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 第16回世界史講座は4月14日(土)午後2時より「ヨーロッパ世界の変動」をテーマにおこなわれました。受講者は3名でした。
1 十字軍
 十字軍がおこなわれた背景には、11~13世紀に西ヨーロッパで農業生産力が飛躍的に発展したことが挙げられます。気候の温暖化、農業技術の革新、三圃制農法の普及などにより人口が増大し、商工業が発展したこと。このような中でアルプス高地の開墾・オランダの干拓・ドイツ騎士団による東方植民やイベリア半島の国土回復運動(レコンキスタ)などが行われたが、十字軍もこのような動きの中で行われた。
 十字軍遠征のきっかけとなったのは、セルジューク朝がアナトリアに進出し、ビザンツ皇帝がローマ教皇に救援を求めたことにある。教皇権の拡大をねらっていた教皇ウルバヌス2世は、クレルモンで公会議を開き、聖地イェルサレムへの十字軍の派遣を宣言した。このとき諸侯や騎士たちは、略奪の許可を求めたといわれる。第一回十字軍は聖地を占領し、イェルサレム王国を建てた。イェルサレムは7世紀以来イスラーム教徒が住んでいた地域であり、彼らにとって11世紀末に突然やってきた十字軍は侵略者であった。しかも戦闘員でなかった者や女性・子どもまで虐殺し、イェルサレムの町は血の海となったといわれている。その後、イスラーム勢力がイェルサレムを奪還したときには、戦闘員以外の生命は保護されたのである。キリスト教徒は人道的でイスラーム教徒は野蛮であるという見方は正しくないであろう。十字軍の遠征は13世紀まで7回行われたが、イスラーム諸王朝の反撃で失敗し、教皇の権威も衰えた。一方、十字軍の輸送を担当した北イタリアの諸都市の商人は、東方貿易で大きな富を得た。
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(「東京書籍 新選世界史B」より)
2 商業と都市の発達
 農業生産力の発展は商工業を盛んにし都市の発達を促した。この頃西ヨーロッパでは遠隔地貿易が盛んに行われた。東方貿易では、北イタリアのジェノヴァ・ピサ・ヴェネティアなどの海港都市を中心に、絹織物や胡椒などアジアから輸入した。北海貿易ではハンブルグ・ブレーメン・リューベックなどの都市は木材や毛皮、海産物などの取り引きで栄えた。西ヨーロッパから輸出されたものは、ワインや毛織物であった。
 都市の人々は職業ごとにギルド(同業組合)を組織し、さらにギルドの代表者が集まって自治を行った。イタリアの諸都市のなかには都市共和国として自立するものがあった。バルト海から北海にかけて発展した諸都市はハンザ同盟を結成して近隣の領主たちに対抗した。またアウグスブルグのフッガー家やフイレンツェのメディツィ家のような豪商は国際政治を左右した。
 私は中世都市の歴史を理解させるために、いつも授業で使っているのが、阿部謹也著『ハーメルンの笛吹き男 伝説とその世界』という本である。この話については、私のブログの「ドイツ旅行記④」に詳しく書いていますのでぜひ読んでください。
3 農村の変化
 西ヨーロッパにおける経済活動の進展は、荘園制のあり方を変えていった。封建領主は農奴に対して、周3日領主直営地で耕作させたがこれを賦役(労働地代)と呼ぶ。やがて領主は農奴に直営地を貸し与えて生産物地代として収穫の半分を獲得した。しかし、貨幣経済が浸透してくると生産物地代から、固定した貨幣地代を徴収するようになった。農奴のなかにはしだいに豊かなものがあらわれ、領主は解放金を得るために農奴身分を解放するようになった。さらに、14世紀には、ペスト(黒死病)が流行し、ヨーロッパ人口の三分の一が減少した。そのため農村の人手不足は深刻となり、地代を下げたり、農民の待遇は改善された。領主の力が衰えるなかで、地位の向上した農民は百年戦争などで戦費の負担を強要されたので、フランスではジャックリーの乱、イギリスではワット・タイラーの乱などの農民一揆が起きた。
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●チーパオ●
