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「ビザンツ帝国と東ヨーロッパ世界」
 476年に西ローマ帝国がゲルマン民族により滅ぼされたが、バルカン半島、アナトリア、シリア、エジプトなどを支配するビザンツ帝国(東ローマ帝国)は存続した。ビザンツ帝国は、6世紀のユスティニアヌス帝の時代には、イタリア半島や北アフリカ西部を支配する大帝国を再建したが、7世紀には、ゲルマン民族に北アフリカをまた東方ではイスラーム諸王朝に領土を奪われ、帝国の領土はバルカン半島とアナトリアだけとなった。
 ビザンツ帝国は、専制君主制をつづけてきたが、教会も皇帝の支配下に置かれる皇帝教皇主義がおこなわれた。首都、コンスタンティノープルは東西貿易の中心であったが、11世紀以降、イタリアの都市が東西貿易に進出して、帝国の経済的地位は低下した。
 帝国の領土もヨーロッパ勢力やイスラーム諸王朝に奪われ、1453年に首都はオスマン帝国の手に落ち、ビザンツ帝国は消滅した。
 ビザンツ文化では、726年の聖像崇拝禁止令を契機とする西のローマカトリック教会と東のギリシア正教会という独自の組織が成立したこと。また、ビザンツ帝国はギリシア・ローマ文化を保存し、後に多くの作品が西ヨーロッパに伝えられてルネサンスを開花させる要因となったこと。またビザンツ文化はロシアなど東ヨーロッパにも影響を与えたことを押さえる。
 東ヨーロッパ世界の形成では、スラヴ民族の活動を中心に学習する。カルパティア山脈の北にいたスラヴ民族は、ヨーロッパ東部・中部さらにバルカン半島にもいくつもの国を建てた。バルカン半島に移ったスラヴ民族の一部は、アジア系ブルガール人が建てたブルガリア王国の支配下にはいり、しだいに混血がすすんだ。この王国は、ビザンツの聖職者によってキリスト教化され、ここからギリシア正教会がセルビア人など、スラヴ民族の間に広まった。布教のためにつくられたのが、ギリシア文字を応用したキリル文字で、現在ロシアなどで使われている。
 バルカン半島に定住した南スラヴ人のうち、クロアティア人などは西ヨーロッパの影響を受けてローマ教会を受け入れた。また、一部はオスマン帝国のもとでイスラーム教徒になった。
 このように、バルカン半島は、ギリシア正教会・ローマ教会・イスラーム教など宗教的・文化的な違いがあったが、この地域はイスラームのオスマン帝国の支配下に置かれていた。しかし、オスマン帝国が弱体化すると民族運動が起こり、この運動を利用してスラヴ系のロシアやゲルマン系のオーストリアがバルカンに進出し、これが導火線となって第一次世界大戦が勃発する。バルカンはヨーロッパの火薬庫と呼ばれるゆえんである。
 私は、30年前にユーゴスラヴィアに旅行に行ったが、その頃は、今と違って、セルビア・クロアティアなど六つの共和国がユーゴスラヴィアとしてまとまっていた。その背景には第二次世界大戦でナチスと戦ったチトーーをリーダーとする社会主義政権によって統一されていたからである。
 次に、ロシアの発展について学習した。この国は、9世紀末、ノルマン人のキエフ公国を起源とする。10世紀末、ウラディミル1世は、ビザンツ皇帝の妹と結婚してギリシア正教会を国教にした。13世紀ロシアはモンゴルに支配されたが、15世紀末、モスクワ大公国のイヴァン3世はモンゴルから自立し、滅亡したビザンツ帝国の皇帝のあとつぎと自称し、皇帝(ツアーリ)と名乗った。
 (質疑・応答)
 なぜイスラームに征服された人々はイスラーム教を受け入れたのか、という質問が出された。その答えとしては、一つは、当時としてはイスラーム教の持つ文化の高さにあったのではないか。ゲルマン人がキリスト教を受け入れた背景や日本人が仏教を受け入れたのもそのような理由であると思われる。次に、イスラーム帝国は、他の宗教も認めたが、人頭税などの税を課した。そのためイスラーム教に改宗すればそのような税を免れることができるという理由ではないかと考えられる。さらに、唯一神であるイスラーム教の持つ魅力にあったのではないか。以上が私の答えですが、間違っていたなら訂正してください。
 次の第15回世界史講座は、3月3日(土)午後2時に行ないます、多数ご参加ください。
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第14回世界史講座は2月25日(土)午後2時より「イスラームの文化」「ビザンツ帝国と東ヨーロッパ世界」をテーマとして行なわれました。受講者は4名でした。
 「イスラームの文化」
