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●海のシルクロード●
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イブン・バトゥータの旅行路(「東京書籍 新選世界史B」より)
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 イブン=バトゥータが旅した経路と、それから約80年のちに鄭和が艦隊を率いた経路を比較してもらいたい。もちろんスペインやアフリカのサハラ、小アジアから中央アジアなどの内陸を別として、その航海路がいかによく似た場所であるかがわかるだろう。東から見ていくと、泉州・スマトラ・ベンガル・セイロン・モルディブ・カリカット・ホルムズ・ジッダからアフリカ東海岸へとその経路は驚くほど一致している。それは決して偶然ではなかった。
 彼らよりはるか以前、イスラーム商人の活動とともに、宋代以降の経済の発達は中国における海外貿易を活発にし、11世紀末から12世紀かけて遠洋航海が発達したといわれている。中国の商船がインドやペルシア、さらに東アフリカ沿岸まで航海したという見解もある。イブン=バトゥータも「カリカットの港には13隻のシナ船が来ていた」と記述しており、彼自身もカリカットで中国船に乗り換えて中国をめざしたのである。
 この航海路は中国をのぞいてはほとんどがイスラーム社会であった。永楽帝が宦官であった鄭和を航海の指導者に選んだのも、彼がイスラーム教徒であったことと無縁ではないだろう。
 イブン=バトゥータや鄭和たちがたどった航海路、それは彼らよりはるか以前にイスラーム商人や中国の商人たちが活動していた商業路であった。中国から絹織物や陶磁器が、西からは香料や宝石がもたらされた、いわゆる「海のシルクロード」であった。このような航路の存在が彼らの航海を可能にしたのではないだろうか。
 参考文献 前嶋信次訳『世界探検全集2 三大陸周遊記』(河出書房新社 1977) 
      寺田隆信『中国の大航海者 鄭和』(清水書院 1984) 
      伴野朗『大航海者』(集英社 1987)
 「イブン=バトゥータと鄭和」は『シリーズ 知っておきたい 中国1 東アジアのなかの中国』
(青木書店 1996)に私が記載したものです。
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●鄭和の西洋下り●
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 明王朝時代の鄭和が活躍したのは15世紀の初めであった。鄭和は2万7800名の乗員を乗せた62隻の船体を率いて、東南アジアの諸国から、インド洋・ペルシャ湾のちには紅海沿岸をへて、アフリカ東海岸にいたる海域を舞台として活躍した。彼の海上活動は、1405年から1433年における28年間に、7回にもわたりくりひろげられ、訪問国は30数カ国にものぼったといわれる。ここでいう西洋とは、泉州からスマトラ東部の線をもって、南海を東洋、西洋にわけた中国人による地域区分で、彼の遠征を「鄭和の西洋下り」と呼ぶ。記録によると、鄭和が乗った主力船の大きさは、現在の8000トンクラスに匹敵するという。1498年に喜望峰をまわってカリカットに到達したバスコ=ダ=ガマの船が120トンで、しかも3隻にすぎなかったことと比較すると、鄭和の船団の規模がいかに大きかったかがわかる。
 鄭和に航海を命じたのは明の永楽帝であり、その目的は明の国威を各地に広げ、朝貢を促すことにあったといわれている。「鄭和の西洋下り」によって、国王みずから来朝したのが4カ国、使節が来朝したのが34カ国にのぼったという記録があるから、その目的は達成されたように思われる。しかし、鄭和の航海には莫大な費用がかかった。のちに劉大夏という役人は、「鄭和の西洋下りは銭量数十万を浪費したばかりか、軍民の犠牲も万をもって数えるほどの多数にのぼった。奇宝を得て帰ったといっても、国家のためには何の利益もなかった。」とみなして、鄭和の記録を破棄してしまったほどである。また、朝貢貿易を維持するには莫大な費用を必要とした。その結果、宣徳帝以後、明の財政が悪化すると、「鄭和の西洋下り」のような大航海事業はおこなわれなくなったのである。
