<   2012年 08月 ( 19 )   > この月の画像一覧

<生涯>
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孫文(東京法令「世界史のミュージアム」より)
 孫文は1866年に広東省香山県の貧農の家に生まれる。長兄の孫眉がハワイの移民で成功したため、ハワイに渡り14歳から17歳までハワイの学校で教育を受ける。その後香港で西洋医学を学び、27歳の時にマカオで開業した。しかし中国革命をこころざしてハワイで興中会を設立した。翌年、広州で最初の武装蜂起を計画したが失敗し、亡命して日本からアメリカさらにイギリスへ渡るが、ロンドンの清国公使館に監禁される。この事件で中国の革命家として有名となり、やがて1905年東京で中国革命同盟会を結成した。1911年に辛亥革命により中華民国が成立すると、初代の臨時大総統に選出されたが、3ヵ月で袁世凱に譲らざるをえなかった。のち軍閥に反対して第2次革命を起こしたが失敗し、日本に亡命した。ロシア革命、五・四運動が起こると、この経験を学んで中国国民党を結成した。かれは、従来の三民主義をさらに発展させて新三民主義として、ソ連や中国共産党とも接近した。1924年に広東で第一回党大会を開き、第一次国共合作を成立させたが、翌年、北京において病で倒れた。
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   Ⅵ 東方の大国
1 プロイセンとオーストリア
 神聖ローマ帝国は三十年戦争で荒廃し、帝国は弱体化した。そのなかでプロイセンとオーストリアが急速に勢力を強めた。プロイセンは、ドイツ騎士団領プロイセンとブランデンブルク選帝侯領とが1618年に合併し、1701年にフリードリヒ1世のもとで王国となり、軍隊や官僚を整えた。次のフリードリッヒ2世は、当時盛んだった啓蒙思想をかりて「君主は国家第一の下僕」といい、国民の利益を名目として専制政治を行ったので、啓蒙専制君主と呼ばれる。しかし、プロイセンでは、農民の賦役にたよる貴族層=ユンカーが軍の上層部や官僚機構を独占し、また商工業はおくれた。
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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
 1740年、オーストリアのマリア・テレジアがハプスブルク家の全領土を相続すると、プロイセンは女子の相続に反対し、フランスとともにオーストリア継承戦争を起こした。マリア・テレジアはフランスを破ったが、鉱工業地帯のシュレジエンをプロイセンに奪われた。1756年、オーストリアは
長年にわたって敵対してきたフランスと同盟してその奪回をはかって七年戦争を起こした。プロイセンはイギリスの支援を受けて戦い抜き、シュレジエンを確保した。マリア・テレジアは行政改革などで王権を強化しようとしたが、ハプスブルク家には、ハンガリーやベーメン他民族を支配下しており、中央集権化は困難であった。彼女の子ヨゼフ2世は、領土をおさめるために農奴解放令を発したり、カトリック教会をおさえるために義務教育をはじめた啓蒙専制君主として名高い。
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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
2 ロシア帝国の勢力拡大
 ロシアではイヴァン3世が1480年にキプチャクーハン国(モンゴル)から独立し、1547年にイヴァン4世は諸公国を併合して公式に全ロシアのツアーリ(皇帝)を称した。17世紀のはじめからロマノフ王朝が成立した。
 17世紀の後半に即位したピヨートル1世は、自らオランダやイギリスなど先進国を視察し、徹底的な西欧化政策をとり、工業の育成や官僚制の整備をはかった。不凍港を求めてスウェーデンとの間で北方戦争を戦い、バルト海へ進出してペテルブルクを建設し、ここに首都を移して西欧との結びつきを強めた。
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ピヨートル1世(東京法令「世界史のミュージアム」より)
