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 2012年9月20日に次のようなメッセージが学校職員のレターケースに配布されました。
「世界史授業マイスター
           演ずる世界史  山本武志先生

 久米田高校にも名授業と呼ぶにふさわしい授業を展開している授業があります。その授業を紹介していきます。
 いつもエネルギッシュに満ちて情熱あふれる授業をしている山本武志先生の授業を紹介します。
 率直言って、授業というより、世界史の熱演を聞いているような迫力があります。
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授業風景
 西洋史の時にも東洋史の時にも、世界史地図を黒板の右側につるし、歴史的国家や都市を指し示しながら、歴史の世界に引き込んでくれます。

 その声の大きさと語り口のおもしろさは、エアコンをつけない時、扉を開けた授業では話が飛び込んできて、隣のクラスの列の後ろの生徒が、クスクス思わず笑ってしまう程です。

 授業を通じて、歴史上の様々なエピソードが絡まり合い、中世史にしても近世史にしても、ロシアとフランスの歴史が絡まり合ったり、トルコとヨーロッパのエピソードが入り交じったりします。
 
 中学生に向けた夏の体験授業では、山本先生の授業を受けた生徒が体験授業の経験をきっかけに「久米田高校」を進学するきっかけになったりしています。

 『山武の世界史』というホームページが開設されており、ご自身の外国へいった記録を元に、きれいな写真入れで、世界史の様々なエピソードが綴られています。

 ホームページの中には、8月に授業体験で来た中学生の子ども達のメールも載っています。
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(授業風景)
 機会があれば、山本先生の了解を得てから授業を見に行って下さい。きっと、エネルギーをもらえると思います。                   (2012/09/20 久米田高:岡村)」

 以上のようなすばらしいメッセージを写真付きでをいただき、私は感激してブログに転載させていただきました。ありがとうございました。
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2)近代世界システムの成立
 スペイン・ポルトガルによってはじめられた世界貿易には、オランダ・イギリス・フランスも参加し、従来の諸地域の商業ネットワークは、「資本主義的世界体制(近代世界システム)」という世界的な支配・従属の分業体制(システム)に編成されていくことになった。以後、諸地域は、自立した発展をとることが困難になり、この資本主義的世界体制のなかで大きく「中核」と「周辺」という位置に分化した。このような考え方は、社会学者・歴史学者であるウォーラスティンなどが提唱した学説である。
 「中核」となった西ヨーロッパ諸国では、国家の集権化と工業・農業における「自由な」労働形態が一般化する。「周辺」では「中核」への一次産品の輸出が固定化され、支配者の変動も少なく、市民社会の成長が進まなかった。つまり西ヨーロッパの発展は、アフリカやアメリカの犠牲の上で成立したものである。しかし、この段階ではアジア世界は従来の貿易を維持しており、アジア世界がこの世界体制に組み込まれるのは19世紀のことであった。
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ロンドンのコーヒーハウス(17世紀以降、オスマン帝国をへてコーヒー飲用の習慣が広がった。コーヒーハウスも広がり、社交場、商売のための情報収集場、世論形成などの役割を果たした。)(東京書籍「新選世界史B」より)
 「中核」となった西ヨーロッパの中でもイギリスは「三角貿易」で巨万の富を獲得した。上のコーヒーハウスは、このような商売の情報を得るための重要な拠点として利用された。
 次回の世界史講座は、10月6日(土)午後2時から「産業革命」をテーマにおこないます。多数参加してください。
 