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●旅の王者 イブン=バトゥータ●
 アメリカの雑誌『ナショナル・ジオグラフィック』1991年12月号の特集は「旅の王者 イブン=バトゥータ」であった。それは、イブン=バトゥータ(1304~77年)の足跡をたどった旅行記である。従来、世界の旅行家というとマルコ=ポーロなどがあげられていたことを思えば、イスラーム教徒の彼がとりあげられたことは、意義のあることだろう。
 イブン=バトゥータの足跡を知ることができるものとして、『三大陸周遊記』がある。この書物は、彼が旅を終えたあと、学者であるイブン=ジュザイイに語り伝えられたものである。現代の研究者にも、その記述は貴重な内容のものであることが認められている。
 イスラームの歴史学者である前島信次氏によると、「イブン=バトゥータとはその家系を示す名で、本名はムハンマド、父はアブダルラーという人であった。この一家は実はルワータというベルベル人の一族に属し、もとは今のリビア地方におり、後にモロッコに移ったもので、今でもかの地にはイブン=バトゥータと名乗る人々がいるそうである。ゆえに純粋のアラビア人ではないのであるが、アラビア文化に同化したために広い意味でのアラブ族といってさしつかえないであろう。また本人も自らアラブ族だといっている」と述べている。
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イブン・バトゥータの旅行路(「東京書籍 新選世界史B」より)
 旅行記によると彼が旅に出かけた期間は、1335年の22歳から、1354年の51歳までの29年間にわたる。この29年間に彼が旅したルートを大きく分けると次のようになる。
① 1325~1327年 モロッコからメッカへの巡礼の旅
② 1328~1331年 メッカ滞在。東アフリカ、アラビア南岸を旅行
③ 1332~1333年 小アジアから中央アジアをこえてインダス河畔の旅
④ 1334~1341年 デリー滞在(法官としてトゥグルック王に仕える)
⑤ 1342~1345年 カリカット・セイロン・ベンガル・スマトラをへて泉州・大都(北京)の旅
⑥ 1346~1350年 南海経由でインド・バグダッド・メッカ・カイロを経てモロッコへの旅
⑦ 1351~1354年 スペイン訪問、サハラの奥地への旅
 29年間にもわたるアジア・アフリカ・ヨーロッパの旅の目的は何であったのか。彼はその動機について、「わたくしがふるさとのタンジール(モロッコ)を出たのは聖地メッカの巡礼をおこなった後、メジナなる預言者の御墓に詣でるためであった。1人の同行者もなく、キャラバンの群に加わるのでもなく、ただ聖地を訪れるのだとの希望に胸をふくらませ、固い決意をひめて旅路に出た」と述べている。聖地への巡礼がそもそもの動機であった。それだけではとどまらなかった。聖地からはるかに遠い世界に旅立たせたその理由は、未知の世界へのあこがれと、あくなき探究心であったように思われる。
 経済力もないイブン=バトゥータが単独でこのような大旅行ができたのはなぜだろうか。その答えは14世紀のイスラーム社会のネットワークの広がりにあるようだ。彼が旅した世界は、中国をのぞいてほとんどの国がイスラーム世界であり、しかも当時の中国はイスラーム教徒に寛大な元王朝の時代であった。旅行記によると彼はデリーや故郷のモロッコで法官となっている。それは彼がイスラーム教の神学者であり法学者でもあったということだ。このような人が、その頃のスペイン、モロッコからインドに連なるイスラーム世界を歩けばいたるところで厚遇され、衣食や旅費に困ることはなかったのであろう。中国に行っても広東や泉州のようなイスラーム教徒の居留地があるところでは、何の不自由もなかったのである。
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T  つぎにウルク期に進もう。ニの銅製斧、釣針、さじ、短剣などは何を意味しますか、④のロの銅製のピンや数珠玉と比較してみよう。