 17世紀にロシアの領土はシベリアに広がり、17世紀末には太平洋に到達し、南は18世紀後半のエカチェリーナ2世のもとで黒海に達した。
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エカチェリーナ2世(東京法令「世界史のミュージアム」より)
 ロシアは近代化を急いだが、多数の農奴をもつ領主層の力が強く商工業者などの中産市民が育たなかった。
 次回の第26回世界史講座は9月8日(土)の予定でしたが、都合により9月15日(土)に変更します。たくさんの参加をお待ちしています。
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第25回世界史講座は、8月25日(土)午後2時より「フランス絶対王政」「東方の大国」をテーマとしておこなわれました。受講者は7名でした。
5 フランスの絶対王政
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ルイ14世(東京法令「世界史のミュージアム」より)
 17世紀、アンリ4世の死後ルイ13世が即位した。三銃士(ダルタニアン物語)にも登場した宰相リシュリューは、大貴族やユグノー派をおさえて王権の強化につとめ、対外的にはハプスブルク家に対抗するために三十年戦争に介入し、新教派を支持した。
 ついでルイ14世が5歳で即位し、宰相マザランがその政策を受け継いで中央集権化をすすめたが、これに対して、貴族や民衆が1648年フロンドの乱をおこしたが鎮圧された。このとき幼かったルイ14世はパリを逃れたが、その後彼はパリを嫌い郊外にベルサイユ宮殿を建てた。
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ベルサイユ宮殿(東京法令「世界史のミュージアム」より)
 マザランの死後、ルイ14世の親政がはじまった。王は王権神授説を唱え、君主権の絶対を主張した。彼は官僚制と常備軍を整え、財務長官にコルベールを登用して徹底した重商主義政策をおこない、オランダの商業覇権に挑戦した。
 ヨーロッパと海外での覇権を目指したルイ14世は、盛んに周辺諸国に侵入したが、1701年にはじまったスペイン継承戦争では、イギリス、オランダ、オーストリア相手に戦い、1713年にユトレヒト条約を結んだ。その結果、王は自分の孫をスペインの王位につけたものの、イギリスに植民地を奪われた。また、ナントの勅令を廃止すると、弾圧されたユグノー派の商工業者がオランダやイギリスなどの新教国に移住し、フランス経済はこの面からも打撃を受けた。
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[7]
イギリスなどの列強は太平天国に対してどのように対応したか
(史料3)天津条約と北京条約
 天津条約
 第3条 
 清国皇帝陛下は大ブリテン女皇陛下の任命せる大使、公使その他の外交官が、英国政府の意志に従いその家族及び従者と共に首府に常住し、又は随時首府に来往し得べきことを約す。
 第8条 
 キリスト教は新教徒又はカトリック教徒の何れの信仰する所たるを問わず、共に徳義の実行を奨め、己の欲する所を他に施すべきを人に教うるものなり。従ってその宣教者又は信仰者は、清国官憲の保護を受くるの権利を有す。
 第11条 
 南京条約に於て開放せられたる広州、厦門、福州、寧波、上海の市邑に加うるに、英国臣民には牛荘、登州、台南、潮州および海南の市邑及び港に来往することを得べし。
 北京条約
 第6条 
 清国皇帝陛下は香港の港湾内及びその付近における法律及び秩序を維持する為、大ブリテンアイルランド女皇陛下及びその継承者に対し、広東省内九竜地方の市街地にして英国政府の為、…その永代借地権を付与せる部分を、英国女皇陛下の香港植民地の付属地として保有せしむる為割譲することを約す。
                   (『支那関係条約集』)

(解説)
