<   2012年 07月 ( 18 )   > この月の画像一覧

8 エヴォラ(人口約4万人)
「町のそこここに文化遺産や記念建造物が立ち並び、ポルトガル一美しい町の誉れを持つエヴォラは世界遺産にも指定されるアルト・アレンテジョ州の首都だ。町の礎ともなったローマの寺院は2世紀に建造されたもので、月の女神ディアナを奉ったものと見られている。ゴシック建築のカテドラルが建設されたのは12~13世紀のことだ。12使徒が彫られたポルティコは2本の塔に支えられている。主礼拝堂にはバロック調の見事な祭壇飾りが設けられている。樫の木のオルガンは16世紀のものだ。宝物庫には楽園の聖母像をはじめとした数々のコレクションも保存されている。
 エヴォラ有数の建築であるサン・フランシクコ教会の見所は骨の礼拝堂だ。柱やアーチの間に修道士たちの大腿骨や下腿の骨、頭蓋骨が見え隠れする様は強烈な印象を与える。」(『ポルトガルのすべて』より)
 エヴォラのカテドラルでは、「天正遣欧少年使節団」の伊東マンショと千々石ミゲルが、ここのパイプオルガンを弾き人々を驚かしたといわれている。この頃、日本ではオルガンというものを知らなかったのに、どうして彼らが弾くことができたのかという質問が出された。ガイドさんによると使節団がマカオに滞在した時にオルガンを習っていたのではないかという説明であった。また、ここのカテドラルは、イエスを身ごもったおなかの大きなマリアの像が有名であった。
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エヴォラのカテドラル
 次に、サン・フランシスコ教会を見学した。解説にもあるように、ここの礼拝堂はあたり一面に人間の骨が埋め込まれてあり気持ちが悪かった。「人は死ねば皆このような姿になるということを諭すためにこのような礼拝堂を造った。」という解説を添乗員さんがしていたが、「骨をこのように人前に晒すことについてキリスト教ではどういう考え方なのか」という質問があり、添乗員さんは私にその答を求めた。私は「キリスト教では、霊魂こそが永遠であり、肉体は仮の住まいでしかない。だから人間の骨をこのように人前に晒すことに対して問題にならないのではないか。」と答えておいた。
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骨の礼拝堂
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7 グラナダ(人口約26万5000人)
「グラナダは、ローマ時代はイベリースと呼ばれて栄え、8世紀から始まるモーロ人進入後は1492年のレコンキスタ完了にいたるまで、イスラム教徒によるイベリア支配の拠点として繁栄を誇った。特にコルドバ王国の分裂と衰亡のあと、イベリア半島におけるイスラム最後の王朝として、レコンキスタの暴風にさらされながら、終末の宴ともいうべきアルハンブラ宮殿を築き、そこに華燭の炎を燃え上がらせた。この城の最後の王ボアブディルは、城を落ちシエラ・ネバダの険路にさしかかる丘の上で宮殿を視界に収めて、惜別の涙を流したと伝えられる。(「地球の歩き方」より)」
 コルドバからグラナダに入りホテルに宿泊したが、このホテルが最も豪勢なものであった。お風呂場がゆったりとしジャグジーも設置されており、旅の疲れもだいぶ回復した。翌日の朝、私がこの旅行で最も期待していた「アルハンブラ宮殿」を見学した。
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アルハンブラ宮殿の入口
(アルハンブラ宮殿)
 グラナダ王国が建国されたのは1238年。相前後してイスラム教徒の本拠地だったコルドバとセビーリャが陥落し、レコンキスタが完了しつつあるという、風雲急を告げる時代のことだった。ナスル朝初代王アル・アフマール(在位1232~73)は、脆弱な国家の基盤を整えるため、仇敵カスティーリヤ王国に服属して外交を安定させ、商工業の発展に力を注いだ。賢明な政治によって経済が潤うと、王はアルハンブラ城内に王宮を築城する。スペイン=アルハンブラ文明の輝かしいモニュメント、アルハンブラ宮殿である。都を見下ろす丘の上に姿を現した宮殿は、初代王の没後も歴代王によって建設が進められ、7代王ユースフ1世の世になってようやく完成をみる。この時代、アルハンブラ城内にはモーロ人貴族を中心に2000人以上の人々が暮らし、市場、モスク、住宅街が整備され、貴族の宮殿は7つを数えたという。1492年、レコンキスタの勢いに抗しきれないと判断した最後の王ボアブデル(在位1482~92)は、カトリック女王イサベルに城を明け渡し、臣下とともに北アフリカに逃れた。18世紀の王位継承戦争やナポレオン戦争を経て、アルハンブラは荒れ果ててしまったが、19世紀の米国人作家ワシントン・アービングの『アルハンブラ物語』によって再び世界の注目を集めた。(「地球の歩き方」より)
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「アラヤネスの中庭」
 宮殿ではコマレス宮の前に広がる「アラヤネスの中庭」が印象深かった。それは、私たちが一昨年訪れたインドのタージマハール廟によく似ていたからであるが、もちろん造られた年代はこちらの方が古い。かつては水時計の役割をしていた有名なライオンの噴水は、残念ながら修築中で見ることができなかった。しかしわれわれが宿泊したホテルの前にライオンの噴水を真似たものがあった。最も良かったのは「ヘネラリフェ」と呼ばれ、アルハンブラ城外チノス坂を挟んだ太陽の丘にある、14世紀に建設されたナスル朝の夏の別荘である。そこから見たグラナダの街の景色はすばらしいものであった。