S  金属が装飾的なものからようやく生産用具に使用されるようになった。
T  その通りです。へには文字の使用とありますが、文字は何の目的で使用されたと考えられますか。
S  王が自分の業績を後世に残すため。
S  宗教に使用された。
T  現在発見されている最古の文書は、ほとんどが家畜・穀物・土地に関する経済文書ばかりです。神殿を中心とする支配者(神官)が、財産管理や会計事務のために発明したものであると考えられています。つまり文字は支配者が貢物などを記録するために生み出されたものであると考えられている。つぎのリの女性の装身具、鏡、化粧道具からなにがわかりますか。
S  女性の地位が向上したこと。
S  貴族の女性だと思われるから、身分制が現れてきたこと。
T  ところで、なぜ男性が化粧をしないのか。女性が化粧をするというのは何のためですか。
S  男性を喜ばせるため。
T  これは、女性が生産労働から遊離して、男性に隷属していくようになった証拠だと考えられている。
 (この時期では、神殿の役割がさらに拡大したこと。支配者=神官が、政治的・経済的にも力を備えるようになったこと。分業や所有権がさらに発展したこと。道路や広場にみられる都市の機能が確立したこと。文字が使用されたこと。以上のように都市国家の条件がそろったことを確認し、各自まとめに記入させる。)
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図1(A=丘の上の遺跡、B=チグリス川上流の遺跡、C=ユーフラテス川下流域の遺跡)
T  つぎに図1を見よう。Aにあたるのは、①のカリムシャヒルと②のジャルモです。つまり初期の社会は丘の上から始まったということですが、なぜでしょうか。
S  最初は狩猟・採集経済だったから丘の上の方が便利だからです。
T  農耕との関連で考えてほしい。初期の農具は川の流域ではないということです。どんな水を使ったと考えられますか。
S  雨水
T  なぜ初めから川の水を利用しないのですか。
S  農業技術が低く、川の水を利用できなかったからです。
S  土木技術が未熟で、川の側だと氾濫などにあい危険だからです。
T  その通りです。つぎにBにあたるのは、③のハッスーナと④のハラフです。川の上流に移ったということは、何を意味しますか。
S  農業技術が進歩したこと。
S  干乾しレンガの家などに見られるように、住宅建築が発達し低地生活が可能となったこと。
T  そうですね。つぎにCにあたるのは、⑤のウバイドと⑥のウルクです。川の下流に移ったということは、何を意味しますか。
S  灌漑・排水などによって、川の水を利用した農耕が可能になったからです。
(つぎに図2を見ながら最初の都市国家のようすを発表させ、各自プリントに記入させる。)
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4 おわりに
 以上の授業実践は、歴教協33回北海道大会の第4分科会(世界)で、「大阪歴教協世界史部会・世界史前近代学習のプラント実践」として報告したものである。従来、このテーマでの授業は、抽象的で教師の一方的な教え込みになりやすかった。しかし、今回提起したメソポタミア遺跡の具体的な資料を利用することによって、階級から都市国家の成立過程を楽しく、しかもわかりやすく生徒に考えさせる授業にすることができたと思っている。
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by YAMATAKE1949 | 2012-03-28 10:22 | Comments(0)
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T(先生) つぎにハッスーナ期に進もう。③のイ穀物貯蔵庫は何を意味していますか。
S(生徒) 貧富の差がでてきたこと。
S     食糧に余裕が出てきたこと。
T     貧富の差を示す遺跡は見られない。そうすると、この穀物貯蔵庫に保管されたものは誰のものだと考えられますか。
S     村落共同体みんなのものです。
T     その通りです。この時期の余剰生産物は共同体みんなのものであったと考えられています。 