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2)アフリカの植民地化
 西アフリカには、トンブクトゥなどの商業都市と地中海とを結ぶサハラの交易ルートがあり、このルートを支配するソンガイ王国などがあった。しかし、ヨーロッパ人が大西洋航路を開発すると、金や奴隷などの商品は西アフリカの大西洋沿岸の港に向かうようになり、古くからの交易ルートはさびれ、ソンガイ王国は滅びた。ヨーロッパ人は最初は金を求めてアフリカに来たが、しだいに奴隷が中心になった。このため、海岸部に奴隷貿易の仲介をするベニン王国やダホメ王国が栄えた。
2 世界の一体化
 1)三角貿易
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(東京書籍「新選世界史Bより」)
 17世紀後半以降、ヨーロッパから綿布やガラス細工、武器などの工業製品がアフリカに送られ、ここから黒人奴隷が南北アメリカに送られ、南北アメリカから砂糖やタバコ、綿花がヨーロッパに向かう、三角貿易が成立した。ヨーロッパ諸国、ことにイギリスはこの貿易で大きな利益を得た。
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黒人奴隷船の設計図(イギリスで18世紀に建造された黒人奴隷船の設計図。アフリカから北アメリカまでは約40日を要し、家畜のようにつめこまれて運ばれたため途中で死亡する者も多かった。)(東京書籍「新選世界史Bより」)
有名な賛美歌「アメイジング・グレイス(すばらしき神の恩寵)」は、ジョン・ニュートンが作詞した曲である。彼は1725年にイギリスに生まれ、母は熱心なクリスチャンであった。しかし、商船の指揮官であった父について船乗りとなり、やがて「奴隷貿易」で巨万の富を得るようになった。1748年5月10日、船長として任された「奴隷船」が嵐にあった。そのとき、彼は必死に神に祈った。すると奇跡的に嵐はおさまり、難を逃れることができた。その後も6年間、奴隷を運び続けたが、1755年、病気で船を下り、勉学と寄付によって牧師となった。1772年、「アメイジング・グレイス」が生まれた。黒人奴隷貿易にかかわったことに対する反省とそれにもかかわらず、許しを与えた神に対する感謝が込められている。
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第26回世界史講座は、9月15日(土)午後2時より「ヨーロッパ人の進出とアメリカ・アフリカ」をテーマとしておこなわれました。受講者は8名でした。
1アメリカとアフリカの悲劇
 1)アメリカ大陸の植民地化
  現在の研究では、アメリカ大陸にはホモ=サピエンス(現生人類)以前の人類は、生存していなかった。ベーリング陸橋を渡ってアメリカ大陸にやってきたのは、アジア系の民族で、で今から約1万5000年前ぐらいだといわれている。彼らは、またたく間に南アメリカにまで到達し、トウモロコシやジャガイモなどを栽培し、独自の文化を創り出していった。やがて各地に文明が成立したが、不思議なことに、他の文明で見られたような大河の流域に生まれたのではなく、メキシコ高原やユカタン半島の密林、アンデス山脈の高原や山岳地帯にに文明が作られた。なぜそのような地域に文明が作られたのかは今も謎である。
 さて、コロンブス以降、アメリカ大陸にはスペイン人の征服者がのりこんできたが、その一人であるコルテスは、1521年にアステカ帝国を滅ぼして、メキシコ地方を占領し、ピサロは、1533年にインカ帝国を滅ぼしてペルー方面を占領した。
 なぜ高度な社会・文明を築いていたアステカ帝国やインカ帝国があっさりとスペイン人に滅ぼされてしまったのか。その理由として、アステカでは、コルテスを伝説の神ケツァルコアトル(この神は白面で髭をはやしており自分たちを導いてくれるという伝説があった。)と間違えていたとする説がある。また、安易にスペイン人を首都に入れてしまったこと、そのため、皇帝や政府機構を簡単に奪われてしまったこと、しかも、アメリカ大陸ではなかったような大量殺戮戦を行ったこと、さらに、他の部族を利用したことなどがあげられる。