 イスラーム世界では、農業・遊牧・商業がそれぞれ盛んに行われていましたが、とりわけ商業が活発で、陸路では隊商(キャラバン)が組まれ街道にはキャラバンサライ(隊商宿)置かれた。また、海路ではインド洋の季節風を利用したダウ船が往来し、羅針盤を用いた航海が発達した。都市の市場(アラビア語ではスーク、ペルシャ語でバザールと呼ばれている。)が発達し、今でもアラブ世界では迷路のようなスークが盛んで、その近くには隊商宿・公衆浴場などの経済施設が、富裕者の宗教的寄進によって建設され、その賃貸料の収益がマドラサ(学校)などの宗教施設の運営に用いられている。イスラームを中心とした商業がいかに活発であったかを、東京書籍の「新選 世界史B」の教科書に出ている資料で確認した。
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(「東京書籍 新選 世界史B」より) 
 イスラーム学問の中心は、コーランと神学、歴史学などである。文学では、「千夜一夜物語」(アラビアン・ナイト)が有名で、これは、8世紀後半のイランの「千物語」を原型としてインドや中国、エジプトなどの説話が盛り込まれて、16世紀に集大成されたものである。そして、18世紀初頭に、フランスの東洋学者アント・アーヌガランが翻訳して以来、世界文学として広く読まれている。私たちのよく知っている「アラジンと魔法のランプ」や「アリババと40人の盗賊」「船乗りシンドバッド」などはこの物語の中のお話しである。哲学や自然科学では、ギリシアの学問が翻訳されて独自に発展した。10世紀、ブハラ出身のイブン・シーナの著した「医学典範」は、ギリシア・アラビア医学を集大成したものとして有名で、12~17世紀にかけてヨーロッパの医学校で基本書とされた。また、彼は哲学者としても有名である。私は昔、ウズベキスタンに旅行に行ったときに、たまたま彼の顔をかたどった銅板を購入したが、そこにはキリル文字とアルファベットでイブン・シーナと書いてあった。この国では、今でも彼は聖人として尊敬されているのである。同じく、哲学者でもあり医学者でもあったイブン・ルシュドは、12世紀のスペイン・コルドバの出身である。彼を主人公とした「炎のアンダルシア」という映画があるくらい有名な人物である。
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(この実践報告は、1981年に行なわれた「歴史教育者協議会」の北海道大会「世界部会」で私が報告したものを、翌年の「歴史地理教育 3月臨時増刊号」に載せられたものであり、私の最初の授業実践報告で、これを書いたのが32歳でした。)
1 はじめに
 私の勤務している学校の現状から説明しよう。進学状況は、三分の二以上の生徒が共通一次を受験し、残りの生徒も有名私立大学に集中している、いわゆる「進学校」である。しかし学校の雰囲気は、いたって自由で、自主・自立の精神を尊重し、受験勉強の締め付けなどはほとんどやっていない。そのせいか、生徒はのんきで、クラブ活動などは活発であるが、遅刻・欠課が多く、勉強の方はあまりやらず、三年生の後半になってから急に焦りだすという始末である。
 世界史の授業は、二年生二単位、三年生二単位合計四単位の履修である。世界史で受験する生徒は各クラス平均7名くらい。二年生・三年生とも授業中はおとなしいが、積極的に学ぼうとする姿勢に欠けている。三年生の授業は、内容が近現代史であるということからも、たいへん楽しいが、共通一次が近づいてくると、世界史を受験する者と、そうでない者との差が現れ、かくれて内職する生徒がでてくるという状況である。「進学校」における教師の悩みは、その教科・科目を受験しない生徒を、いかに惹きつけていくかということだと思う。「進学校」ではあるが、受験のための授業はやっていないし、またその必要もないと思っている。
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八 おわりに(世界史教育の目標)
 私は教師になって20年になる。同じく、大阪歴史教育者協議会の「世界史部会」に参加して20年になる。大阪の「世界史部会」は、私が参加するはるか前から年間プランを立て、毎時間の授業のねらい、板書事項、資料、生徒に対する発問など、どのような授業を進めていくのかということを学んできた。そして、私たちは、世界史学習の目標として、主に次の三点を共通認識として持つようになった。
① 現代世界を明らかにする。
 これは当然のことであろう。いま子どもたちをとりまいている世界には、いろいろな問題がある。このような問題がどのようにして起こったのか、それを知るためにこそ世界史教育が必要なのであり、その問題を解く鍵が近現代史学習のなかにある。だからこそ、世界史教育は近現代史中心でなければならない。しかし、現実には現代史まできっちりとやりとげている人は少ない。そのためには、前近代史の思い切った精選と、年間プランの作成が必要であろう。
② 人類社会発展の道筋を明らかにする。
