったということ。第三に、実権を握った武士政権も古代の権威を借りることによって自己の権力を正当化しようと考え、古代の天皇制を利用したこと。また、日本の天皇は古代の権力者であったとともに、宗教的な権威を持つものであったことが現代まで天皇制が続いている理由ではないかと私は考えている。
 次回の第11回世界史講座は12月3日(土)午後2時からです。テーマは「隋唐帝国と東アジア諸民族の活動」です。多数のご参加をお待ちしています。
 

 
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「ヨーロッパの新しい動き」①
資料【A】反核運動(クレーフェルト宣言)(1980年11月16日)
 1979年12月12日のNATOの決議が致命的に誤った決定であったことがますます明瞭になってきています。アメリカの新型中距離ミサイルが西ヨーロッパに配備される前に、ヨーロッパの戦略兵器体系を制限するための米ソ間の協定が成立する見通しはないようにみえます。
・・・クレーフェルト討論の参加者は、一致して政府に対して次のように訴えます。
・・・パーシングⅡ型ミサイルの中部ヨーロッパへの配備を撤退すること。
・・・以上に関連して今後は、とりわけヨーロッパの人々を危険にさらすような新たな核軍拡競争の先兵となるかのような疑いをもたれないような態度をとること。
・・・したがって世論の不断の圧力によって以下のような安全保障政策を政府にとらせるために、全市民がこのアピールを支持するように訴えます。
・・・中部ヨーロッパをアメリカの核兵器置場にする軍拡を許さず
・・・軍縮を威嚇よりも重視し
・・・西ドイツ国防軍をこの目的にむけて発展させること。
                (近藤和子ほか編『ヨーロッパ反核79~82』野草社、1982)
資料【B】ヴァイゼッカー演説(1985年5月8日)
 今日の人口の大部分はあの当時子どもだったか、まだ生まれてもいませんでした。この人たちは自分が手を下していない行為に対して自らの罪を告白することはできません。/ドイツ人であるというだけの理由で、彼らが悔い改めの時に着る荒布の質素な服を身にまとうのを期待することは、感情をもった人間にできることではありません。しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。
 罪の有無、老幼のいずれかを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。/心に刻みつづけることがかくも重要であるかを理解するため、老幼たがいに助け合わなければなりません。また助け合えるのであります。/問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざすものは結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。
          ヴァイゼッカー『荒れ野の40年』岩波ブックレット、1986)
(解説)
 1975年にヘルシンキで開かれた「全欧安保協力会議」で主権尊重、武力不行使などの原則が採択された。ヨーロッパの緊張緩和が進むかに見えたが、79年にNATOがヨーロッパに中距離核戦力を配備することが決定してから、再び緊張が高まってきた。この中距離核戦力とはパーシングⅡ型ミサイルのことで、これは人工衛星によってえた目標地域の映像をコンピューターに記憶させるため高い命中精度をもつ。しかも弾道ミサイルだから分速300キロ、6~7分で目標に到達する。恐るべき核兵器がソ連のミサイルSS20に対抗してヨーロッパに配備されることが決定されたのである。この決定に反対して出されたのが「クレーフェルト宣言」である。クレーフェルトは西ドイツの小さな町で、「私たちは皆、核戦争による脅威の下にある・・・ヨーロッパに核ミサイルを置くな」というスローガンのもとに、ここでシンポジウムが開かれた。このシンポジウムのまとめとして発表されたのが資料【A】の宣言で、西ドイツ政府に対してNATOの決定の撤回を求めたものである。宣言の署名は大衆的に拡大され、西ドイツ反核・平和運動の共通の意志となった。これ以後、反核集会は毎年のように開かれ、83年には「人間の輪」と呼ばれて130万人が参加するにいたった。このような反核・平和運動の拡大にもかかわらず、83年11月の西ドイツ連邦議会では中距離核配備が決定された。
