<   2012年 10月 ( 8 )   > この月の画像一覧

2)世界の変化
 ヨーロッパで産業革命が進むと、一方でインドの綿工業が崩壊し失業者が増大するなど、アジアやアフリカなどの多くの地域では、先進工業国からの工業製品の輸入によって伝統的な産業が崩壊し、工業国に原料や食料を供給する役割を負わされる植民地となった。工業化に成功した先進国と、これらの諸国に経済的に依存する原料供給国の不平等な関係は、20世紀になって南北問題といわれるようになる。
4 社会の変化
1)資本主義社会の成立
 イギリスでは、急速な工業の発展によって、1820年代には、工業が生み出す富が農業から得られる富を超える工業国となり、産業資本家と賃金労働者の階級対立する資本主義社会が成立した。産業資本家は地主と並ぶ大きな社会的勢力に成長し、1830年代になると、選挙法改正によって、政治的発言権が大きくなった。
2)工業都市の誕生
 19世紀半ばのイギリスでは都市人口が農村人口を上回った。マンチェスターやリヴァプール・バーミンガムなど、多くの工場が集まる工業都市も生まれ、都市の周辺には労働者街やスラム街ができた。ロンドンのような大都市には近郊から都市内に通う者もふえ、郊外鉄道や都市交通が建設された。
 私はイギリス旅行で、コッツウォルズと呼ばれる田舎町をレンタカーでまわったが、ロンドンからそれほど遠くないこの地域が、田舎の町として取り残されたのかよくわかった。この地域は羊毛工業が盛んであった地域で、綿工業から起こった産業革命から取り残されたということなのだ。
5 社会問題の発生
1)労働問題の発生
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ムチで打たれる少年(織物産業には少年や少女が低賃金で働かされた。)(帝国書院「タペストリー」より)
 労働者は、劣悪で危険な環境のなかで、長時間、低賃金で働き、その地位も不安定であったので、労働問題が発生した。しかも機械化が進み、作業が単純になると、経営者は賃金の安い女性や子どもを雇った。
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ジン横町(人々はジンなどの強い酒で労働のうさを晴らし、夜泣きする乳幼児には酒が眠り薬として与えられたという。このようなジンの弊害を防ぐため、様々な方策がとられた。)(帝国書院「タペストリー」より)
 労働者は日曜日には、低賃金と長時間労働そして単純作業のうさを晴らすために安く強い酒であるジンをよく飲んだ。そのため月曜日の朝は二日酔いで仕事にならなかった。その対策として、経営者が労働者にジンの代わりとして勧めたのが当時イギリスでようやく安く手にはいるようになった紅茶である。紅茶は身体によい飲み物であり、このようにしてイギリスで紅茶が広まっていったのである。
2)労働運動の発生
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ラダイト運動(18世紀後半に機械の改良によって失業した熟練工たちが、機械や工場に敵意をもち、機械破壊を行った。1810年代に運動は激化し、政府は関係者を厳しく罰した。のちのチャーチスト運動や労働組合活動とは違って、打ちこわしという時代逆行的な運動であったので、成功しなかった。(帝国書院「タペストリー」より)
 19世紀前半のイギリスではラダイト運動といわれる機械打ちこわし運動が発生したが、政府により弾圧されるようになる。やがて労働者達は、労働組合を組織して経営者側と交渉するようになった。
3)公害問題の発生
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(左はスモッグで煙る工業都市、右はテムズ川の汚濁を描いた。)(産業革命は人口の都市集中を招いた。都市では石炭を産業活動や家庭燃料として使用したので、有害な物質を排出し、人々はスモッグに悩まされた。河川は工場からの排水と家庭から流れ出る汚水とで猛烈な異臭を発する状況であった。ロンドンのテムズ川の水では「一滴に百万匹の虫がいる」といわれたが、人々はこのような河川の水を生活用水として使用するしかなく、コレラの流行の一因ともなった。(帝国書院「タペストリー」より)
 都市では石炭を産業活動や家庭燃料として使用したので、公害問題が発生した。
4)社会主義思想の登場
 19世紀前半には、社会問題を解決するために、社会の仕組みを変えようとする社会主義思想が登場する。また、不景気やこれにともなう倒産、失業などがおきる理由を明らかにするために、資本主義経済の仕組みを考える経済学がさかんになった。