 ここでいう人類社会の発展とは、生産力だけでなく、自由権や平等権・人権などの民主主義的な諸権利を指しているのである。このような諸権利がどのようにして勝ちろられてきたのか、そのような道筋を明らかにすることが、現代を生きる子どもたちにとって必要なのではないか。
③ 各民族や地域社会の特殊性・具体性を明らかにする。
 今までの世界史教育は、ヨーロッパや中国を中心としたものであった。しかし、あたりまえのことであるが、世界にはいろいろな民族や地域社会があり、それぞれ独自な社会・文化を営んできたのである。このようなことを明らかにすることによって、他民族に対する偏見を取りのぞくことができ、現代の国際社会に生きる日本人としての正しい世界認識を持つことができるのである。
 大阪の「世界史部会」では、このような観点から各民族・地域の学習を進めてきた。私の「イブン・バトゥータと旅する世界史」の授業実践もこのような流れのなかで生まれたものである。
(以上の報告は「1993年版 歴史教育・社会化教育年報 歴史教育者協議会編 三省堂」に載せられたものです。山本武志)
  
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七 今後の課題
 私はこの授業実践を、1992年度の歴史教育者協議会の福島大会の「世界部会」で報告した。この報告に対して、次のような意見が出された。
 一つはアフリカの授業についての意見である。前に述べたように、私はバトゥータの「サハラの奥地へ」の記述が、あまりにも黒人王国を差別したものであり、生徒が読む資料として適切でないと判断して資料を作らなかった。これに対し、「世界を旅したバトゥータでさえ、このような偏見を持っていたのだということをおさえて、記述したものを生徒に紹介すべきであった。」という意見である。私はこの意見の方が正しいと思う。なぜならこの授業は、あくまでバトゥータの旅の記述を通して、各地域の歴史を見ていこうとしたものであり、アフリカの記述を削除したことで、この授業は一貫性を欠くものとなってしまったからである。
 次に、「『14世紀世界』を完成させてはどうか。」という意見であった。つまりバトゥータと旅することによって、14世紀のアフリカ・西アジア・インド・東アジアを学ぶことができる。だから、あと14世紀の西ヨーロッパ史、たとえば「ルネサンス」や「百年戦争」などを付け加えることによって、14世紀の世界を一つのまとまりとして学習できるという考え方であると思われる。
 私の授業には、「14世紀の世界」という視野は入っていなかった。あくまでイスラーム世界の広がりを中心に考えていた。そのため、始めからヨーロッパ史は削除されていたのである。しかし、私の考えは間違っていた。なぜなら、バトゥータはヨーロッパ(アンダルシア地方)にも旅行しており、その記述を通して、イスラーム化されたヨーロッパの歴史を学ぶことができるのである。そして、イスラーム化されなかったヨーロッパを学習することにより、よりグローバルな「イブン・バトゥータを通して見た14世紀の世界史」の学習が可能となるのである。
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六 アンケートと感想
 この授業が終わった後、私は世界史を教えている4クラスの生徒全員にアンケートをとったが、その結果が次の表である。
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この表によれば、イブン・バトゥータの授業を肯定的に評価してくれた生徒は、①と②を合わせて91%になり、否定的な評価は、③と④を合わせて9%となる。圧倒的な生徒がこの授業を支持してくれたことになる。
 次に生徒の感想を紹介しよう。
 「イブン・バトゥータが旅をした時代に、あれだけの世界中の情報をしいれることがよくできたと思った。いくらイスラームの世界が広がっていたとしても、地図もろくにできていない頃なのに、目的地につけるなんてすごい、時代の流れがつかめてよかったと思う。」(MK)「私は授業ノート(毎時間に1人の担当者に授業内容・疑問点・感想を書かせるノート)で調べたせいか、イスラーム教に興味を少しもちました。」(HH)「この勉強のしかたはとても分かり易いので、今度のところもこのようなやり方でやってくれたらうれしいです。」(YM)「この授業形式は、けっこうおもしろくいいと思う。こんな風な進行だと覚え易い、ある人物にスポットを当てたTV番組を見ているような気がした。」(SY)「普通に教科書を見てやるというやり方よりは楽しくできたと思う。」(NT)
 このように生徒の感想文のほとんどは、このような授業方法を「楽しかった」と評価してくれている。