 (この時期になると、ロ(かめ、壺、深鉢、脱穀盤などの土器)やハ(紡錘車)などの生産用具が発達し、余剰生産物があらわれてきたことを確認し、各自まとめに記入させる。)
T     つぎにハラフ期に進もう。④のロ銅製のピンや数珠玉で何がわかりますか。
S     金属器がでてきたこと。
T     金属器は何に使われたのですか。
S     祭祀用に使われた。
S     装飾に使われた。
T     そうですね、最初の金属器は生産労働には使用されていないことがわかりますね。
T     ④のハ円型ドームの祠堂(神を祭った小さい建物)では何を祭っていると考えられますか。
S     自然神を祭っている。
S     祖先神を祭っている。
T     祠堂が村落共同体運営の中心となっていることから、共同体の祖先神を祭っていたと考えられる。
T     ④のニ押捺印章は何を意味しますか。
S     文字がでてきたこと。
T     印章に書かれているのは文字ではなく、しるしです。
S     自分のものにしるしをつけて、他人のものと区別するため。
T     そうです。この頃には所有権が生まれてきたことがわかります。
 (この時期には、余剰生産物の成立を背景として、ようやく所有権が生まれてきたこと。また、金属器が使用され、農耕に従事する者と金属器などを生産する者が分かれる分業が始まったことを確認し、各自まとめに記入させる。)
T     つぎにウバイド期に進もう。灌漑農業が成立するためにはどのような条件が必要ですか。
S     近くに川があること。
S     生産用具が発達していること。
T     他に何が必要ですか。
S     多くの人が必要です。
T     それでは、灌漑農業に必要な労働力は、どのようにして形成されましたか。
S     川の近くの村落共同体が結合されていったのではないかと思われます。
T     これは非常に重要なことです。今までの血縁的な結びつきのわくをこえて、地縁的な結びつきをもつ集団が形成されたことを意味します。しかし、いくら多くの集団が形成されてもバラバラに働いていたら事業はうまくいきませんね。何が必要ですか。
S     多くの人たちを統率する指導者が必要です。
T     そうですね。指導者にはどのような人が選ばれたと思われますか。
S     経験豊かな長老だと思われます。
S     みんなから尊敬されるような人望のある人だと思われます。
S     農業技術にすぐれている人だと思われます。
T     みんな正解だと思います。さて、灌漑農業のなかで指導者の役割は決定的に重要です。成功するか失敗するかに多くの生命がかかっているのです。指導者は何を獲得していったと考えられますか。
S     人々を自分の命令に従わせること。
S     権力を持ち、余剰生産物を自分のものにすること。
T     その通りです。ここにいたって、ようやく権力者が出現したのです。また、神殿は権威の象徴として建設されたと考えられています。
 (この時期では、灌漑農業の成立により、権力者=支配者が出現したこと。また、家族墓がたくさんでてきたことは、村落共同体が分解されたことを確認し、各自まとめに記入させる。)(つづく)   
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by YAMATAKE1949 | 2012-03-27 10:32 | Comments(0)
3 1時間の実践
① テーマ 「階級の発生と国家の形成」
    (大阪歴教協世界史部会、前近代史学習プランの①原始社会発展過程の時代の3時間目)
② ねらい
 a 生産力の発展による階級の発生を明らかにする。
 b 国家の成立と国家のようすを明らかにする。
 教科書によっては、原始社会発展過程の時代(人類のはじまりから階級の発生と国家の形成)を省いて記述しているものがある。しかし、階級や国家というものが、超歴史的なものであると考えがちな高校生にとって、階級や国家が、社会の発展のなかで形成されたものであることを、きっちり把握させることが重要である。
③ 教材資料(プリントの表①と図)
④ 授業方法
