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(白水社「ジャンヌダルクの実像」より)
[7]
おわりに
 「フランスを救え」として現われたジャンヌは何を意味するのか。私は、フランス人としての意識、つまりナショナリズムの芽生えをあらわしているのではないかと考えている。これに対し、ナショナリズムが生まれるのはもっとあとのことである。むしろイギリスを追い出したことにより、結果としてジャンヌがナショナリズムの象徴とされたのであるという批判もある。
 さて、フランス王権は神から与えられたものであるというジャンヌの思想は、のちの王党派や右翼に影響を与え、彼らはジャンヌを高く評価する。しかし、第二次大戦でナチスの支配下におかれたフランスでは、民衆のレジスタンス運動の心の支えとなったのもジャンヌであった。このようにジャンヌはフランスの右翼から左翼にいたるあらゆる人たちに人気がある。そして、彼女の銅像はフランスのいたるところに見られるという。それだけではない、今では民族運動の犠牲となった若い女性のことを「どこそこのジャンヌダルク」と呼ぶように、その名は世界中に広がり愛されているのである。
 〔参考文献〕
 清水正晴『ジャンヌダルクとその時代』 現代書館 1994年
 堀越孝一『ジャンヌダルクの百年戦争』 清水新書 1984年
 村松剛『ジャンヌダルク』中公新書 1967年
            (山本武志)
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(白水社「ジャンヌダルクの実像」より)
(解説)
 イギリスがジャンヌを買い取り、宗教裁判にかけて異端として処刑しなければならなかったのは、政治的な理由からではないか。シャルルをフランス国王に導いたジャンヌが異端であれば、シャルルの国王としての正当性は失われる。それでは、教会はなぜジャンヌを異端として火刑に処したのか。
 (ジャンヌダルク⑧)の史料は、ルーアンでの宗教裁判において、ジャンヌが異端とみなされるにいたった十二の理由が述べられたものである。この史料を生徒に読ませ、なぜこれが異端の理由となったのか、またそのなかでどれが重要であるかなどを考えさせる。
 このなかで最も重要なものは、十一ヵ条と十二ヵ条であろう。ジャンヌは聖職者の仲介なしに「神の声」を聞き、教会の教えよりも自分の神に従おうとしたのである。もしもこれを許せば教会の権威は否定されてしまう。だから教会は、ジャンヌに対し最後まで教会に従うことを説き、一時はジャンヌも教会に従おうとしたが、結局、彼女は自分の「神の声」に従って死んでいった。このようなローマ教会の絶対的な権威に対する攻撃は、やがてウイクリフやフス、そして16世紀のルターの宗教改革へとつながっていくのである。 最後に、この頃なぜジャンヌのような少女が現われてきたのか、そしてこれに対する教会の立場について、堀越氏は次のように述べている。
 「ここに、ジャンヌの謎を解くひとつの視点がある。当時、世論形成に重要な役割を果たした大衆説教師たちのうち、ヴァロア王権を擁護する立場から王国の平和を説いた説教師の炎のことばにうたれて、狂熱の確信に走った娘たちがおおぜいいたであろう。ジャンヌもそのひとりである。ジャンヌの謎は、じつに民衆宗教運動という視角から説かねばならないのである。ところで、このような、いわば熱心党は、制度としての教会の立場から見れば、はなはだ危険な存在であった。各人がおのれ自身の神を奉じて、神の国の到来を説くならば、どうして教会の統制が可能だろうか。すでに大衆説教師にしても、信仰の純粋さを訴えることに熱心なあまり、聖職者の生活の乱れをことさらにあげつらい、教会組織の腐敗を攻撃することによって、大衆の人気を得ていたのである。今ここに、神の命令を直接受けたと主張するひとりの娘が現われた。しかも、これがヴァロア王権の利用するところとなり、世間に広く知られるにいたった。教会はこれを断罪せざるをえない。これを許すことは、第二、第三のジャンヌの出現を許すことを意味し、ひいては、神と一般信者を仲介する機関としての聖職者の組織である教会の崩壊は必然となる。いわば、地上の教会の存在する根拠が、小娘ジャンヌの純な信心によってためされたのである。ジャンヌの問題は、政治の介入する以前に、すでに教会内部の問題であったのである。」(前掲書)