   太平天国はイギリス列強に対しては、宗教を同じくする西洋の兄弟として、かれらを迎え、貿易することを歓迎しながら、断固としてアヘン貿易の厳禁や、内政への絶対的不干渉を要求した。これに対してはじめイギリスらの列強は、太平天国にたいしては不干渉と中立を表明していた。その理由には太平天国の反乱を他の宗教結社や秘密結社の反乱と同じようなものと過小評価していたのではないかと思われる。しかし太平天国がキリスト教的宗教結社であると好意的に見ていたとも考えられない。当時イギリスやフランス、ロシアはクリミア戦争(1853年~56年)のためにアジアをかえりみるいとまがなかったためとも考えられる。また、太平天国に対する態度を保留することによって、清朝の頑迷固陋な排外主義に圧力を加えるためであったとも考えられる。ところが上の史料を見てわかるように、天津条約や北京条約によって、清朝から長江流域の開放や、公使館の北京駐在、キリスト教の布教の自由などをもぎとって以後は、太平天国政府は、長江流域における貿易の順調な発展を妨げる邪魔者にすぎなくなった。こうして反太平天国干渉が強化された。1863年、イギリスの武将ゴルドンの率いる外国人義勇部隊である常勝軍と淮軍の連合攻撃をあびて敗れ、翌年4月、天王洪秀全は長江流域から殺到する湘軍を目前に、絶望のはて、ほとんど発狂状態におちいりつつ、服毒してはてた。
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左が「常勝軍」を率いたゴルドン。右が湘軍を組織した曾国藩(東京法令「世界史のミュージアム」より)
[8]
太平天国はなぜ失敗したのか
(解説) 
 太平天国はアヘン戦争によって引き起こされた清朝政府の政治的、あるいは社会経済的破綻のなかで生み出された農民戦争である。とくに江南地方でさかんとなった抗租・抗糧闘争の中、徹底した禁欲主義と経済的平等主義は貧しい農民に支持された。さらに、滅満興漢というスローガンは、異民族支配に苦しんできた多くの人たちに太平天国にたいする期待をいだかせた。しかし、太平天国が南京を中心とした現実の政府を設立したときから、その理想は裏切られていくのである。「天朝田畝制度」は出されたが、経済的平等は実現されず、政府を維持するためには税の徴収を行なわなければならなかった。そのため地主を保護し佃戸の抗租闘争を弾圧するなど、清朝政府となんら変わるところがなくなり、しだいに農民の支持を失っていくのである。小島氏は、「太平天国の敗因は基本的には徹底的に農民の立場にたった革命政権たりえず、さればといって、単に漢族地主の政権としても確立しえず、両者の要素を混在(のちになるほど後者の要素を色濃く)させつつ、漂流した所にあったと思われる。もとより敗因はこれにつきるものではない。とくにかれらが敵としてよりも、むしろ友と見誤った西欧資本主義諸国が清朝から北京条約をもぎとったのちに、中立政策を投げ捨てて加えた武力干渉は、以後の中国の問題を考える上でも、重視されねばならない。」と述べている。
(解説)
 太平天国を学ぶにあたってはつぎのことを確認しておきたい。それは太平天国を宗教的な面でとらえるのではなく、農民戦争として位置づける必要があるという点である。つまり農民たちの闘いの発展のなかで太平天国が成立したのであり、その背景としてはアヘン戦争の敗北による清朝支配体制の弱体化がある。そして太平天国が王朝のように農民を支配するようになると、農民の支持を失い、それが太平天国の敗北をもたらしたのである。
 〔参考文献〕
 牟安世著・依田憙家訳『太平天国』新人物往来社 1972年
 小島晋治「太平天国革命」『岩波講座世界 歴史21』岩波書店 1971年
 増井経夫『太平天国』岩波新書 1951年
            (山本武志)

 

                            
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抗租・抗糧闘争とはどのようなものか
(資料4)
 ある者の奏によると、去年の冬、地主に対して佃農らが抵抗して佃租を納めなかったのに、地方官はきびしく追求せず、ために地主も国家に税を納めようとしなかったという。郷民が多数集合して、徴税抗するのは、もとより不法行為であり、地方官はきびしく追求して、少しもゆるしてはならない。しかし、佃農が佃租を納めず、地主がこれを訴えてきたような場合には、例に照らして、佃農を弾圧し、悪風を除去して、漕糧に誤りなきを期さなければならぬ。(小島晋治「太平天国革命」『岩波講座世界歴史21』岩波書店)