 前の時間にプリントを配布し、宿題として表1の特色の欄に、内容からわかることをすべて書き込ませ、授業時に発表させる。
⑤ 展開例
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T (先生)表1①カリムシャヒルの遺跡のイの季節的な住居から何がわかりますか。
S(生徒)定着しないで季節的に移動していたことから遊牧生活か。
S    獲物を求めて移動した狩猟生活か。
T    ①のロの石斧、石鎌、石臼などから何がわかりますか。
S    農耕がはじまったこと。
T    ①のハの家畜種、羊、山羊、豚などの骨が50%以上から何がわかりますか。
S    牧畜がはじまったこと。
T    ①の特色をまとめてみるとどのようなことがわかりますか。
S    このころに農耕・牧畜がはじまったことがわかる。
 (各自、自分の解答が当たっていたかどうかを確認。)
T    次にジャルモ期に進もう。②のイ20~25戸の集落で何がわかりますか。
S    人々が定住し村ができてきたこと。
T    1戸の人数は約5名で合計125名によって集落は形成されている。この人たちはどんなつ     ながりを持っていたと考えられますか。
S    血縁的なつながり。
T    このような集落のことを村落共同体または氏族共同体と呼んでいます。
     ②のロの粗製土器と少数の彩文土器(輸入品)から何がわかりますか。
S    土器がつくられていたこと。
S    輸入品と書いてあるから貿易がおこなわれていたこと。
T    ②のハの多量の炭化した大麦、小麦とニの家畜種の骨(95%以上)から何がわかりますか。
S    農耕・牧畜が発達したことがわかる。
 (以上のことから、ジャルモ期では農耕・牧畜が生活の中心となったこと、それによって村落共同体が形成され、土器も作られ、他地域との交易がはじまったことを確認し、各自まとめに記入させる。)(つづく)
     
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2 世界史学習の目標
 私がこれから報告する授業の前提となっている世界史学習の目標から考えていきたい。現代に生きる高校生にとって、世界史を学ぶ意義はどこにあるのか。遠山茂樹氏は、その名著『歴史学から歴史教育へ』のなかで、「高等学校歴史の重点は、あくまでも世界史である。世界史が学ばれる中で、日本史の認識が次元の異なる深まりを示すことは明らかである。そして、世界史の基礎的知識が欠けていては、大学でどの方向に進むにせよ、所期の大学教育は行ないえないからである。」と述べられている。ここでいう「日本史の認識が次元の異なる深まりを示す」とはどのような意味なのか。それは、世界史では、日本史を東アジア史の一環として学ぶことができる、というような単純な意味ではなく、小学校や中学校で学んできた日本歴史の発展を、世界歴史(人類史)の発展の視野のなかでとらえることができるということではないか。だからこそ私は、原始から現代にいたる体系的な世界史学習が必要であると考えている。体系的な世界史を学ぶことによってこそ、初めて人類社会の発展の普遍的な法則性が追求できるのであり、また、人類社会の発展の普遍的な法則性を追求することによって、現代に生きる日本人の課題も明らかになっていくのだと思う。
 このように世界史教育は、かなり高度な認識を必要とする。そのために、小学生や中学生の発達段階では困難であり、高校生になって初めて学習可能なものなのである。だからこそ遠山氏は、高校における歴史教育の中心に世界史を位置づけられているのだと思う。
 つぎに、遠山氏は、「世界史の基礎知識」を非常に重視されている。まさにその通りだと思う。とくに、近現代史における基礎知識は、現代社会を生きていくうえにおいて必須の条件なのである。だから、授業で近現代史をきちんとおこなえないということは重大な問題である。だからこそ前近代の授業では、思い切った教材の精選が必要なのである。
 以上の観点に立って私は世界史の授業をおこなっているが、それを整理すると次のようになる。
① 人類社会発展の普遍的法則性を追求する。そのため原始から現代までの体系的な世界史の追求。
