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五 授業展開例
(一限目)
T(教師)  私は海外旅行が好きで、今までいろんな国へ行ってきました。
さて、みなさんはどんな国へ行きたいですか。そして、なぜそこの国へ行きたいのですか。
S(生徒)  (たくさんの生徒に聞いてみたが、多い順番にあげると、オーストリア・カナダ・
アメリカ合衆国・フランスとなっており、欧米が圧倒的に多い。その理由の多くは、
自然のよさや、欧米に対するあこがれが強い。)
 T   世界の旅行家として有名な人をあげなさい。
 S   マルコ・ポーロ
 S    コロンブス
 S    玄奘
 T    (マルコ・ポーロやコロンブスについては省略し、玄奘については興味深い話をした。
中国の古い文献によると、神は虎に化身して玄奘を助けたとなっている。その理由は、中国では古来西の神は虎に化身したとされている(西虎)。それではなぜ西遊記には孫悟空という猿となっているのか。その理由として考えられるのは、玄奘が旅したインドの伝統的な神話、ラーマーヤナと関係があるのではないか。ラーマーヤナでは、神は猿に化身してラーマ王子を助けたとある。だから虎がいつの間にか猿にかわっていったのではないかという説である。)
 T    さて、地図の52ページ(省略)をあけなさい。そして、それと並ぶ、あるいはそれ以上の旅行家が書かれてありますが、それは誰ですか。
 S    イブン・バトゥータです。
 T    彼は何世紀のひとですか。
 S    14世紀のひとです。
 T    彼の信仰した宗教は何ですか。
 S    イスラーム教です。
 T    そうです。さて、14世紀にあらわれたイスラーム教徒の大旅行家、イブン・バトゥータと一緒に旅をしながら、イスラーム世界の勉強をしていきましょう。
 
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二 単元展開
 本校(大阪府立堺西高校)の世界史では、二年生二単位と三年生三単位(理科系の一クラスを除く)の合計五単位である。本来、この単元は二年生でおこなっていたが、昨年度の二年生担当者の進度があまりにも遅く、「唐の滅亡」までしか進まなかった。このまま教科書通りに進めば、近現代史の授業が十分できなくなってしまう。そこで私は、今年度(一九九二年度)の三年生世界史の最初の授業から、「イブン・バトゥータと旅する世界史」というテーマで5時間を使用し、「イスラム世界」と「宋~元までの中国史」を学習した。そして、その後「ヨーロッパ中世」をカットして、
「大航海時代」から入ることにした。
(一限目)私の授業方法の紹介とバトゥータの全体像をつかむ
(二限目)「イスラム教の成立」から「ウマイヤ朝」
(三限目)「アッバース朝」から「商業活動とイスラム文化」
(四限目)「イスラム世界のひろがり」
(五限目)「インドのイスラム化」から「宋~元の中国史」
三 教材
 ① 教科書―――三省堂『新世界史』
 ② 地図帳―――浜島書店
 ③ 資料 ―――プリント三枚(『三大陸周遊記』河出書房新社より)
四 授業のねらい
 ① バトゥータの旅行をたどることにより、イスラム世界のひろがりを具体的に明らかにする。
 ② イスラム教やイスラム文化の特色をおさえる。
 ③ イスラムの商業活動のひろがりにより、東西文化の交流が進んでいったことを明らかにする。
 ④ イスラムの政治・宗教・文化が、ヨーロッパ・アフリカ・インドなどのアジア各地に大きな影響を与えたことを明らかにする。 
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一 なぜイブン・バトゥータをとりあげたのか
 「湾岸戦争」をはじめとしてイスラム教・イスラム社会が世界中の注目を浴びた。アメリカ側からの一方的な情報により、イスラム社会は遅れた、不可解な社会であるというイメージが子どもたちのなかにも強いのではないか。このような偏見をとりのぞくためにも「イスラム世界」の授業をきっちりとやる必要があるだろう。
