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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
3 西ヨーロッパの自由主義
1)七月革命とその影響
 フランスでは、復活したブルボン王朝は立憲王政を採用し、ナポレオンの時代の法律や制度をそのまま利用した。国王となったルイ16世の弟シャルル10世は、旧貴族や教会を優遇し、出版の自由の停止・選挙資格の大幅な制限・議会の解散などを宣言した。これに対して、1830年7月にパリの民衆は市街戦を展開し、ブルボン王朝は倒れた。裕福な自由主義者たちは民衆運動の激化をおそれて、自由派に近いルイ・フィリップを国王とした。これが七月革命で、この革命で成立した王政を七月王政と呼ぶ。しかし、革命の動きはヨーロッパ各地に波及した。イタリアでは、オーストリアの支配に反対してイタリア人の統一国家を建設しようとするマッツィーニの政治結社青年イタリアが結成された。また、ロシア支配下のポーランドでも独立運動が起こったが、ロシア軍に鎮圧された。しかし、オランダの支配下にあったベルギーは独立した。
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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
 
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第32回世界史講座は、1月26日(土)午後2時より「自由主義とナショナリズム」「西ヨーロッパの自由主義」「社会主義と二月革命」をテーマにおこなわれました。受講者は8名でした。
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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
2 自由主義とナショナリズム
1)ハイチの独立
 フランス革命に始まるヨーロッパの激動は、ラテン=アメリカにも大きな影響をおよぼした。フランスの植民地ハイチでは、1791年に黒人奴隷の反乱が起こり、本国のジャコバン派は奴隷解放を宣言した。しかし、その後ナポレオンは革命指導者を連行し獄死させ、奴隷制復活を画策した。これを見てもナポレオンがフランス革命の申し子ではなく、革命の弾圧者であったかがわかる。しかし、1804年にハイチでは黒人共和国が建国された。
2)ラテン=アメリカ諸国の独立
 ナポレオンがスペインを制圧すると、ラテン=アメリカの植民地では独立の気運が強まり、ウィーン体制で本国の王政が復活されても、1810年代にシモン=ボリバルのクリオーリョの指導の下でベネズエラ、コロンビアが独立した。現在のボリビアという国名はボリバルに由来する。ちなみにコロンビアは、コロンブスに由来する。ウィーン体制確立を指導したオーストリア首相メッテルニヒはこうした動きに反対したが、この地域への経済的進出を希望したイギリスは独立を支援し、またアメリカ合衆国大統領モンローは、ヨーロッパ諸国の干渉に反対するモンロー宣言を発し、独立を支持した。モンロー宣言(ヨーロッパとアメリカの相互不干渉=孤立主義政策)は、その後のアメリカ合衆国の外交方針となった。第一次世界大戦後のアメリカ大統領ウイルソンが提唱した「国際連盟」への加盟にアメリカ議会が反対した理由は、このモンロー宣言に由来する。
3)ギリシアの独立運動
 バルカン半島でも、オスマン帝国の支配下にあったギリシアが10年近い戦争ののち独立した。イギリスやロシアは、オスマン帝国の勢力を弱めるために独立を援助した。
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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
  Ⅳ 国民国家の建設ー1
1 ウィーン会議とウィーン体制
1)ウィーン会議
 ナポレオンによってゆるがされたヨーロッパの旧体制を立て直すため、オーストリアの外相メッテルニヒは、1814年から15年にかけて、ウィーン会議を開催した。会議は、フランス・ロシア・イギリス・プロイセン・オーストリアの利害調整で難航したが、フランス革命以前の領土を正統とする正統主義にもとづく君主相互の勢力均衡を原則とした。この結果、フランスはブルボン朝が復活し、イタリア半島中部には教皇領がよみがえった。
2)ウィーン体制を維持する組織
