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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
 【3】
 なぜクロムウェルの軍隊は強かったのか
(資料4)
 クロムウェルの部隊は厳格な規律をもって知られ、装備も優秀であり、とくにそれが騎兵ばかりで編成されている点に、他に見られぬ特色をもっていた。・・・クロムウェルの軍隊に従軍牧師として参加したバクスターはつぎのように書いている。「はじめて議会軍に入ったとき、クロムウェルは騎兵の一隊長にすぎなかったが、信仰の厚い人を自分の部隊に入れるように特別の注意を払った。そのような人たちこそ普通の兵士よりも理解力に優れており、そのため戦争の重要性を知って、その結果を本当に心配していたからである。・・・クロムウェルがこういう人たちを軍隊に選んだ主な動機は、かれが信仰に厚い人を尊重し愛したからである。そして当時の兵隊にはつきものの無秩序とか上官に対する反抗とか掠奪といった、軍隊に対する苦情のたねを避けた。こういうやり方で、かれは予想以上の成功を早めたのである。」(今井宏『クロムウェルとピューリタン革命』清水書院)
(解説)
 クロムウェルの組織した軍隊は、ジェントリーやヨーマンからなるピューリタンの軍隊で、かれは隊員に聖書を配り、賛美歌をうたわせた。かれの騎兵隊は、敵兵から「アイアンサイズ(鉄騎隊)」と呼ばれて恐れられた。議会軍は「新型軍」として革命遂行のための軍隊として活躍し、1644年6月、ネーズビーで国王軍に大きな打撃を与えた。形成が不利となったチャールズ1世は、ついに降伏した。しかし、議会内部では長老派と独立派の対立がおこった。
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
 【2】
 「権利の請願」はどのような歴史的意義をもっているのか
(史料1)「権利の請願」
 ・・・今後なにびとも、国会の行為により表明される一般的承諾がなければ、いかなる贈与・貸し付け・上納金・税金、またはこれらに類する負担を負い、または与えることを強制されない。またなにびともこのことについて、またはこれを拒否したことについて、答弁もしくは上記のごとき宣誓をなし、または出頭することを求められることなく、あるいは拘禁され、またはその他の苦難を受けることなく、またいかなる自由人も前記のような方法をもって拘禁または抑留されない。(中村英勝訳 『西洋史史料集成』平凡社)
(解説)
 イギリスの専制政治は、スチュアート朝のジェイムズ1世によりさらに強化された。彼は王権神授説を主張し議会を無視するとともに、国教会を重視し、ピューリタンを弾圧した。1625年に即位したチャールズ1世も専制政治をおこなったため、国王と議会の対立は激しくなった。議会は国王の財政上の要求をはねつけたため、国王は公債を強制的に買わせたり、献金を強要したりして、しかもその支払いに応じなかった人々を投獄したりした。当然このような圧政に対して国民の反発は高まったが、その不満をそらすために企てられたフランスへの遠征は失敗に終わり、国王の財政はますます苦しくなった。頼るのは議会しかなく、やむなく国王は第3議会を招集した。クロムウエルが初めて議員になったのは、この議会だった。そして、この議会で提出されたのが、「権利の請願」で全文十一か条からなる文章であって、上に抜粋したように、議会の同意のない課税、不法な逮捕投獄、軍法裁判の乱用などに反対している。それは請願というかたちをとっているけれども、明らかにイギリス国民と議会との権利の「宣言」なのであり、それゆえに「マグナカルタ」やのちの「権利章典」とならんで、イギリス憲政史上もっとも重要な文書となった。このなかにもりこまれた国民の権利が古くから存在した歴史的な権利であると主張されていることである。
 さて、国王と議会の対立はスコットランドの反乱を契機に武力衝突へと進んだ。戦争ははじめ国王軍が優勢であった。議会軍は指揮系統がばらばらな民兵であったのに対し、国王軍はよく訓練された騎馬部隊からなっていたからである。しかしクロムウェルの活躍で戦局は大きく転換していくのである。
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
(解説)