 従来、私のこの単元の授業では、「イスラム教の成立」から「アッバース朝」までに重点を置いてしまい、「イスラムの各地域へのひろがり」の授業が、時間的余裕がなくなってかけ足となってしまった。このような課題を克服するために、さらに、イスラム世界がいかに大きな広がりを持っていたのかということを、より具体的に明らかにするためにも、そして、最も大切なことであるが、子どもたちがより楽しく学べることを目的として、私は、一四世紀にアジア・アフリカ・ヨーロッパを旅した、イスラムの大旅行家であるイブン・バトゥータをとりあげたのである。
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イブン・バトゥータの旅行路(「東京書籍 新選世界史B」より)
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「東欧の改革とペレストロイカ」
資料【A】ポーランド・グダニスク協定(1980年8月31日)
 三十日グダニスク市の政労交渉で調印された「自由労組」に関する合意書の内容は次の通り。
一、新労組は既存の労組と並行して結成され、名称は「自主管理労組」とする。
一、新労組は労働者の立場を代表し、憲法のわく内で交渉し、反党、反政府あるいは外国との同盟に反対する行動はとらない。
一、新労組は政府の経済政策のうち、投資、賃金、物価問題について発言権を強められる。
一、新労組は統一スト委員会を母体に結成する。
一、スト権にはストの自由、保障、組織が含まれ、これらの点は今後法的に規定される。
                         (『朝日新聞』1980年8月31日)
資料【B】ペレストロイカ
 ソヴィエト連邦は非常に緊迫した時期を迎えている。共産党は1980年代中頃までの状況に批判的分析を加え、ペレストロイカすなわち立て直しの政策を採用した。国の社会的・経済的発展を促進し、生活のあらゆる面を刷新しようという政策である。・・・ペレストロイカは社会全体に活気を与えている。たしかに我が国は広大であり、問題は山積みしているし、解決は容易ではないだろう。だが変化は始まったのであり、もはやあともどりはできないのだ。
・・・この歴史的とも言える新しい思想には、実に現代のあらゆる基本的問題が含まれている。現在の世界に存在する矛盾対立、社会政治体制の相違、さまざまな時代にさまざまな国によってとられた選択のちがい、こういったいろいろなちがいがあるにもかかわらず、世界は一つなのである。われわれはみんな、地球という船に乗り合わせた乗客であって、この船を難破させるわけにはいかない。
 政治は現実に立脚していなければならない。そして、現在の世界におけるもっともおそるべき現実とは、米ソが備蓄している大量の通常兵器と核兵器である。このため、米ソは全世界に対して特別の責任を負っている。この事実にかんがみ、われわれは、米ソ関係の改善を心から願い、少なくとも、世界の将来に重大な係わりを持つ問題の解決にぜひ必要な、最低限の相互理解を得たいとおもっている。
                 (ゴルバチョフ『ペレストロイカ』講談社、1987)
1980年7月、食肉などの大幅値上げの発表から始まったポーランドのストライキは、ワレサを委員長とする統一スト委員会と政府との間で合意が成立した。これがグダニスク協定と呼ばれるものである。協定【A】は、官製の労組とは異なる、自由な労組の結成が認められるとともに、スト権が与えられたことに大きな意義を持っている。ただこの労組は憲法のわく内で行動し、反党的、反政府的、さらにポーランドとの同盟国に反する行動は取らないという制約を受けることになる。これは労組側にとっても、ソ連の介入を避けるためにはやむをえないことであったろう。