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6 インドのムガル帝国
 ティムールの子孫であるバーブルは、アフガニスタンに進出し、デリー政権を倒してムガル帝国を建国した。(ムガルとはペルシャ語でモンゴルを指す)
 第3代皇帝アクバルは、北インド全域を統一し都をアグラとし、検地を実施して地租を定め、軍人や官僚に対しては地位に応じて土地を授与した。異教徒に対する人頭税(ジズヤ)を廃止し、ヒンドゥー教徒にも軍人や官僚に採用し、「万民との平和」(融和)が政治理念となった。
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シャー・ジャハーンに王冠を授けるアクバル(東京法令「世界史のミュージアム」より)
 第5代皇帝シャー・ジャハーンは、デカン諸国の併合に成功し、領土を広げて宮廷収入を増大させ、デリー郊外に「赤い砦」を建て、アグラには、愛妃のために墓廟(タージ・マハル)を建設し、全盛をきずいた。
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タージ・マハル(シャー・ジャハーンが愛妃のために建てた墓廟、インド・イスラム建築の傑作である。(東京書籍「新選世界史B」より
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(東京法令「世界史のミュージアム」より)

 第6代皇帝アウラングゼーブは、ほぼインド全域に支配を拡大した。熱心なムスリム君主で、ヒンドゥー寺院の破壊や異教徒に対する人頭税の復活は、各地で反乱をひきおこした。
 皇帝の死後、皇位継承争いが続発し、帝国は弱体化した。デカン地方では、マラータ王国が、パンジャーブ地方ではシク教国などが割拠した。
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アウラングゼーブ(東京法令「世界史のミュージアム」より)
7 ムガルの文化と社会
 ムガル帝国では、イランやトルコの技術を取り入れながら、宮廷文化が花ひらいた。バーブルはトルコ語で回想録をあらわした。宮廷の公用語であるペルシャ語やウルドゥー語(現在のパキスタン公用語)を用いて、多数の書物があらわされた。ムスリムとヒンドゥー教徒の間には、社会・文化の面で共存や交流みられ、16世紀には、イスラム教の影響を受け、ヒンドゥー教の改革運動から一神教のシク教が生まれ、人間の絶対平等をとなえた。
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シク教の創設者ナーナクと現在のシク教徒(東京法令「世界史のミュージアム」より)
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4 宮廷と都市
 スルタンや高官は、領内の諸都市に宗教施設や商業施設を寄進・建設し、都市は、経済・文化の中心となった。
 文人たちはトルコ語を用いて歴史書や文学書をあらわし、建築では、円屋根(ドーム)と尖塔を特徴とするトルコ式のモスクが各地に建築され、絵画では、ミニアチュール(細密画)と呼ばれ、戦争や宮廷行事や祭礼など現実的なテーマ、写実的な描写が好まれた。
 本来、モスクの塔(ミナレット)はイスラム教徒にお祈りの時を告げるために建てられたものであるが、しだいに装飾性の強いものとなっていった。私は世界各地のモスクを見学したが、ミナレットは、イスラム建築で重要な役割を果たしている。
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スレイマニエ・モスク(スレイマン1世の命令により、金角湾をみおろすイスタンブルの中心地に建設された。1550年に着工され、7年後に完成した。中央の大ドームの周囲に小ドームを配し、トルコのモスク建築の代表作とされる。)(東京書籍「新選世界史B」より)私も昔、このモスクを訪れたが、だれでも無料で入ることができた。下に敷いてあるカーペットは擦り切れており、お祈りをする人もおれば、身体を休めている人もいた。とにかく大きなモスクであったというのが印象に残っている。
5 イランのサファヴィー朝
