<   2012年 05月 ( 5 )   > この月の画像一覧

3 北虜南倭
 北虜とは、モンゴル系の遊牧民族を意味し、モンゴル系のオイラートが、1449年に明の皇帝を捕らえるという事件が起こったが、これを土木の変と呼ぶ。おなじモンゴル系のタタールも中国の北辺に侵入した。明はこれに対処するために東西2400㎞の万里の長城を整備した。中国の観光旅行で私たちが見学する万里の長城は、城壁で作られたこの明の時代のものである。しかし、万里の長城で連想するのは秦の始皇帝が完成させたものであるが、それは土塁で作られたものである。
 一方、南方の沿岸地域で、倭寇と呼ばれる海賊が活動したが、明はこれに対処するため海禁政策をとったのである。明はこの北虜南倭に苦しめられ、やがて衰退していったのである。
 明の滅亡の要因の一つとなったのは、16世紀末の豊臣秀吉の朝鮮侵略に対して朝鮮への援軍を送ったことにある。さらに、中国東北地方で女真族が再び勢力を復活させたが、これに対しても戦費が増加し、財政難となったのである。
 国内でも宦官が政治に介入し、官僚たちの政権争いも起こり、やがて各地で農民反乱が起こる。女真族の清が迫る中で、李自成の反乱軍が北京を占領して、明は1644年に滅亡した。
4 清の中国支配
 中国東北地方で明の支配下にあった女真族では、ヌルハチが諸部族を統一し、後金を建てた。後金は軍事組織である八旗を整備し、モンゴルや朝鮮を支配下に入れ、国号を清と改め、李自成の反乱軍の討伐を名目として中国本土に侵入し、北京を占領して都と定めた。
 康煕帝は、中国征服に協力した漢族の将軍たちが起こしたを三藩の乱を鎮圧し、台湾で抵抗を続けていた鄭成功一族を滅ぼして、中国全土の大規模な統一を成し遂げた。鄭成功の父は明の遺臣で、母は日本人であり平戸で生まれた。江戸時代の有名な人形浄瑠璃の作家、近松門左衛門の『国姓爺合戦』という作品は彼の活躍を描いたものである。
 シベリア東部に進出してきたロシアとネルチンスク条約を結んだが、この条約は清が西欧諸国と結んだ最初の条約であり、康煕帝外交の勝利であるといわれている。
5 清代中国の繁栄
 康熙帝から雍正帝をへて乾隆帝にいたる3代130年間が清の最盛期である。清では科挙などの明の制度を引き継ぎ、中央官庁の要職は満州族(女真族)と漢族を併用した。しかし、弁髪やチーパオ(女真族の服装)を強制するとともに言論統制もおこなった。弁髪とチーパオについては、このブログのカテゴリー「その他」に書いていますのでぜひ読んでください。
 清は、広大な領域を支配した。モンゴルやチベット、新疆(新たな領域の意味)などには、理藩院のもとで、一定の自治を認めた。現在の中国が今もこの地域を中国の領土に入れているが、歴史的に見てもモンゴルやチベット、新疆は中国の領土ではなく、また民族や宗教、文化の面でも中国とは異なっているのである。
6 明清時代の経済発展
 「湖広(湖北・湖南)熟すれば天下たる」ということわざが作られたように、この頃米作の中心は、長江下流域から中流域に広がった。
 茶や綿花の栽培が全国に広まり、17世紀には、タバコ、ジャガイモ、サツマイモ、落花生、トウモロコシなど、おもにアメリカ大陸からもたらされた作物の栽培がはじまった。
 農家の副業として、絹織物や綿織物の家内工業も盛んとになり、農村にも貨幣経済がゆきわたった。
7 銀経済の拡大
 陶磁器や絹がヨーロッパに輸出されると海外からメキシコ銀や日本銀が流入し、銀経済が発展した。その結果、16世紀後半には、明は唐以来の両税法にかえて、地税と人頭税とをまとめて銀で納めさせる一条鞭法という税制をはじめた。18世紀前半、清は人頭税を定額とした上で、地税にうわのせした地丁銀制を実施した。農村では、16世紀頃から、小作料不払い運動である抗租運動がしばしば起こるようになった。