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夏の別荘から見たグラナダの景色
 グラナダから南へ向かい、ミハスと呼ばれる地中海を見下ろす白い街を散策した。レストランやみやげ物屋が並んだ観光地で名物のロバタクシーをたくさん見かけた。天気のよい日には、ジブラルタル海峡の向こう側にあるアフリカのモロッコが見えるらしい。しかし、天気がよすぎて海水の温度が上昇して蒸気を発生し、モロッコを見ることができなかった。ミハスから西へ向かいスペイン第4の都市セビリアに到着した。セビリアのホテルに到着後、夕食を食べながらフラメンコショーを鑑賞した。
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ミハスでジブラルタル海峡を見る
翌朝、セビリアからポルトガルのエヴォラへと向かった。天気もよく、スペイン人運転手ペペさんのお気に入りのベサメムーチョやアマポーラ・グラナダなどの曲が入ったCDを聞きながら、最高の気分でバスの外に広がる景色を眺めた。そこには闘牛用の牛や食用の牛、豚・羊などが、のどかに草を食べたり、昼寝をしている様子を見かけた。スペインからポルトガルの国境を渡る時には一切の手続きもなく、パスポートも要らなく一旦停車もなく、どこからがポルトガルなのかよく分からないくらいであった。国境をこんなに簡単に越えることができたのはシュンゲン協定によると、添乗員さんに教えてもらった。この協定は、欧州連合(EU)加盟国の一部が結んだ「検問廃止協定」のことで、シュンゲン協定に加盟した2国間の移動は、国内の移動と同じと扱われ、出国と入国の審査が免除される。スペインやポルトガルも加盟しているので、簡単に国境を超えることができたのである。
ポルトガルに入る頃から周りの景色はしだいに変わっていった。ぶどうやオリーブの木だけでなくコルクの木がたくさん見られるようになったのである。コルクの木は成長するのに30年かかり、一度皮を剥ぐと二度目の皮は9年待たなければならないのである。そのため最近、コルク製品は値段が高くなっており、自分のお土産用にコルクの財布を購入しようと思ったが断念した。
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6 コルドバ(人口約30万2000人)
「ヨーロッパが『暗黒の中世』と呼ばれた時代、コルドバにはイスラム教の伝来とともに古代ギリシア・ローマの多くの文献がアラビア語によって伝えられ、モスクの中にはスペインで最初のマドラサ(学院)が設けられた。ダマスカスから逃れてきたウマイヤ朝の一族のひとり、アブデ・ラーマン1世によって開かれた後ウマイヤ朝と呼ばれる時代だった。そして929年に即位したアブデ・ラーマン3世の時代に、後ウマイヤ朝は全盛期を迎える。当時の人口は100万人以上というから、その繁栄ぶりを実感できるのではないだろうか。1234年、キリスト教徒はコルドバを奪回したが、イスラム文化をすべてぬぐい去ることはできなかった。」(「地球の歩き方」より)
 マドリッドからコルドバへ向かう途中に、「ドン・キホーテ」で有名となったラ・マンチャ地方を通過した。ラ・マンチャとは、「乾いた大地」という意味で、この地方は降水量が少なく、セルバンテスの時代は赤茶けた荒涼とした大地が広がっていた。私が見た風景では、オリーブの木など緑がいっぱいの大地だと感じられた。古い型の風車が9基観光用に保存されているが、近くには近代的な風力発電が多数設置されていた。スペインは現在、地球環境にやさしい風力発電に力を入れており、そのために税金が少し高くなっているが、国民はそれを受け入れているという話をスペインに住む日本のガイドが説明していた。
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観光用の古い風車
 コルドバの市内観光では「メスキータ」を見学し、その周りの「花の小径」などの観光地を散策した。
(メスキータ)
 メスキータとはスペイン語でモスクを指し、もともとは「ひざまずく場所」という意味がある。一般的には固有名詞としてコルドバの聖堂を指す場合が多い。
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「メスキータ」
後ウマイヤ朝を開いたアブデ・ラーマン1世により、バグダッドに負けない新首都にふさわしいモスクを造ろうと、785年に建設が始められた。コルドバの発展と歩調を合わせるように3回にわたって拡張され、ついには2万5000人を収容する大モスクが完成した。
 免罪の門を抜け、オレンジの木が植えられた中庭へ。信者たちはアルマンソール泉で身を清め、シュロの門からモスクに入った。…本来モスクの内部は明るいはずだが、コルドバを再征服したカトリック教徒による改造で、入り口は5つの門を残してすべてふさがれてしまった。848年にアブデ・ラーマン2世によって拡張された部分は、レコンキスタのあとカルロス5世によってカテドラルに改造されてしまったところが多く、元の姿を知るのは難しい。(「地球の歩き方」より)