 16世紀初めに、イスラム神秘主義教団の教主イスマーイールがイランの支配権を握り、サファヴィー朝を樹立した。国王は、シャーを名のり、シーア派の十二イマーム派を国教としてオスマン帝国やムガル帝国と交戦した。
 十二イマーム派というのは、シーア派の中心をなす宗派で、第4代カリフ、アリーを初代のイマーム(最高指導者)とし、第12代イマーム、ムハンマド=アルムンタザルが終末に再臨すると考える宗派である。現在のイランもこの宗派が国教となっており、人口の98%がこの信徒である。
 16世紀に現れた、アッバース1世は都をイスファハーンに移したが、この都のバザールには遠来の商人が集い、人口は50万人をこえ、「世界の半分」といわれるほど栄えた。
 現在のイランの首都はテヘランであり、私が12年前にイスファハーンを訪れたときには、この町は観光都市として静かなたたずまいを見せていた。
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イスファハーンの「王のモスク」(イラン中部のイスファハーンは、アッバース1世在位中の16世紀末にサファヴィー朝の首都となり、「イスファハーンは世界の半分」と称されるほど繁栄した。ここに建設された壮麗なモスクは、青を基調としたアラベスクのタイルに覆われ、イスラム建築の中でも屈指の美しさを誇る。(東京法令「世界史のミュージアム」より)
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 第21回世界史講座は6月23日(土)の午後2時より、「イスラーム諸国家の繁栄」をテーマとして行われました。受講者6名でした。
1 ティムール朝
 中央アジアでは、チャガタイ・ハン国の分裂後、トルコ・モンゴル系の将軍の抗争が続いていたが、14世紀後半に、ティムールが中央アジアを統一し、ティムール朝をきずいた。15世紀後半には、アンカラの戦いでオスマン軍をやぶり、スルタンを捕虜とし、オスマン帝国に大打撃を与えた。ティムールは、アナトリアに進出したほか南ロシアや北インドにも軍を進め、明に遠征する途上で病死した。彼の死後ティムール朝は衰退したが、彼が再建した都サマルカンドをはじめ、各都市にはマドラサ(学校)や廟を建設し、ウラマー(ムスリムの知識人)やスーフィー教団を保護した。現在、ウズベキスタンでは、ティムールを国家の英雄として祭っている。
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          ティムール(この写真の像は、発掘された頭蓋骨から復元されたもの。)                                  (東京法令出版社「世界史のミュージアム」より)
2 オスマン帝国の発展
 13世紀末にイスラム化したトルコ系遊牧民がアナトリアにオスマン朝を建国した。14~15世紀にバルカン半島のブルガリア・セルビアなどに侵攻した。1453年にメフメト2世がビザンツ帝国の都コンスタンティノープルを征服し、オスマン帝国の首都と定めたが、以後イスタンブル(イスラムの都市という意味)と呼ばれる。
 16世紀に現れたセリム1世は、アラブ地域に遠征し、マムルーク朝を滅ぼしてエジプト・シリア・アラビア半島を支配した。
 次のスレイマン1世はハンガリーに支配を広げ、ウィーンを包囲した。彼はスペインなどの連合艦隊をやぶって地中海と北アフリカに勢力を広げ、16世紀半ばにアジア・アフリカ・ヨーロッパにまたがる大帝国を建設した。
 オスマン帝国はオーストリアのハプスブルク家と対抗しており、そのためフランスと同盟を結び、領事裁判権や商業上の特権を恩恵として与える条約であるカピチュレーションを結び、以後ロシアやイギリスにも特権を与えた。やがてオスマン帝国が衰えると、ヨーロッパ列強はこの条約を利用してトルコの侵略を推し進めるようになるのである。
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          オスマン帝国のウィーン包囲(東京書籍「新選世界史B」より)

3 常備軍と官僚
 征服戦争の原動力となったのは、トルコ系の騎士とイェニチェリと呼ばれる奴隷出身者の歩兵であり、アラブ諸国や西欧諸国の脅威の的となった。
