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(帝国書院「タペストリー」より)
      【3】
 ミケランジェロの『ダヴィデ』は自由都市フィレンツェにとってどのような意味を持っているのか
(資料1)
 ミケランジェロは、いま、生きている。うたがうひとは、「ダヴィデ」を見よ。
 ダヴィデは少年である。かれが怪物ゴリアをたおす決心をつげたとき、ひとびとはかれをとめた、が、確信をもったかれは、一本の石投げに石をもっただけで、ゴリアにむかって行った。そして、少年ダヴィデはついに怪物ゴリアを倒した。
 ミケランジェロの『ダヴィデ』は、ルネサンスの自由都市国家フィレンツェの中央広場に、その議会の正面の階段をまもって、立っている。身には一糸をつけず、まっしろの大理石のまっぱだかである。そして左手に石投げの皮を肩からかけ、ゴリアを倒すべき石は右手にしっかりとにぎっている。左足はまさにうごく。身よ、かれの口はかたくとざされ、うつくしい髪のしたに理知と力とにふかくきざまれた眉をあげて眼は人類の敵を、民衆の敵を凝視する。
 それは当時、一の国家をなしていたフィレンツェ自由都市の市民民衆の代表者数千人が、かれらの愛する国家の政治をかれらの国民の手で自ら処理するために、内には専制者が起こり来るすきをあたえず、外には侵略者をふせいで、かれらの自立の政治を擁護し発展させるために、活気あふれて集会し、議決し、実行にうつった広場である。ながい中世封建の圧制の暗い世界からついにそこからぬけだした人類が新しい世界にむかって、新しい社会にむかって進歩をはじめた、その先頭に立って走ってゆくルネサンスの花フィレンツェの自由独立の市民。そのフィレンツェ国家の自立がいくたびか危うくされた時には、かれらはいかにうれいをもって、しかし強い決意にもえて、この広場に集まったことであろう。いな、専制者また侵略者たちの攻撃にたいして、祖国の自由独立をまもる積極的の行動のために実力をもって起こった市民が、あらしのようにこの広場にみちあふれたことさえ、いくたびかあった。しかしまた、平和のもとに繁栄のなかにフィレンツェの自立が一歩一歩成長して行くとき、かれらはいかによろこびにさけびつつ、はなやかな祝いまた祭りに、花さくようにこの広場にむらがったことであろう。そうした群衆のまっただなかに、そのフィレンツェ自由都市の市民より選挙せられて成立していた最高政府シニヨリアの政庁および議事堂パラッツォ・ヴェッキオの正面に立つミケランジェロの『ダヴィデ』。かくのごとく美しいものが、この世にあり得るのか。これこそ、まことの芸術の限りなき美しさである。(羽仁五郎著『ミケランジェロ』岩波新書)
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(中公新書「フィレンツェ」より)
 1494年、フランス王シャルル8世が南イタリアのナポリ王国の王位継承権を主張してイタリアに侵入して以来、イタリアは常にフランス・スペイン・ドイツの争いの場となった。このような戦争を引き起こしたのは、イタリアの政治的分裂と経済的繁栄が絶対主義国家への道を歩む外国君主の欲望をあおりたてたからである。このころのイタリアは、史料や地図にもあるように、教皇領・ナポリ王国・フィレンツェ共和国・ヴェネチィア共和国・ミラノ公国の5大勢力に分かれ、ルネサンスの繁栄期であった。
 この時期のフィレンツェでは、ロレンツォの子ピエロの代になっていた。彼はフランス軍の来襲に驚き、フランスの要求する賞金や要塞の明け渡しなどを認めてしまったため、激昂したフィレンツェ市民はピエロに反対して立ち上がった。そのためピエロは一族の者とともにフィレンツェから逃げ出した。メディチ家の逃亡後、フィレンツェを支配したのが修道士サヴォナローラであった。彼はフランス軍と交渉し、フランス軍が去った後に「神政政治」を開始した。彼は、市民に修道士のような禁欲的な生活を要求した。このような政治はフィレンツェでは長続きせず、1498年に市民の手によって処刑されてしまった。サヴォナローラの影響を受けたミケランジェロは、このころ『ピエタ』を製作したが、それは殉教したサヴォナローラをあらわしたものであるといわれている。
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(ルネサンス期のイタリア)(帝国書院「タペストリー」より)
    【2】
 フランス軍の侵入はフィレンツェに何をもたらしたか
(史料2)シャルル8世のイタリア遠征
 少し前にアルプスを越えたシャルル8世の軍隊は、王自身の指揮のもとにイタリアに侵入した。この軍隊は多数の重装備兵・歩兵・砲兵からなっていたのであるが、イタリアではまだ見られない規模のものであった。この軍隊はあたかも猛火のように、また黒死病のように全イタリアに広がったのであるが、これはイタリア諸国の支配権力のみならず、統治形態・戦闘方法までも変えてしまったのである。というのも、最初イタリアは5大勢力、すなわち教皇領・ナポリ・ヴェネツィア・ミラノそれにフィレンツェに分かれていたのであるが、これらの諸国家のお互いの目的とするところは、現状維持ということにあった。