 「メスキータ」の北西に広がる迷路のような入り組んだ地域が昔のユダヤ人街で、現在は、たくさんの土産物屋が並んでいる。その一角に、「メスキータ」の尖塔が見える「花の小径」と呼ばれる写真スポットがある。ここで、スペイン人がギターで「アルハンブラの思い出」などのスペインの曲を演奏していた。その隣に演奏者のファンであるという日本人の小柄な年配のおじさんがいた。そのおじさんはスペイン語ができないが日本語を教えに来ているといっていたが、言葉ができなくて良く意思の疎通ができるものだと感心した。
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「花の小径」
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3 バレンシア(人口約75万人 スペイン第3の都市)
「地中海性気候のため温暖なバレンシア一帯は、コスタ・デル・アサアル(オレンジの花の海岸)と呼ばれ、マドリッドから一番近いビーチリゾートとして親しまれている。工業とともに農業も盛んで、有名なバレンシアオレンジはもちろん、スペインきっての米どころであるアルブフェラ湖周辺には、まるで日本のような水田が広がる。スペイン料理の代表として知られるバエリャも、バレンシア地方で生まれた料理だ。さらに、バレンシアといえば忘れてならないのが、3月中旬に行なわれる火祭り。この時期には世界中から大勢の観光客が集まってくる。」(「地球の歩き方」より)
 バレンシアでは、火祭りの人形が展示されている「ファーリャ製作者博物館」を見学した。残念ながら写真が禁止されているので、すばらしい作品を紹介することができないが、本当に巨大で見事な作品が展示されていた。この火祭りは、「スペイン3大祭りのひとつで、祭りの起源は、3月19日のサン・ホセ(聖ヨセフ。キリストの父親で、職業が大工だったことから大工職人の守護聖人として崇められてきた)の日に、大工たちが古い材木を集めて焚き火をしたことに由来するといわれる。祭りの期間中、バレンシアの町は1年も前から準備された大小さまざまなファージャ(張子の人形)で飾り付けられる。」(「地球の歩き方」より)毎年すばらしい作品を一つだけ保存し、その他のものは全て火に燃やされる。
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「ファーリャ製作者博物館」
 次にメルカード(中央市場)に行き、カラスミ(ボラの卵巣から作る塩乾品)や乾燥したイチジクさらにたくさんのイチゴを買った。バレンシアからマドリッドの道には、オレンジの木やオリーブの木がたくさん植えられていた。

4 マドリッド(人口約310万人)
「マドリッドは、9世紀後半にムハンマド1世によってイスラム征服地の北を守る砦として建設された、マジュリートという名の小さな集落だった。11世紀後半にはカスティーリャ王国のアルファンソ6世によりキリスト教徒の手に奪回されたが、歴史の表舞台に姿を現すのはさらに後のことである。1561年にフェリペ2世はこの地に宮廷を移し、マドリッドは全世界に広大な領地をもつハプスブルク朝スペイン帝国の中心となった。」(「地球の歩き方」より)
 マドリッドは、アラビア語で「砦」を意味するマヘリットから来た言葉で、イベリア半島の中央、海抜655mの高原に位置する。添乗員の説明では、ヨーロッパの首都で最も高い所にあるらしい。ここ数年スペインは高度経済成長を続けており、首都マドリッドは物価高で、特に不動産の値段が暴騰しており、日本のバブル時代と全く同じであり、ユーロの導入で殆どの物価が日本より高いとそこに住む日本人ガイドが説明してくれた。また、スペイン人は権利意識が高く、何かあればすぐに集会を行い、マドリッドの人口の三分の一にあたる100万人が集会に参加する。そういえば、私たちが、バレンシアの市庁舎の前をバスで通過したときも、市民が抗議の垂れ幕を掲げているのを目撃した。
 マドリッドでは王宮、ドン・キホーテ像が立つスペイン広場へ行ったが、特に「プラド美術館」で鑑賞した作品はすばらしいものであった。エル・グレコやベラスケス、ゴヤの作品が展示されていた。
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ドン・キホーテ像
5 トレド(人口約7万人)
「三方をタホ川に囲まれ、クレタ島生まれの画家エル・グレコが後半生を送った頃のたたずまいを今も残す町。560年に西ゴーと王国の首都となったトレドは、711年から約400年にわたってイスラム教徒の支配下におかれた。1085年のアルフォンソ6世の再征服後も、1492年にカトリック両王によって追放されるまで、この地の経済を握っていたユダヤ人とともに多くのイスラム教徒が居残ったという。そのためキリスト・ユダヤ・イスラムの3つの文化なくして、この町は語れない。」(「地球の歩き方」より)
 午後は、オプショナルツアーでマドリッドから70km離れた世界遺産の都市トレドを訪れた。最初にバスでトレドの町全体を見渡せる展望台にのぼったが、その景色を見るだけでもここに来た価値が十分あると感じた。中世の都市の景観がそのまま残されており、道路も狭く徒歩で町を散策した。半日観光であるため時間が無く、スペイン・カトリックの総本山であるカテドラルと、エル・グレコの傑作『オルガス伯爵の埋葬』が展示されているサント・トメ教会を見学した。
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トレドの町
カテドラル