(解説)
  この資料は、すでに太平天国のはじまっていた1854年のことであるが、皇帝は増大していた江蘇省の租税滞納要因にふれ、地方官の奮起を促したものである。佃租とは小作料のことであり、地主が国家に税を納めない要因は、佃農(小作人)が小作料を地主に納めないからだと指摘している。これまで皇帝は地主の横暴を抑え、小作人の立場を支持してきたが、このように地主を擁護するほどこのころの抗租闘争がいかに大きなものであったかがわかる。
(資料5)湖広・江浙における農民暴動
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(岩波講座「世界歴史21 太平天国革命」より)
(解説)
 抗糧とは王朝の不法な土地税収奪に抗する闘いのことで、資料によると数万の抗糧闘争が展開されていた。抗糧闘争は地主や自作農だけの闘いでなく、佃戸おも動員している。抗糧は減租に通ずるものであり、また抗租は租税徴収を困難にするという理由で、官憲に弾圧されたのであるから、佃戸が抗糧を支持するのは当然であった。だから抗糧は、佃戸・自作農・中小地主からなる郷村諸勢力の、国家権力に対する、いわば統一戦線として展開した。こうして、太平天国前夜、清朝はまったく郷村から孤立していた。このことは太平天国の形成と発展にとって、きわめて有利な条件を提供した。と小島氏は指摘する。
[6]
太平天国の闘いはどのように発展していったか

 (資料6)地図 (太平天国革命とアロー戦争)
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(東京書籍「新選世界史B」より)
(解説)
  上帝会が金田村で挙兵したのは、1851年1月10日で洪秀全の誕生日であった。かれらは、すべての人が太平の天日を見ることのできる国という意味で「太平天国」というスローガンをかかげた。挙兵後数か月は、清朝の討伐に苦戦を余儀なくされたが、永安を占領して天王洪秀全以下の序列を定めるなどの体制を整え、さらに天地会・三合会などの会党をえて勢力を拡大して湖南に進出し、53年初めに武漢を攻略した。この時太平軍は約50万に達したといわれる。さらに「滅満興漢」を訴え、水陸両路によって長江を下り、3月に南京を占領して太平天国の首都天京とした。以後、活動の重点は江南に割拠して太平天国を建設することにおかれ、太平軍の一部を北伐させて北京に迫らせたが敗れた。
天京に都を定めてまもなく、革命政府は「天朝田畝制度」を公布した。これは、男女平等に土地を均分し、25家による自給自足的な共同体を基礎単位として、行政・軍事を一体化した体制を意図するものであったが、新制度を実施するいとまもなく革命は敗北する。現実には、寺や廟や清朝高官の所有地は没収され国有化されたが、他は旧来の所有関係と税制が受け継がれ商人の自由営業も認められていた。
天京で政治・軍事の実権を掌握していたのは東王楊秀清であったが、1856年9月に北王昌輝が東王を襲撃して、東王とその一党2万余を殺害するという事件がおこった。ついで北王とその一党も処刑され、翼王石達開に事後処理が委ねられたが、身の危険を感じた翼王も57年6月に大兵を率いて天京を去った。ここに天王は挙兵以来のすべての幹部を失い、天王は凡庸な自分の兄ふたりに政治の実際をゆだね、太平天国は天王一族の政権となってしまった。この後、李秀成らすぐれた人物が新しい幹部に入るが、勢力を挽回することはできなかった。



 
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[4]
太平天国はどのような経済状態のなかで起こったのか
(資料3)
 アヘン戦争以後、太平天国革命の前夜には土地集中の状況はさらにきびしいものがあった。河北、江蘇、浙江、山西、陝西、山東、広西と、東北など14省の資料によって検討すると、全国の土地の40パーセントから80パーセントまでがわずか13パーセントから30パーセントの少数の人の手中に集中し、 60パーセントから90パーセントまでの多数の人は土地をもっていなかった。…中国東南部の米産地では、1石の 米を売れば銭3千文になり、昔から今日にいたるまであまり変動がなかった。昔は1両の銀は銭千文に交換されたので、1石の米で銀3両を得ることができた。しかし今日では1両の銀は銭2千文にもなるので、1石の米はわずかに銀1両5銭を得るにすぎない。昔は米の3斗も売れば1畝の田地の公課をおさめてあまるほどであった。しかし今日では米を6斗売っても1畝の公課をはらうには不足している。朝廷ではいままでどおりの取り立てをおこなっているにすぎないが、小民にとってはその負担は2倍にも増加しているのである。(牟安世『太平天国』)