 資料3で指摘されているように、ジェントリーはイギリスの歴史上重要な位置を占めていた。クロムウェルもこの階層出身であり、イギリス革命の主役を演じる階層である。さて、この階層は、身分の上では貴族より下でヨーマン(自営農民)よりは上の階層である。かれらは土地所有者であるが、そのほかに法律家、医師といった専門職人や、商工業者で富を土地に投資した人たちも含まれていた。しかし、その主体は、地方に土着した名望家、それぞれの地域社会で「生まれながらの支配者」とみなされている人たちであった。かれらは、治安判事や副統監といった官職に任命され、地方行政と地方の自衛軍たる民兵隊の統轄というきわめて重要な職務を無給で奉仕していた。ジェントリーは、宗教改革後、貴族に代わって急速に成長した。そして、この階層が議会で指導権を握り、ヨーマンを巻き込んで専制君主を打倒していくのである。英語のジェントルマン(紳士)の由来は、ジェントリーからきている。
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
   <課題>
① ピューリタン革命がなぜ起こり、クロムウェルはどのような役割をはたしたのか。
② クロムウェルの政治は、イギリス社会に何をもたらしたのか。
   <資料と解説>
 【Ⅰ】
 革命前のイギリスはどのような社会であったのか
(資料1)表1 革命前の社会における身分・階層ハイアラーキー(階層制)
 グループ1  (救貧法の対象となる)貧民、徒弟、住み込みの奉公人
 グループ2  通いの労働者
 グループ3  ハズバンドメン、ヨーマン、独立手工業者、商店主、小国内商人
 グループ4  小(ないし教区)ジェントリー
 グループ5  州エリート:エスクヮイア、騎士、準男爵
 グループ6  貴族
(資料2)表2 革命前の社会における支配階層の人口構成
 グループ6  貴族 122
        主教 26
 グループ5 イングランド貴族の長子、スコットランド・アイルランド貴族、準男爵 305~310
       騎士 Ⅰ500~1800 
       エスクヮイア 7000~9000
 グループ4 ジェントリー 10000~14000
(今井宏『岩波世界史(15)イギリス革命』より)
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(資料3)
 17世紀のイギリスは、いかなる社会構成を有していたのであろうか。その社会が依然として身分制原理を克服していない身分・階層のハイアラーキーが支配するものであったことはいうまでもない。表から明らかなように、支配層の構成員は、エスクヮイアの称号をもたない「単なるジェントルマン」を加えても、2万5千人程度に留まり、当時の全人口が450万人程度と推定されているから、ほぼ180分の1を占めるにすぎない。この少数者こそが、革命前のイギリスにおいて、なんらかのかたちで政治に参与することを認められていた人たちであった。(今井宏『岩波世界史(15)イギリス革命』より)
          
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
<生涯>
 1599年4月25日、イングランド東部のハンティンドンの町でオリヴァー・クロムウェルは生まれた。彼の家はジェントリーに属しており、また母親を通して熱心なピューリタンとして成長した。彼が29歳の時チャールズ1世の第3議会が招集され、彼は初めて議員となった。この時、議会は国王に対し「権利の請願」を提出した。翌年、国王は議会を解散し、親政を始めた。ところが、スコットランドで反乱がおこると、国王は反乱鎮圧の費用をえるため議会を招集せざるをえなくなった。この時、議会と国王ははげしく対立し、ついに1642年に両派は武力衝突する内乱となった。当初は国王軍が優勢であったが、議会派のクロムウェルは熱心なピューリタンを中心とした軍隊を組織してもりかえし、ネーズビーの戦いで国王軍を破った。この頃、議会派内では国王との和解を主張する長老派と徹底した改革をめざすクロムウェルの独立派との対立が表面化した。一方、軍隊内部においても一般の兵士たちが、成年男子による普通選挙を主張する水平派を組織し、クロムウェルたちの独立派と対立した。クロムウェルは水平派と組んで議会から長老派を追放し、国王を「人民の公敵」として処刑し、共和制を実現した。クロムウェルはまもなく水平派の指導者を弾圧するとともに、アイルランドへの遠征を開始した。さらに1651年「航海法」を定め、第1次英蘭戦争でオランダを破った。この頃、クロムウェルはみずから終身の護国卿に就任して、武力による独裁体制を確立した。このような政府に対して議会が反発すると、クロムウェルは議会を解散し軍政官制度とよばれる軍人による政治を開始した。しかし反政府運動はさらに活発となり、このような情勢の中でクロムウェルは心労と、さらに最愛の娘エリザベスの死と看病疲れの身体をインフルエンザが襲い、59歳でこの世を去った。