 現在、ペルーでは、インカ文明の伝統を残そうとする努力が続けられている。サイモンとガーファンクルで有名となった「コンドルは飛んでゆく」という曲は、ペルー人の作曲家であり、民族音楽研究家であったダニエル・アロミア・ロブレスが1913年、伝承曲のメロディーをモチーフにして書いたオペレッタの序曲として発表されたものである。
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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
 アメリカ中・南部を手に入れたスペインは植民者にインディオと呼ばれる先住民の支配を委託するエンコミエンダ制をしいたので、先住民は酷使された。しかも植民者が持ち込んだ天然痘とインフルエンザによって、免疫力の低い先住民の人口が激減した。コルテスの征服以前には1000万人(2500万人説もある)いた人口は、わずか50年間で、100万人に激減したという。その結果、スペインは労働力を補うためにアフリカから黒人奴隷を輸入して、ポトシ銀山をはじめとする各地の鉱山を開発し、大量の金・銀を本国に持ち帰った。その結果、ラテン=アメリカはインディオとヨーロッパ人、アフリカ人、そしてこれら三者の混血によって生まれた多様な人々が混在するようになった。黒人と白人の混血をムラート、白人とインディオの混血をメスティーソ、黒人とインディをの混血をサンボと呼ばれている。
 18世紀にはアメリカ大陸にサトウキビや綿花が持ち込まれた。ヨーロッパ人農業経営者はヨーロッパに輸出するために、これらの作物やタバコのプランテーションを作り、先住民や黒人奴隷を使って1種類の商品作物だけを栽培するようになった。こうした農業経営によって伝統的な農業や農村の生活は破壊された。一方、北アメリカ東部にはイギリス、オランダ、フランスなどからの移住者が多く、各地に母国に似た社会を建設した。
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(生涯)
 イブン・バットゥータは、1304年2月24日にモロッコのタンジャとよばれる古い港町に生まれた。イブン・バットゥータは家系を示す名で、本名はムハンマド、父はアブダルラーという人であった。この一家はルワータというベルベル人の一族に属し、もとはリビア地方におり、後にモロッコに移ったもので、純粋のアラブ人ではないが、アラビア文化に同化したためにアラブ族とみなされている。バットゥータが23歳のとき、聖地メッカの巡礼に出てから、未知の世界にあこがれるままにアフリカから西アジア、南ロシア、バルカン半島、中央アジア、インドをめぐり、スマトラを経て泉州に上陸し、北京にまできた。モロッコに戻っていったのは1349年で、46歳になっていた。25年間の長い旅だったが、それから後もスペインのグラナダとサハラ砂漠の奥のニジェル河畔まで赴き、1354年の初め、51歳のときフェズに帰着した。彼の教養はかなり高く、いたるところで学者や修道士と交わり、インドの都などでは法官に任ぜられたし、その晩年もモロッコのある町の法官として活躍したという。そして、1377年に74歳で生涯を終わったといわれる。50歳以後は、比較的静かな生活を送ったようである。
 彼が大旅行家として後世に知れ渡ったのは、彼の旅行記である『三大陸周遊記』の存在である。この旅行記は、モロッコの王アブー・イナーンが、書記に命じて、バットゥータが口述するところを筆記させ、さらにこれをイブン・ジュザイに整理させたものである。後にフランス人がアルジェリアを征服したとき手に入れた古写本の中から、この旅行記が発見された。今もパリの国立図書館に保管されている。
(課題)
 ① イブン・バットゥータの旅行をたどることにより、イスラムの歴史とともに、各地域のイスラム世界を学ぶ。
 ②なぜ彼の大旅行が可能だったのか、イスラム商業活動によるイスラム世界の広がりを明らかにする。
<資料と解説>

[1]
イブン・バットゥータはどのようなところを旅したのか、また彼の旅の目的はなにか
(資料1)イブン・バットゥータの旅行路
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(「東京書籍 新選世界史B」より)