② 各地域・民族の発展の特殊性、具体性を明らかにしていく。
③ 近現代史を重視
④ 前近代史を、社会発展に重点を置いて精選する。
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by YAMATAKE1949 | 2012-03-20 20:36 | Comments(0)
 4 荘園のしくみと農民のくらし
 ローマ時代に地中海を中心とする商業貿易は盛んにおこなわれていたが、ゲルマン民族の大移動のなかで地中海貿易は衰え、西ヨーロッパは自給自足を基本とする農村社会となった。このような考え方を批判したのが、ピレンヌの著作「ヨーロッパ世界の形成」である。私の「チュニジア旅行記」にも紹介しているが、ゲルマン民族の大移動のなかでも地中海を中心とする商業貿易は行なわれていた。しかし、イスラーム勢力が西アジア・北アフリカを征服し地中海貿易権を握ったことにより、西ヨーロッパは自給自足の農村社会となったのである。
 西ヨーロッパでは人口の90%以上が農民であった。彼らは領主の土地である荘園の中で生活していた。荘園には領主の城や教会、住民の村落が中心にあり、周囲に領主の直営地と農民の保有地があった。彼らは領主の直営地を耕す賦役と、また収穫の一部を領主に納める貢納の義務があった。さらに農民には結婚税(これは娘が結婚するときに初夜を領主に与える義務の名残だといわれている)や死亡税、水車やパンを焼くかまどの使用税を納める義務もあった。農民には移住したり、転職したりする自由がないので、農奴と呼ばれた。
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(東京書籍「新選 世界史B]より)
 
 5 キリスト教の役割と聖職者
 ゲルマン民族は文字も知らず、ほとんど文化というものを持たない民族であった。文字を教え、文化・教養を与えたのがキリスト教のローマ教会であった。そのためローマ教会は西ヨーロッパ世界で大きな影響力を持っていたのである。
 ローマ教会の最高の地位にあるのが教皇で、その下に大司教・司教などの高級聖職者がおり、彼らは荘園の領主でもあった。庶民と接していたのが司祭で彼らは住民の安全と死後の平和を祈ったり、誕生から死までの生活を指導したりした。
 教皇は、神の名において皇帝や王に冠を与えて権威を保証した。1077年、教皇グレゴリウス7世と皇帝ハインリヒ4世が聖職者の任命権をめぐって対立した。破門された皇帝は、はだしで祈り謝罪したが、これをカノッサの屈辱と呼ぶ。そして、13世紀の教皇インノケンティウス3世の時代、「教皇は太陽、皇帝は月」と演説するほど、教皇権は絶頂に達した。
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カノッサの屈辱(東京書籍「新選 世界史B]より)
(質疑・応答)
 今回は、講義のなかで質問がいくつか出された。
質問 「教皇と皇帝・王はどちらが上なのか。」
解答 ビザンツ帝国では、皇帝が教皇を兼ねる皇帝教皇主義で、皇帝の権力は圧倒的に強かったが、西ヨーロッパでは時代によって異なるが、この頃は教皇の権力の方が強かった。
質問 「カノッサの屈辱」などに対して、皇帝や王は反撃しなかったのか。
解答 実は次の世界史講座で、王の巻き返しがおこなわれ、教皇がフランスの王にアヴィニヨンに拉致されるという事件が起こるのである。
質問 「東フランクのオットー1世が神聖ローマ皇帝となり、彼の後継者は、神聖ローマ帝国の皇帝の地位についた。ということは、東フランク王国が神聖ローマ帝国となったのか。」
解答 東フランク王国は、カロリング朝が断絶した後にザクセン朝のハインリヒ1世が919年に即位した。フランク人以外から王位についたのはこれが初めてである。彼はフランク王国の伝統的な儀式を廃止し、ドイツの王という意識を持っていた。そのため東フランク王国はここで消滅したという見方もある。また、神聖ローマ帝国という呼び方も厳密にいえば、13世紀以降に正式にこのように呼ばれたのであり、それまでは単にローマ帝国と呼ばれていたとある。大まかにみれば、東フランク王国が神聖ローマ帝国となったと考えるのは間違いではないだろうというのが私の考えです。