 弁髪とともに清朝が強制したのが満州服つまりチーパオ(旗紡)である。満州族は東北辺境地帯の山林で狩猟生活を送っていたために、騎馬と弓が得意であった。初期の満州服は狩猟生活の必要から、大部分の男性は前開きの「馬蹄袖」(馬の蹄に似ているのでその名がある)をした上衣を着たが、袖は細く、袖口が手の甲を覆い、弓矢を使うのが便利で、明代の漢族のゆったりした紡(パオ)や大きな袖とは対照的な違いを見せている。女性の服装は、ゆったりした長紡(チャンパオ)で、丈は足をかくすくらいで、袖はまっすぐで大きいのが特色である。
 このような満州服をなぜチーパオと呼ぶのか。清朝は八色の軍旗で治められており、満州人の通称を「旗人の人」略して「旗人」(チーレン)と呼んでいた。それで「旗人」(チーレン)の着る紡(パオ)つまりチーパオ(旗紡)となったのである。
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 清朝が漢族におこなったこのような厳しい風俗の強制は、民間で「生降死不降(生きて従うも、死んで従わず)」ということわざが唱えられ、その行動が服装にあらわれた。死人には明朝式の死装束を着せ、おもてむきには宗教上の道士の服装として理由づけたが、この服を「暗衣」(アンイ)と呼んだ。また「男降女不降(男は従うが女は従わず)」と唱えられたのは、漢族の男子はやむなく清の服装をするが、漢族の婦女はあくまで明朝の服装である上衣とスカートを着用し、チーパオは着なかったことを指している。
 三百年近くにもわたる清朝の異民族支配は、中国人の意識を大きく変えてしまった。清代末の断髪論議では、あれほど抵抗した弁髪に対しても愛着を感じ、断髪に反対する意見があらわれる。たとえば、変法自強運動のリーダーであった康有為は、「漢人は満州の風俗である服装、弁髪に同化しており、いまさら宋明の服に改めても、かえって落ち着かないであろう」と述べている。また永年親しんできたチーパオも中国人の民族服として固定し、その後も永く民衆に愛用されたのである。
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参考文献
    劉 香織『断髪』朝日選書1990、 
    桑原隲蔵『支那人弁髪の歴史』「全集」第二巻、岩波書店1987、 
    楊 成貴『中国服の作り方全書』文化出版局、1978
「弁髪とチーパオ」は『シリーズ 知っておきたい 中国1 東アジアのなかの中国』
(青木書店 1996)に私が記載したものです。
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by YAMATAKE1949 | 2012-04-05 09:52 | Comments(0)
●弁髪の強制と抵抗●
 17世紀の中頃、再び中国は異民族の支配下に入る。満州族清朝の成立である。この王朝ほど自分たちの風俗を漢族に強制した民族はない。1645年に北京を支配した清朝は、まもなく弁髪令を出している。しかし、漢族の抵抗が激しいとみた清朝はいったんこれを緩めたが、江南地方がほぼ平定された翌年の6月には、再び厳しい弁髪令を出した。
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 満州族の弁髪スタイルは、頭のいただきからまわりの髪を全部剃り落とし、後頭部の髪だけを長くのばしてそれを編むというもので、英語ではこれをピッグテイル(豚のしっぽ)と呼んでいる。古来中国では、父母から受けた身体髪膚(はっぷ)を傷つけないことが孝の始めとする儒教倫理が尊重されてきたため、髪を剃る弁髪令は漢族の大いなる反発を招いた。イエズス会の宣教師で約10年間中国南部に滞在したマルチン=マルチノは、漢族の抵抗について「清軍が新たに帰順した漢人に弁髪を強制するや否や、一切の漢人(兵士も市民も)は皆武器を執って起き、国家のためよりも、皇室のためよりも、むしろ自分の毛髪を保護せんがために、身命を賭して清軍に抵抗して、ついに彼らを撃退した」と述べている。