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(溥儀の父・弟,戊戌の政変で光緒帝を幽閉した西太后は、その後継者として溥儀を指名した。西太后の死後わずか3歳で皇帝に即位した(宣統帝)溥儀は辛亥革命によって退位したが、中華民国との協定により紫禁城内での皇帝の称号の使用と居住を保証された。しかし1924年に追放され、天津の日本人租界で日本の保護を受けた。写真の右に立っているのが溥儀。)(東京法令「世界史のミュージアム」より) 
 [5]
 孫文はなぜ国共合作へと進んでいったのか
(史料2)中国国民党一全大会宣言
1、わが国民党は国民革命・三民主義実行をもって中国唯一の生きる路となす…
2、国民党の主義。
(1)民族主義。国民党の民族主義には2方面の意義がある。1は中国民族がみずから解放を求めることで、2は国内の各民族の一律平等ということである。…
(2)民権主義。国民党の民権主義は、間接民権のほかにまた直接民権を行なうものである。…近世各国のいわゆる民権制度は往々資産階級の専有するところとなり、平民圧迫の道具となっているが、国民党の民権主義は一般平民の共有するもので少数者に私有されるものではない。…
(3)民生主義。国民党の民生主義の最も重要な原則は、つぎの2者に外ならない。1が地権平均で、2は資本節制である。経済組織の不平均をなすもの、土地権が少数人に支配されることより大なるゆえに国家は土地法・土地使用法・土地徴税法・地価税法を規定し、私人所有の土地は地主が評価して政府に報告し、国家はその価格に基づ いて徴税し、必要な時は報告価格によってこれを買収するこれが地権平均の要点である…(小原正治訳『東洋史料集成』平凡社)
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(東京書籍「新選世界史」より)
(解説)
 孫文に代わって大総統に就いた袁世凱は、国民党を非合法化して独裁政権を樹立し、さらに皇帝への野望をもち帝政を推進しようとしたが、内部からの反発や列強の離反もあって失敗した。このあと袁世凱は病死し、その後継をめぐって対立がおこり各地に軍閥が割拠した。孫文は南方の中小の軍閥と提携して広東軍政府を樹立し、北伐を実施しようとした。しかし、提携していた軍閥のクーデターに会い北伐は失敗した。このような中で、今まで孫文が進めてきた革命路線の変更を余儀なくされるのである。孫文は中国革命のために日本や欧米にその援助を求めてきたが、特に日本の中国侵略が激しくなると、その援助を他に求めざるをえなかった。この時、中国に手をさしのべたのがソ連であった。ソ連は、旧帝政ロシアが中国と結んだ条約をすべて破棄して、新たに、中国との間に対等の国際関係を樹立しようというのである。孫文と国民党に注目したのは、コミンテルン代表マリーンであった。彼は1921年に孫文と会見し、国民党の改組と共産党との合作を進言したのである。これを受けて孫文は1923年に国民党改組宣言を発表し、翌年に中国国民党第一回全国代表大会が、広州で開催された。上の史料はこの大会における宣言文であり、この宣言文のなかで孫文が提唱したものを従来のものと区別して新三民主義とよんででいる。
 「新三民主義は、要するに、三大政策(連ソ、容共、労農援助)を採用して、国共合作に踏み切った中国国民党が、民族の独立を求める国民革命を、人民とともに遂行するために掲げた大原則であった。同時にそれは、中国における革命勢力が大同団結した、国共両党による民族解放戦線の共同綱領ともいうべきものであった。それはまた、中国革命の根本的課題を深く認識した孫文が、その解決に向けて前進を開始した、彼の革命運動の飛躍的発展であった。これはのちに毛沢東が、中国の反帝反封建のブルジョア民主主義革命は、孫中山先生から始まったものであると、高く評価しているところである。」(狭間直樹「『民報』の六大主義解説」)このように孫文は、その三民主義の思想を発展させることによって国共合作へと進んだが、さらに彼は革命を達成するためには国民党独自の軍隊を持つ必要があると考え、軍官学校を創設するのである。やがて、この軍官学校の卒業生を中核とした国民革命軍が北伐を達成することになる。しかし孫文の生命はそこまで残されていなかった。「革命未だ成らず」という言葉を残し、1925年に病没した。