 「コーランは名前しか聞いたことがなかったので、実物を見たときはちょっと感動しました。」(KI)「異文化だから漠然としていてわからないことが多いけれど、コーランや香辛料などを見せてくれたおかげでわかりやすかった。」(AJ)「先生の話や、先生が持ってきた香料や帽子なども直接見たりすることができてよかったと思う。僕としては、その土地にまつわるような出来事をもう少し知りたかったような気もする。」(OT)ここに出てくる帽子といは、イスラーム教徒のかぶっているトルコ帽子のことであり、「話し」とは、アラビアン・ナイトの「アリババ」やモンゴルのところで話した「スーホーの白い馬」などのことである。このように実物教材や「お話し」は、授業に興味を持たせる有効な手段であると思われる。
 次に、数少ないが、批判的な感想を紹介しよう。
 「イブン・バトゥータと旅する世界はあっけなく終わってしまったので、ちょっとびっくりした。短くても一カ月ぐらいはすると思っていた。」(KR)「こんなに出来事などに浅く触れるだけの授業でいいのかなあとおもった。」(MA)「あっちこっち場所がかわってわかりにくかった。何が大事なのかもわかりにくい。他の国とあわせてすすんでほしい。」(FA)このように、わずか5時間で世界の各地を駆けめぐる授業であったため、一部の生徒にとっては分かりにくかったようである。
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 次にプリント№3の資料⑥を生徒に読ませる。
資料⑥
「北京
  ハターは世界で最もよく開発された国で、全土をあげて一か所として荒蕪地はない。もしそういう所があれば、その地の住民から、もしそこに住民がいなければその近隣地の民からハラージュ(地租)をとりたてる。果樹園、村落、田園が河(大運河?)のほとりにたち並んで、ハンサー(杭州)からハーン・パーリク(大都、今の北京)まで続き、その間は64日行程である。この地方にはムスリムの居住している者はなく、たまたまおればそれは旅人である。その理由はイスラーム教徒の永住に適せず、これという都会地がないからだ。村や、田圃ばかりで、至るところ果樹や甘蔗などである。世界中で、イラーク地方のアンバールからアーナまで4日行程の地域を除けば、これに似たところは見たことがない。毎夜、わたくし達は、どこかの村落に泊まり、もてなしを受けた。
 こうしてハーン・パーリクに到着した。別にハーニクーともいい、カーンすなわちスィーンとハターに君臨するシナの人々の大スルターン(天子)の都なのである。彼らの慣習に従いハーン・パーリクから10マイルのところに船をとどめ、提督達に報告書を出したところ、入港の許可があった。船着場に入り、それからその市街に上がったが、世界最大の都会の一つであった。しかしシナの他の都市とはことなり、田圃は城壁内にはなく、異国の町々におけるごとくその外側にあるのである。」
 以上の資料から、バトゥータが大都(今の北京)までやって来たこと、そして、彼が今まで旅した地域と違ってイスラーム教徒も少ないことから、ここがイスラーム国家でないことをおさえる。ただし、この当時の中国を支配していた元朝が、商業貿易を奨励してイスラーム商人を保護していたことにより、バトゥータの旅行も可能であったことを理解させる。
 中国の歴史について、生徒は「唐の滅亡」までしか習っておらず、ここで「宋」「金と南宋」について簡単にふれて、「元の支配」まで教える。
 以上で「イブン・バトゥータと旅する世界史」の授業が終わる。
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広州のモスク(清真寺)(「東京書籍 新選世界史」より) 
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 五限目では、プリント№3の資料③を生徒に読ませる。
資料③
「デリー
 インダス河から先はインド国王の領土である。わたくし達が到着すると、情報官らがきて取調べ、ムルターンの太守クトプル・ムルクに報告した。当時のシンド(インド西北地方)総督サルティーズはスルタン(国王)ムハンマド・イブン・トゥグルックの奴隷から身を起こした人で、ムルターンから10日行程をへだてたスィワスィターンに行っていた。
 シンドから国都デリーまでは50日行程であるが、情報官の報告書はわずかに5日間でスルタンのもとに達する。これはつまりパリード(駅伝制)のおかげである。」
 次に資料④を生徒に読ませる。
資料④
「 現王ムハンマド・イブン・トゥグルックは何人にもまして人に物を与えることを好むとともに、もっとも他の血を流すことが好きである。王宮の門からは、絶えずこの王によって富を与えられた貧窮者が出て行くかと思えば、王によって命を絶たれた者の屍も運び出されている。寛大で勇敢、しかも残虐凶暴の君主である。わたくしが、これからこの人について語ることは、尋常の世の中には、とうてい起こり得ぬことであると思う人々もあるかも知れない。しかし、みな親しくこの二つの眼で見たことをそのままに伝えるにすぎない。アッラーのみうなずき給えば、わたくしは満足するのである。