 次回の第16回世界史講座は4月14日です、多数参加してください。
 
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第15回世界史講座は3月3日(土)のお雛祭りの日の午後2時より「西ヨーロッパ世界の形成」をテーマとして行なわれました。受講者は6名でした。
 1 ゲルマン民族の大移動
 以前に古代ギリシア・ローマ時代を学習してきたが、この世界はヨーロッパ世界ではなく「地中海世界」であり、ヨーロッパ世界の形成はゲルマン民族の大移動からはじまる。
 ローマ帝国の北方に定住していたゲルマン民族の社会については、彼らは部族社会であり、部族内の重要な事項は、自由民の成年男性による民会で決定されていたことが分かっている。文字を知らなかったゲルマン人について、なぜそのようなことが分かるのか。それは、文字を知らなかった倭人の社会について、邪馬台国の卑弥呼などのことを我々が知っているのと同じである。つまり、当時の中国人の書いた「魏志倭人伝」が残されていたのと同じで、ローマ人が書いた「ゲルマニア」という書物からわかるのである。ゲルマン人が定住する以前にはケルト人が住んでいたが、彼らはゲルマン人に追いやられ、イギリスのアイルランドやスコットランドへと移住していったのである。
 375年に、匈奴の一派であるといわれているアジア系のフン族がヨーロッパに侵入すると、ゲルマン民族は大移動をはじめ、数十万人といわれるゲルマン人がローマ帝国領内にはいりこみ、イベリア半島には、西ゴート王国、イタリアには東ゴート王国とランゴバルド王国などが成立した。このような混乱の中で、476年に西ローマ帝国はゲルマンの傭兵隊長であったオドアケルによって滅ぼされた。
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ゲルマン民族の大移動(「東京書籍 新選世界史B」より)
 2 フランクの発展
 ゲルマン民族の建てた国家は多くは滅んだが、メロビング家のクローヴィスは、諸部族を統一してフランク王国を建国した。ゲルマン諸部族の多くがローマ帝国で異端とされたアリウス派のキリスト教を信仰していたのに対し、クローヴィスはローマ教会の教義を受け入れ、ローマ人に支持されて他のゲルマン国家を次々に打ち破った。
 8世紀前半、カロリング家のカール・マルテルは、イベリア半島から北上してきたイスラーム軍をトゥール・ポアティエ間の戦いで撃退した。さらにカールの子ピピンは、北イタリアで領土を奪い、ローマ教皇に領土を寄進した。フランク王国は西ローマ皇帝にかわる教会の保護者として認められた。ピピンの子カール大帝は、800年にローマ教皇からローマ帝国の冠を受けて、西ヨーロッパ全体の支配者となった。
 3 西ヨーロッパ諸国の形成
 カール大帝の死後、9世紀前半に帝国は東フランク、西フランクと中間部に分かれ、東フランクは後にドイツ、西フランクはフランスに相当する。中間部の国は間もなく滅び、統一国家はうまれなかった。現在、ここにはオランダ・ベルギー・ルクセンブルク・スイス・イタリアがならぶ。
 8世紀頃、スカンディナビア半島周辺から、ノルマン人が来て、交易や略奪を行なった。ノルマンの由来は、北方のノースのゲルマン人という意味で、彼らは巧みに船を操り、バイキングと呼ばれる海賊行為を行なった。彼らは入江(バイク)から攻めてきたのでバイキングと呼ばれた。彼らは現在の北欧諸国の他、北フランスのノルマンディー公国や地中海のシチリア王国などを建国した。
 ノルマンディー公国のウィリアムは、1066年にイングランドを征服して王となり、ノルマン朝のウィリアム1世となった。イングランドはゲルマン民族の大移動のなかで、アングル族とサクソン族が七王国を建国していたので、ノルマン征服王朝と呼ばれ、ヨーロッパ封建社会の中で、比較的王権が強かった。現在の英語の中にもアングル・サクソンを原語とするものとノルマンを原語とするものに分かれているといわれている。牛は英語でカウ、豚はピッグ、ところが牛肉はビーフ、豚肉はポークである。カウやピッグはアングル・サクソンを原語とし、ビーフやポークはノルマンを原語とする。なぜなら、征服されたアングル・サクソンは牛や豚を養い、その肉を食べるのが征服したノルマンであるから。