(おわりに)
 孫文は、中国の多くの人々に偉大な革命家として尊敬されている。それは、今まで学んできたように彼が中国革命で大きな役割を果たしてきたからである。それではなぜ孫文は一貫して革命的な立場に立つことができたのか。それは彼の育った環境が大きな影響を与えている。彼は貧農の子として生まれ、青年時代にはハワイで西欧的な教育を受けることができた。彼は康有為などと違い中国の支配体制の外に生きてきたことにより、清朝打倒などの革命的な立場に立つことができたのである。そしてイギリスなどでの体験と勉学により、社会革命の必要性を認識していたこと。さらに革命的楽観主義や不屈の精神力など、彼は革命家としての恵まれた性格をもっていたことなどがあげられる。そして彼は三民主義のように、大衆にもわかりやすい彼独自の思想をもっていたことが尊敬されるゆえんであろう。
 また、時代も彼のような革命家を求めていたのである。日清戦争の敗北は李鴻章らの洋務派を失脚させ、立憲君主制を唱える康有為らの変法派を台頭させた。しかし戊戌の政変はこのような改革派に打撃を与え、清朝打倒を主張する孫文などの革命派に活躍する場を与えたのである。当初、彼にも弱点はあった。例えば欧米や日本の帝国主義に対して幻想をもっていたり、武力を利用するために軍閥と手を結んだことである。しかし帝国主義国の中国侵略が激しくなると孫文の民族主義は反帝国主義へと成長し、またロシア革命や五四運動の影響により国共合作、そして革命軍の創設へと彼の思想を発展させた。彼は最後まで革命家として活躍し、そのため中国革命の父とよばれるのである。(山本武志)
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[4]
辛亥革命はどのようにして起こりどのような意義をもつのか
(資料3)武昌起義
 …各地で挙兵を準備していた同盟会は、かねてから武漢でも同様の準備を進め、新軍の中堅幹部のなかに多数の同盟会員を獲得し、これを中心に同盟会中部総会を組織して挙兵の機会を狙っていた。ところが、鉄道国有反対運動の嵐のなかで、清朝側でも警戒を強め、そのために同盟会員の名簿が押収されたので、予定を早めて10月10日夜武漢の新軍が挙兵を行なった。その兵力はごく少数であったが、総督が砲声に驚いて城から逃れたために頑強に抵抗する者もなく、翌日には武漢三鎮が革命軍の手に帰した。武漢の勝報は、電撃のように、各地の同盟会員と新軍につたわり、これまでは各地で失敗を重ねてきた挙兵が、いたるところで勝利の鐘をつげたのである。各地の状況をスケッチすると次のようである。
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辛亥革命(湖北省の武昌で革命が起こると、各地で次々に革命の旗がひるがえり、清朝の支配からの独立が宣言された。)(東京書籍「新選世界史B」より)
 湖南 10月22日、長沙で新軍が旗をあげ、たちまち長沙、武漢の間を占領する。
江西 10月23日、九江の将軍が部下に迫られて清朝に対して独立宣言をし24日には湖口も独立。31日には南昌も独立して新軍の天下となる。
 陜西 10月24日、西安で新軍決起して独立す。
 山西 陜西事件の鎮圧に清朝は山西の新軍に出動を命じたが、新軍これを拒否して、巡撫を殺す。
 雲南 昆明の陸軍幹部が中心となり、10月30日兵をあげて総督の部隊と交戦、11月1日同市を占領。
 上海 同盟会指導者陳其美が11月3日登院を率いて上海機器局を攻撃、4日同市と呉淞を占領。
 江蘇 蘇州と常州が11月4日、松江は6日、鎮江は7日それぞれ独立する。
 淅江 上海党軍の援助を得て新軍が11月5日杭州を占領。
 広東・広西・山東 四囲の情勢に呼応してそれぞれ11月の9、10、11日に独立を宣言。
 …ここに華中から華南にかけて清朝の支配権は完全に覆されたのである。そして11月30日から3日間、漢口で11省の代表者20余名から成る各省代表者会議が開かれ、中華民国政府臨時組織大綱21ヵ条が決議された。(岩村三千夫「民国革命」『社会構成史大系8』日本評論社)