 デリーの王宮はダール・サラーと呼ばれ、多くの門がある。第一門には、一隊の番兵、楽隊がひかえている。将軍、大官などがくると奏楽し、その合間に『なにがしの参内』と叫ぶ。第二、第三の門でも同様である。第一門の外の腰掛には首切り役人達が待機している。国王がある人の死を命ずると、謁見の間の入口で殺し、死体は三日間そこにさらしておくのが常法である。
 第三門には受付の書記官が腰かけている。ここから内部へは国王の指示がないかぎり何人も入ることを許されない。またここから内に入る場合は、書記官達が『何のなにがし、何時に参内』と書きとめておく。そして国王は夜の祈りの後で、その報告に目を通す。」
 資料③と④を読ませることによって、当時インドのデリーを支配していた王が、敬虔なイスラーム教徒であったことを明らかにする。そして、インドのイスラーム化の歴史について簡単に触れ、ムガール帝国歴史まで教える。
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 4限目では、セルジューク・トルコ、ブラックアフリカのイスラーム化、そしてオスマン・トルコ帝国を学習する。
 ここでは、アラブ人の宗教であったイスラーム教が、トルコ人やモンゴル人、さらにブラックアフリカにまで広がり、これらの社会にイスラーム教が大きな影響を与えたことをおさえる。とくにブラックアフリカでは地図帳を利用して、ガーナ王国、マリ王国、ソンガイ王国がどのようにどのように発展していたかを明らかにする。
 私は最初、この時間にも他の時間と同様に、バトゥータのブラックアフリカの旅を資料として作成する予定であった。しかし、彼の「サハラの奥地へ」の記述は、あまりにも黒人王国を差別しており、生徒が読む資料としては適切なものではないと判断し、資料の作成をやめた。そのために、この時間の授業だけは、バトゥータの旅と直接関係なくおこなわれた。
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アフリカの諸王国(「東京書籍 新選世界史B」より)
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 三限目にはプリント№3を配布し、バグダードへの授業に入る。
プリント№3
 資料①バグダード
 「次にバグダードに着いた。アッバース朝第二代のカリフ、アル・マンスールがここに都を定めて以来、サラーム(平安)の都と呼ばれ、イスラーム世界の中心として、文化の華咲き乱れたところである。しかしイブン・ジュバイは『世は移り、残るはただその名のみ。いにしえの繁栄も、一たび災厄の目がその上に注がれてこのかたは、かき消えた足跡、うすれ去った幻にも等しいものとなった。眼を惹き、足をとどめしめるほどの美しさは、何一つ無くなった。ただチグリスの流れのみは、東西両市を連ねて、鏡のごとく光り、また美女の乳房の間にかけられた真珠の首飾りにも似て輝いている。彼女(バグダード)はその水に唇をうるおして渇くことなく、またこの鏡に姿映して曇りを知らぬ、その大気と水とから匂やかに咲きいでたのは美女のあでやかさである』といっている。
 アブー・ムハンマドという詩人は、この都市に対する怒りに燃えて、
     バグダードは富者にのみ広し
     貧者には狭く住むにも苦し
     われはただ巷より巷を迷う
     異教徒の家にあるコーランのごとく     と歌った。」
 バトゥータが訪れた14世紀には、モンゴル人のイル・ハン国の支配下でこの都が衰退していたことをおさえるとともに、その成立時代の繁栄の様子を教科書を使用して明らかにする。そして、バグダードを都として繁栄したアッバース朝の成立の歴史を学習する。また、この都を中心に行なわれていたイスラームの商業活動や、イスラーム文化についても学習する。とくに商業活動では、私がインドネシアへ旅行して買ってきた香料を持参し、生徒に香料を配ってその名前を答えさせる。また、イスラーム文化ところでは、「アラビアン・ナイト」に出てくる有名な「物語」の名前を尋ね、そのなかの代表的な作品を身振り手振りで紹介し、「アラビアン・ナイト」がイスラーム文学のなかで最も重要な位置を占めていることをおさえる。
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(アッバース朝時代のバグダード(「東京書籍 世界史B」より)
 
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