 トルコの軍隊は軍楽隊を持っており、ヨーロッパの軍隊はトルコ軍楽隊の演奏を聴いて震えあがったといわれている。ヨーロッパでは19世紀はじめにトルコブームがおこり、トルコの軍楽隊が演奏した曲をアレンジして作曲したのがモーツアルトやベートーベンのトルコ行進曲である。
 国政は大臣にゆだねられ、ウラマーや書記官僚によって行政がおこなわれ、能力があれば、異民族出身者でも高官に登用された。
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2 マッテオ=リッチの布教
 リッチは1552年イタリアに生まれ、15歳の時にローマで法学を学び、19歳の時にイエズス会に入った。リッチの父親は彼がイエズス会に入ったことに怒り、脱会させるために旅立とうとしたがそのたびに病気にかかり、神意だと悟って脱会をあきらめたと伝えられている。リッチはイエズス会で神学とともに数学や天文学を修め、25歳の時にアジアへの伝道を請願し、翌年リスボンからゴアそしてマカオに入った。
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           左がマテオ・リッチで右が弟子の徐光啓(東京書籍『新選世界史B』より)
 イグナチウス=ロヨラによって設立されたイエズス会は、1540年に教皇によって認められた修道会の一派である。教皇は宗教改革によって失ったカトリック教会の勢力を回復するために、イエズス会を積極的に利用した。そのためイエズス会士らはポルトガル人の東方進出のあとを追って、インド、日本、そして中国へと伝道をおこなった。イエズス会では布教のためには高い教養が必要であると考え、ローマの修道会立大学でヨーロッパの最も進んだ学問である数学・地理学・天文学などを身に着けさせたのである。
 彼らが布教にあたって採用した方針は、その国の支配者に先ず接近して彼らを改宗させるか、あるいは布教の許可を受けるよとによって、上から一挙に布教していこうとする方法であった。日本に来たザビエルが信長など戦国大名に接近しようとしたのもこの方針にもとづいている。
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1 中国への布教開拓
 中国に現存する史料「大秦景教流行中国碑」によると、キリスト教が本格的に中国に伝えられたのは7世紀で、イラン人アラホンを中心とする伝道団が唐にやってきて太宗から布教の許可を得たことからはじまる。
 しかし、このときのキリスト教はローマ帝国から異端とされたネストリウス派(景教)のことであり、カトリック教会の布教活動はそれよりも650年以上ものちのことである。
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 「大秦景教流行中国碑」781年、長安の景教寺院の大秦寺境内に建てられたという(東京書籍『新選世界史B』より
 13世紀末、ローマ教皇ニコラウス4世はイスラム勢力に対抗するために、東方の元朝に宣教師を派遣することを決めた。このとき、中国に派遣されたのがフランシスコ修道会のモンテ=コルヴィノである。彼は元の都大都(現在の北京)に教会を建て、活発な布教活動をおこない多数の信者を得たという。元朝がキリスト教関係の事務を処理するために崇福司とよばれる機関をおいていたところからみても、キリスト教の勢力はかなりのものであったといえる。しかし、彼の後を継ぐ宣教師は少なく、また元朝が倒れ明朝が成立すると布教は完全に衰えてしまった。ながい異民族支配を克服して漢民族の政権を樹立した明朝は、徹底した中華思想をよみがえらせた。明朝は諸外国に対し朝貢をうながすとともに、いままでの自由貿易を禁止してしまった。そのため朝貢使以外の外国人の居住はいっさい認められず、カトリック宣教師の入国滞在は不可能となったのである。
 「大航海時代」が始まると、多数のポルトガル人やイスパニア人が中国にやってきた。これらの国々はキリスト教の布教にも熱心で、積極的に宣教師を中国に送り込んだがうまくいかなかった。ようやく16世紀末になり、イエズス会の宣教師マッテオ=リッチの活動により中国内への布教が開始されるのである。
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3 琉球王国