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アヘン貿易による銀の流出(東京法令「世界史のミュージアム」より)
(解説)
  (資料3)に見られるように、アヘン戦争以後の中国農村社会では地主の土地集中が進み、自作農は没落し佃戸となるものが増加していったことや、さらに税負担が倍増したことがわかる。農民の税負担が倍増したのは、アヘンの流入によって輸入超過となり、大量の銀貨が国外に流出して銀貨の高騰をまねいたためである。地丁銀など清朝政府の税は銀で納入しなければならないためにこのような結果を招いたのである。このようなアヘン戦争後の経済状況に加え、各地に水災や旱害などの自然災害が頻発し、さらにアヘン戦争の戦費と賠償金の支払いのための増税が民衆の生活を圧迫したため、流民や匪賊が増え、地方の治安は悪化した。とくに華中・華南では抗租・抗糧などの反乱が頻発しており、これが太平天国発展の原動力となったといわれるのである。
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 [3]
清朝末期にはたくさんの宗教結社や秘密結社があるのに、なぜ上帝会が多数の信者を獲得できたのか
(史料1) 天条十款
 一、皇上帝を崇拝せよ。
 二、邪神を拝してはならない。
 三、皇上帝の名をみだりに唱えてはならない。
 四、7日ごとに礼拝し、皇上帝の恩徳をほめたたえよ。
 五、父母に孝順であるようにせよ。
 六、人を殺したり傷つけたりしてはならない。
 七、不義や姦淫の罪を犯してはならない。
 八、窃盗や掠奪をおこなってはならない。
 九、虚言やいつわりを言ってはならない。
 十、貪りの心を起こしてはならない。
                 (羅爾綱編・吉田寅訳『太平天国文選一天条書』)
(解説)
  上の史料はモーゼの十戒をまねてつくられたものであり、これからわかるように上帝会の教義の特色は徹底した禁欲主義にある。これは中国の従来の宗教結社や秘密結社などと異なるところである。たとえば天地会という反清復明をとなえる秘密結社がこのころ広東省や広西省各地に拡がっていた。やがて上帝会が発展してくると、洪秀全のもとに合流した8人の天地会の首領が牛やぶたや米などの貢物をもってやってきた。その代わり上帝会からは16人の宣教師がそれぞれ派遣された。ところがその教師の1人が自分らへの報酬を着服したため洪秀全によって斬首された。これを聞いた天地会の首領たちは「あなた方の法規はあまりに厳格すぎるように思われる。我々がこれを守るのはおそらく難しいであろう。そうなると、どんな小さな罪を犯しても、我々も同じように殺されるに違いない。」といって、羅大綱を除く7人は寝返りをうち、清軍に降参してしまった。というエピソードが伝えられている。「この徹底した偶像否定と禁欲主義こそは、彼らの革命的なエネルギーを展開し、社会のあらゆる他の分子に対する彼らの敵対的な地位を自分自身にもはっきりさせ、上帝会をして上帝会たらしめたものに他ならない。上帝会の指導者は他の会党から自らを区別するものとして、この点を自覚しており、そこに上帝会の主体性を確立しようとした。」と小島氏は指摘する。このように禁欲主義とともに、もう一つ民衆を引き付けたものがある。それは次の史料から探ってみよう。
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太平天国・湖口の戦闘(東京法令「世界史のミュージアム」より)
(史料2) 天朝田畝制度
 田の分配は男女の区別なく人口に応じて行なう。家族員の多少に応じ、家族が多ければ多く、少なければ少なく分配し、9等級の土地をとりまぜて分配する。…天下の人々がともに天父皇上帝の大いなる恵みを享有し、田はともに耕し、食物はともに食らい、衣服はともに着用し、金銭はともに使うならば、みんな公平に分配を受け、衣食に不足する人がなくなるであろう。 (横山英編訳『ドキュメンタリー 中国近代史』亜紀書房)