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上海での革命軍(東京書籍「新選世界史B」より)
(解説)
 上の資料は、辛亥革命の発端となった武昌起義を起点とする怒涛のような革命の動きを示したものである。このような革命進展の背景には、日清戦争や義和団運動による列強の中国分割が進んだこと。一方、日露戦争でロシアが敗北して専制君主制に対する批判が強まり、中国同盟会が結成されて革命派が勢力を増大させたことにある。資料にあるように、この革命の契機となったのは「鉄道国有化問題」であり、革命を遂行させたのは同盟会員の活躍による。ただ、清朝から独立を宣言した各省の代表者に選ばれたのは、改良派に属する各地方の有力者が多かった。しかし、「大綱21ヵ条」に基づいて、臨時大総統に選ばれたのは孫文であった。その理由は、この頃には孫文は革命派を代表するカリスマ的な存在になっていたからであろう。
 清朝は袁世凱に陸海軍指揮の全権を与えてその鎮圧にあたらせたが、袁は内部対立や財政難に苦しんでいた革命派と取引し、清朝を排除して権力を奪おうとした。一方、孫文は袁世凱の取引に応じてわずか3ヵ月で総統の地位を袁世凱に譲った。なぜ孫文は袁世凱にその地位を譲ったのか。その理由として、「袁世凱が信頼できないというのは、まことにそのとおりである。しかしわれわれがこれを利用して260年の貴族専制の満州を転覆するとすれば、10万の兵を用いるよりも賢明である。たとえ彼が満州のあとを継いで悪事をなさんとしても、その基盤は(満州に)遠く及ばない以上、これをくつがえすのは、おのずから容易である。だから現在はまず円満な決着をなすべきである。…」さらに次のような意見も述べている。「…総統を譲るべきではなかったと咎める者が多い。しかし、たとえ私があのまま総統であったとしても、党員が破壊成功のあとにおいて革命の誓約を守らず指導者の主張に従わないのだから、革命党によって中国を統一したとしても、革命の建設を行うことはできず、その効果は新官僚をもって旧官僚に代えたにすぎない。…」このように、三民主義に基づく理想国家の実現をめざす孫文にとって、革命派の混乱は目に余るものがあったのであろう。
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  [3]
 三民主義とはどのようなものであったか
(史料1)「民報」発刊のことば私は欧米の進化は三大主義にあると思う。それは民族・民権・民生である。ローマが滅び、民族主義がおこって、欧米各国が独立した。やがてそれぞれ自分たちもその国を帝国とし、専制政治をおこない、被支配者はその苦しみにたえられなくなり、民権主義がおこった。18世紀の末、19世紀の初め、専制政体がたおれて立憲政体がふえた。世界は文明化し、人智がますます発達し、物質がいよいよ豊かになり、この100年、1000年にまして発達した。経済問題が政治問題のあとをついでおこり、民生主義がひとり舞台の時代となるにちがいない。この三大主義はみな民衆に基礎をおき、相ついでおこってきており、欧米の人々はおかげでゆったりと生活してきた。さらに小さな仲間から大衆のなかにまでゆきわたって いて、あたりまえな話となつているのは、この三つの主義が、申し分なく行なわれて、すみずみまでおよんでいるからにほかならない。いま、中国は千年来の専制の毒気から解放されていないで、異民族の迫害をうけ、外国の圧力がせまってきていて、民族主義、民権主義の点で、一刻もほうっておけない。ところが民生主義では、欧米が長年の因襲が改めにくくてこまっているのに、中国だけはまだ社会の弊害がひどくなくて、除きやすいのである。(中村義訳『東洋史史料集成』平凡社)
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(帝国書院「タペストリー」より
(解説)