 次回の第29回世界史講座は、11月10日(土)午後2時から「アメリカ合衆国の成立」をテーマにおこないます、多数ご参加下さい。
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 18世紀にイギリスの綿工業部門から始まった産業革命は、鉄鋼・機械さらに鉄道などの輸送部門にまで発展した。19世紀半ば以降になるとイギリスはこのような製品や資材を輸出するようになり、「世界の工場」と呼ばれた。はじめ工業技術を独占していたイギリスは、19世紀前半に技術を提供するようになり、フランスやドイツでもイギリスと同じような工業化が進んだ。アメリカでも北部を中心に工業が発展した。19世紀末になると、ロシアと日本でも同じように工業化が始まった。
 前回のまとめで指摘したように、蒸気機関車を発明したのはスティーヴンソンではない。発明者を確定するのは難しいが、その実用化に大きな役割を果たしたのは、リチャード・トレヴィシックである。『世界技術史』(大月書店)によると、「機関車の実験は公開で行われた。トレヴィシックの機関車は、およそ10トンの貨物と約70人の乗客を約15㎞以上も運んだ。速度はおよそ時速8㎞であった。この実験に関する記事は当時の新聞に熱狂的に取り扱われた。のちに(1808年)自分の発明した原理を普及するために、トレヴィシックは、ロンドンにテストとアトラクションを兼ねる環状鉄道を敷設した。機関車は時速約24~32㎞で走った。後にレールの破損が原因で機関車が転覆したため、すでに機関車の建設にかなりの資金を使っていたトレヴィシックは、その他のテストを断念しなければならなかった。」
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(トレヴィシック(左)とスティーヴンソン(右)の蒸気機関車)
 なぜスティーヴンソンの蒸気機関車が成功したのか。その理由を写真によって説明しよう。写真1と2を比較すると、スティーヴンソンの蒸気機関車の優れている点がよくわかる。それは、トレヴィシックの蒸気機関車がピストンの運動は、連結棒、クランクを使って歯車装置をつうじて動輪に伝えられたのに対し、スティーヴンソンの蒸気機関車は、ピストンを機関車の車輪に直結している点である。これによって燃料から得られる出力を最大限にしたことにより、蒸気機関車の重量を低く抑えることができたとともに、そのスピードをあげることができるようになったことである。
 スティーヴンソンの技術的な成功は、鉄道経営における成功をももたらし、その名は世界中に知られるようになった。一方、鉄道から手を引いたトレヴィシックは、高圧蒸気機関の製作へと移って南米のペルーへと渡った。しかし、戦争に巻き込まれるなど不運にあい、無一文でイギリスに帰り貧しいままで一生を終え、人々から忘れられてしまった。彼が注目され、「蒸気機関車の父」と呼ばれるようになったのは最近のことである。
 ところで、私は『人物で学ぶ世界史』という本の執筆で、「トレヴィシックとスティーヴンソン」を取り上げた。そのとき図書館でトレヴィシックに関する興味ある記事を発見したが、それは彼の孫に関するものである。彼の孫に当たるR・F・トレヴィシック(1845~913)は、1888(明治21)年に汽車観察方として着任し、官鉄神戸工場にて、日本最初の国産蒸気機関車860形を製造(1893年)したのをはじめ、日本の技師養成に功績を残している。また、その弟のF・H・トレヴィシック(1850~1931)は、兄より早く、1876年に来日し、89年汽車監督となり、93年には、信越線、横川-軽井沢間のアプト式機関車の試運転を担当し、同年の開通に成功している。日本鉄道の歴史にとっても、トレヴィシックの名前は忘れてはならないものであろう。
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 第28回世界史講座は、10月27日(土)午後2時より「世界の工場と世界」「社会の変化」「社会問題の発生」をテーマにおこなわれました。受講者は7名でした。
3 世界の工場と世界
 1)世界の工場