(解説)
  上の史料は、キリスト教における神の前での万人の平等という思想に影響されている。しかし上帝会における万人の平等は、同じ祖先たる上帝によって生み出されたがゆえに兄弟姉妹であり、それゆえに、世界は一つの家族共同体でなければならぬと考えられた。そうである以上、財貨は個々人に私有されるべきものではなく、共同体成員=すべての人びとによって平等に分配・消費されなければならない。それは、キリスト教的な平等観ではなく、周礼の大同思想がその原型であろう。それは、当時の中国社会における貧富の極端な分化に対するアンチテーゼとして、とくに、多くの貧農を吸収する牽引力になった。と小島氏は指摘する。このように、徹底した禁欲主義と経済的平等の主張が多くの民衆に支持されたのであろう。
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 <課題>
① アヘン戦争以後、活発となった秘密結社や宗教集団のなかで、なぜ洪秀全が組織した太平天国が清朝政府と対抗するほどの大きな力をもつことができたのかを明らかにする。
② 太平天国が大きく発展した理由には、農村で進められていた抗租・抗糧闘争が背景にあったことを明らかにする。
③ 太平天国に対してイギリスなどの列強がどのような行動をとったのか、その頃の国際的な背景と北京条約以後の列強の太平天国に対する対応を明らかにする。
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アヘン戦争(東京法令「世界史のミュージアム」より)
<資料と解説> 
[1]
洪秀全はどのような青春時代を過ごしたのだろうか
(資料1)
洪秀全は1814年に広東省花県の中農の子として生まれた。父親は実直な農民で客家の人であった。洪秀全は幼児から学を好み、7歳で塾に入って書を読んだ。5、6年の間に、四書、五経、孝経と多くの古典を熟読し、その後さらに中国の歴史書と雑多な書物を自習したが、一度読むとすぐ内容を理解し た。学問をはじめてからいくらもたたないうちに、その教師と家族から称賛されるようになった。…洪秀全が16歳の時、父は家計が困難なために、かれにこれ以上学問をつづけさせることができなくなった。そのため洪秀全は農業の手助けをしたり、山野で牛の放牧をしたりした。…1年たつと、一族の者とその友人たちは、みな洪秀全の学識をみとめて、…その村の塾の教師としたので、また学問の研究をつづけ、人格の修養をつむことができるようになった。…かれは1828年16歳の時に、考試受験の生活に入り、のち数回にわ たり、広州に行って秀才の試験を受けたが、その結果はすべて失敗に終わった。(牟安世著・依田憙家訳『太平天 国』新人物往来社)
(解説)
  客家というのは、明代に入って福建から広東、広西に移住してきた新来者のことである。広東人と同じように、人種的には漢人であるが、言語も風俗、習慣も広東人と全くといっていいほどちがっていて、たがいに対立感情が強い。客家は、すでに地味の肥沃なところは広東人に占有されているので、地のやせているところとか、山あいの地に住まなければならない。それだけ経済的には苦しいのであるが、それゆえにきわめて勤勉であり、また質素でもあった。洪秀全が太平天国を組織すると多くの客家がこれに参加するようになったのは、このような状況による。洪秀全が親戚や友人たちの期待を背負って何回も科挙に受験したが、ことごとく失敗した。失敗の原因は、試験の成績が悪かったためではなく、当時の試験制度の弊害(試験官などに対する付け届けなど)や客家に対する差別があったと考えられる。このような科挙試験の失敗は、洪秀全を反政府運動にかりたてる原動力になったと考えられる。
[2]
 洪秀全が上帝会を組織するようになったのはどのような理由によるのか
(資料2)