1956年のハンガリー動乱、68年の「プラハの春」と、国民の民主化への期待が二度にわたってソ連軍によって圧殺されてきた東欧だけに、ポーランド労働者の勝ち得たものは画期的なことといえるであろう。合法的に認められた自主管理労組「連帯」は、80年の年末までに950万の労働者を結集した。ポーランドは、ストのために経済は悪化し、政権を引き継いだヤルゼルスキは、「連帯」労組を一時非合法化するなどの厳しい措置をとった。しかし問題は解決せず、政府はポーランドの政治、経済などの根本的な立て直しを迫られていった。そしてこのような社会主義国における立て直しは、ソヴィエト連邦のペレストロイカとして推し進められるのである。
 ペレストロイカ【B】を推進したゴルバチョフが政権に就いたのは、1985年であり54歳という若さであった彼が書記長に推薦された背景には、ブレジネフ長期政権下での硬直した官僚主義や停滞した経済を立て直すために、若く精力的なリーダーが求められていたという事情がある。86年の第27回党大会では、経済をはじめあらゆる分野における改革と官僚主義との断固とした闘争を主張し、新綱領も採択された。そして、その年の4月におきたチェルノブイリ原子力発電所の事故は、ペレストロイカをより徹底して推進させることになった。ゴルバチョフが国内政策とともに根本的な改革を迫られたのは、対外政策とくに米ソ関係であった。米ソの核開発を中心とする軍拡競争は、ソヴィエト連邦の軍事費を飛躍的に拡大させ、ソヴィエト連邦経済を圧迫した。そのためゴルバチョフはアフガニスタンからのソ連軍の撤退をはじめ、87年には米ソ中距離核戦力全廃条約、さらに翌年の国連総会でソ連軍の50万人削減を宣言した。このようなペレストロイカの進展は、やがて東欧に大きな影響を与えていくのである。
  参考文献 ダニエル・シンガー『ポーランド革命とソ連』(TBS ブリタニカ、1981)
 以上、「戦後史から何を学ぶか」は、青木書店から1995年に出版されたもののなかから、私の執筆部分を掲載したものです。
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「アジアにおける民主化の動き」
資料【A】中国共産党第11期中央委員会第六回総会(六中全会)
a 建国以来の党の若干の歴史的問題についての決議(1981年6月29日)
一、(省略)「文化革命」(以下文革と略)によって党と人民は建国以来最大の挫折と損失をこうむった。
一、実践が物語っているように文革がいかなる意味でも革命的な社会的進歩ではなく、またこうしたものではありえなかった。(省略)
一、(省略)文革というこの全面的な、長期にわたる左よりの重大な誤りについては、毛沢東同志に主な責任がある。しかし、毛沢東同志の誤りは、究極的には偉大なプロレタリア革命家の犯した誤りであった。(省略)
一、(省略)彼は文革で重大な誤りを犯しはしたが、彼の一生からみると、中国革命に対する彼の功績は、彼の誤りよりはるかに大きい。毛沢東同志にあっては、彼の功績は第一で、誤りは第二義的なものである。(省略)
一、(省略)中国を近代化された高度な民主と高度の文明をもつ社会主義強国に一歩一歩築きあげるため奮闘するよう呼びかける。

b 選出された党指導部の構成
 中央政治局常務委員
 中央委員会
 主席    胡耀邦(総書記)
 副主席   葉剣英(全人代常務委員長)
 副主席   鄧小平(党軍事委員会主席)
 副主席   趙紫陽(首相)
 副主席   李先念
 副主席   陳雲(党中央規律検査委第一書記)
 副主席   華国鋒(前党主席)
                           (『毎日新聞』1981年7月1日)
資料【B】 コラソン・アキノの演説(1986年2月25日)