 なぜ産業革命は綿織物工業からはじまったのだろうか。そもそも、人類は4種類の織物を持っていた。前5000年にエジプト文明に遺品があり、もっとも古い織物と考えられているのが麻である。日本では『魏志倭人伝』の頃にはすでに生産されていた。遊牧民の衣服として古くから生産されていたと考えられているのが毛織物である。古代ギリシア・ローマの衣服も毛織物であった。新石器時代の中国では、すでに生産されていたと考えられているのが絹織物である。製法は王朝の秘密とされ、蚕を国外へ持ち出した者は死罪であった。6世紀に景教の僧侶が杖の頭に蚕を隠し、ビザンツ帝国へ伝えたといわれている。前2500年頃のインダス文明やラテン=アメリカ文明にも遺されていたのが綿織物である。インドを中心に、紀元前にエジプトへ、紀元後まもなくローマや中国に伝播する。
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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
 さて、産業革命をはじめた国であるイギリスには、原料である綿花は栽培されておらず、綿織物の伝統が全くなかった国である。この国は昔から羊毛の国である。私は十数年前にレンタカーでイギリスへの家族旅行をしたが、イギリスの田舎には今でもたくさんの羊が放牧されていた。なぜ毛織物ではなく、綿織物から産業革命がおこったのか。それは、綿織物が他の織物と比較して優れた特徴を持っていたからである。第一に原料が安く、しかも大量に原料を生産することができるからである。産業革命は機械による大量生産のことであるから、毛織物では原料不足になってしまうのである。第二に綿織物は丈夫であり、今でも下着やスポーツなどの衣料として使用されている。第三に保温・吸湿性に優れ、肌触りも良い。イギリスでインド綿布が流入して下着を着用するようになると、イギリス人の健康が良くなり、寿命が延びたと言われている。第四に染色が容易であり加工しやすいという優れた特徴を持っていた。そのため、イギリス本国だけでなく、アフリカやアメリカなどの植民地でも需要があり、イギリス人の中に綿織物業を始める者が出てきたのである。しかし、安いインドの綿織物に対抗するためには、より安く大量に生産する必要があった。イギリスには綿織物の伝統がなかったため、古い生産工程にこだわる必要がなく、機械を使った大量生産方式を導入することができたのである。
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3 朝鮮半島と日本列島の動き
(朝鮮の歴史については、別にまとめて教えたこともあるが、ここでは教科書どおりに、授業をおこなった。日本の歴史については、日本史で詳しく学習するが、やはり世界史の中でも触れておく必要があると思う。)
T    教科書によると、朝鮮半島とその周辺では、いつごろから農耕がおこなわれるようになったと記述されていますか。
S    前1000年ごろと書かれています。
T    前1世紀ごろに中国東北地方から朝鮮半島北部を支配した王朝はどこですか。
S    高句麗です。
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高句麗武人の狩猟図(高句麗の都がおかれた中国吉林省集安にのこる4~5世紀の壁画(東京書籍「新選 世界史Bより)
T    漢以来、朝鮮北部に設置された郡を何と呼びますか。
S    楽浪郡です。
T    4世紀初め、高句麗は楽浪郡を滅ぼしたが、5世紀の初めにこの王朝の最盛期をもたらした王は誰ですか。
S    広開土王です。
T    教科書の地図を見ると、4世紀には朝鮮南部に西と東に王朝名が記載されていますが、それぞれなんという王朝ですか。
S    西が百済で東が新羅です。
T    北の高句麗と合わせてこの時代を何と呼びますか。
S    朝鮮の三国時代と呼びます。
T    中国の歴史書である「漢書」によると、前1世紀ころの日本列島には各地に小国が成立していた。そして、定期的に楽浪郡に使いを送っていたが、このころ中国は、日本人のことを何と呼んでいましたか。
S    倭人と呼んでいた。
T    中国の歴史書である「後漢書」によると、1世紀ころになると、倭の奴国の王が後漢の光武帝に貢物を贈り、かわりに臣下と認める印綬(金印)を与えられたとあるが、金印には何と書かれていましたか。
S    「漢倭奴国王」と書かれていた。