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ノルマン人の軍団(「東京書籍 新選世界史B」より)
 9世紀には東方からマジャール人が、地中海沿岸ではイスラーム諸王朝が侵入した。こうした外敵の襲来に対しては、地域ごとに土地の有力者である領主が対抗した。領主は部下とともに武装して、外敵から自分の領地を守り、領内では裁判権や徴税権を用いて君臨した。東西フランク王国は名目的なものとなり、領主の支配する領土は政治的・経済的に自立した。そして、領主たちの中で、実力のある者が王に選ばれた。
 東フランクでは、オットー1世がマジャール人を撃退し、イタリア半島に遠征してローマ教皇を助けたので、教皇は962年にローマ皇帝の冠を彼に与えた。以後、彼の後継者は神聖ローマ帝国の皇帝の地位につくことになった。西フランクではヴァイキングの撃退を指導したカペー家が王位についたが、王権は弱かった。
 領主は自分より有力な領主を主君とし、自分は主君の臣下となった。主君は臣下に封土の支配を保証し、その代わり家臣は、主君が戦争する時には主君の軍隊への参加が義務づけられた。こうした領主間の関係を封建的主従関係と呼ぶ。しかし、この主従関係はあくまで領主間の契約関係であり、同じキリスト教徒であるという前提にたち、契約は神に対して誓いを立てるのである。

 
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 次に私たちが向かったのは「城南射撃場跡」です。志賀さんの資料によると、「かって、この場所に東西に細長くコンクリート製の体育館をつなぎ合わせたような建物がありました。第8連隊・第37連隊の兵士が小銃・機関銃の実弾射撃訓練を行う施設でした。戦後は陸上自衛隊の施設となっていましたが、1969年に大阪市に移管され、大阪城公園及びその駐車場となっています。」とある。この跡地はピ-スおおさかから西に歩いたところにあり、私はこのあたりを以前何回も歩いているのに、この場所に「城南射撃場跡」という石碑があることを全くしらなかった。
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城南射撃場跡の石碑
 私たちは「城南射撃場跡」をさらに西に進み教育塔を見学した。教育塔は、1934年の室戸台風で殉職した教員や死亡した多数の児童を弔うために造られたもので、以前、私たちは教育塔の前で行なわれた集会によく参加したものです。
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教育塔
 次に私たちは歩兵第8連隊碑・歩兵37連隊碑の見学へと向かった。
二つの石碑は、大坂城の南側に上町筋の通りをはさんでありました。志賀さんの資料によると「第8連隊は第4師団創設の前、1874年に作られた日本最初の歩兵連隊の1つ。最初は現在の国立病院機構大阪医療センターにありましたが、それを歩兵第37連隊に譲る形で、向かい側に移りました。第8連隊の場所は、難波宮のあった場所で、日赤病院を経て、史跡公園となっています。第37連隊は1896年に、それまでの7個師団体制から13個師団体制となる中で、新たに創設されました。軍隊内でのリンチを描いた、野間宏の『真空地帯』のモデルとされます。」とある。
 この石碑の前で志賀さんは、なぜ第8連隊の横に第37連隊とばらばらな番号が置かれたのかを資料も見ないでとうとうと説明してくれた。彼の博識には感心させられた。また、この資料にある『真空地帯』はまだ読んでいないのでぜひ読んでみたいと思った。
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歩兵第8連隊の石碑
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歩兵第8連隊の碑文
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歩兵第37連隊の記念碑
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