 各国とも一国が他国の領土を奪って、より強大にならないように監視し、政治局面における些細な変動にも細心の注意をはらい、どんな小さな城でもその支配者が変わったとなると大騒ぎをしたものであった。たとえ戦争が勃発しても、各国の力が平均しており、軍隊編成に手間取り、砲兵の動きが緩慢であるので、わずか一城を包囲するのに一夏かかる始末であった。戦争は長期にわたり、会戦はごく少しの損失ですむとか、または全く損失なしに終結するのである。
 ところが今やフランス軍の侵入によって、まるで突風が一過したあとのように、万事すべてが大混乱におちいってしまったのである。イタリアの支配者たちが、結んでいた協定は破棄され、彼らの共通の利害をめぐる関心はついえてしまったのである。どのように諸都市が、または公国が、また王国が撃破されたかを目の当たりに見聞した各国は、狼狽して自国家だけの安全しか考えないようになった。そして隣家に火のつくことが、とりもなおさず自分の国の破滅へと連なるものであることを忘れていたのであった。今や戦いは即決戦で、また熾烈なものとなり、王国はかっての一村落よりも早く荒廃にさらされ、また征服されるようになった。
 都市の包囲もまたたくまに完成され、それまでは月数をもって数えられていたのが、今では日、時間が単位となるようになった。これまでの微妙な交渉や、外交折衝の小手先だけの器用さではなく、今では、戦場における用兵作戦と兵士の拳のみが国家の運命を決定するようになったのである。(野上素一訳『西洋史料集成』平凡社)
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
 ミケランジェロ(自由都市フィレンツェの芸術家)②で紹介した史料は、花の都といわれたフィレンツェの14世紀前半における繁栄の様子を、当時の年代記作家ジョヴァンニ・ヴィルラーニのフィレンツェの『年代記』より引用したものである。
 この都市は史料にもあるように毛織物産業が盛んで、12世紀にはすでにイタリアの有力都市に数えられていた。13世紀には、封建貴族の勢力を駆逐することができ、全市民が各々の組合より市政委員を選出する共和政治を実現した。また、農奴制廃止宣言をおこなって、勢力圏下の農民を解放した。ヴェネチアなどの商業都市とは違い、工業の盛んなフィレンツェでは、勤労大衆の勢力が強く、大商人などに支配されることなく、職人・親方を中心とする小市民は大商人・金融業者などの大市民と争った。この対立は市政を掌握しようとする商業資本家と比較的独立的な地位を獲得しつつあった小商人や小生産者との闘争でもあった。
 この小市民勢力は順調な成長をつづけ、14世紀中ごろには、市の最高行政委員を各組合から平等に選ばせることに成功した。さらに1378年チオンピ(下層労働者)の乱が起こり、彼らの組合加入と市政参加が大幅に認められた。このようにしてフィレンツェの民主政は発展し、市民の間には自由な精神が尊ばれた。そして、封建的な束縛からの解放をめざそうとする市民のエネルギーは、他のどの都市国家よりも大きなものとなってルネサンス文化を生み出していったのである。
 しかし、15世紀になると販売を独占する大商人で金融業者であるメディチ家がしだいに市政を独占するようになっていった。メディチ家の基礎をつくったジョヴァンニは、教皇の管財人であり、遺言執行人でもあった。その息子のコジモの時代には、メディチ家の取引先は、ヨーロッパのみならず、遠くアフリカ、アジアにまでおよび、メディチ家の貸し付け帳簿には、教皇、枢機卿をはじめ、フランスの国王、ドイツの貴族、スペインやポルトガルの王侯も名を連ねていた。フィレンツェにおけるメディチ家の独裁体制の基礎を固めたのはこのコジモである。彼のあとをついだピエロは早く世を去り、その子ロレンツォが立派な後継者としてフィレンツェの独裁者として君臨し、世に豪華王と呼ばれた。
 ミケランジェロは、ロレンツォの保護を受け、彼の所有する「メディチ家庭園」のコレクションの中で彫刻作品を研究するのである。そしてこのころ製作されたのが、『階段の聖母』や『ケンタウロスの闘い』である。
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(帝国書院「タペストリー」より)
  <課題>
① ルネサンスの中心となったフィレンツェとは、どのような都市であったのか。
② ミケランジェロをとおしてルネサンスとは何であったかを考える。
  <資料と解説>
    【1】
 自由都市フィレンツェはどのようにして発展したのか
(史料1)『ヴィラーニの年代記』(14世紀後半のフィレンツェ)