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金印(中国の史書「後漢書」の「東夷伝」には、紀元57年に倭から奴の国の王が朝貢施設を派遣してきたので、光武帝から奴の国王に印綬を与えた、と記されている。今から200年以上前の1784年、博多湾のある志賀島から「漢倭奴国王」という文字がきざまれた金印が出土した。この金印こそ、光武帝が奴の国王に与えたものだ、とする説が有力である。金印には蛇の形のつまにがついているが、当時中国の皇帝は、国内の高官に与える印綬には亀のつまみ、西北の遊牧民の王に与えるものにはラクダや馬のつまみをつけ、南の国々には蛇のつまみを使うことが多かった。日本列島にすむ人々は、当時の中国から見て、南方の習俗をもっていると考えられていたのかもしれない。)(東京書籍「新選 世界史Bより)
T    奴国王が中国の皇帝に貢物を贈った目的は何ですか。
S    中国皇帝の権威を利用して、奴国の勢力を伸ばそうとした。
T    3世紀の「魏書」に邪馬台国の女王が魏に貢物を贈り、「親魏倭王」の称号と金印や銅鏡などを与えられたとありますが、女王の名前は何ですか。
S    卑弥呼と呼ばれていた。
T    邪馬台国は、日本のどこにあったと考えられていますか。
S    北九州説と畿内説です。
T    なぜこのような説が出てきたのですか。
S    「魏書」の記述には、邪馬台国の位置と道程が記述されており、位置から見れば北九州説が、道程から見れば畿内説が考えられる。
(最近の研究では畿内説が有力である。その理由としては、纏向遺跡の発掘調査が挙げられている。ところで、なぜ「魏書」では邪馬台国の方角を南と位置付けたのか。その理由は、魏の敵である呉を牽制する意図があったのではないかと考えられている。つまり、呉の後方に倭人の邪馬台国があれば呉に圧力をかけることができるからである。)
T    4世紀には大和政権が成立したが、この王権は中国や朝鮮の文化を取り入れて
国内統一をすすめた。また、3世紀後半から7世紀まで、大和を中心に前方後円墳などの古墳がみられるが、この時代を何と呼んでいますか。
S    古墳時代と呼んでいます。
T    5世紀には、中国の歴史書「宋書」によると倭の五王が南朝の宋に使者を派遣しているが、その目的は何ですか。
S    高句麗に対抗して朝鮮半島南部の支配権をみとめてもらうために中国南朝の宋に使いを出した。
(課題)
① 魏晋南北朝時代の歴史的変遷を簡単にしか触れていないがこれでよいか。もう少し 
 詳しく教える必要があるのかどうか。
② 魏晋南北朝時代の土地制度は均田制だけを取り上げ、官僚制度では九品中正法しか
 取り上げていないが、もう少し詳しく教える必要があるのかどうか。
③ この時代の仏教の発展や道教の成立についてどのように教えればよいのか。特に、道教についてはどのように取り上げればよいのか。
④ 朝鮮の歴史については、やはりまとめて教えたほうがよいのかどうか。
⑤ 日本の歴史についても、このような授業展開でよいのかどうか。
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2 魏晋南北朝時代の社会と文化

(魏晋南北朝時代は政治的には混乱した時代であったが、社会や文化の面では発展した時代であった。しかし、時間の制約もあり、土地制度については、魏の屯田制、西晋の占田・課田制には触れず、北魏の均田制のみ簡単に触れる。)
T    この時代の農民は、五胡の侵入や戦乱によって土地を失い、豪族の奴隷や流民になる者が多かった。これは各王朝にとってどのような問題をもたらしましたか。
S    税を負担する農民が没落して国家の財政が苦しくなった。
T    それでは、このような問題を解決するために、各王朝はどのような政策を行う必要があったでしょうか。
S    豪族の大土地所有をおさえて、農民を育てることによって税を確保する必要があった。
T    このような制度を導入したのが北魏であり、一定の土地を農民に均しく割り当てたので均田制と呼んだ。この制度は北朝をへて、隋や唐にうけつがれ、さらに日本にも影響を与えましたが、日本ではこのような土地制度を何と呼ばれましたか。
S    班田制です。
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(「東京書籍 新選世界史」より)
T    魏の時代に推薦制による官僚採用制度が実施されましたが、何と呼ばれる制度ですか。
S    九品中正法です。
T    この制度は、中正官を各地に派遣し、官僚を一品から九品に分け、すぐれた人物を中央の官僚に採用しようとした制度ですが、この制度でどのような結果をもたらしましたか。