  戊戌の政変による改革派の失敗と、義和団運動の敗北によって、革命派の勢力が次第に増大することとなった。当時結成された秘密結社の中では、前述した興中会の他に、黄興らの華興会、章炳麟の光復会が有名である。1905年、これらの結社は孫文を中心に合同し、中国同盟会が東京で結成され、機関誌「民報」が発行された。そして、三民主義の教理が、孫文によってはっきり打ち出されたのは、この発刊のことばからである。三民主義は、中国民族による共和国建設のための政治革命と同時に、社会革命も行なう必要があると唱えたのである。当時において最大の衝撃を与えたのは、伝統的な皇帝の存在を否定し、共和制を主張したことであり、保守的な中国の知識層を動揺させた。「民報」の発行部数は当初3000部であったが、半年余りで1万部を超え、その後は4万~5万部に達したといわれる。在日留学生ばかりでなく、ひそかに清国へ持ち込まれ、青年たちの間で広く読まれた。このような同盟会の成長は、やがて辛亥革命をもたらすのである。

 
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 [2]
「日清戦争」の敗北は中国社会にどのような影響を与えたか
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(開港後の上海には、新たな資産家が生み出された。子どもたちをアメリカに留学させ、また、孫文の革命運動を熱心に支援した。その子どもたちとは、長女の宋靄齢(そうあいれい)、次女の宋慶齢(そうけいれい)、長男の宋子文(そうしぶん)、三女の宋美齢(そうびれい)にほかならない。長女は上海の財閥の御曹司であった孔祥熙(こうしょうき)と結婚した。次女の宋慶齢は、辛亥革命後、袁世凱(えんせいがい)にやぶれて日本に亡命していた孫文と結婚し、一生を中国革命にささげた。三女の宋美齢は、孫文の後継者となった蒋介石と結婚し、アメリカの政界とのパイプ役を果たした。孫子文は南京国民政府の財政部長として活躍したが、人民共和国の建国後はアメリカで過ごした。宋家の三姉妹の人生は、国際的な経済生活の広がりとともに中国社会が大きな変貌をとげ、同時に国民党や共産党による激しい革命運動が展開した近代から現代の歴史を文字どおり凝縮してしめす劇的な家族史をえがきだした。(東京書籍「新選世界史B」より)
(資料2)
 日清戦争を契機に民族的危機が加速的に深まるなかで、中国人の側にもこの危機を打開しようとする種々の動きが生まれる。それらは、次の三つに大別できよう。一つは、敗戦とその後の列強の侵略激化によって危機意識を強めた知識人の中から、清朝支配体制の存続を前提としつつも、政治・経済・ 社会・文化の各分野にわたる抜本的改革によって、列強の脅威に対抗しうる近代国家の実現を模索しようとする改良主義の運動である。康有為らの変法運動はその中核をなすものであった。二つには、同様の危機意識から出発しながらも、しかし清朝の下での「改革」はもはや不可能とする認識から、現政権の打倒をさしあたっての課題とする革命運動である。孫文の場合はこの流れの中心に位置していた。三つには、列強の侵略と清朝支配の下にもっとも過酷な収奪を受けていた民衆が、困窮の原因のすべてを「洋人」の存在に求め、その重圧を排除すべく展開した一連の排外運動である。このもっとも突出した形で行動化したのが義和団運動であり、民衆独自の力量によって構築した反帝国主義運動として高い評価が与えられている。(堀川哲男『人類の知的遺産 孫文』講談社)
(解説)
  康有為らの変法運動は、1898年に西太后らの保守派の弾圧で失敗した。しかし、康有為らの改革派はあくまで立憲君主制を主張して、孫文らの革命派とは提携することはなかった。それは、康有為らが科挙試験を合格した高級官僚であったことや、諸外国についての知識がほとんどなかったことにより、2千年間続いてきた君主体制を打倒して、共和政を打ち建てるなど思いもよらないことであったのだろう。これに対し、孫文は貧農出身で、しかも外国教育を受けており、君主体制にこだわることがなく共和政を主張できたのであろう。しかも清朝が異民族王朝であったことが、孫文を清朝打倒へとかりたてたのである。1894年にハノイで設立した「興中会」の入会者には、「満州族を駆除し、中国を回復して、合衆国政府を創立する」と宣誓し、革命への決意を明らかにしたのである。「興中会」を組織した孫文は、日清戦争の敗北による混乱を利用して、広州で武装蜂起を計画したが失敗し、亡命生活をよぎなくされる。しかし、亡命生活は孫文にとって無駄ではなかった。特にロンドンでの体験と勉学が、三民主義を生み出すのである。