 ついに私たちは「家」に戻ってきました。1986年2月25日、この日を忘れないでください。時期は夜の9時、出来事は自由の再来、すなわち独裁政治からの解放です。二十年間にわたる虐待、抑圧、不正、荒廃、絶望の日々は終焉しました。これらの日々に終止符を打ったのは、民衆の勇気ある革命でした。これは真実です。フィリピン人はまさに勇敢であり、偉大なのです。私はフィリピン人として生まれて、これほど誇らしく思ったことはありません。この気持ちを、すべてのフィリピン国民と分かち合いたいのです。(省略)
 そして私は、ニノイを思い起こさずにはいられません。彼の死をグッド・フライデー(聖金曜日)に、また私たちの解放をイースター・サンデー(復活祭日)にたとえたいと思います。ニノイはきっと今、天国からほほえみかけています。彼の主張と行動が正しかったことを、私たちが立証したからです。
       (若宮清『コラソン・アキノ ――― 闘いから愛へ』立風書房 1986)

 1986年から始まった文化大革命は、76年の四人組の逮捕で終息した。文革の原因は、毛沢東が当時共産党の実権を握っていた劉少奇などから権力を奪回するために起こされたものであるといわれるが、この時点ではまだ毛沢東への責任を明らかにすることはできなかった。ようやく5年後、六中全会決議の資料【A-a】に見られるような毛沢東批判が現れたのである。この時、政治権力を握ったのは鄧小平であり、政治局の陳雲とともに鄧陳体制が確立した。(資料【A-b】参照)
 文革は社会の全階層を混乱のなかに陥れ、経済的にも5千億元の損失を生み、1億人以上の人々が政治的社会的被害を受けたといわれる。文革以後の中国は、経済再建のために人民公社を解体し生産請負制を導入した。その結果、食糧総生産量が増大するとともに民衆の生活水準にも大きな向上がみられ、農民一人当たりの平均収入も79年から83年の間に約2倍になり、万元戸と呼ばれる富裕農家も多数現れた。また大胆な対外開放政策が打ち出され、広東省や福建省に経済特区が設けられ、西側の資本、技術、経営管理が積極的に導入された。現代の中国が行っている改革・開放政策がこの頃に確立したことを押さえたい。
 フィリピンのマルコス政権は、86年の「二月革命」で民衆の力によって崩壊した。マルコス政権は、大地主を抑圧して新興工業企業家をとりこみ、農民の上からの新たな組織化によって権力を固め、さらに金と暴力という不正選挙によって政権の永続化を計り、独裁体制を樹立したのである。しかし、20年に及ぶ長期独裁体制は、門閥政治の側面を強め、政治運営の腐敗・汚職の横行が進んだ。これに対し、国民各層の抵抗が強まったが、米国も米軍基地から基地貸与料を徴収しようとするマルコスに不満を持っていた。マルコスにかわるべき人物としてベニグノ・アキノが求められたが、83年にアキノは暗殺された。この暗殺事件を契機に反マルコスの大衆運動が高まり、これを抑えるためにマルコスは大統領選挙を早めたが、反政府勢力はアキノ夫人を候補者として内外の支持を得た。そして、86年の大統領選挙におけるマルコスの不正は、民衆の怒りを招き、マルコスは亡命をよぎなくされアキノ政権が誕生したのである。資料【B】は、コラソン・アキノがマルコスのマラカニアン宮殿脱出を確認した後の第一声である。
  参考文献 土井正興ほか『戦後世界史』(大月書店 1989年) 
       池田誠『図説中国近現代史』(法律文化社 1988年) 
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 第11回世界史講座は12月3日(土)午後2時より「隋唐帝国と東アジア諸民族の活動」をテーマにおこなわれました。受講者は4名でした。
 前回の魏晋南北朝時代の復習からはじまり、この時代に江南の開発が進んだことが後の隋の大運河の建設へと向かったこと。また、魏の時代に行われた均田制が隋唐に受け継がれ、日本の社会にも大きな影響を与えたこと。さらに、魏ではじまった九品官人法によって門閥貴族が生まれ、彼らは、南朝の六朝文化と呼ばれる貴族文化を担い、やがてこの文化が唐の貴族文化に受け継がれたことなど、魏晋南北朝が重要な時代であったことを確認した。