S    有力な豪族たちがこの制度を利用して王朝の高官を独占し、子孫に引き継がれ門閥貴族となりました。
T    江南地方に東晋王朝が成立すると、このような貴族たちはどのような行動をとりましたか。
S    華北で五胡の支配を嫌って、農民とともに江南に移住する貴族たちが多かった。
T    その結果、江南地方の開発が進み、産業も発達して人口も増加しました。さて、南朝では、このような貴族たちが中心となった文化が発達しましたが、このような貴族文化を何と呼びますか。
S    六朝文化です。
T    六朝文化というのは、南朝に成立した六つの王朝をという意味ですが、南朝は、宋王朝を含めて四王朝が建国したといいましたが、東晋を入れても一つ足りませんね、後の王朝とはどこを指しますか。
S    三国時代に江南に建国した呉を指します。
T    さて、この貴族文化が隋や唐の文化に受けつがれていき、日本の文化にも大きな影響を与えたのですが、貴族文化とは具体的にどのようなものを指しますか、
S    詩・書道・絵画などです。
T    六朝文化を代表する詩人で、「帰りなんいざ、田園まさに荒れなんとす」という有名な「帰去来の辞」を詠んだ詩人は誰ですか。
S    陶淵明です。
T    皆さんの中に芸術で書道を選択した人はいませんか。六朝文化を代表する書道家で、唐や宋の時代にも、さらに日本の奈良時代にも書道の手本となった人物は誰ですか。
S    王羲之です。
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(「東京書籍 新選世界史」より)
T    教科書に「女史箴図」が載っていますが、これを書いた人物は唐代以降、名画の祖といわれました。さて、六朝文化を代表する画家は誰ですか。
S    顧愷之です。
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(「東京書籍 新選世界史」より)
T    さて、中国三大宗教とは何を指すか知っていますか。
S    儒教・仏教・道教です。
T    儒教はこの時代あまりふるわなかったのですが、仏教は発展しました。仏教はどこから始まったのですか
S    インドです。
T    仏教は漢の時代に西域から伝えられたが、この時代に戦乱と社会不安を背景にして広まった。東晋の人で、仏典を求めてインドを訪れ、『仏国記』を書いた人物は誰ですか。
S    法顕です。
T    仏教は、南朝では貴族を中心に信仰されたが、北朝では国家の統治と結びついて大規模に導入された。教科書に「雲崗の石仏」の写真が載せてありますが、中国の三大石窟寺院とは、雲崗以外に何を指しますか。
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雲崗の石仏(北魏の都平城の近くに、約1㎞にわたって53の石窟洞がつくられた。写真は第20洞の本尊で、高さ13.44m。現在は壁に柱の跡をのこすだけで、本尊は露出している。敦煌、竜門とあわせ、中国の三大石窟寺院とよばれる。)(「東京書籍 新選世界史」より)
S    敦煌・竜門石窟寺院です。
T    このような石窟寺院は、インドの影響を受けたものですが、それはどこですか。
S    アジャンタやエローラ石窟寺院です。
T    また、不老長生と現世の福利を説く道教が成立したのはこのころです。道教は北魏の誰によって宗教として成立したのですか。
S    寇謙之です。
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by YAMATAKE1949 | 2012-10-14 09:09 | Comments(0)
 私は、9月25日(火)に大阪歴史教育者協議会の世界史部会の9月例会で次のような題名で報告しましたので、皆さんにお知らせします。
「魏晋南北朝時代と東アジア(朝鮮・日本の動き)をどう教えるか。」
                          報告 大阪府立久米田高校 山本武志
(授業のねらい)
① 魏晋南北朝時代の歴史的変遷を簡単に把握させる。
② 北魏の均田制が隋・唐に受け継がれ日本にも影響を与えたことをおさえる。
③ 魏の九品中正により門閥貴族が成立したことをおさえる。
④ この時代に仏教が発展し道教が成立したことをおさえる。
⑤ 朝鮮半島では、前1世紀に高句麗が成立、4世紀には南部に百済・新羅が成立し朝鮮三国時代が成立したことをおさえる。