 弁髪は、幼少者をのぞいてすべての男子に強制された。髪を蓄えた者をみつけしだいに捕えて頭を剃り、抵抗するものがあれば、その首を切り落として竿にかけ、群衆の見せしめにした。そのため江南地方では、「頭を留めるものは髪を留めず、髪を留めるものは頭を留めず」という有名な民謡が生まれた。このような激しい抵抗にもかかわらず、あえて清朝が弁髪令を実施した理由はどこにあったのか。
 どのような民族も自分たちの風俗には誇りをもっており、中国を支配した満州族も例外ではない。高い文化と伝統を持ち、圧倒的多数の漢族の風俗を認めたなら、少数である満州族の風俗はどのようになるだろうかと清朝は不安を感じたに違いない。なぜなら、ただでさえ漢族には中華思想が根強く残っており、異民族を蔑視する傾向があるからである。満州族が支配者であるということを漢族に認めさせるためにも、また漢族の異民族蔑視を打ち砕くためにも、彼らに満州族の風俗を強制する必要があったのだ。しかも中国には古来から、一代には一代の文物制度があるべきだというという理念がある。つまり新しい清朝の時代には新しい衣冠文物が当然備わらねばならず、全中国の民はそれに従うべきだという考え方である。このような理念を樹立するためにも弁髪令の実施は必要なことだと清朝はみたのであろう。
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 髪形や服装は民族や時代を象徴するとともに、身分をあらわすなど権力者の支配の道具としても利用された。とくに中国においては、征服民族が漢民族を支配するために自分たちの髪形や服装を強制した。弁髪やチーパオもこのようにして中国に広がったのである。
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●弁髪の歴史●
 古来中国の士人は、冠をいただくのが一般的であったから、それを固定するためにも髪を上にかきあげてこれを束ねた。庶民も祭祀のときには冠をつけたと資料にあるから、同じような髪形であったと思われる。古来の中国人は髪を切ったり、下に垂らしたりはしなかったようである。
 弁髪といえば清朝風俗を連想するが、この風俗は主に北方民族のものであり、匈奴も弁髪の一種をしていたらしい。古い文献には匈奴が「被髪」であった記されている。野蛮人は髪をざんばらにしているのに、そのなかの匈奴は髪を編んで後ろに垂らしている。これを「被髪」と呼び、のちにそれが「編髪」となった。「編」という字は古い時代「弁(辮)」と同じ意味だから弁髪と解釈してよい、という説がある。また、チベット探検隊のコチロフが1924年、モンゴルで古い弁髪の一部を発見し、それによって匈奴が弁髪をしていたことが証明されたという。
 匈奴のほかに、鮮卑、突厥、高唱など、みな弁髪民族であったといわれるが、これらの弁髪は髪全体をのばし、それを編んで後ろに垂らしたものである。これに対して女真やモンゴルの弁髪は、髪の一部を剃り落とし、残りの髪を弁髪にするという形である。
 12世紀の前半、東北の女真族が遼から独立して金を樹立し、華北一帯を支配すると、その領内の漢族に胡服と弁髪の命令を下した。民が漢服をまとい、髪を剃らなければ死刑に処すという厳しい態度で臨んだという資料が残されている。
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 13世紀になるとモンゴルが中国を統一した。モンゴルの弁髪については『蒙古襲来絵詞』に見られるように、女真族の弁髪とは少し違いが見られるが、やはり髪を剃っていることに変わりはない。元の時代に漢族は胡服・弁髪をしていたことが知られているが、これも強制されたものであろう。金から元の滅亡にいたる約240年間、多くの漢族が異民族の風俗に強制的に変えられていたのである。そのため漢民族の王朝である明が成立すると、中華思想が復活し、中国の伝統的な風俗に改められるのである。
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by YAMATAKE1949 | 2012-04-01 10:04 | Comments(0)