a0226578_13545395.jpg
左の人物は康煕帝、右絵が弁髪(東京書籍 新選世界史Bより)

次回の第20回世界史講座は、「東アジア諸国の発展」と「東南アジアの大航海時代」をテーマに6月9日(土)午後2時よりおこないます。
 
[PR]
 第19回世界史講座は5月26日(土)午後2時より、「明清帝国の繁栄」をテーマにおこなわれました。受講者は7名でした。
 第7章 アジア諸地域世界の繁栄と成熟
  Ⅰ 明清帝国の繁栄
1 明の建国
 紅巾の乱の指導者の一人であった朱元璋は、地主勢力と手を結び、1368年、南京を都とする明を建国した。元をモンゴル高原へ押し戻し、再び漢民族の王朝が成立した。
 朱元璋は皇帝となり洪武帝と名乗った。彼は宰相制度を廃止し、官僚と軍隊を皇帝が直接支配する皇帝独裁体制を樹立した。
 農民を、税をとる民戸と兵士を出す軍戸とに区分した。民戸には、里甲制、軍戸には衛所制をしいて支配した。土地台帳である魚鱗図冊や租税台帳である賦役黄冊をつくらせ徴税し、父母への孝行や目上への尊敬など6か条の教訓である六諭を定めて人民を教化した。六諭は日本にも影響を与えた。江戸時代に幕府が六諭の奨励をうながしただけではなく、明治になると教育勅語にも取り入れられた。
2 永楽帝の拡張政策
 洪武帝の死後、永楽帝がクーデターにより皇帝となり、都を北京に移してモンゴル高原の遊牧諸民族にそなえた。
 永楽帝は、積極的な対外政策を実施し、モンゴル高原の遠征やヴェトナムを一時併合した。海上交易では海禁政策をおこなった。それは、貿易を皇帝が統制するもので、事実上の鎖国政策である。その背景には倭寇と呼ばれる海賊に対処するためでもあった。一方、永楽帝は宦官の鄭和に南海遠征を命じた。この大艦隊の艦隊数は208隻、乗組員の数は2万7000人を超えていた。南海遠征は7回も行われ、東南アジア諸国に朝貢をうながした。永楽帝が鄭和に南海遠征を行わせた理由は、明が漢民族の国家であり、中華思想にもとづいて東南アジア諸国に中国への朝貢を促す必要があったからであると言われている。
a0226578_18315585.jpg
明代のアジア(地図中の絵は、鄭和が遠征の時に乗った船)(東京書籍 新選世界史Bより)
(鄭和については、このブログのカテゴリその他のイヴン=バトゥータと鄭和をぜひ読んでください。)(つづく)
[PR]
by YAMATAKE1949 | 2012-05-27 18:38 | Comments(0)
 Ⅱ モンゴル帝国の興亡
1 モンゴル帝国の成立
 13世紀はじめ、テムジンはモンゴル諸部族を統一し、部族長を集めた集会で大ハンの位に就き、チンギス・ハンと名のった。
 1227年、西夏を滅ぼし、彼の死後、華北を支配していた金を1234年に滅ぼした。また、西アジアにも遠征し、1258年にはアッバース朝を滅ぼした。やがてモンゴルは四ハン国に分裂し、西北モンゴルはオゴタイ・ハン国が、中央アジアにはチャガタイ・ハン国が、ロシアにはキプチャク・ハン国が、イランにはイル・ハン国が成立した。
2 元の中国支配
 13世紀後半に大ハンとなったフビライは、都を大都(現在の北京)に移し、中国風の元王朝を開いた。
 1279年、南宋を滅ぼし、中国全土を支配した。チベット、大理、ミャンマー、を征服し、高麗を一時属国とし、日本、ヴェトナム、ジャワにも遠征したが、失敗した。
 元寇が失敗した背景には次のような要因が考えられている。一つは、モンゴルが高麗の征服に対して、三別抄軍と呼ばれる高麗の軍隊が頑強に抵抗したことにより、モンゴル軍の勢いがそがれたと言われている。モンゴルは、日本遠征に対して高麗軍を派遣するが、高麗に対して船舶の建造を命じるが間に合わず、船底の平らな川船をも利用した。その結果川船は暴風には弱く、多くの船は沈没したのである。次に、当時の日本は鎌倉幕府の時代であり、武家政権が権力を握っていた。元寇と戦った武家たちは恩賞を得るために積極的に戦い、その結果、元寇は陸地に野営せずに船に戻り暴風にあったのである。