 これはスペインで最重要のカテドラルであり、ヨーロッパでも立派なゴシック建築の寺院です。フェルナンド3世によって1227年に創立され、最初の建築家はペトルス・ペレスであった。工事は1493年に終わる。建物は長さ113m、幅57m、高さ45mで、70の円形天井と88の柱で構成され、5つの脇廊と750のステンドグラスがあったが、その大部分はスペイン市民戦争(1936年)中に破壊され、後年とりかえられた。
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カテドラル(大聖堂)
 宝物室には、16世紀初頭のエンリケ・アルファ作品の高さ3m、総重量200kgに及ぶ金、銀、宝石などで細工された聖体顕示台が置かれ、その一部にはコロンブスがアメリカから持ち帰った金が使われているという。(『魅力の街 トレド』より)
トレドから再びマドリッドに帰って、しばらく自由時間があったので、添乗員お勧めの「バロール・チョコレート」を探しに街を散策した。しばらく行くと喫茶店風のチョコレート店を見つけ店に入ったが、中は年配の人たちがゆったりとチョコレートを飲んでおり、奥のカウンターでお土産のチョコレートを購入した。マドリッドの町では年配の人たちを多く見かけた。日本で繁華街を歩いているのは、圧倒的多数が若者であるのとは大きな違いがあるように思われる。この違いはいったいどこから来るのであろうか不思議に思った。
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「スペイン・ポルトガル旅行で学んだこと」    2007年3月20日
 
はじめに
 今回の報告は、私が2007年2月24日~3月5日のスペイン・ポルトガル旅行で経験したこと、感じたことなどをまとめたものです。

1 日程
1日目 ルフトハンザで関空を出発。→フランクフルトを経由してバルセロナのホテル到着20時25分(時差8時間)            (バルセロナ泊)
2日目 バルセロナ~バレンシア                (バレンシア泊)
○バルセロナ市内観光(聖家族教会・グエル公園・ピカソ美術館見学)
3日目 バレンシア~マドリッド                (マドリッド泊)
    ○バレンシア市内観光(ファーリア《火祭りに使用される張り子の人形》製作者博物館・メルカドール《中央市場》
4日目 マドリッド                      (マドリッド泊)
    ○マドリッド市内観光(王宮、ドン・キホーテ像が立つスペイン広場、プラ  
     ド美術館見学)
    ○午後、トレド市内観光
5日目 マドリッド~ラ・マンチャ地方~コルドバ~グラナダ   (グラナダ泊)
    ○コルドバ市内観光(メスキータ見学)
6日目 グラナダ~ミハス~セビリア              (セビリア泊)
    ○アルハンブラ宮殿見学→ミハス散策
    ○フラメンコディナーショー
7日目 セビリア~エヴォラ~リスボン             (リスボン泊)
    ○エヴォラ観光(カテドラル・サンフランシスコ教会見学・ディアナ神殿)
    ○ファドディナーショー
8日目 リスボン~シントラ~ロカ岬~リスボン         (リスボン泊)
    ○リスボン市内観光(ジェロニモス修道院・発見のモニュメント)
    ○シントラ王宮見学
    ○ロカ岬観光
9日目 リスボン ルフトハンザでフランクフルトを経由して大阪へ
10日目 午前9時ごろ大阪着 

2 バルセロナ(人口約150万、スペイン第2の都市)
「スペインには地方ごとに国があるといわれるが、バルセロナを州都とするカタルーニャ地方もまた、独自の歴史と文化を育んできた。イスラム教徒がイベリア半島の大半を支配していた9世紀、カタルーニャはフランク王国の版図に組み入れられ、986年にはバルセロナ伯国として独立を宣言。これが現在のカタルーニャの起源である。中世ヨーロッパの影響を受けながら、またイスラムの進んだ文化を取り入れたカタルーニャは、勢力を地中海に拡大し、約4世紀にわたる黄金時代を迎えた。しかし、その後のスペイン統一により衰退、1714年にはスペイン継承戦争の敗北を機に自治権を失ってしまう。再び発展が始まったのは19世紀半ばのこと。カタルーニャル・ネサンスと呼ばれるこの時代、モデルニスモと呼ばれる革新的な芸術運動が起こり、ガウディをはじめとする建築家たちの作品が町並みに彩を添えた。フランコ死後の1977年に念願の自治権を獲得したカタルーニャは、フランコ時代に禁止されていたカタルーニャ語を公用語として復活させた。今では町のいたる所にカタルーニャ語の標識掲げられ、カタルーニャ語で会話を楽しむ人々の姿が見られる。昔から自由で新しい文化を取り入れ、数多くの芸術家たちを生み出したバルセロナは、1992年のオリンピック開催を機に一層、スペインで最も活気ある都市として躍進を続けている。」(「地球の歩き方」より)
 スペイン・ポルトガル旅行の最初に訪れた都市がバルセロナで、とりわけ印象が強く、町全体が美しく文化的な建造物が多いすばらしい都市であった。まず初めに見学したのがガウディの建築で有名な「サグラダ・ファミリア聖堂」であった。これは、「サン・ホセ帰依者教会の本堂として1882年に着工され、翌年に初代建築家のビリャールの辞任に伴い、31歳のガウディに引き継がれた。晩年をキリスト教徒として生きたガウディは、この教会の建設に後半生のすべてを費やした。」(「地球の歩き方」より)
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サグラダ・ファミリア聖堂