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左が西太后(せいたいごう)(1835~1908)右が康有為(こうゆうい)(1858~1927)(東京法令「世界史のミュージアム」より)
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 <課題>
 ① 孫文は中国革命においてどのような役割を果たしたのか。
 ② 三民主義から新三民主義へと進んでいった孫文の革命思想を明らかにする。
<資料と解説>
 [1]
 孫文が中国革命を志すきっかけとなったものは何か
(資料1)
 少年時代の奔放な反逆精神は別として、最初に、政治変革への彼の関心をかきたてたのは、清仏戦争の敗北であった。ヴェトナムをその植民地支配の下に完全に組みこもうとするフランスと、ヴェトナムに対する伝統的な宗主権の存続を主張する清国とのあいだでたたかわれたこの戦争が、清国の敗北に終わったことは、当時、香港の中央書院に在籍していた孫文に大きな衝撃を与えた。彼は、後年「私は、清仏戦争に敗れた年に、はじめて清王朝を打倒して民国を創建しようと決意した」と述べている。…そしてさらに十年後 の日清戦争の敗北の衝撃は、孫文とその同時代の中国知識人にとって、清仏戦争のそれとは比較にならないほど強烈なものであった。この混乱の中で敗戦を予感した孫文は、最初の革命的秘密結社、興中会を結成し、下関条約が締結された1895年の10月、広州起義にふみきることによって、革命実践の第一歩をしるすのである。(堀川哲男『人類の知的遺産 孫文』講談社)
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(帝国書院「タペストリー」より)
(解説)
  孫文が生まれた広東省は、太平天国の指導者洪秀全と同じであり、孫文も洪秀全と同じ客家出身であった。また孫文が生まれた1866年は、太平天国が滅亡した2年後であり、太平天国に参加した古老によって、その生々しい体験を聞くうちに、漢民族を復興する革命思想を抱いたといわれる。そして、孫文に「第二の洪秀全になれ」といわれたというエピソードが残されている。孫文は13歳で長兄のいるハワイへ行き14歳から18歳までハワイの学校生活をおくった。この時期に孫文はキリスト教の信仰をもった。個性を尊重するイギリス流の教育を受け、アメリカ的合理主義とデモクラシーの影響の強いハワイで育ち、近代西欧型の考え方を身につけた青年に成長していった。帰国して香港の大学に在学中「清仏戦争」の敗戦に衝撃を受ける、孫文20歳の時である。なぜ孫文は「清仏戦争」の敗戦に衝撃を受けたのか。それについて孫文は次のように語っている。「…安南を失うさい、中国は、すこしは抵抗し、鎮南関の一戦で、中国は、勝ってさえいます。だが、のちにフランスにおどされ、講話を乞い、甘んじて安南をフランスに割譲してしまった。ところが、講話の数日前、中国の軍隊は鎮南関、諒山で大勝しており、フランス軍はあやうく全滅するところだった。にもかかわらず、中国が和をもとめたので、フランス人は、ひじょうに変に思った。かって、あるフランス人は中国人にこういった。『…どの国の慣例からいっても、戦勝国はかならず戦勝の栄誉をしめそうとするし、敗戦国に領土の割譲と賠償を要求するものだ。ところが、中国は、戦勝のその日に、逆に領土を割いて和をもとめ、安南をフランスにおくり、いろいろと苛酷な条件をとりきめた。これはまったく、歴史上、戦いに勝ちながら講話を乞うたはじめての例だ。』中国がこのような先例をひらいた原因は、満清政府があまりに馬鹿だったからであります。」(『孫文選集・三民主義』より)このような清朝政府では中国を救うことができないと、孫文は清朝打倒を決意したのではないだろうか。
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(帝国書院「タペストリー」より)
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