 モンゴルの中国支配は民族による身分支配がおこなわれていた。モンゴル人は官僚の要職を独占し、色目人(西域諸民族)に財政などの実務に当たらせ、漢人(金の支配下にあった人々)や南人(南宋の支配下にあった人々)などを区別して支配した。特に南人が最下層に置かれたのは、南宋がモンゴルに最後まで抵抗したからである。
 儒学は軽んじられ、科挙も一時中止された。しかし、中国社会の仕組みには手を加えず、地主による大土地所有がさらに進んだ。
 江南と大都を結ぶ大運河が整備され、交鈔と呼ばれる紙幣を発行し、商工業は発展した。
 フビライの死後、帝位をめぐるる争いが続き政治が混乱した。また、チベット仏教(ラマ教)の保護に膨大な費用をかけたため、財政難をまねいた。その打開策として交鈔を乱発し経済は混乱した。
 14世紀中頃から、各地で反乱が起こったが、白蓮教徒が起こした紅巾の乱をきっかけに、元はモンゴル高原に退くこととなった。
3 元代の文化
 庶民文化が発達した。元曲と呼ばれる雑劇がはやり、『水滸伝』や『西遊記』『三国志演義』といった白話(口語)小説の形ができた。
 モンゴルの大帝国が形成されたことにより東西文化が交流し、イスラーム文化と学問が伝わった。
 Ⅲ ユーラシア諸地域の交流と再編
1 モンゴル帝国の出現とユーラシア大陸
 モンゴル帝国がユーラシア全域にまたがる支配を打ち立てたことは、それまでの諸地域間の交流を発展させた。モンゴル帝国が領内の駅伝制を整えたため、東西貿易が盛んとなった。
 この頃世界の諸効果が中国にやって来た。フビライに仕えたマルコ・ポーロの『東方見聞録』はヨーロッパの人々にアジアへの関心を高めた。
 モロッコ出身のイブン・バトゥータの旅行記は東南アジアや大都の様子を伝えた。
a0226578_10313478.jpg
交鈔(にせ札をつくるものは死刑に処することが記されている。)(東京書籍 『新選 世界史B』より)
[PR]
by YAMATAKE1949 | 2012-05-15 10:31 | Comments(2)
第18回世界史講座は5月12日(土)午後2時より、「契丹・女真と宋の抗争」の続きと「モンゴル帝国の興亡」をテーマにおこなわれました。受講者は8名でした。
6 宋代の社会と江南の開発
 唐末から五代十国時代にかけて、権力を握っていた門閥貴族が没落し、新興地主が成長した。日本の社会では、貴族は天皇と結び付いて生き残り、明治維新で再び重要な役職を与えられたのとは大きな違いである。日本という社会が異民族の侵入という外的な圧迫がなく、武家という新しい権力者も、天皇制を利用して征夷大将軍の位を得て権力を握ったのとは大きな社会の違いである。
 宋代で権力を握った新興地主たちは、科挙に合格して官僚を出し、大商人もかね、彼らは士大夫と呼ばれた。南宋の時代には、経済の中心は江南に移り、「蘇湖(蘇州・湖州)熟すれば天下足る。」といわれた。農業生産力が飛躍的に上がった背景には稲の品種改良がある。ベトナムから早稲のチャンパー米の導入で、稲と麦の二毛作や稲の二期作が成立した。ヨーロッパでは、11~13世紀に三圃制によって農業生産力が向上したと言われているが、それでも3年に1回は土地を休耕地としなければならなかった。1年に2回も収穫できる中国の農業生産力がいかに高かったのかがわかる。これを背景として手工業は発達した。絹織物はもちろんのこと、特に景徳鎮は陶磁器の生産地で世界的にも有名である。商業の発達は貨幣経済の発達を促し、紙幣として交子が使用されたが、これは世界最初の紙幣である。
7 宋代の文化