 北朝から全国を統一した隋の楊堅(文帝)が均田制や府兵制などを実施するとともに九品官人法をやめて、貴族の力をできるだけ抑えるために科挙制度を実施した。この制度は大変重要な意義を持っている。それは20世紀まで続いただけでなく、朝鮮・ベトナム・琉球王国でもおこなわれたものであった。この制度は、家柄ではなく、学科試験によって官僚を採用する制度であり、公平で現代に通じるものではあるが、重要な弊害もあった。それは、学科の内容が主に儒教の知識や詩などの教養を問うものであり、現実の社会に役立つ実用的なものではなかった。そのために科挙を採用した国々では、知識人のほとんどすべての人が、科挙に合格するために儒学や詩などの学習に時間を費やしていった。一方、科挙制度を採用しなかった日本では、「源氏物語」をはじめとする文学や後には蘭学などの新しい学問研究が進み、東アジアのなかで早く近代化を進めることができたのである。
 文帝の後を受けた煬帝は、大運河の建設を進め、政治の中心地である黄河流域と穀物の生産地として発達した江南とを運河によって結び付けたことは、現代でも大いに役立っているのである。しかし、このような巨大な土木事業と高句麗への遠征の失敗は、各地で農民反乱を勃発させ、兵士らの反乱のなかで隋は滅亡した。
 この混乱のなかで隋に代わって権力を握ったのが唐の李淵(高祖)であり、その後を継いだ太宗の時代には唐は大帝国を建設し、貞観の治とよばれるような安定した支配がおこなわれ、都の長安は百万人の人々が暮らす国際都市として繁栄した。文化では、李伯・杜甫などの詩や山水画・書道などは、日本の文化に大きな影響を与えた。
 一方、東アジ世界では、漢の時代から冊封体制が行われ、唐の時代にも受け継がれた。それは、中国皇帝が周辺諸民族の王を臣下としてそれぞれの国を治めさせ、朝貢貿易を認めた体制である。
  日本列島でも古くから各地域の王は中国の皇帝に朝貢した。中国の史料には、前1世紀には漢の支配する楽浪郡に使者を送っている。また、1世紀には後漢に朝貢し、王から「漢倭那国王」という金印を賜っている。また、3世紀には邪馬台国の卑弥呼が朝貢し、「親魏倭王」の称号を魏から賜っている。さらに5世紀には南朝の宋に倭の五王が朝貢したという史料が残されている。そして、7世紀には遣隋使や遣唐使が派遣され、律令制や仏教などの制度や文化を取り入れて日本の古代文化を発展させていったのである。
 朝鮮半島では唐と結んだ新羅が高句麗や百済を倒し、唐をしりぞけて朝鮮半島を統一したが、唐の文化を受け入れて律令制や仏教文化が発展した。
 8世紀半ばに入ると、均田制がゆきづまり、府兵制に代わって傭兵制が生まれ、辺境地帯では防備のために節度使が設置された。やがて、安史の乱と呼ばれる強大な節度使による反乱がおこった。反乱は軍人の力で鎮圧されたが、華北一帯は混乱し、節度使が支配する藩鎮と呼ばれる国が生まれ、唐は衰退していった。
 以上がまとめですが、参加者から「隋から唐への王朝の交代がなぜ簡単におこなわれるのか。」という質問が出された。「鮮卑族の血をひく隋の楊堅は北周の外戚として権力をふるい、やがて禅譲を受けて帝位についた。同じく鮮卑の血をひく李淵は楊堅と姻戚関係にあり、煬帝の死後に唐王朝を設立した。」と参考書にある。しかし、外戚や姻戚関係があるから王朝を受け継いだのではなく、中国では血のつながりよりも、天の命により天下を治めるのであるという思想が有力である。そのため実力のあるものは絶えず、天下を我が物にしたいという欲望を持っており、そのため王朝は絶えず交代していくのであると私は考えている。
 第12回世界史講座は1月14日(土)午後2時からです。テーマは「イスラーム世界の形成」です。今、最も注目を集めているイスラーム教がどのようにして形成されたのかを学習します。多数のご参加をお待ちしています。
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