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 第13回世界史講座は1月28日(土)午後2時より「Ⅱ軍人政権の時代」と「Ⅲアフリカ・南アジアのイスラーム化」をテーマに行なわれました。受講者は5名でした。
 アラブ人によってはじめられたイスラーム教がトルコ人やイラン人にも広がり、10世紀にはイラン人のイスラーム政権であるブワイフ朝が成立し、11世紀半ばにはトルコ人のセルジューク朝が成立した。セルジューク朝の王はアッバース朝のカリフからスルタン=統治者の称号を与えられ、勢力を伸ばしてシリアからアナトリアに進出した。これに対し、ビザンツ帝国はローマ教皇に援助を求めたが、これが十字軍の始まりである。
 十字軍についてはヨーロッパのところで詳しく学習するが、11世紀末から13世紀にかけて、聖地イェルサレムの奪回を目指して7回実施された。成功したのは第1回だけで、この時にイェルサレムに十字軍の国家が樹立されたが、奪回に当たってイスラーム教徒の非戦闘員や女性・子供まで虐殺し、イェルサレムは血の海になったといわれている。ムスリム(イスラーム教徒)側では、サラディンがファーティマ朝を倒してアイユーブ朝を樹立し、エジプト・シリアを統一し、十字軍を破り、イェルサレムを奪回した。この時、キリスト教徒の非戦闘員や女性・子供は保護されたといわれている。キリスト教徒の十字軍の方がはるかに残虐であったといわれている。
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サラディン(「東京書籍 世界史B」より)
 13世紀にはモンゴル帝国が成立し、フビライの弟のフラグがイランにイル・ハン国を建国し、バグダッドをせめてアッバース朝を滅ぼした。エジプトでは、アイユーブ朝のマムルーク(軍人奴隷)がクーデターによってマムルーク朝を樹立し、モンゴル軍を破った。
 10世紀以降のイスラーム世界では、軍人政権が各地を支配し、諸政権は、トルコ系・イラン系の軍人を主力とし、彼らに給与としてイクター(領地からの徴税権)を授与し、軍団長や地方総督に任命した。君主や軍人は、イスラーム法の担い手であるウラマー(法学者、宗教指導者)を保護し、マドラサ(学校)やモスク(イスラーム寺院)を都市に建設した。また、この頃修行によって神との合一を求める神秘思想=スーフィズムが広がり、スーフィー(修行者)は民衆から崇拝された。
 一方、11世紀以降に北アフリカのベルベル人(ギリシアのバルバロイから来た言葉)にイスラーム教が広がり、彼らのイスラーム王朝であるムラービト朝が成立し、モロッコからイベリア半島まで征服したが、後にアトラス山中におこったムワッヒド朝に征服された。
 西アフリカでは黒人のガーナ王国が8世紀以前に形成されていたが、アラブのムスリム人が往来し、金と塩の交易によって栄えたが、ムラービト朝によって滅ぼされた。13世紀に成立したマリ王国はイスラーム国家で、14世紀のマンサ・ムーサ王は、大量の金をたずさえてメッカを巡礼した。15世紀に成立したソンガイ王国はサハラ交易をにぎり、トンブクトゥは商人とウラマーの集まる都として繁栄した。
 10世紀以降、アフガニスタンのガズニ朝やゴール朝は、北インドにイスラーム教を広げ、仏教寺院を破壊した。13世紀にはデリーを都とする5つのイスラーム王朝がインドを支配し、デリー・スルタン朝と呼ばれる。
 東南アジアでは、10世紀以降に香辛料を求めて、西アジアからムスリム商人が来航し、13~14世紀には、港市国家の支配者は、イスラーム教にみずから改宗し、ウラマーやスーフィーを保護した。
このようにして、現在インドネシアは世界一のムスリムの多い国となったのである。
 以上が今回のまとめですが、今回の講義のなかでは、「十字軍のイメージが大きく変わった。ローマ教皇に対して略奪の許可を求めたり、ムスリムの非戦闘員や女性・子どもまで皆殺しにしたという行為に対して、今までの十字軍は正義の味方というイメージを持っていたが、それは歴史の事実とは大きくかけ離れたものであったことがわかった。」という感想が出された。
 次回の世界史講座は、2月25日(土)午後2時より「イスラームの文化」「ビザンツ帝国と東ヨーロッパ」をテーマにおこないます。(2月11日は祝日でお休みします)