 唐の文化の担い手が貴族であったのに対して、宋代では士大夫が文化の担い手となった。儒学では、朱子(朱熹)によって朱子学が大成された。朱子学は中華と夷狄の区別や君臣関係を絶対視したため、専制君主制を支える理論として、儒学の正統となり、日本や朝鮮、ヴェトナムにも影響を与えた。なぜ朱子はこのような実質よりも形式を重視したのか。それは彼が生きた南宋の社会が影響を与えている。南宋は、北は金・西北には西夏に毎年貢ぎ物を与えなければならなかった。中華思想では、本来漢民族が世界の中心で、支配者でなければならない。しかし、実態は野蛮人である金や西夏に外交的には従属している。だから彼は、実質よりも形式を重視し、君臣関係や中華と夷狄の区別を重視したのである。このような思想は東アジアの支配者にとって都合のよいものであった。日本でも江戸時代には朱子学は官学として受け入れられたのである。文化の面ではさらに木版印刷の普及や火薬の使用、さらには磁針(後の羅針盤)はイスラーム教徒の手を経てヨーロッパに伝わり、ルネッサンス文化として花開くようになるのである。
a0226578_937414.jpg
朱熹(朱子)(1130~1200)(東京書籍 『新選 世界史B』より)
[PR]
by YAMATAKE1949 | 2012-05-15 07:54 | Comments(1)
 私は、4月24日(火)に大阪歴史教育者協議会の世界史部会の4月例会で次のような題名で報告しましたので、皆さんにお知らせします。

「中国古代統一国家の成立①(古代文明~春秋・戦国、諸子百家)をどう教えるか。」
                           報告 大阪府立久米田高校 山本武志
(授業のねらい)
① 従来、四大文明の一つとして黄河文明と呼ばれていたが、黄河文明に匹敵するような文明が長江流域で発見されており、中国文明として位置付ける。
② 最初の王朝とされている殷王朝の神権政治とはどのようなものであったかを甲骨文字などから理解させる。
③ 周の封建制度とはどのようなものであったかを理解させる。
④ なぜ春秋・戦国時代に諸子百家が出現したのかを理解させる。
⑤ 春秋・戦国時代に鉄製の農具などが普及したことにより、都市国家から領域国家へと発展したことを理解させる。
(教材など)
① 教科書…「東京書籍 新選世界史B」
② プリントNO9
③ 掛け図(アジア)
④ 写真パネルなど
(授業展開)
1 中国文明の誕生
T(教師)皆さんは中華料理が好きですか。知っている中華料理の名前をあげなさい。
S(生徒)チャーハン・餃子・ラーメン(たくさんの生徒に答えさせる。)
T    いろんな料理がでてきましたが、中華料理の主食となる穀物を二つに分けると何と何ですか。
S    小麦と米です。
T    (掛け図を見せて)このような穀物の栽培は大河の流域で発達しました。中国には大河が二つありますがどこですか。
S    黄河と長江です。
T    小麦と稲作、それぞれどちらの流域で栽培されましたか。
S    小麦が黄河で、稲作は長江流域で栽培されました。
T    黄河流域で小麦の栽培がおこなわれたのは後のことで、最初何が栽培されていましたか、教科書を参考にして答えなさい。
S    アワやキビです。
T    アワやキビなどの雑穀は非常に食べにくいため、どのように工夫して食べたと考えられますか。
S    粉にして水と混ぜ団子や麺類として食べた。
T    そうです。中国の麺類の起源はこのような雑穀を食べやすくするために作られたもので、やがて西アジアから小麦が流入してくると、麺にして食べるようになったのです。
(このようなアワやキビなどの畑作を中心とした文化が、前5000年~前3000年頃に成立した仰韶文化と前3000年~前2000年頃に成立した竜山文化について説明する。)