 14世紀はじめに、豪族が北山・中山・南山王国を確立し、各王国は明に朝貢した。15世紀前半に、中山王が統一し琉球王国が成立した。那覇は中継貿易の拠点となり、15世紀は琉球の大交易時代となった。
 17世紀のはじめ、薩摩藩の島津氏に征服された。薩摩藩は中国との貿易の利益を得るために、琉球王国の体制を残し、明・清の朝貢国として存続した。
4 日本の武家政権
 元寇以後、鎌倉幕府は衰退し、南北朝の動乱を経て室町幕府が成立した。幕府は倭寇の取り締まりを強め、明に朝貢して勘合貿易をおこなった。15世紀には戦国時代に入り、16世紀にはポルトガル人によって鉄砲が伝来した。
 織豊政権を経て17世紀はじめに江戸幕府が成立し、キリシタンの禁止と貿易の独占のために鎖国令が出された。
 朝鮮とは、対馬の宗氏を通じて国交を回復し、朝鮮通信使が来日した。江戸時代に、日本が正式に国交を結んでいたのは朝鮮国だけであり、幕府は朝鮮通信使の接待に莫大な費用を費やしたといわれている。ところで、朝鮮通信使が行なわれたもともとの理由は、秀吉の朝鮮侵略によって、たくさんの朝鮮人が日本に連れてこられたが、このような人たちを朝鮮に連れ戻すというのが最初の任務であった。この時、日本に連行された人たちの中に、陶磁器の技術者がいた。彼らによって有田焼・九谷焼などの日本の陶磁器が始まったのである。
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朝鮮通信使絵巻(長崎県立対馬歴史民俗資料館) 朝鮮は幕末まで日本が唯一正式な外交関係を維持した国で、使節団として来日したのが通信使であった。通信使は1607年から1811年まで12回来日し、その応接に江戸幕府は多額の経費をあてた。この背景には、将軍の権威を高めることと、朝鮮を通して東アジアの国際社会に結び付く意図があった。(東京書籍『新選 世界史B』より)
 Ⅲ 東南アジアの大航海時代
1 海の文明と港市国家
 14世紀、東南アジアの海域には、各種の香辛料や金や銀を求めて、インド、西アジア、ヨーロッパ、中国などから多数の商人が来航した。沿岸や河川に港市が形成された。港市は、海上の東西交易と内陸部を結ぶ接点で、国際交易を基盤とし、後背を支配する国家、港市国家が成立した。
 17世紀までの東南アジアの商業時代のにないてとなった。港市国家の国王は、中国に朝貢貿易をおこない、イスラーム教を受容してムスリム商人を招いた。このようにして現在のインドネシアは、世界で最もイスラーム教徒の多い国となった。
2 マラッカ王国とジャワ・スマトラ
 マレー半島ではマラッカ王国が、明の朝貢国となった。国王がイスラーム教に改宗すると、ムスリム商人をはじめ、各地の商人が来航した。香辛料・陶磁器・絹・綿などの交易で繁栄し、マラッカは、数十の言語が語られる国際交易都市となった。イブン・バツータや鄭和もマラッカ海峡を通って活躍したが、私がこの地を訪れたときに、イブン・バツータや鄭和がここを訪れたという碑が残されていた。
 マラッカ王国は、インド洋交易に進出したポルトガルに滅ぼされた。ムスリム商人たちは、群島部の港に移り、スマトラ島のアチェ王国、ジャワ島のバンテン王国やマタラム王国などが台頭した。これらの国家では、コショウなどの特産品の栽培を推進し、中継品を含め、国際交易によって繁栄した。アラビア文字を用いたマレー語が共通語となり、歴史書や物語が著された。西アジアからウラマー(法学者)やスーフィー(聖者)が往来しモスクや学校が建設され、民衆にイスラーム文化が浸透していった。
3 大陸部の国々
 大陸部では、タイ・ミャンマー人が、平野部に進出し、海外交易と結び付いた国家を建設した。
タイでは、スコータイ朝を併合したアユタヤ朝が、クメール人のアンコール朝を滅ぼし、現在のタイ領にあたる領域を支配した。国王は上座部仏教を保護し、王室貿易や軍隊に中国人や日本人などの外国人を登用して権力を強化した。
 首都アユタヤには、ポルトガルや日本船である朱印船が往来し、日本人町ができ、山田長政は国王の傭兵隊長として重用された。彼はタイ南部のリゴール太守にまで出世したが、王一族に妬まれ、後に毒殺された。
 ミャンマー(ビルマ)ではトゥングー朝が全土を統一し、イギリスやオランダとの交易によって繁栄をむかえた。18世紀に成立したコンバウン朝は、アユタヤ朝を滅ぼし、清朝を撃退して領土を拡大した。