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(白水社「ジャンヌダルクの実像」より)
[6]
なぜジャンヌは魔女裁判にかけられて処刑されたのか
(史料)法廷の意見書
一、天使、聖女らを幻視したと主張したこと。
二、大天使ミカエルから王冠を与えられたと主張したこと。
三、キリストへの信仰と同等に、天使、 聖女を信仰すること。
四、未来を予見しえ、いまだ見ぬ人を 見分けられると主張したこと。
五、男装、男髪のこと。ならびに、その姿態で聖体を拝受したこと。
六、手紙にイエス、マリア、十字の印を記し、これに従わざる者は、うんぬんと記述したこと。
七、父母を見捨て、シャルルに王国の再建を約束したこと。
八、塔からとびおりて、死を企てたこと。
九、処女性を保つならば天国が約束されると、聖女カトリーヌ、聖女マルグリードが語ったと主張したこと。
十、両聖女はイギリス側ではないから英語を話さないと主張したこと。また、ブルゴーニュ派をきらったこと。
十一、聖職者の仲介なく信仰すること。
十二、教会を認めぬこと。 (堀越孝一編『世界の歴史(5)中世ヨーロッパ』社会思想社教養文庫)
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(白水社「ジャンヌダルクの実像」より)
[5]
なぜジャンヌはコンピエーニュで捕らえられたのか
 オルレアンを解放したジャンヌは、ランスでの国王戴冠式を急いだ。その理由をペルヌー氏は次のようにのべている。「人を国王にするもの、それはカペ王家以来の伝統のランスの教会で行なわれてきた、国王の身を神聖化する聖別の儀式である。王太子シャルルが聖別されれば、一般大衆の中にはもはや迷いはありえない。今はまだ彼女自身もシャルルを(王太子)としか呼べないのであり、シャルルが彼女にとって(国王)となるのは聖別・戴冠の儀式を終えてからのことである。」と。そして、ランスでの戴冠式を終えたシャルルは、フランス国王シャルル7世と名乗った。その結果、北フランスの各地の都市もブルゴーニュ派からフランス国王派へと変わっていった。
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(白水社「ジャンヌダルクの実像」より)
 このようにジャンヌを利用して、神から与えられた正統なフランス国王としての権威をもったシャルルは、ジャンヌを遠ざけるようになった。その理由としては、シャルル以上に人気をもったジャンヌに対する嫉みといわれているが、もっと他に重要な理由がある。それは、戦略上の対立である。現実主義のシャルルは、ブルゴーニュ派とはできるだけ争いを避けようと考えていた。しかし、「フランスを救え」という「神の声」に従って、ただ勇敢に戦うことを主張するジャンヌとは意見があわなかった。その結果、ジャンヌはしだいに孤立していった。
 シャルルとブルゴーニュ派の休戦の間に、ブルゴーニュ派は、コンピエーニュを包囲していた。そのためジャンヌは国王に戦闘の許可を受けずに、わずか200名の兵士を率いてコンピエーニュに向かい、ここでジャンヌは捕らえられたのである。
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(白水社「ジャンヌダルクの実像」より)
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[4]
王太子シャルルがジャンヌを利用したのか
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(白水社「ジャンヌ・ダルクの実像」より)
 『ジャンヌ・ダルクの実像』(白水社)の地図によると、ヴォクルールから王太子のいるシノンまで、主要国道を使って最短の道を通っても500キロ近くある。このあたりはブルゴーニュ軍やイギリス軍の支配地であり、おそらく危険な地域を避けて間道を通ったであろう。その大変な距離を11日間で踏破したのだから、かなりの急ぎの旅であった。最近の研究によると、この旅を準備したのは王太子ではないかと考えられている。この頃、ジャンヌの噂はかなり知れ渡っていたようで、シャルル王太子は、自分がフランスの王になるのは神の導きだといった、後の王権神授説につながる権威を得るために、ジャンヌを利用したのではないか。という説を堀越氏は主張する。