 ロシア皇帝アレクサンドル1世は宗教・平和・正義を防衛するためとして、1815年9月、オーストリア・プロイセンに呼びかけ、神聖同盟を提唱した。これは単なる思想的な同盟であったが、1815年11月、イギリス・ロシア・プロイセン・オーストリアがウィーン体制を維持する四国同盟(後にフランスも参加し五国同盟となる)を結成した。こうして生まれた保守的な国際秩序をウィーン体制と呼んでいる。
 次回、第32回世界史講座は、1月26日(土)午後2時より「自由主義とナショナリズム」「西ヨーロッパの自由主義」「社会主義と二月革命」をテーマにおこないます。多数の参加をお待ちしています。
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(帝国書院「タペストリー」より)
5 ナポレオンの没落
1)諸国民の抵抗
 ナポレオンの軍隊は、絶対王政から国民を解放するものとして、最初は各地で歓迎されたが、各国の国民はしだいに反発するようになった。1808年、スペインでナポレオンの支配に対して農民たちはゲリラ戦で抵抗した。ゲリラとは小戦闘を意味するスペイン語のguerrilla(ゲリリャ)が語源であり、ナポレオンに対する抵抗戦争から広まった。ロシアは、1812年には大陸封鎖令を無視してイギリスとの貿易を再開した。
2)ナポレオンの敗北
 1812年、ナポレオンはロシア遠征に失敗し、各国はこれを機に反撃に転じた。1813年、ロシア・プロイセン・オーストリア連合軍はライプチヒの戦い(諸国民戦争)でナポレオンをやぶり、1814年にパリを占領した。ナポレオンはエルバ島に送られ、パリではブルボン朝が復活した。ナポレオンは会議が紛糾している間にパリに戻り、再び皇帝の位に就くが、1815年、イギリスなどの連合軍にワーテルローの戦いでやぶれ、セント・ヘレナ島に流された。
 ナポレオンの統治は短かったが、彼が確立したナポレオン法典をはじめとする法体系や、中央・地方の行政制度は、その後も残された。また、フランス革命の時に実現した三権分立・普通選挙による議会制、さらに国境線のなかのフランス人すべてが同じ権利と義務をもち、同じ言語を用いて生活する、国民国家のしくみは19世紀以降、世界の各地で近代国家の規範とされることになった。
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(絵は東京法令「世界史のミュージアム」より、文章は帝国書院「タペストリー」より)
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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
3)ナポレオンのヨーロッパ支配
 ナポレオンの登場で約10年つづいたフランス革命は終わったが、ヨーロッパ支配をめぐる戦争は拡大した。1805年、第3回対仏大同盟が結成されると、フランスはイギリスと戦い、トラファルガーの海戦でフランス艦隊はネルソンの率いるイギリス艦隊に敗れた。しかし、大陸ではアウステルリッツの戦いでオーストリア・ロシアの連合軍を破り、ナポレオンはヨーロッパ大陸の大部分を支配するようになった。この戦いは「三帝会戦」とも呼ばれるが、三帝とはナポレオン皇帝・オーストリア皇帝(神聖ローマ皇帝)・ロシア皇帝を指す。
 1806年には西南ドイツ諸国を保護下において、プロイセン・オーストリアに対抗するライン同盟を成立させ、962年のオットー1世以来続いてきた神聖ローマ帝国は消滅した。ナポレオンは1806年、ベルリンで大陸封鎖令を出して諸国にイギリスとの通商を禁止し、フランス産業の育成をはかろうとした。しかし、産業革命を経たイギリス経済は強力で、イギリスに穀物を輸出していたプロイセンやロシアなどの国々は輸出先を失ったため、かえって経済的打撃をうけるようになった。
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 第31回世界史講座は、1月12日(土)午後2時より「ナポレオンの帝国」をテーマにおこなわれました。受講者は6名でした。
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(帝国書院「タペストリー」より)
4 ナポレオンの帝国
 1)総裁政府
  1795年、5人の総裁による総裁政府が成立した。しかし、総裁政府は王党派の反乱に脅かされる一方、バブーフなどによる私有財産制を否定する秘密結社の動きもあり、社会は不安定であった。富裕な商工業者や自作農民は秩序を求めて、王党派の反乱を鎮圧した若き軍人で、軍事的天才として名声を高めていたナポレオン・ボナパルトを支持した。
 2)ナポレオン政権の成立