 この時代(14世紀)には15歳から70歳までの武器をとりうる2万5000の男子(これらはすべて市民)がいるのを喜ばしく思う。・・・また毎日消費されるパンの量から推して理解されるように、フィレンツェ市内では男・夫人・子供あわせて9万人の人口が計上される。・・・羊毛組合の店舗は200軒以上あり、120万金フロリンに値する7~8万反を取り扱う。この総額のうち、3分の1は、羊毛工業労働者への収入となり、これは3万以上の人間の生計を支える。30年以上前には、300軒ほどあった店で年10万ドゥカーティに相当する羊毛地が生産されていた。しかし、これらは粗雑なもので、値も今の半分にしかならなかった。というのは、当時は現在のように英国原毛が輸入されもしなかったし、製法も知られていなかったのである。外国生地を加工する組合の店は20軒をかぞえ、取り扱う布地は30万金フロリンにあたる1万反以上に達する。これらすべてはフィレンツェ市内で売り捌かれるものであって、他所に輸出される分は含まれていない。両替商は80軒ある。また鋳造される金貨は35万金フロリン(時には40万金フロリン)に達し、4種の少額貨幣は年に約2万リブル鋳造される。裁判所は80あり、公証人は600に達する。内科医、外科医あわせて60人いる。香料店は100軒をかぞえ、商店や市場の数は無数である。各種靴屋の店は数え切れない。(野上素一訳『西洋史料集成』平凡社)
 
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
<生涯>
 ミケランジェロは1475年3月6日、フィレンツェに生まれた。彼の祖父も父もフィレンツェの高官を歴任した名士であり、5人兄弟の2番目の子であった。母はミケランジェロが6歳の時に亡くなった。学校へやられたが、絵ばかり描いていたので13歳になるとギルランダイの工房に徒弟入門した。翌年、ロレンツォ・ディ・メディチが開いていた彫刻学校に入った。ここで最初の作品である『階段の聖母』・『ケンタウロスの闘い』が製作される。
 1494年、フィレンツェを実質的に支配していたメディチ家は市民により追放され、代わって権力を握ったのは修道士サヴォナローラであった。彼は腐敗した教会を批判するとともに徹底した禁欲主義を説いて独裁政治を行ったが、しだいに市民の反発にあい1498年に処刑される。ミケランジェロはサヴォナローラの影響を受けており、このころの作品『ピエタ』は、キリストをサヴォナローラにみたてたものだといわれている。そして、共和政が復活したフィレンツェ市民の要請で、1504年には『ダヴィデ』を完成した。さらに、ローマ教皇の要請で『システィナの天井壁画』を製作する。
 フィレンツェでは、1512年からメディチ家の支配が復活していたが、1527年にカール5世の皇帝軍がイタリアに侵入すると、市民は蜂起して再びメディチ家を追放して共和政を復活した。1529年にミケランジェロは「戦争十人委員会」の司令官に任命された。戦争は1530年8月12日に市民側の敗北として終結し、フィレンツェはメディチ家世襲公国となった。ミケランジェロは逮捕されず、その後ローマ教皇のもとで働き、1541年には『最後の審判』を完成した。彼の創作活動はさらに続けられたが、1564年4月28日に89歳でこの世を去った。
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4)ジャコバン派の独裁
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
 国内でも革命政府に反対する暴動が各地に起こり、革命は危機的な状況におちいった。1793年6月、貧困な都市民衆に支持されたジャコバン派が、民衆運動を警戒するジロンド派の議員を国民公会から追放し、公安委員会を中心とする独裁政治をはじめた。ジャコバン派は、貧困な人々の要求を入れて、封建的特権の無償廃止を行った。これによって多くの農民は自分の土地を手に入れることができた。また、生活必需品の価格統制を行い、同時に徴兵制を強いて軍隊の増強をはかった。また、西暦にかえて革命暦を採用した。
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
 これらの政策を強力に実行するために恐怖政治が行われ、多くの反対派が処刑された。商工業者や土地を手に入れて保守化した農民は、ジャコバン派の独裁をきらった。
 ロベスピェールなどの独裁政治の指導者は孤立し、逮捕・処刑され、恐怖政治は終わった。これをテルミドールのクーデターと呼ぶ。
次回の第31回世界史講座は、1月12日(土)午後2時から、「ナポレオンの帝国」をテーマに行いますので、多数参加して下さい。
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3)革命戦争