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(2限目~5限目のまとめ)
 2限目からいよいよ旅がはじまるが、私は各時間の最初に№1のプリントの全体の旅日程図を生徒に見せる。そうすることによって、今日学習する場所が、彼の旅行のなかでどの位置を占めているのかを明らかにすることができるからである。
 さて、2限目では№2のプリントを配布し、メッカを中心とする授業がはじまる。
世界史プリント№2
(資料1)(絵・村についた旅人)(略)
(資料2)
「 翌日の朝まだきに貴いメッカ(マッカ)の町に入り、直ちにアッラーの聖殿に赴いた。そこはアッラーの友アブラハムの家居のあとであり、預言者マホメットがはじめて教えを説いたところでもある。わたくし達は東北方のバヌー・シャイバ門から境内に入り、神聖なカーバを仰いだ。敬虔な群集がそれをとりまき、天国への路を求めようとしている。わたくし達もまた到着のタワーフ(カーバのまわりを7周すること)を行ない、聖石(カーバの東向の角にはめられた黒石)に接吻した。マカーム・イブラーヒーム(アブラハムの立ち場の義、アバラハムがカーバを建てたとき台にしたという石があり、円屋根がかけてある)で二ラカーの祈りを行ない、ザムザムの聖泉の水を飲んだ(ムスリムの祈りは立、坐、伏の三つの姿勢を順次にとり、それを一通り行なうことを一ラカーという。ザムザムは別名イスマーイールの井戸、カーバの東角に対し、深さ約三〇メートルあまりといわれる。)
 それからアッ・サファーとアルー・マルワの丘の間を走った後、イブラーヒーム門の近くに宿をとった。
 神の、いみじきわざのうち、とりわけて心を惹くことは、人々の胸のうちに、この霊域を訪れようという強い願望を植えつけ給うたことである。このあこがえれは、はげしくて、何者もこれを阻止することはできぬ。また一度この地に至った者は、深い愛着を生じ、もはや別れ去るにしのびなくなる。やむなく去り行くときは、必ず、再び三たび帰ってくるぞと心に誓うのである。」
 ながい文章であるが、生徒にこの資料を読ませ、イスラーム教徒にとってメッカとはどういう所なのか、またアッラーとは何かを問い、礼拝の様子などを説明する。
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 第12回世界史講座は1月14日(土)午後2時より「イスラーム世界の形成」をテーマにおこなわれました。受講者は5名でした。
 2009年度の統計では、イスラーム教徒の人口は、15.7億人(世界人口は68億人)で世界人口の22.9%を占めており、その人口はますます増加している。いま、イスラーム世界はもっとも注目を浴びている。2001年の同時多発テロによりはじめられたアフガン戦争やイラク戦争など、また昨年のチュニジアから起こった革命はエジプトやリビアの独裁政権を崩壊させた。私たちにとってイスラームは悪いイメージがあるが、本来のイスラーム教は神の前の平等や、他の宗教に対しては寛容なものであった。それでは、どのようにしてこの宗教が生まれたのでしょうか。
 さて、アラビア半島から生まれたイスラーム教は、遊牧民の宗教ではなく、商人から生まれた宗教であった。メッカなどのアラビア半島の都市が発展した背景には、ササン朝ペルシアとビザンツ帝国との抗争のためメソポタミア経由の交易路が断絶し、紅海を経由する行路が発展したからである。アラブ人は多神教であったが、ユダヤ教やキリスト教などの一神教の思想が流入していった。
 メッカの商人であったムハンマドは、神の啓示を受け、唯一神アッラー(アラビア語で神という意味)の導きによる社会の建設を説いた。彼の教えは、多神教を崇拝するメッカの商人貴族の迫害を受け、622年にメディナへと聖遷(ヒジュラ)がおこなわれ、ここでイスラーム教団が確立し、この年をイスラーム暦の元年となっている。(イスラームとは神にすべてをゆだねるという意味である。)
 ムハンマドはユダヤ教・キリスト教の影響を強く受けており、そのため神も同じであり、モーゼやイエスも預言者として認められており、初めはイェルサレムに向かって礼拝されていた。だからユダヤ教徒やキリスト教徒を啓典の民と呼んでいたが、彼らとの対立が激しくなると、礼拝の方角もメッカへと変更されるのである。