 洪秀全が25歳の時、無数の天使が天よりくだり、かれらとともに昇天するように告げるのを見た。…天父上主皇上帝に会うと、…上帝は洪秀全に妖魔の頭を追い払うことを命じた。…そして妖魔を糾弾し、孔子の著書の多くの 誤りを追求することを命じた。…その時上帝は洪秀全に命じて妖魔と戦うにあたり、印綬と剣を賜い、多くの天使とともに妖魔を天から追い落とさせた。…戦いに勝って天に帰ると上帝はたいそう喜び、洪秀全を「太平天王大道王全」に封じた。…洪秀全は上帝 天兄キリストと別れて下界にくだろうとする時、去りがたい思いであった。すると上帝はいった。「恐れるな、大胆にふるまえ、どんな困難があろうとも、私がついている。その時々の情勢に応じて適当な方法をもちいればなにを恐れることがあろうか!」と。洪秀全は三月一日に昇天し、下界に送り返された時は約四十日余りたっていた。(牟安世著・依田憙家訳『太平天国』新人物往来社)
(解説)
  洪秀全が1837年に再び科挙の受験を試みたが失敗し、落胆のあまり病気になった。このとき見た夢が(資料2)に書かれたものである。この夢を見てから6年目、洪秀全は以前に入手していた「勧世良言」というキリスト教の入門書を改めて読む機会を得た。そしてそこに書かれていたことは、かれが6年前に見た夢と一致するものであった。かれは早速この書物に書かれている方法で、自ら洗礼を行なうことにした。そして1843年6月、同郷の友人である馮馬山とともに上帝会という宗教結社をはじめるのである。このように洪秀全が上帝会を組織する上において、夢の内容は重要な意味をもっているのである。しかし、増井氏によると「この夢のどこにキリスト教的な要素があるのか、そこには原罪の意識もなければ、偶像破壊の意欲も見えない。洪秀全はただ夢の中に、従来の権威にはげしい反抗を感じたにすぎない。」と指摘されているように、洪秀全自身はキリスト教を信じていたが、客観的にはキリスト教の形をした新興宗教と見做したほうがよいのではないか。
 
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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
<生涯>
 洪秀全は広東省花県の農民の子として1813年に生まれた。洪氏一族は北方から移住してきた客家であった。洪秀全は学問好きの少年として育ち、16歳のときから科挙を志したが、数度も失敗した。第2の試験を広州で受験したとき、「勧世良言」というキリスト教入門書を手に入れ大いに感動した。かれが32歳のとき、キリスト教の洗礼を受け、布教活動に従事した。かれは友人の馮馬山とともに広西で上帝会という宗教結社を組織した。この組織は、上帝は天父、キリストは天兄、洪秀全は天弟であるとするキリスト教の影響を受けたものであるが、そのなかには儒教など中国の伝統的な思想が入り込んだものである。洪秀全は清朝政府は妖魔であると説き、重税に苦しむ農民層に信者を獲得した。また客家出身者は本地人より差別され圧迫されていたが、かれらが上帝会の会員となって、地主である本地人の作る団練の圧迫に抵抗していた。1850年洪秀全は広西省桂平県金田村で蜂起し、排満興漢などのスローガンをかかげて連戦連勝し、51年には永安を陥し、太平天国と号した。その後武漢を衝き、53年には南京を陥し、そこを天京と改めた。しかしこのころから太平天国内部の首脳内部に抗争が始まり、わずか3ヵ月たらずで指導者をつぎつぎに失った。太平天国は江南の豊かな土地を獲得したのち、たちまちのうちに腐敗堕落したといわれる。やがて曾国藩が組織した湘軍や李鴻章の淮軍さらに外国軍である常勝軍に太平天国軍は破れていった。そして洪秀全は1864年南京が陥落すると、毒を仰いで死んだ。
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3エリザベス女王のイギリス
 百年戦争のあと、15世紀中ごろにイギリスでは王位をめぐるバラ戦争がおきた。この戦争で封建貴族の大半は没落し、テューダー朝が絶対王政を確立した。このころ農村では地主であるジェントリと呼ばれる人たちが力をつけていた。英語で紳士のことをジェントルマンと呼ぶのは、ジェントリを語源としている。今でもイギリスでは、お金持ちになると地主=ジェントリになることを望むらしい。王はこの階層から中央の官僚を取り立て、地方の政治や裁判をゆだねた。