 このような西ドイツの保守化傾向のなかで、85年5月にはアメリカのレーガン大統領と西ドイツのコール首相によって、ナチス親衛隊の墓もある軍人墓地で花輪を捧げるという行動がおこなわれた。この年は、ドイツの敗戦40周年に当たっており、このような行動は、ナチスに対する戦争責任の風化を思わせた。まさにこの時、ヴァイゼッカー演説資料【B】が、連邦議会において1時間にわたっておこなわれたのである。大統領は保守党であるキリスト教民主同盟出身の政治家であるが、演説のなかで記憶をよみがえらせることの重要性を若者たちに訴えて、ナチスの戦争責任を風化させてはならないと説いている。演説のなかの「過去に目を閉ざすものは結局のところ現在にも盲目となります。」という言葉は世界の多くの人々に感銘を与えたのである。日本の戦争責任のあり方と比較させてみる必要があるだろう。
 参考文献 近藤和子ほか編『ヨーロッパ反核79~82』/ヴァイゼッカー『荒れ野の40年』
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 11月19日(土)午後12時30分より自宅で「お好み焼きパーティー」をおこないました。
参加者は、私を入れて8名です。藤井さんご夫婦がこれなかったのは残念でした。
そのあと、2時より4時までいつものように「歌声」で懐かしい歌をたくさん歌いました。
 次の26日の土曜日は、「第10回世界史講座」です。、テーマは「秦漢帝国の形成」の続きと「三国・南北朝時代と遊牧国家の動向」です。ぜひ皆さん参加してください、待っています。
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 第9回世界史講座11月12日(土)午後2時よりおこなわれました。受講者は7名でした。
 テーマは、「中華文明の形成」と「秦漢帝国の形成」です。
 いよいよ私たちの世界史の学習も東アジア世界へと入ってきました。
「中華文明の誕生」では、前5000年には黄河文明が成立していたが、同じころに長江下流にも稲作の文明があり、現在ではこの文明を合わせて中国文明と呼ばれていること。次に、中国の研究者の間では、最古の王朝を夏王朝と認めているが、日本ではまだ夏王朝を実在した王朝とは認めておらず、殷王朝を最古の王朝としている。それは、殷虚で発見された遺跡や甲骨文字によって証明されており、その政治が祭政一致の神権政治であったこと。なぜ黄河流域に都市文明が発達したのか、それは、メソポタミアなどと同じように、肥沃な黄土地帯で穀物の栽培とともに、黄土を乾燥させて簡単に住居などを造ることができたからである。
 また、甲骨文字の発明は現在の漢字の起源となり、我々日本を含めた東アジア世界に大きな影響を与えるとともに、歴史を文字に記録するという歴史学を発展させたことが重要である。
 次に「春秋・戦国時代と社会の発展」では、鉄製農工具の普及により、都市国家から領域国家へと
社会が発展したこと。そして、各諸侯や王が富国強兵策を実施し、優れた人材を登用したことが、この時代に諸子百家と呼ばれる思想家が出現したことを学習した。この時代には、「臥薪嘗胆」や「呉越同舟」また、「孟母三遷」と呼ばれるようなことわざの由来となった時代でもある。孟子の「性善説」や荀子の「性悪説」を学んだが、この荀子の弟子たちによって法家思想が生まれてきたことを学習した。
 法家思想を採用して中国を初めて統一したのが秦の始皇帝であり、英語のチャイナの語源となった「シナ」は秦からきており、現在広大な領域とたくさんの人口をかかえる中国が一つの国として統一されているのは、前3世紀に秦の始皇帝が中国を統一し、文字や度量衡や貨幣などを統一したからであると、今の中国では彼は高く評価されている。しかし、中国の歴史では、彼は極悪非道な人物であったとされてきた。その理由は、彼がおこなった「焚書坑儒」にある。儒学を徹底的に弾圧したことにより、漢代以後、儒学は国学となったために儒学者からそのように評価されるようになったのである。
 秦のあまりに性急な政策は、農民の反乱や各地の諸侯の反発をまねき、その中で有力な諸侯である楚の項羽と漢の劉邦の対立となり、漢王朝が成立した。ここでは、「四面楚歌」の由来の話しを学習した。次に、前3世紀にモンゴル高原に勢力を拡大した匈奴が中国を脅かし、漢王朝は、毎年多額の贈り物を匈奴に送らなければならなかった。そのため漢の武帝は、張騫を西の大月氏に派遣して匈奴と争そうことを計画したが、大月氏との提携は失敗した。しかし、それ以後、漢の西域経営が始まった。また、朝鮮半島には楽浪郡を設置して東への支配を広げたが、前1世紀には倭の使いが楽浪郡に貢物を持ってきていたことが「漢書」に残されている。