 ジャンヌが200名の従者を与えられ、軍旗や白馬や甲冑や剣などすべてめだつものが与えられたのは、一種の宣伝隊ではなかったか。このようなジャンヌの効果が発揮されたのが、オルレアンの戦いであった。オルレアンは北フランスにおける王太子側の拠点であり、イギリス軍はここを包囲していた。この囲みを突破するためにジャンヌが派遣されたのである。神の導きによって戦っていると純粋に信じ込んで、死を恐れないジャンヌに刺激されたオルレアンの軍隊や市民は、ジャンヌとともに戦い、ついにイギリス軍を追い出すのである。オルレアンの市民はジャンヌに感謝し、解放された日を記念して、今でも5月にはジャンヌのためにお祭りがおこなわれている。
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[3]
ジャンヌの生まれたドンレミとはどんな村で、なぜ彼女は「神の声」を聞いたのか。
(資料)
 「ドンレミは、神聖ローマ帝国とフランス王国の支配権が複雑にいりくんだ境界地域を流れるムーズ川の上流に沿った小さな村である。…14世紀はじめに、フランス王領となり、…政治的にはきわめて不安定な立場におかれることになり、治安が悪化して、周囲の武装勢力に掠奪される危険が増大するようになりつつあった。…1420年代にはいると、シャンパーニュ地方の大半はブルゴーニュ派の制圧下におかれるようになり、…ブルゴーニュ派の代官が常駐して、周辺の掃討をはじめていた。ドンレミからムーズ川に沿って約20キロ下流にある要衝ヴォクルールは、14世紀のはじめから王領となった城塞で、ボドリクールが領主の地位にあった。…彼はパリのイギリス占領政権に対して激しい抵抗をつづけていたから、近いうちにイギリス軍の一斉攻撃がおこなわれるという噂がながれるようになった。そうなれば、ドンレミのあたりも軍に蹂躙され、掠奪をうけるにちがいなかった。村の人々は、不安におののきながら生活していた。(清水正晴『ジャンヌダルクとその時代』現代書館)」

(解説)
 この村でジャンヌは13歳のときに「神の声」を聞いたといわれる。そしてその声は「おまえはフランスを救うためにシノンへおもむかなければならぬ。フランスの王冠を、イギリスの魔手から救わなければならぬ。そのためにおまえは天上の主に選ばれたのだ」そう語りつづける「声」は、ほぼ5年間ものあいだつづいたといわれる。なぜ「神の声」は、シャルル王太子がフランス王になることがフランスを救うことになると説いたのか。パリの市民たちは、イギリス王がフランス王を兼ねることにより、長年の戦争を終わらせることができると喜んだのに。この「神の声」は何を意味するのだろうか、私は次のように考える。
 封建社会の時代には、自分たちはフランス人であるという意識はおそらくなかったであろう。しかし、領主制が崩れていくとともに、経済の発達はしだいに孤立分散していたフランス社会のなかで、フランス人としての自覚が芽生えてきたのではないか。そのような意識は、イギリス人と戦い、しかも敵に囲まれたフランス王領のドンレミの村ではより一層強かったのではないかと想像できるだろう。こうした状況のなかで、ジャンヌは「神の声」に従い、ボドリクールを説いて王太子のいるシノンへと旅立ったのである。
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 前回のまとめでボストン茶会事件について話をした。私は授業ではいつもこのときに「アメリカンコーヒー」の話をする。イギリスから渡ってきた植民地の人たちも、当時は紅茶をよく飲んでいた。しかし、東インド会社に茶の独占販売権を与えたことに対して、反発した植民地の人たちは紅茶をボイコットし、紅茶の代わりにコーヒーを飲むことにした。そのため、アメリカのコーヒーは紅茶に似せて薄くして飲んだと言う話をどこかの本で読んだことがある。本当にその話は正しいのか、知っている人がいればぜひ教えてほしい。
2 独立戦争
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(東京書籍「新選世界史B」より)
1)戦争の勃発