⑥ 中国の歴史書により、前1世紀から5世紀までの倭国の歴史をおさえる。 
(教材など)
① 教科書…「東京書籍 新選世界史B」
② プリントNO10
③ 掛け図(アジア)
④ 写真パネルなど
(授業時間) 約1時間半
(授業展開例)
私はできるだけ生徒に発問しながら授業を進めていくが、もちろん時間が足りないときはその限りではない。ここで紹介している教師と生徒のやりとりは実際のものではない。生徒はこのようになかなか答えてくれない。なかなか答えが出てこない問題や、私が重要と思う問題については、一点問題として答えた生徒には平常点にプラスする。
1 三国時代と遊牧国家の興亡
(三国時代は、小説・マンガ・映画などで興味をもっている生徒もいるが、授業では詳しくは触れない。我々が知っている三国志は明の羅貫中が著した小説「三国志演義」によるものであり、蜀を中心としたものである。この時代の正統な歴史書は、陳寿の著した「三国志」であり、魏を正統とし、魏志にのみ帝紀を設けている。)
T(教師) 後漢末に大きな農民反乱が起こりましたが、なんという反乱ですか。
S(生徒) 黄巾の乱です。
T   この反乱を契機として有力な豪族が各地に王朝を立てましたが、教科書の地図を見ながら、華北・四川・江南に生まれた王朝名を答えてください。
S   魏・蜀・呉です。
T   この時代を何と呼びますか。
S   三国時代です。
T   三国の中で最も強力な国はどこですか。
S   魏です。
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(「東京書籍 新選世界史」より)
T  魏は蜀を滅ぼしたが、魏の将軍であった司馬炎が魏を倒し、晋を建国した。その後晋は呉を滅ぼし中国を統一した。しかし政権をめぐる対立が続き、華北に移住していた民族に晋は滅ぼされたが、何という民族ですか。
S   匈奴です。
T   これをきっかけに「五胡」とよばれる北方、西方の諸民族が侵入したが、「五胡」とは具体的にどのような民族ですか教科書を見て答えなさい。 
S    匈奴・羯(けつ)・鮮卑(せんぴ)・氐(てい)・姜(きょう)です。
T    西・北方から伝わった文物には漢字の「胡」という字があてられていますが、
     どのようなものがありますかあげなさい。
S    胡瓜・胡麻・胡坐などです。
T    五胡が華北に侵入して各地に十六の小国を建国しましたが、この時代を何と呼びますか。
S    五胡十六国時代です。
T    このような異民族の侵入に対して晋の一族が江南にのがれ、都を健康とする王朝を建国しましたが、この王朝を東晋と呼び、以前の晋を西晋と呼んだ。さて、建康とは、現在のどこに当たりますか、地図を見て答えなさい。
S    南京です。
T    東晋はその後、宋など四王朝が建国した。さて、5世紀に東の国から五人の王が宋に使者を派遣していますが、どこの国ですか。
S    倭の国です。
T    華北では5世紀に、五胡の一つの鮮卑がたてた北魏によって統一され、江南の宋と対立したがこれ以後、隋の統一までの約150年間を何時代と呼びますか。
S    南北朝時代です。
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(「東京書籍 新選世界史」より)
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2 産業革命とイギリス社会
1)イギリス産業革命の背景
 イギリスで産業革命がおきたのは、17世紀の市民革命のあと経済活動の規制が少なくなり、資本主義的な生産活動が進展したからであった。
 地主達は農業革命によって人手が少なくてすむ効率的な農業を営み、第二次囲い込み(エンクロージャー)によって土地を追われた農民が都市に移って労働者になった。
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農業革命(「百科全書」さし絵)18世紀、従来の三圃制にかえてクローヴァーを順番に植え、農地の栄養分を高めて収穫を増やした。農業機械の改良も進んだ。上図手前右側は手押しの種種まき器、その左、馬が引いている大型の犂は土を深く耕すことができた。(東京書籍「新選世界史」より)
2)奴隷貿易の拡大
 アフリカとアメリカを結ぶ三角貿易は、綿工業の発展でさらに拡大した。カリブ海域や、アメリカ植民地の原綿生産には黒人奴隷が使われたので、イギリスの原綿輸入が増えると、奴隷の需要も増大し、イギリスの奴隷貿易は一層拡大した。映画「風と共に去りぬ」の南部農場主の豪奢な生活は、イギリスの産業革命のおかげであり、このような奴隷の犠牲の上に成り立っていた。