この他に、ガウディが建築した「カサ・ミラ」「カサ・バトリョ」をバスで見学し、さらに、ガウディがデザインした「グエル公園」を散策した。その後ピカソ美術館へと向かった。
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グエル公園
(ガウディ)
 アントニ・ガウディ・イ・コルネットは1852年、カタルーニャ地方のレウスという町に、金物細工師を父として生まれた。バルセロナの建築学校を苦学して卒業した彼が、初めて世間に認められたのは、1878年のパリ万博に出品したショーケースのデザインだった。これに目を留めた実業家エウセビ・グエルは、グエル邸やグエル公園などの建築を彼に依頼し、スポンサー役を務めることになる。19世紀の末のバルセロナでは強い経済力を背景に、カタルーニャ独自の文化を創ろうという運動が起こっていた。これが世紀末芸術としてフランスのアールヌーヴォーと並ぶ、モデルニスモ(近代主義)という様式だ。中でも独創的な建築スタイルを確立したガウディは、サグラダ・ファミリア聖堂の建設に専念し、質素な生活を送った。1926年に市電にはねられて亡くなったときには、あまりのみすぼらしい服装に浮浪者と間違えられたという。葬儀はその才能を愛した市民だけでなく、彼に小銭を恵んだ浮浪者たちも多数参列して行なわれた。(「地球の歩き方」より)
 ピカソ美術館では、彼の初期の作品が展示されており、非常に興味深いものであった。特に、ピカソが最も尊敬したベラスケスの大作「ラス・メニーナス」を基にした作品が印象深かった。(ベラスケスとピカソの絵画を比較してください。)
 ピカソ美術館のある地域はゴシック地区と呼ばれ、古くはローマ時代に起源を持つバロセロナの中心地で、カテドラル(大聖堂)があり、その前で大勢の人たちが「サルダーナ」と呼ばれるカタルーニャの踊りを楽しそうに踊っていた。「この踊りはカタルーニャの人々が、民族の血の結集を相互に確かめあうことを目的として踊られる、一種の儀式のようなものらしい。フランコ独裁政権のもとでカタルーニャが弾圧されていた時代にも、民族の団結の象徴として踊りつがれてきた。幾度とない侵略や抑圧に耐え、しかもそれに対して反骨の精神を忘れなかったカタルーニャ人の心意気が、この踊りに表れているのだ。」(「地球の歩き方」より)踊っている人たちは、踊りやすい運動靴のようなものに履き替え、自分たちの荷物を踊りの輪の中に置いている。なるほどそうすれば、荷物を取られる心配は無いと感心した。
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大聖堂の前でサルダーナを踊っている
 バルセロナからバレンシアへは、天気もよく桜の花に似たアーモンドの花が咲き乱れ、本当に美しい景色を見ながらの快適なバス旅行でした。
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王安石の新法はどのような意義をもっているのか
 (資料3 新法の意義)
 …北宋前半期は唐末五代以来の社会改革がなお十分に定着せず、古いものと新しいものが不安定にいり混じっている時代であった。北宋王朝は軍事・財政・科挙など各方面で数々の新しい施政を行なったが、主として唐代の伝統的体制も支障のない限り存続させる、いわば妥協的立場を基本において いた。この傾向は特に官制などに顕著にみられ、それに基づく責任の不明確、冗官冗費を避けられず、いつかは抜本的改革が必要であった。
 …世襲的封鎖的社会が崩壊したのち、新しい土地所有関係の中から成長し、科挙によって皇帝権のもとに統括された新興士大夫階級にとり、宋初の100年はいわば揺籃期であった。権力の一員となった彼らは、特権を利用して蓄財につとめ、しばしば土地に投資した。宋初、相対的に多かった独立自営農民=中下級の主戸層は官僚地主による大土地所有の進行とともに没落し、とりわけ西夏との戦いが起ったのち河北・陜西などでそれが顕在化してくる。かかる大勢が決定的になるか、それとも何らかの方向転換が可能かの境目が王安石の時代であった。
 …新法が免役・青苗など貨幣を中心とし、また均輸・市易にみられるように商品経済の一定段階を前提にしていることも、見逃せぬ点である。…いずれにせよ11世紀の半ばに、貨幣経済を一応の前提とした政策が、まがりなりにも全国的に実施されんとし、ある程度の成果をあげたことはやはり注目に値する。…王安石らの新法党は直接には経済的先進地であった江南の現実をふまえていた。一部先進地域の政策を全国に普遍化しようとしたところに新法失敗の一因をみつけることもできよう。結局この改革は失敗し、それ以後は地主佃戸制・地主官僚制の枠ががっちりとはめこまれる。ただそれが固定する前段階に、王安石新法のような政 策実施を可能にする状況があった点を忘れてはならない。(梅原郁「王安石の新法」『岩波講座世界歴史9』岩波書店)
(解説)
 王安石が登場したのは、唐宋変革期であった。唐の時代まで大きな権力を握っていた貴族が没落し、それに代って新興地主が勢力をのばしていく時代であった。このような新興勢力が登場する背景には、社会経済の発達がある。唐の中期以降、農業生産力が飛躍的に発展した。華北の畑では二年三毛作が、江南地方の水田では二毛作がおこなわれた。特に江南地方では開発が進み、農業生産力の発達は商業の発達を促した。王安石の新法には、このような商品経済が一定の前提となっている。