 以上が学習のまとめです。
 最後に、参加者のなかから「周の都が鎬京に置いたとあるが、なぜそれがわかるのか。」という質問がだされた。中国では歴史を大変重要なものと考え、代々王朝の歴史を残しており、それを集大成したのが、司馬遷の「史記」であり、そのなかに都の名前も書かれており、また、当然発掘調査もされているので、確実に都があったと言えるのである。というのが私の答えです。
 以上で報告を終わりますが、次回は、11月26日(土)午後2時です。内容は、「秦漢帝国の形成」の続きと「三国・南北朝時代と遊牧国家の動向」です。
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「魯壁と書かれた石碑」
「焚書坑儒」に対して儒家たちは書物を隠すために壁を作り、そこに書物を隠したと言われている。
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孔廟に飾られてあった孔子の肖像
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孔子のお墓
以上は、私のブログの中国旅行記より(ぜひ中国旅行記を読んでください。)
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●現代の民族対立●
 1960年代にはいると、教育の普及やマスメディアの発達などの近代化によって、いままでのエリート中心のナショナリズム運動は、大衆化されていった。それとともに、統一国民党と自由党の対立も大衆化されていった。統一国民党は、ときにタミル政党とも連合し、イギリス・アメリカとの結びつきを強め、一方、自由党は共産党などと統一戦線を組み、ソ連や中国との関係を深めた。
 バンダーラナーヤカが暗殺されたのち、夫人のシリマーウォーが自由党を率いて1970年の総選挙に臨んだ。自由党は共産党や平等社会党と統一戦線を組んで勝利した。この政府は、1972年に新憲法を制定し、仏教に高い地位を与え、国家はそれを保護・育成する義務を持つことを決めた。ここにいたってタミル人は、連邦スリランカの構想を破棄し、タミル分離国家(タミール・イーラム)の建設を推し進めることになり、その中心となったのがタミル統一解放戦線である。さらにタミル人のなかには、タミル人の独立運動と社会主義革命の実現をめざした、タミル・イーラム解放の虎(LTTE)と称する武装ゲリラも結成された。
 1978年の総選挙では、J・R・ジャワルダナ率いる統一国民党が勝利したが、タミル統一解放戦線も野党第一党となった。タミル政党の躍進は、シンハラ人の反タミル感情を刺激し、1980年代にはいると、スリランカは内戦状態におちいり、冒頭にふれたタミル人に対する大暴動がおこったのである。
 1987年にはインド政府が内戦に介入し、インド軍がスリランカ北部に駐留した。このときシンハラ人のあいだで反インド感情が高まるとともに、左翼の「人民解放戦線」と政府軍のあいだで内戦がおこった。
 一方、政府軍と「解放の虎」とのあいだの武装闘争が続いたが、1994年になり、自由党を中核とする人民連合政府が成立すると、ようやく政府と「解放の虎」とのあいだに対話がおこなわれるようになった。
 スリランカの長い歴史のなかで、シンハラ人とタミル人は対立ばかりをくり返していたわけではない。前途は多難であるが、いつの日か両民族の友好的な関係が実現されるであろう。
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キャンディアン・ダンス
 スリランカの中央部、キャンディを中心とする一帯に広がるダンスのことをキャンディアン・ダンスと総称するが、正式にはウダ・ラタ・ナトゥム(高地の踊り)という。その起源は、コホンバ・カンカーリヤと呼ばれる宗教儀礼にさかのぼるとされる。(『地球の歩き方 スリランカ」より)
 参考文献 渋谷利雄『祭りと社会変動―スリランカの儀礼劇と民族紛争』同文館出版、1988年
      波藤一廣『スリランカで午後の紅茶を』三一書房、1995年
      上田紀行『スリランカの悪魔祓』徳間書店、1990年
(「スリランカの民族紛争」の文章は、『シリーズ知っておきたい インド・南アジア』(歴史教育者協議会編集 青木書店 1997年)に私が書かせてもらったもので、写真は2005年に夫婦でスリランカ旅行をしたときの写真です。)
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