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(帝国書院「タペストリー」より)
3 東方問題とロシア
1)東方問題
 ヨーロッパで起こった自由主義や民族問題は、オスマン帝国の支配下におかれていた諸民族にも影響を与えた。しかし、バルカン半島ではさまざまな民族が分立して利害が対立し、彼らの運動はロシア・イギリス・フランスなどの列強に利用されることが多かった。こうした列強間の対立に諸民族の運動が結びついて国際間に緊張が生まれた。これをヨーロッパでは東方問題と呼んだ。
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
2)クリミア戦争
 地中海方面に向かって南下政策をはかったロシアは、1853年、オスマン帝国内のギリシア正教徒の保護を要求してオスマン帝国と開戦した。これをクリミア戦争と呼ぶが、ロシアの南下政策を阻止するために、イギリス・フランスなどの列強はオスマン帝国側につき、ロシアはこの戦争に敗北した。この戦争に数十人の看護婦とともに参加したのがナイチンゲールである。
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
3)ロシアの改革
 クリミア戦争の敗北後、皇帝となったアレクサンドル2世は、上からの改革に取り組み、1861年、農奴解放令を発して経済と社会の近代化をはかった。
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
 しかし、専制的な皇帝と貴族の支配がつづき、西ヨーロッパのような商工業者や金融業者などのような中小市民層の成長はおそかった。他方、知識人のなかには、人民に苦しみをもたらす資本主義を批判し、平等原理にもとづく社会改革をめざすナロードニキの運動が広がった。彼らは「人民のなかへ(ヴ=ナロード)」のスローガンをかかげたが、農民に受け入れられず、政府に弾圧された。対外的には、ロシアはクリミア戦争の敗北後、1877年に露土戦争でバルカン半島に勢力を伸ばそうとしたが思うように進まなかった。
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
 次回の第34回世界史講座は、3月9日(土)午後2時より「アメリカ合衆国の発展」「ヨーロッパの文化」をテーマにおこないます。多数ご参加下さい。
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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
2 オーストリア・ハンガリー帝国の成立
 ながらくハプスブルク家が支配してきた神聖ローマ帝国は、ナポレオンとの戦争にやぶれたために1806年に、800年にわたる歴史の幕を閉じた。皇帝フランツ2世はその後はオーストリア皇帝を名のった。
 彼の帝国は、北のポーランドから南のアドリア海にまで広がり、ドイツ人、スラヴ人、ハンガリー人、イタリア人などの多様な民族を含んでいた。1848年にウィーンで三月革命がおき、メッテルニヒが追放されてハンガリーは一時独立したが、オーストリア皇帝はクロアティア人の軍隊を使って、この運動を鎮圧した。しかし、普墺戦争に敗北したオーストリアはドイツ統一の動きからはずれ、ハンガリー人に自治権を与えて、オーストリア皇帝がハンガリー王を兼ねるオーストリア・ハンガリー帝国を成立させた。この国はドイツ人をはじめ多数の民族がともに生活する国家をめざそうとしたが、ながらく民族問題で悩むことになった。
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
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(帝国書院「タペストリー」より)
2)イタリアの統一
 イタリア半島も多くの国にわかれており、北部はオーストリアの支配下にあった。統一の中心となったのは西北部のサルディニア王国であった。サルディニア王は自由主義者のカヴールを首相として改革をすすめ、1859年にはオーストリアをやぶって、イタリア半島の北部を併合し、さらに中部イタリアを吸収した。青年イタリアのガリバルディは、南部の両シチリア王国を征服してサルディニア王に献じた。1861年にはサルディニア王(ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世)がイタリア王国の王になり、まもなくヴェネチィアとローマ教皇領が併合され、ローマが首都になった。
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(帝国書院「タペストリー」より)