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上の図は、タイの日本人傭兵隊、17世紀のはじめ頃、タイの首都には1500人以上の日本人が居住していたといわれる。
下の絵は、朱印船で、渡航許可(朱印状)をもった日本の貿易船。東南アジアなどで交易を行った。
(東京書籍『新選 世界史B』より)
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by YAMATAKE1949 | 2012-06-11 06:25 | Comments(0)
第20回世界史講座は6月9日(土)午後2時より、「東アジア諸国の発展」「東南アジアの大航海時代」をテーマにおこなわれました。受講者は7名でした。
8 明清時代の文化
 明の時代には、朱子学が官学とされたが、王陽明は知行合一を唱え陽明学をはじめた。陽明学は日本にも影響を与えた。陽明学者で大坂町奉行の元与力であった大塩平八郎は、1836年、天保の大飢饉の際、窮民の救済策を上申したが入れられず、蔵書を売却して窮民を救い、翌年挙兵したが鎮圧された。このように陽明学は行動的な学問として発展したのである。しかし、清朝の時代になると、清朝は満州族(女真族)であったために思想統制が厳しく、古典を文献学的・実証的に研究する考証学がさかんとなった。
 16世紀末からマテオ・リッチらイエズス会の宣教師が活動した。彼らは中国の支配者層に受け入れてもらうために天文・暦学・数学などの西洋の学術を中国に紹介した。また、中国服を着用したり、中国名を名乗るなど中国の風俗習慣を尊重した。このようなイエズス会の布教の仕方に反発した他の宣教師たちは、これをローマ教皇に訴えた。するとローマ教皇はこのようなイエズス会の布教方法を異端とした。これに対して清朝は、キリスト教の布教を禁止したが、これを典礼問題と呼んでいる。
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           左がマテオ・リッチで右が弟子の徐光啓(東京書籍『新選世界史B』より)
 
 Ⅱ 東アジア諸国の発展
1 ヴェトナム王朝の独立
 13世紀に成立した陳朝がモンゴルの侵略を撃退し、民族意識の高まりで独自の文字チェノムを使用した。陳朝滅亡後、明の永楽帝がヴェトナムを一時支配したが、黎氏が明軍をやぶって黎朝を建国した。16世紀に黎朝が南北に分裂後、19世紀はじめに阮朝が成立した。阮朝は国号を越南としたが、これがヴェトナムとよばれる由来となった。この王朝は、清朝に朝貢するとともに、南部ではタイと対立した。
2 朝鮮王朝
 倭寇で活躍した李成桂が14世紀末に高麗を倒して朝鮮王朝(李朝)を建国し、漢城(現在のソウル)を都とした。李朝は明に朝貢し、科挙にもとづく官僚制を整備し、仏教にかわって朱子学を重んじた。15世紀に、ハングルと呼ばれる独自の文字を作った。この文字は、第四代の世宗が民衆にも文字が必要と考え学者を集め発明された文字で、世界的にも珍しい文字である。李朝では高麗以来の両班(ヤンパン)が地主や高級官僚として実権を握った。16世紀末に豊臣秀吉が朝鮮に侵略したが、李舜臣らの活躍でこれを撃退した。朝鮮ではこれを壬辰・丁酉の倭乱(じんしん・ていゆうのわらん)と呼んでいる。
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 世宗王と彼が刊行させたハングルの概説書。(東京法令『世界史のミュージアム』より)
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李舜臣と亀甲船
李舜臣は大砲を装備した亀甲船を駆使して日本水軍を打ち破った。最後の海戦で戦死したが、現在も韓国では護国の英雄として尊敬されている。李舜臣の銅像は韓国各地に建てられているが、すべてが日本の方向を向いているといわれる。(東京法令『世界史のミュージアム』より)
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by YAMATAKE1949 | 2012-06-10 07:30 | Comments(2)