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東京法令「世界史のミュージアム」より)
 オーストリアとプロイセンがピルニッツ宣言でフランス革命を非難したので、革命政府は1792年、オーストリアに宣戦したが、フランス軍は敗退をかさねた。議会の呼びかけに応じて各地から義勇兵が集められたが、この時にマルセーユの義勇兵を鼓舞するためにつくられたのが現在の国歌である「ラ・マルセイエーズ」である。1792年8月10日、義勇兵とパリ民衆は、国王が外国と通じていると考えて王宮に乱入し国王を捕らえた。議会は王権の停止と普通選挙による議会の招集を決定した。ここに初めて男子普通選挙が行われ、国民公会が成立した。1792年9月、国民公会の成立した日、革命軍はヴァルミーの戦いで勝利をおさめた。私は、生徒に対して、プロイセン軍に参加していたゲーテがこの戦いを見て『ここから、そしてこの日から世界史の新しい時代が始まると述べた。』とあるが、なぜゲーテはこのような発言をしたのかを考えさせる。
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
 戦勝の知らせを受けた国民公会はただちに王政の廃止と共和政を宣言し、1793年1月、国王を処刑した。国王の処刑と義勇軍の反撃に驚いたヨーロッパ諸国は、イギリス首相ピットの呼びかけに応じて第1回対仏大同盟を結成した。こうして革命政府はほとんどヨーロッパ全体と敵対するようになった。
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3 革命の進展
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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
1)ヴェルサイユ行進
 1789年10月、パンを求める女性たちがヴェルサイユに行進し、議会の議場になだれこみ、窮状を訴えた。議会はこの展開を、国王に封建制廃止と人権宣言の裁可をせまる圧力として利用した。ついにルイ16世は、議会に対しては封建制の廃止と人権宣言を承認し、女たちには小麦の放出を約束した。「国王万歳」とともに「国王をパリに」という声があがり、国王一家はパリに連行された。これ以後、政治の中心もパリに移った。
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
2)憲法の制定
 1791年6月、国王一家は王妃マリーアントワネットの生地オーストリアに逃亡しようとしたが、失敗した。これを国王逃亡事件または、発見された地名の名をとってバレンヌ逃亡事件とも言うが、バレンヌという名前だが、そこで国王一家であることがばれてしまったのである。これにより国王に対する国民の反発が強まったが、議会は革命を終わらせるため、1791年9月、立憲君主政にもとづく憲法を制定した。国民議会は解散し、選挙の後に立法議会が成立した。この議会を指導したのは穏健な共和政をとなえるジロンド派であった。
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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
2 革命のはじまり
1)絶対王政の危機
 植民地をめぐるイギリスとの戦争やアメリカ独立戦争への支援、また宮廷の浪費のため、ルイ16世の時代には国家の財政はゆきづまっていた。財政再建のため特権身分にも課税しようとしたが、彼らの反対にあった。貴族は王権を制限するために、17世紀以来停止されていた三部会の開催を求めた。1789年5月、ヴェルサイユ宮殿で三部会が開かれると、特権身分と第三身分は議決をめぐって対立した。改革を要求する第三身分は室内球戯場に集まり、国民議会と称して憲法が制定されるまで解散しないことを誓いあったが、これを球戯場の誓いとよぶ。
2)革命の勃発
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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
 国民議会には平民だけでなく特権身分も多数参加するようになったので、国王もこれを認めざるをえなかったが、ひそかに軍隊を動かして、これを解散させようとした。これに対してパリ民衆は武器を求めて7月14日にバスティーユ牢獄をおそったが、この事件が革命の発端となった。これを契機として全国各地に農民暴動が広がると、議会ではこれをおさえるため、8月に封建的特権の廃止を宣言した。議会はさらにラファイエットらが起草した人権宣言により、自由と平等、私有財産の不可侵を定めた。
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