 新興地主は科挙制によって官僚となり、特権を利用して土地を拡大し、さらに大商人と手を結び利益をのばしていった。このような地主に対抗し、中小農民や中小商人を育成することが財政再建につながると考えたのが王安石である。
 王安石の改革は失敗し、以後旧中国では地主官僚体制が確立された。そのため王安石は、伝統を破壊し、国を滅亡に追いやった極悪人とされ、特に明清時代に地主官僚の支配体制の強化・固定化がすすむと、彼は体制を破壊しようとした危険極まる人物と評価された。
 ところが19世紀以後のヨーロッパ侵略のなかで、旧体制の変革が必要になると王安石は見なおされるようになった。変法運動の理論家である梁啓超から、新中国の歴史学者である郭沫若にいたるまで数多くの学者たちは、旧来の価値観をかなぐり捨てて王安石を称賛しているのである。

 以上王安石の改革について、なぜこのような改革が行なわれたのか、そして新法の具体的な内容、そしてこの新法に対する批判をみてきたが、再度この改革の意義とそれがなぜ失敗したのかを確認しておこう。
 一般的にこの改革は、「富国強兵」政策といわれている。確かに保甲法や保馬法などは軍隊や軍馬の制度を確立しようとしたものである。しかし、前述したように保甲法には無理があり、兵制度よりも徴税請負の役割が重視されるようになった。このようにこの改革の中心は富国にあったと思われる。つまり当時の財政赤字をいかに解決していくかという問題である。青苗法は農民の保護という側面をもっているが、それは当時の税(両税法)の対象者を保護することによって税の確保をはかったものであった。しかし青苗法や市易法など、政府が低金利で農民や商人などに資金を貸し出すということは現代でも行なわれていることである。また、募役法によって、官僚の下で働く吏(役人)に給料制度を導入することは、これ以後中国社会で絶えず指摘される役人の不正や賄賂の問題を抑えることにもつながったであろう。また、王安石は科挙制度を改革して、法律や経済に明るい官僚を作り出そうと試みた。また、彼は大学を創設し、実際の政治に必要な知識を身につけた有能な卒業生を官僚として採用しようと考えていた。このように王安石の改革には合理主義の精神があったと思われる。しかし、このような考え方は、保守的でまた自分たちも大地主の出身である官僚たちの受け入れることとはならなかったのである。
 皇帝独裁体制が確立した宋代において、財政危機を克服しなければならないという神宗皇帝の支持を受けてはじめられた改革も、神宗の死後旧法党の反対にあいこの改革も挫折していくのである。それ以後は、単なる旧法党と新法党の党派争いとなり、やがて大土地所有制の拡大、中小農民の没落、各地の反乱があいつぎ、北宋は滅びてしまう。そして、北宋を滅ぼした責任を王安石が被ることになる。前述したように、これ以後の旧中国では、王安石は悪人官僚の代表と評価されることになるのである。

 〔参考文献〕
梅原郁「王安石の新法」『岩波講座世界歴 史9』岩波書店 1970年
宮崎市定『世界の歴史6 宋と元』中央 公論社 1968年
沙雅章『征服王朝の時代』講談社現代新 書 1977年
(山本武志)
以上、「人物で学ぶ世界史」(大阪歴教協世界史部会)より
(「人物で学ぶ世界史」は、高校で世界史を教える教師を対象としたものです。)
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司馬光(東京法令「世界史のミュージアム」より)
 [3]
王安石の改革に対し地主はどのように対応したのか
 (史料3 司馬光の新法批判)
 いま、国政の運営に当を得ていないものが六ある。その第一は青苗法であり、民の負債は日ごとに重くなり、しかも県官は得る所がない。第二は免役法で、上戸の役を免じ、下戸の銭を集めて、浮浪の徒を養っていることである。第三は市易法で、市易務をおいて民衆と利益を争い、実際には官物をいたずらに費やしている。第四は国内の治安が未だ治まっていないのに、周辺において事をかまえ、得ることが少なく失うところが多いことである。第五は保甲法で、武器により演練を行ない、いたずらに農民を疲弊させている。第六に常識にはずれた人物を起用して水利の事業をおこし、民を労し財を費していることである。その他の細かい米塩に関することなどは、陛下に上奏するまでもないことである。(吉田寅訳『司馬温公文集』)
(解説)
 旧法党を代表する司馬光は、『資治通鑑』を編集した歴史家としても有名である。かれは大地主や大商人層からなる保守勢力の利益を計って、上の資料に見られるような新法批判をおこなったといわれている。青苗法についての批判も、民間の利子が六~七割を越えていることを考えれば、政府の課した二割の利子が厳しいという指摘は的を得た批判とはいえないだろう。おそらく青苗法によって従来利益を得ていた大地主や大商人の利益が損なわれたことに対する批判の現れであろう。
 次に批判している免役法とは募役法のことである。前述したように、この法は、従来農村の有力者が交替で役所に出任して職務に当たっていたが、宋代に入って有力な官戸が免除されたため富農が没落し、その任務(差役)につくものが減少した。そこで差役を廃止して、そのかわり財産に応じた免疫銭をださせ、その収入を元にして政府が役につくものを雇い、彼らに給料を支払うというものである。司馬光は、従来役負担のなかった下戸(貧しい者)にもその負担金を徴収すると批判しているが、実は官戸にも負担金が徴収されるようになり、自分たちの特権が奪われたことに対する官僚たちの不満の現れではないかと推測される。