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第33回世界史講座は、2月9日(土)2時より、「ドイツとイタリアの統一」「ハプスブルク帝国の危機」「東方問題とロシア」をテーマにおこなわれました。若い女性の藤原さんが新たに参加され、受講者は8名でした。
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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
1 ドイツとイタリアの統一
1)ドイツの統一
 多数の国にわかれていたドイツは、19世紀になるとナショナリズムがさかんとなり、1834年には経済的な統一のためのドイツ関税同盟が結成されていた。しかし、オーストリアを統一ドイツの中心にする大ドイツ主義か、プロイセンを中心とする小ドイツ主義かという対立があった。パリで二月革命がおきると、ドイツでも三月革命がおこり、全ドイツの代表が集まったフランクフルト国民議会では、知識人などの自由主義者たちがプロイセン王を統一ドイツの皇帝にしようとした。王は自由主義をきらって、これを拒否し、国民議会の主導によるドイツの統一は失敗した。
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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
 1862年にプロイセンの首相となったビスマルクは「鉄血政策」によって統一をめざし、1866年に普墺戦争でオーストリアをやぶり、プロイセンを中心とする北ドイツ連邦を成立させた。ついで、ドイツ統一を妨害しようとしたフランスとの間で1870年に普仏戦争をおこし、ナポレオン3世を捕虜にし、フランス東北部のアルザス・ロレーヌを占領した。
 以前、日本の小学校の国語の教科書にはフランス人作家ドーデの「最後の授業」が載っていた。それはプロイセンの占領下に置かれたアルザスの小学校での最後のフランス語の授業をあつかったものである。その中に「一つの国民が奴隷となっても、その国民が自分の言語を持っている限りは牢獄の鍵を持っているのと同じだ・・・」という文章があり、国語教育の重要さを表現していた。しかし、アルザスの住民が日常話しているのはドイツ系の言語であるということから、最近の国語の教科書では、「最後の授業」は載せていない。
 普仏戦争にやぶれたフランスでは、屈辱的な条約に反発したパリの民衆が立ち上がり、最も民主的な自治組織である「パリ・コミューン」がパリに生まれたが、ドイツ軍の支援を受けた臨時政府に鎮圧された。
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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
 プロイセン国王ヴィルヘルム1世はヴェルサイユ宮殿で、新しい連邦国家、ドイツ帝国の皇帝に即位し、ドイツ帝国が完成した。
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世界史講座の様子
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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
2)二月革命
 フランスでは、七月王政のもと、選挙権の拡大を求める動きが強まった。政府はこの運動を弾圧したが、1848年2月にパリの民衆が蜂起し、国王ルイ・フィリップの退位を求めて共和政を宣言した。混乱のなか、七月王政は倒れ、臨時政府が樹立された。これを二月革命と呼び、成立した共和政は第二共和政と呼ばれている。革命の主役となったのは参政権のない中小市民や労働者であった。臨時政府には社会主義者や労働者も参加して、失業者のための国立作業場が設立された。しかし、国民の多くは安定した政治を求め、ナポレオンの甥を大統領に選んだ。彼は1852年に国民投票で帝政を復活させ、ナポレオン3世を名のったが、これを第二帝政と呼ぶ。これについてマルクスは、「歴史は二度くりかえす、一度目は悲劇として、二度目は茶番として」と書いた。
 次回の第33回世界史講座は、2月9日(土)午後2時より、「ドイツ・イタリアの統一」「ハプスブルク帝国の危機」「東方問題とロシア」をテーマにおこないます。多数ご参加下さい。
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