 ムハンマドの死後、後継者=カリフが長老から選ばれ、第四代アリーまで正統カリフ時代が続いたが、アリーが暗殺された後、シリアの総督であるウマイヤ家がカリフを世襲化し、ここにダマスカスを都とするウマイヤ朝が成立する。これに対し、アリーの子孫をカリフとみなすシーア派が成立し、多数派のスンナ派と対立するがこの対立は現在も続いているのである。ウマイヤ朝のもとでイスラーム教は、西はイベリア半島、東は中央アジアまで拡大した。しかし、イスラーム教に改宗したイラン人をはじめとするアラブ人以外の民族には税を課すなどの差別をおこなったため、ウマイヤ朝に対する反発が強まった。
 反体制運動は、ムハンマドの一族であるアッバース家を擁立し、ウマイヤ朝を打倒した。アッバース朝は都をバグダードに建設しイスラーム世界の中心となったが、ウマイヤ家の一族は、イベリア半島に逃れ、後ウマイヤ朝を開いた。また、10世紀初めにはシーア派に属するファーティマ朝がチュニジアに成立し、やがて都をエジプトのカイロに建設した。両王朝はカリフの称号を名乗り、イスラーム帝国は政治的分裂をむかえた。
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コーラン(「東京書籍 新選世界史B」より)
 (アラブ人について)
 アラビア半島から現れたアラブ人が、西アジアから北アフリカへとイスラーム教を広めていき、現代のアラブ世界が生まれたが、なぜ少数のアラブ人が急速にアラブ世界を広げることができたのか。その答えは、西アジアから北アフリカにかけてアラブ人と同じセム系の民族が住んでいたこと。そして、イスラーム教では、神はアラビア語でムハンマドに語ったのであるからアラビア語が共通語となり、イスラーム教の儀式や習慣などが統一されていったことにより、同じ言語同じ宗教を持つアラブ人が形成されたのであろう。
 
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T (プリント№1を配布)この地図には、イブン・バトゥータが訪れた都市の名前が書かれてあります。ただし、重要な都市の名前がぬけています。10・16・35・46・50のどの番号でもよいから都市の名前がわかった人は手をあげなさい。(早い人から黒板に都市名を書かせ、正解の生徒には平常点として1点プラスする。)
S 正解(10はアレクサンドリア、16はメッカ、35はデリー、46は北京、50はバグダッド)
T 彼の生まれた所はどこですか。
S モロッコのタンジャです。
T 彼は22歳のときに大旅行に出かけますが、最初に彼がめざした場所はどこですか。
S メッカの巡礼です。
T 彼は51歳のときにモロッコのフェズに住むようになったが、何年間旅行をしていたのですか。
S 約30年間です。
T 彼の旅行の目的は、いったいなんだったと思いますか。
S 黄金を求めて。
S 香辛料を求めて
T 彼は、そのような経済的なものを求めたのではなかったのです。
S 巡礼が目的。
T たしかに最初の目的は巡礼であった。しかし、それだけでは中国やアフリカ・ヨーロッパに行った理由がわからない。おそらく、彼には未知の世界を知りたいという冒険心があり、それがこのような旅行に向かわせたのではないかと私は考えています。
T また、彼はどうしてこのような大旅行ができたのでしょうか。
S 彼はお金持だったから。
S 王様の援助を受けていたから。
T 彼はお金持でも、王様の援助を受けたわけでもなかった。彼はイスラーム教徒であり、彼が旅行した地域は中国をのぞいて、当時はイスラーム世界だったので、そこでは彼の使うアラビア語が通じたのです。また、この世界は商業貿易が盛んであり、また人の往来も盛んで、各地で知り合いができ、その人たちを通して旅行が可能となったのです。つまり、イスラーム世界の広がり(ネットワーク)が彼の旅行の条件であったのです。
T 以上が私の解答ですが、それは本当に正しいのか、イブン・バトゥータと旅しながらそれを検証していきましょう。
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