3 新しい工業と新しい交通
1)新しい工業の発達
 綿工業の発展は、紡績や綿布などの機械の製造、またその素材を生み出す製鉄業を盛んにした。これらの産業ではワットによって改良された蒸気機関の利用が一般化していったので、膨大な石炭が必要となった。蒸気機関を発明したのはイギリスのニューコメンであり、彼は鉱山採掘ででてくる水をくみ上げるポンプのために蒸気機関を発明したのである。しかし、石炭の消費量が莫大で熱効率が低かったため、ワットの蒸気機関に取って代わられた。
 こうしたなかで、さまざまな種類の鉄を鉄鋼石から製造する技術や、石炭からコークスや都市ガスを作り出す技術も生まれ、重工業が発展した。

2)新しい交通の発達
 1830年には、スティーヴンソンによって実用化された蒸気機関車が、マンチェスターとリヴァプールの間を結んだ。鉄道が最初に営業された場所が首都ロンドンではなく、綿工業の中心地であったマンチェスターと港であるリヴァプールに開通されたことは、産業革命が綿工業から始まったことを象徴している。
 鉄道は大量の貨物と旅客を高速で運んだので、急速にイギリス国内に鉄道が整備された。蒸気機関を利用する船も、19世紀の初めにアメリカ人フルトンによって実用化され、19世紀のなかばには蒸気船が普及した。
 私のブログの「歴史のとびら」に『蒸気機関車を発明したのは誰か。』というタイトルで、書いていますが、蒸気機関車を発明したのはスティーヴンソンではない。また、蒸気船もフルトンが発明したのではなかった。彼らが有名となったのは事業で成功したからであり、初期の発明家の失敗の犠牲の上で成功していったのである。
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イギリス鉄道網の発展
 次回の第28回世界史講座は、10月27日(土)2時から「「世界の工場と世界」「社会問題の発生」をテーマにおこないます。
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 第27回世界史講座は、10月6日(土)午後2時より「「産業革命」をテーマにおこなわれました。ここからはいよいよ3年生の授業となります。受講者は7名でした。
 Ⅰ 産業革命
1 産業革命
1)三角貿易(イギリスの資本の蓄積)
 17世紀後半以降、ヨーロッパから綿布やガラス細工、武器などの工業製品がアフリカにおくられ、ここから黒人奴隷が南北アメリカにおくられ、南北アメリカから砂糖やタバコ、綿花がヨーロッパに向かう、三角貿易が成立した。ヨーロッパ諸国、ことにイギリスはこの貿易で大きな利益を得た。
 三角貿易は18世紀を通じて発展し、イギリスから大量に輸出できる綿布が必要になった。そこで綿工業が成長していったのであった。
 古代からアジアで利用されていたインド原産の綿布は、インドがイギリスの植民地となった17世紀以降、イギリスで歓迎され、毛織物産業を圧迫して17世紀末には輸入が禁止された。綿布は安くて丈夫で染色が容易で、しかも汗を吸い取るという利点があった。イギリスで綿布が下着として利用されたおかげでイギリス人の寿命が延びたとも言われている。綿布の需要はイギリス本国だけでなく、イギリスの植民地にも広がった。
 カリブ海などで生産された原綿が運ばれ、イギリスで加工されるようになったイギリス製綿布の輸出は急速に延び、原綿の輸入が増大した。原綿の輸入が増えると織布の作業に機械化が進み、18世紀後半にはワットが改良した蒸気機関を使った織機まで開発された。
2)綿工業の技術革命
 1733年にジョン・ケイが飛び杼を発明すると布を織る速度が従来の2倍になった。そのため原料である糸が不足するようになった。そこで1764年にハーグリーヴズがジェニー紡績機を発明すると、糸を紡ぐ速度が6~7倍になった。さらに1769年にはアークライトが水力紡績機を発明すると、紡ぐ速度が600倍になり今度は糸があまってきた。そこで1785年にカートライトは力織機を発明し、蒸気機関を利用することで大量の布の生産が可能となった。
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(「最新世界史図説 タペストリー」帝国書院より) 
  
 
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