 次の市易法とは、都市の中小商人のために立てられた金融法である。当時、豪商は行という組合を組織して市場を独占し、物価を操作して莫大な利益をあげていた。そのためやっていけなくなった中小商人に、豪商は高利の資金を貸して利益を得ていた。豪商の束縛から中小商人を解放し、政府が資金の融通をしてやる。そのために開封に市易務という役をおき、商人に二割の低金利で融資し、あわせて市場価格の安定、商品流通の円滑をはかったものである。ここでも司馬光は、政府が市場に介入することに対して批判している。しかし批判の本当の理由は、豪商とこれと結んで利益を得ていた官僚が、この法により利益を損なったためであるといわれている。
 次の保甲法に対する批判であるが、これは確かに的を得た批判であったと思われる。この法は、財政の八割を占める軍事費を削減するために出された兵農一致の制度を復活させようとしたものである。しかし、中国では兵士とは社会の落後者であるという社会通念が一般的にある。それに、にわかじこみの軍隊で、強力な異民族に対抗するのも難しい。そのため、保甲の組織は農村に定着するが、民兵組織としてよりは、保甲のもうひとつの役割であった徴税請負の組織として活用されるようになった。
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[2]
王安石はどのような政策で財政再建を行なったのか
(史料2 王安石の新法)
 青苗法は、常平倉(穀物価格の安定をはかるために官がつくった倉庫)の米穀買入れ資金を青苗銭として人戸に貸付け、二分の利息を納めさせる法である。春に貸付け秋に返納させる。
 均輸法は、発運司(江南地方の産物を徴発して、都に輸送することを担当する役所)の職を改めて均輸とし、ここに銭貨を貸付けて買付けをおこなわせる法である。およそ地方より上供する物資は、すべて物価の高い所を避けて安い所をえらび、また遠い所のものにかえて近いところのものをえらんで買付けをする。同時に都の倉庫の必要とするものを前以て周知して、それに応じて蓄えたり買ったりした。
 保甲法は、卿村の民を戸籍に登録し、二丁のうち一丁を保丁とする。十家を一保とし、保丁にはすべて弓弩を授け、また戦闘訓練をおこなった。
 募役法は財産の多少により、それに応じて免役銭を出させ、政府が人を雇って差役の仕事をさせる法である。(吉田寅訳『宋史』巻327 「王安石伝」)
(解説)
 当時農民はあいつぐ旱魃や賊の出現などにより食糧難に陥っていた。そして高利で金持ちから借金をし、その6~7割という利息が払えず、佃戸(小作人)へ転落していた。その状態を改善し、税を確保するために実施されたのが青苗法である。
 均輸法は中央の財政を司る三司(大蔵省)にその年の予算を編成させ、それに基づいて江南地方の税の管理と輸送を司る発運司に必要な物資をできるだけ都の開封に近い原産地で、なるべく安く調達させるというのが原則である。中央で必要としない物資については、他の必要とする地方へ移送する。これは物資調達の合理化だけでなく、需要と供給の不均衡を利用して暴利を得ていた豪商を抑えて物価を安定させるという目的もあった。
 保甲法は、国家財政の8割に達した軍事費を抑えるとともに、軍隊の質の低下を防ぐために行なわれた兵農一致の制度である。
 募役法は新法の中で最大の改革であり少し詳しく述べてみたい。従来、地方における租税の徴収や管理、盗賊の取締などの自治的職務は地方の有力者が名誉職としておこなわれていたもので、これを差役とよばれていた。しかし、宋代では官戸は差役を免除され、差役の義務のある戸が減少するにつれて、この役にあたるものの負担がますます重くなる。そこで、差役法をやめて募役法を実施することになった。募役法は、これまで差役にあたっていた農家に、役を免じるかわりに、それぞれ財産に応じた免役銭を出させ、さらに、差役をめんぜられていた官戸や寺院、商人などからも助役銭といって免役銭の半分の額を出資させた。この収入を元手に政府が希望者をつのって雇った人々に役の仕事をまかせ、かれらに給料を支払うというしくみであった。この法は、中小地主を保護するというねらいもあったが、地方の役職の実務を専門に担当する者を給料で雇うという合理的な制度でもあった。
 以上王安石の新法を見てきたが、この改革はどのようなねらいで実施されたのかをまとめてみよう。
 当時、大地主などの有力者は官戸となり税を免除され、中小農民に税やその他差役などの負担がかかった。そのため中小農民は没落し、大地主の佃戸(小作人)となり、税の対象者がますます減少するという状況にあった。また国家財政を圧迫していた軍事費の負担を軽減し、健全な軍隊を創設するためにも新たな改革が必要であった。このような問題を解決するために出されたのが王安石の新法であった。しかしかれの改革はそれだけに止まらず、官僚制度の改革にも着手した。宋代の官僚は、科挙、特に進士科によって登用された。しかし進士科の最重要項目は、文化人としての素養、つまり詩文の才能であったために、実際に役人として重要であった法知識や経済能力は問われなかった。そのため官庁ではそのような面に長けたものを雇い、実務を執らせた。そのような人物が書吏である。しかし、かれらは国家から給料をもらっているわけではなく、手数料やピンはねで生活しており大きな社会問題となっていた。そこで王安石は、1070年度の最終試験での韻文テストを論文に改め、翌年新しい科挙条例を制定した。それは、経書の内容理解と実際政治への応用能力をみる論文試験を重視した。これによって、官僚は最低限度の法律、経済に対する知識を持たざるを得なくなった。しかし、それらの知識は儒学においては士人の関与すべきものではないとされていたため、王安石の引退後即座に撤廃され、他の改革が幾度か復活しているにもかかわらず、二度と復活しなかった。それによって中国は20世紀まで、官と吏のかけ離れた体制が続くことになった。