(彩陶土器と黒陶土器の写真パネルを生徒に見せてどちらが仰韶文化のもので、どちらが竜山文化のものかを答えさせる。次に長江流域で成立した河姆渡文化と良渚文化について説明する。特に、稲作の起源は従来雲南省といわれていたが、長江流域が最も古く、
 黄河文明に匹敵する長江文明が存在したことが明らかで、現在は併せて中国文明と呼んでいることを説明する。)
2 殷から周へ
(黄土地帯の写真パネルを生徒に見せる。)
T     なぜ黄河流域の黄土地帯に都市国家が誕生したのでしょうか、メソポタミア文明と比較して考えてみよう。
S     黄土地帯は穀物の栽培に適した肥沃な土地であったこと、黄土は日干しレンガに適しており簡単に住居が造られたこと。
(私が二十数年前に黄河流域をさかのぼる旅行に行ったとき、雄大な黄土地帯の景色を見  
て感動した話しをする。黄土地帯を利用して、今でも穴蔵生活をしている人たちがいる。
 夏は涼しく、冬は暖かいからである。さて、この黄土地帯に人々が生活するようになってくると、外敵から身を守るために高くて厚い土や壕をめぐらした邑=都市国家が黄河中・下流域に成立し、その中で都市国家を支配する国王が出現したこと。そして、このような都市国家を統制する王朝が成立していった。中国の研究では、実在する最初の王朝は夏王朝であると認められているが、日本の研究では夏王朝を認めておらず、殷王朝を中国最古の王朝としていることを生徒に紹介する。)
T     殷王朝が確実に存在した王朝であると認められているのはなぜですか。
S     殷墟と呼ばれる遺跡が発掘されたからです。
(私が中国旅行で殷墟に行き、そこで採掘した土器を生徒に見せる。また、写真パネルで殷の王墓の様子を生徒に見せる。そこには1000人を超える殉死者などの骨が発見されており、殷王朝が巨大な権力を持っていたことを理解させる。)
T     殷の時代には文字をもっていたことがわかっていますが、文字は何に書かれていますか、また、この文字を何と呼びますか。
S     骨や亀の甲羅に書かれてあり、甲骨文字と呼ばれます。
T     なぜ骨や甲羅に文字を書いたのですか、また、何を書いたのですか。
S     戦争などの吉凶を占い、それを記録するために書かれました。
T     このように占いによる政治を何と呼びますか。
S     神権政治です。
T     この甲骨文字は何の起源となりましたか。
S     漢字の起源です。
(なぜ殷王朝では神権政治が行われたのかを生徒に考えさせる。それは、殷王朝の権力が呪術という神意に頼るという弱さの現れではないかと考えられないか。)
T     前11世紀頃、周が殷を滅ぼしましたが、殷の都である商は、徹底的に破壊され、そこに人は住めなくなったといわれています。さて、商の人たちは都を追われてどんな職業に就いたでしょうか。
S    商業をおこなった。
T    そうですね、物を売って生計を立てたのが商の人であったので、商人と呼ばれるようになったといわれています。
T    さて、教科書の地図を見なさい、周の都はどこに置かれていますか。それは、何という川の流域ですか。
S    鎬京という都で渭水流域です。
T    そうです。この渭水盆地は軍事や経済の要地であるとともに、もう一つ重要な
     拠点となったところですがそれは何ですか。
S    西域との交通の拠点となった所です。
T    そうです。そのため、これ以後も、渭水盆地には秦の咸陽、漢や唐の長安など中国王朝の都が置かれたのです。
T    周のおこなった政治体制を何と呼びますか。
S    封建制度です。
T    そうです。周の王は、一族やてがらをたてた家臣、あるいは地方の都市国家の支配者を諸侯に任命し、諸侯は周の王に貢ぎ物を出し、従軍の義務を負うかわりに、封土と呼ばれる領地を与えられ、家臣を従えてその地方を支配することが認められた。このような支配体制を周の封建制度といいます。