  1797年、イタリア遠征に任命されたナポレオンは、当時イタリアを支配していたオーストリアをやぶり、賠償金や美術品を獲得してフランスに送り、国民的英雄となった。1798年、エジプト遠征をして、イギリスのインドへの道を絶とうとした。しかし、1799年、第2回対仏大同盟が結成されると、ナポレオンは、突然フランスに帰国してクーデターを起こし、自ら統領政府の第1統領となった。このクーデターをブリュメール18日と呼ぶ。1804年には所有権の絶対などフランス革命の成果を集約したナポレオン法典を制定し、同年、人民投票によって皇帝となり、ナポレオン1世と称したが、これを第1帝政と呼ばれている。
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(帝国書院「タペストリー」より)
(解説)
 メディチ家ではピエロが死にその後をついだのが弟のジュリアーノであった。彼はドイツ皇帝やスペイン王に巨額の金を与え、メディチ家のフィレンツェ支配権を援助させた。そして遂に1512年、スペイン軍の援助のもとにメディチ家が政権を掌握し、フィレンツェ自由都市憲法が廃止され、市民武装状態の解除を宣告し、共和政政府の要職にあった人物を追放した。マキャベリもこの時投獄され引退を強いられたのである。そして15年間メディチ家の独裁政治が行われた。
 1527年になるとドイツの皇帝カール5世のローマへの侵略が行われ、ローマは廃墟と化した。この「ローマ掠奪」の報せがフィレンツェにくると、フィレンツェの民衆は立ち上がり、遂にメディチ家を追放して共和政を復活させた。
 1529年になると、皇帝カール5世と教皇クレメンス7世が和睦した。皇帝はナポリとミラノの占領を教皇に認めさせ、一方、教皇にはフィレンツェにおけるメディチ家の権力回復を援助するという契約を取り交わした。フィレンツェは皇帝と教皇の連合軍を敵に回して英雄的な戦闘をしたのち3万人の犠牲者を出して降伏した。1530年8月12日、これが共和国最後の日となった。
 前の史料にあるようにこの時、ミケランジェロは防衛指揮官として祖国の防衛にあたった。彼は一時逃げ出したが、再び防衛に従事することになった。軍隊が入ってきて共和派が処刑されたときに、防衛長官であった彼も当然殺されるはずだった。教皇クレメンスは、ミケランジェロを捜しだし、教皇のための仕事をすることを条件に彼を許した。ミケランジェロはこの後、生涯自分が敵前逃亡したこと、また仲間が処刑されているときに隠れていたこと、また彼らの敵であった教皇に命乞いとしたこと、さらにルネサンスの精神である自由都市を裏切ったことによって罪の意識に苦しんだ。彼にとってフィレンツェは住むに耐えがたい場所となり、1534年以降、彼は永久に祖国を去った。
 この後、ミケランジェロの叙情詩には罪のなかに生きる苦しみが刻まれている。
 「わたしは死につつ生きる 
  わたしの肉体は魂の牢獄にすぎない。」(『フィレンツェ』文芸誌春秋より)
 以後、ミケランジェロは大作『最後の審判』を作成したが、そこには怒れるキリストが描かれているといわれる。そして晩年には『ピエタ』の製作に熱中し、かずかずの作品を残した。そこには彼が抱きつづけた苦悩が刻みつけられているのではないだろうか。
(参考文献)
 羽仁五郎『ミケランジェロ』(岩波新書 1939年)
 シャルル・ド・トルナイ『ミケランジェロ』(岩波書店 1978年)
 若菜みどり『フィレンツェ』(文芸春秋 1994年)
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(システィナ礼拝堂壁画ミケランジェロ作「最後の審判)
(史料3)
 (ミケランジェロは)全市のためのあまたの設備の万全を図ったほか、小高い位置にあり、町全体を見晴らせるサン・ミニアートの丘に立派な城壁をめぐらせた。・・・教会の鐘塔には大砲二門が据えられていて、外野に対してつづけさまに大損害を与えた。
 さらにミケランジェロはまた万一を慮って、自ら丘の上に陣取っていた。・・・町の兵士の間に謀反のうわさが広まったので、ミケランジェロは長官の所へ行き、町がどんな危険に直面しているかを示し、その気があれば今からでもまだ遅くはないと話した。ところが感謝されるかわりに侮辱された上、臆病で疑い深すぎると叱責譴責された。・・・町の確実な壊滅を予見したミケランジェロは、彼が持っていた権限を用いて一つの門をあけさせ二人の男とともに外へ出てヴェネツィアへと向かった。(ミケランジェロの同時代の伝記作者コンディヴィの記述『フィレンツェ』より)
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(河出書房「ルネサンス」より)
       【4】
 ミケランジェロはフィレンツェの共和政を守るために何をしたのか
( 資料2)