 ヘンリ8世はローマ教皇と絶縁し、イギリス国教会を独立させ、教会から莫大な富を奪うとともに、国内の教会の運営をローマ教皇の介入なしに行うようになった。ヘンリ8世の子、エイザベス1世の時代にはイギリスはスペインと戦って無敵艦隊を破り、また世界最初の株式会社である東インド会社を設立して、アジア貿易にも進出した。この会社は国王からの特許状によって、アジアでの貿易や軍事、外交の権利を与えられていた。
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エリザベス1世(東京書籍「新選世界史B」より)
4ピューリタン革命と名誉革命
 エイザベス女王の死後はスコットランドのスチュアート家からジェームズ1世が王となった。彼は王権神授説を信じ専制的な政治をおこない、彼の子チャールズ1世も議会の承認なしに重税を課した。1628年に議会は「権利請願」を王に提出して議会の承認なしに課税しないことや、国民を不法に逮捕しないことを約束させた。
 このころ、成長していた独立自営農民(ヨーマン)や中小商工業者にはピューリタン(清教徒=カルヴァン派)が多く、1642年にピューリタンが支持する議会派と王党派の間に内乱が起き、クロムウエルに指導された議会派は王党派を破って国王を逮捕した。
 クロムウエルの軍隊は敵から鉄騎隊と呼ばれて恐れられたが、彼の軍隊は敬虔なピューリタンによって組織され、神のために死を恐れずに戦ったといわれている。
 このころ議会派のなかで、立憲君主政を主張する長老派と共和政を主張する独立派が対立し、独立派のクロムウエルは長老派を議会から追放し、チャールズ1世を処刑し、イギリスは共和政となった。これがピューリタン革命である。
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クロムウエル(東京法令「世界史のミューアム」より)
 クロムウエルは軍隊の中で力を伸ばしてきて人民主権を主張する水平派を弾圧し、護国卿に就任して独裁政治をおこなった。彼は航海法を制定し、オランダ船を閉め出して、海運業や商業の発展をはかった。また、彼はカトリック教徒の多いアイルランドを征服し、イギリスの植民地とした。
 クロムウエルの独裁はきびしく、国民は不満を持った。彼の死後、議会は亡命していたチャールズ2世を国王に迎えたが、これを王政復古と呼ぶ。
 チャールズ2世と次のジェームズ2世はカトリックを信じ、専制政治を行った。議会はジェームズ2世を追放し、オランダからジェームズ2世の娘とその夫をイギリスの国王に招き、夫はウイリアム3世となり、妻のメアリ2世と共同でイギリス王となった。二人は議会の提出した「権利宣言」を承認した。議会は一滴の血も流さずに専制政治を倒したのでこれを名誉革命と呼ばれている。「権利宣言」は「権利章典」という法律となり、法律の制定や課税には議会の承認が必要となり、議会では言論の自由が保障された。また、貴族や地主たちのトーリー党、都市商人たちのホイッグ党の二つの議員グループは近代政党のもととなった。こうしてイギリスでは、立憲王政が確立した。
 18世紀の初めスチュアート家が断絶すると、親戚にあたるドイツのハノーヴァー家から王が迎えられた。イギリスでは英語のできない新王は、政治を首相と内閣にゆだねた。このため、内閣は議会に対して責任を負う責任内閣制とされ、イギリスの王は「君臨すれども統治せず」といわれるようになった。
 現在のイギリス王家はウインザー朝と呼ばれているが、ハノーヴァー朝を継続した王朝である。第一次大戦の時、敵国のドイツ系の家名を廃止し、王宮の所在地にちなんで改称したにすぎない。ハノーヴァー家はドイツのツェレという都市の出身地であり、そのため第二次世界大戦の時、イギリスはこの都市を爆撃しなかったという話しは、このブログの「ドイツ旅行記」に書かせてもらっているので参照してほしい。
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市教会の塔から見たツェレの町(山武の世界史「ドイツ旅行記」より)
次回の第25回世界史講座は、8月25日(土)午後2時より行います。テーマは「フランスの絶対王政」「東方の大国」です。多数の参加をまっています。
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授業風景
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