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 <課題>
1.王安石が登場する当時の中国の対外関係を理解させる。
2.王安石の改革が国家財政の再建をめざしたものであったことを理解させる。
3.王安石の改革が大地主の反対にあって失敗したことをおさえる。
<資料と解説>
[1]
 王安石が登場するころの中国(北宋)はどのような状態だったのか
(資料1) 王安石関係年表
 916年 契丹(遼)建国
960年 五代最後の王朝が滅亡、宋建国
979年 宋、中国統一を完了
1004年 宋、遼に毎年銀十万両、絹二十万匹を贈ることを誓約し和睦する
1021年 王安石生まれる
1038年 西夏建国
1044年 宋、西夏に毎年七万二千両、絹十五万三千匹、茶三万斤を贈ることを誓約し和睦
1067年 神宗即位
1069~73年 王安石、新法を開始、均輸法、青苗法、倉法、保甲法、募役法、市易法、免行法、       保馬法を行なう
1076年 王安石失脚
1086年 王安石死去
(資料2 北宋と遼・西夏(東京書籍「新選 世界史B」より)
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(史料1 澶淵の盟)
 契丹皇帝は謹んで書を宋の皇帝のもとに提出します。我国と貴国とは、ともに軍事行動を停止することを議し、また通行を論じました。さらに恵みを承け特に誓書に示し、風土にめぐまれた貴国から、軍旅の費の補助として毎年絹20万疋・銀10万両を贈与していただくことになりました。(中略)沿辺の州軍は互いに境界を守り、両国の人民は互いに越境することがないようにします。(中略)この誓書に記してある以外のことは、互いに要求することをせず、国際的協調に努力し、この平和が永久に存続するように希求します。(吉田寅訳『契丹国志』巻20『契丹聖宗誓書』)
(解説)
 中国を統一した宋王朝が抱えていた最も大きな課題は、年表や地図を見れば明らかなように契丹族の遼やタングート族の西夏など外圧の問題である。かって五代後晋の建国に際して、援助をうけた返礼として遼に与えた燕雲十六州の地をめぐって、宋の太宗らが奪回をめざして出兵するが失敗に終わり、1004年に遼の侵入を受けたため澶州において和議を締結したが、これを澶淵の盟約と呼ぶ。史料1にあるようにこれによって宋は毎年絹20万疋・銀10満両を贈ることを約束し、その後も衝突の際にそれを増やして解決するようになる。また、西夏との7年間の戦争における敗北は、宋に多額の財政赤字をもたらした。しかし、その費用もさることながら両国に対する警備の兵が必要であり、その維持費は国家財政の8割をも占めるようになり財政を圧迫した。
 軍事費についで財政を圧迫したものに官僚の増加があげられる。宋は官僚に権力が集中するのを防ぐために、一つの職務に複数の官吏をおき、官庁の数もふやしたので、官僚の数がとめどもなく増加した。さらに外国から安く良質な塩が密輸されたために、塩の専売収入が減少したうえ、政府手形の乱発により通貨価値が下がりインフレを起こした。以上のことから財政赤字となり、そのしわ寄せは庶民とくに中小農民に負担がかかり、農民が佃戸(小作人)に没落するという現象をもたらした。
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王安石(東京法令「世界史のミュージアム」より)
 <生涯>
 王安石は、1021年に撫州臨川県(江西)の官僚の家に生まれた。かれは19歳のとき父を失い、そのため経済的に恵まれなかったが、22歳で進士の試験に第4番で及第した。優秀な成績で進士になった者は中央のエリートコースに乗ることを望むが、かれは修得した学問を、実際の地方政治に適用したいとねがい、江南の地方官を歴任し、それぞれの任地で水利事業や貧農救済事業を手がけて、大きな成果をあげた。
 かれの任地のひとつに寧波がある。ここは宋代の代表的な貿易港で、当時アラビアの船なども入港しているから、アラビアの科学思想の影響をうけたことも考えられる。またかれの性格を物語るエピソードがある。かれは下戸であった。宴会の席上で上役から盃をさされても、一口も飲まなかった。かれがいかに自分の信念をまげぬ男であったかが分かる。旧法党の司馬光もやはり下戸で同席していたが、やむをえず盃を飲み干したのと対照的である。
 1058年、かれが仁宗皇帝に差出した報告書「万言の書」は地方官としての事務報告であるが、かれの政治上の抱負を述べたものである。1067年、神宗が即位すると、王安石は政治顧問になり、ついで副丞相、さらに丞相に任ぜられ、いわゆる王安石の新法をつぎつぎに施行していった。この改革に対し、保守的な学者や政治家は反対したが、かれは自己の信念をまげず、改革を押し通した。1076年、官を辞して、地方で余生を送ることになったが、85年神宗が没して哲宗が即位すると、新法がつぎつぎと廃止されていった。翌年、65歳で病死した。
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