3 春秋・戦国時代と社会の発展
T    周の王朝は前770年に都を洛邑に遷都していますが、それはなぜですか。
S    西北方の民族が侵入してきたためです。
T    洛邑に遷都して以後を東周と呼び、そのうち前5世紀末までを春秋時代、
     その後を戦国時代といいます。春秋という名前は、この時代に活躍した思想家の孔子が書いた歴史書『春秋』から名づけられたものです。
T    春秋・戦国時代になるといままでの都市国家から領域国家へと発展していきましたが、その理由は何ですか。
S    鉄製の農具や土木工具が普及していったからです。
T    そうです。黄河の洪水は、ときには河口が数百㎞も移動するほどに激しく、そのため、それまでの都市国家は、丘陵でしかも湧き水のある場所に孤立し、点在していた。しかし鉄器が農具のほか、土木用具としても使われると、大きな堤防や用水路がつくられて開墾が進んだ。人びとが黄河流域などの大平原に住むようになると、都市国家はしだいに広い領域を支配する国家へと拡大したのです。
T    戦国時代には、農業生産力が飛躍的に伸びてきましたが、それはどのような理由ですか。
S    鉄の犂を牛に引かせる方法です。
T    そうです。この農法の普及により農業生産が増大しましたが、それは何をもたらしましたか。
S    手工業や商業の発展をもたらしました。
T    そうですね。特産物の交易が広く行われるようになってくると何が必要になってきますか。
S    貨幣が必要になってきます。
T    そうです。各地でさまざまな青銅貨幣が大量につくられました。
(私が中国旅行でこの頃につくられた青銅貨幣のレプリカを生徒に見せる)

4 諸子百家
T    春秋時代には周の統治能力は衰えたが、王としての権威は存続していました。諸侯は「尊王攘夷」を名目に同盟を結んだが、その盟主を何と呼びますか。
S    覇者と呼びます。
T    そうですね。春秋の五覇と呼んでいます。斉の桓公・晋の文公・楚の荘王・ 
     越の勾践・呉の夫差などを指します。
(時間があれば呉越同舟や臥薪嘗胆などの由来を生徒に話してあげる。)
T    戦国時代は大国の晋が韓・趙・魏の三国に分裂した前403年から始まったとされていますが、この時代は周の権威は失われ、実力本位となった時代です。
     教科書の地図から戦国時代にはいくつの有力国の名前があげられていますか。
S    戦国の七雄です。
T    戦国時代は実力の時代ですが、各諸侯はどのような政策をとりましたか。
S    富国強兵政策をとり、すぐれた人材や政策を求めました。
T    そうです。そしてすぐれた思想家が現れましたが、彼らを何と呼びますか。
S    諸子百家と呼びます。
T    ここで使われている子とは何という意味ですか。
S    先生という意味です。
T    「修身斉家治国平天下」を唱えた人は誰ですか。
S    孔子です。
T    これはどういう意味ですか。
S    身を修めれば一家はうまくととのい、家がととのえば国が治まり、国が治まれば天下は平和になるという意味です。
(儒家では他に性善説を唱えた孟子と性悪説を唱えた荀子を取り上げ、荀子の性悪説が、厳しい法律や刑罰によって国家を治めることを説く法家につながり、秦はこの思想を採用して強国となったことを指摘する。諸子百家のところでは時間がないので、他に道家を取り上げるにとどめた。)
(課題)
  近現代史を重視するため、できるだけ前近代の内容を精選する必要があるが、さらに何を削る必要があるか議論して欲しい。
  私はできるだけ生徒に発問しながら授業を展開しているが、このような展開例でいいのか議論して欲しい。
[PR]