 ミケランジェロは、単に共和政のための芸術家として仕事をしたばかりではなく、その軍事的防衛にも直接貢献した。彼は実際、各市民に祖国の防衛参加を要請する知的道義に従い、市の要塞の仕事にたずさわった。1528年秋、自由意志から彼は要塞の専門家として従事することを決心した。無報酬で、しかも情熱を込めてである。1529年1月、ミケランジェロは「軍事九人委員会」(要塞評議会)の一員となる。1529年4月、彼は「フィレンツェ市要塞建設監督兼総司令部」という称号で「戦争十人委員会」(戦争最高評議会)の司令官に任命された。ミケランジェロは、熱意と情熱を込めて任務にあたったようである。フィレンツェの要塞と城門のために一連の遠大な計画を作成した。(シャルル・ド・トルナイ著『ミケランジェロ』) 
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あけまして おめでとうございます。本年も「山武の世界史」よろしくお願いします。
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(中公新書「フィレンツェ」より)
(解説)
 ダヴィデとは旧約聖書に出てくるイスラエルの王となった人物である。彼はベツレヘム村に住む羊飼いの少年であったが、ペリシテ人の巨人ゴリアを石投げで倒し、イスラエルを救ったという伝説が残されている。ルネサンス時代には旧約聖書を題材とした作品が製作されているが、『ダヴィデ』は他にドナテルロの作品も有名である。ミケランジェロの『ダヴィデ』は、ドナテルロや他の同様の主題による作品のように足下にゴリアの首を踏んでいない。羽仁五郎氏によると、その理由は「これによって見る人の眼はゴリアの首と『ダヴィデ』の顔とにわかれてそそがれることなく、『ダヴィデ』の全身に集中されるからであるとともに、ミケランジェロにとって、けだし人類の敵また芸術の敵また公共の敵は一怪物ゴリアにとどまらず、たえずしのびよる機会をうかがう内外の政治的圧政として表現しなければならなかったからであろう。」と指摘している。
 ミケランジェロがフィレンツェ市民からこの作品を依頼されたのは、フィレンツェを追放されたメディチ家が、教皇などと手を結んでフィレンツェへの侵略を推し進めようとしており、それを市民の力で阻止していた時期であった。この作品について批評家シャルル・トルナイ氏は次のように指摘する。
 「『ダヴィデ』の肉体の取り扱い方は新しい。・・・ミケランジェロは今や性格に解剖学的構造を表現しようとしているのである。・・・この『ダヴィデ』は聖書にあるような勝利する少年ではない。彼はフォルテッツア(ちから)とイラ(怒り)の化身なのである。この(ちから)は初期ルネサンスのフィレンツェ人文主義者によって、最も重要な市民的徳と考えられていた。15世紀以後、彼らは祖国防衛のために積極的な闘いをおこなってきたのである。この(ちから)の教義は、ルネサンスの著述家たちによって、怒りの感情である(イラ)の教義とあい補う者と考えられた。これは中世では非難されていたものだが、彼らによって市民の徳として高く位置づけられるようになった。そして勇気ある人間の道徳的な力を鼓舞したのが、この徳であった。それゆえミケランジェロの『ダヴィデ』は共和国市民の主要な二つの徳の化身である。つまり一人の「市民・戦士」の像なのだ。・・・市庁舎の宮殿入口前というこの彫像の設置場所の最終選択もまた、この仮説を裏付けてくれる。ミケランジェロは『ダヴィデ』が正しくこの場所に置かれるのを見たいと思っていたのである。そこはその政治的意味のゆえに最もふさわしい場所であった。・・・1495年のメディチ家追放のすぐ後、フィレンツェの市民たちはこの彫像を市庁舎の前に設置することを決めた。それはこの彫像を圧政者に対する共和国の勝利の象徴と考えたからである。新しい台座の上には次のような銘が刻まれていた。(共和国の救済の範として市民が1495年にこれを設けた。)このときから問題の場所は、市民の自由の勝利と、圧政者の敗北を記念するために捧げられたのである。ミケランジェロが『ダヴィデ』を通して雄大に高貴に表現したかったのは正しく共和国の自由の防衛の思想であった。」と。(シャルル・トルナイ著『ミケランジェロ』岩波書店)
 以上のようにミケランジェロの作品には人間の肉体を解剖するなど、実験や観察という科学的精神がある。それは中世キリスト教的な束縛などにとらわれず真実を見て行こうとする姿勢であり、そのような精神こそがルネサンスの精神なのである。このようにルネサンスの本質がミケランジェロの『ダヴィデ』に現れているのである。
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