 1774年、フィラデルフィアに植民地の代表が集まり、大陸会議が開かれた。翌年、ボストン郊外のレキシントンで独立戦争が勃発した。大陸会議は、ワシントンを総司令官に任命し、1776年、7月4日には、ジェファーソンが起草した独立宣言を発表した。この宣言には、イギリスの思想家ロックの抵抗権の主張をはじめ、基本的人権や民主主義の思想が書き込まれた。
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
 アメリカの独立記念日が7月4日と定められたのは、「独立宣言」が出された日に由来している。
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2)独立への動き
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(東京書籍「新選世界史B」より)
 18世紀、ヨーロッパの七年戦争に先だって、北アメリカでフレンチーインディアン戦争がおき、勝利したイギリスはフランス領カナダを得た。イギリスは戦争で財政が悪化したため、北アメリカ植民地から税をあつめることとし、1765年にイギリス議会が印紙法を定めると、本国議会に代表をおくっていない植民地の人々は、「代表なくして課税なし」と主張して反対した。その後、本国政府は、財政難にあった東インド会社に北アメリカ植民地での茶の独占販売権を与えた。これに反発した市民は、ボストン茶会事件をおこした。本国政府はボストン港を封鎖したため植民地との対立は深まった。
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(東京書籍「新選世界史B」より)
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 第29回世界史講座は、11月10日(土)午後2時より「アメリカ合衆国の成立」をテーマにおこなわれました。受講者は4名でした。
  Ⅱ アメリカ合衆国の成立
1 北アメリカ植民地
 1)イギリス13植民地の成立
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(帝国書院「タペストリー」より)
 17世紀の北アメリカ大陸には、オランダやフランスが植民地建設をしていたが、中心となったのがイギリスであった。イギリスの初期の移住者には信仰の自由を求めてやってきたピューリタンが多かった。個々の植民地には議会が生まれ、住民の自治が行われた。18世紀前半には、13の植民地が成立した。北部の植民地には自営農民が多かったが、南部では黒人奴隷を利用してタバコを栽培する大農場もあった。
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18世紀中ごろのアメリカ(帝国書院「タペストリー」より)
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[2]
フランス王位継承をめぐってどのような問題があったのか
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(英仏王家の関係系図)(浜島書店「アカデミア世界史」より)

 王位継承問題は、フランスのカペ王家からヴァロア王家への継承に対し、イギリスのエドワード3世が王位継承権を主張したことから始まった。しかし、ジャンヌの時代におけるシャルル6世の後継者をめぐっても問題が起きたのである。「シャルルの母は、浮気の王妃イザボオであり、父親は狂人王、シャルル6世ということになっている。ところが母后イザボオは、この王太子を自分が不義によって生んだ私生児であるといい、したがって王位継承権を否認されたのである。他方、イギリス王ヘンリー5世とフランス王女カトリーヌの結婚に際し条約が結ばれ、イギリス王は、狂人王シャルルの死後は、フランス王を兼ねることになっていた。パリの最高法院は条約を認め、当時フランスの宗教界に君臨していたパリ大学も、これに賛意を表した。ヘンリー5世がカトリーヌをともなってパリに行ったとき、市民はこの昨日までの敵を、歓呼して迎えた。それは、英仏連合王国の形成によって、長い戦乱に終止符が打たれるという期待が、市民たちにはあったのだろう。」(村松剛『ジャンヌダルク』中公新書)
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