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 今回のフィールドワークは、「大阪とコリア」というテーマで3月24日(日)に行なわれた。その内容は、古代における「渡来人」、江戸時代の「朝鮮通信使」の大阪での行動、日本の植民地支配から始まり現在まで至る「在日コリアン」の問題に関する場所を巡るものであった。私は大阪市内に生まれ育った者でありながら、今回訪れた場所は知らなかった。大変勉強になりすばらしい企画であったが、参加者が4名と少なかったのが残念であった。
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(西本願寺津村別院)
 私たちは梅田に集合して地下鉄御堂筋線の「本町」で下車し、最初に訪れたのは「西本願寺津村別院」であった。なぜこの場所を見学したかというと、この寺が「朝鮮通信使」の宿舎として9回も用いられたという記録が残っているからである。案内者の志賀さんの資料によると「1591年に本願寺が京都に移設されたことで、1597年、准如上人が船場の地に津村御堂を建てました。ほぼ同じ時期に教如上人も大坂に御堂(難波御堂)を建設しており、1602年に、西本願寺(准如上人)と東本願寺(教如上人)が分立すると、それぞれが大阪の別院として現在に至っています。大阪では津村別院を北御堂、難波別院を南御堂と呼び、両者の東側を走る道を『御堂筋』と呼ぶようになりました。」とあり、私は御堂筋の名前の由来を初めて知った。
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(東京書籍「新選世界史」より)
2 ムハンマド・アリーと西欧化
1)エジプトの情勢
 エジプトでは、ナポレオンの遠征軍が撤退したのち、ムハンマド・アリーが、19世紀はじめに国内の統一に成功し、新王朝を樹立した。彼は、徴兵制と西欧式の軍隊の導入、農地への直接課税、綿花などの専売制、機械制工場の建設など、富国強兵と殖産興業政策をおしすすめた。アラビア半島を征服し、オスマン帝国からの独立をめざして交戦したが、イギリスの介入によって挫折し、関税自主権を放棄し、国内市場の開放を認めた。
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(東京書籍「新選世界史」より)
2)スエズ運河の建設
 地中海と紅海を結ぶスエズ運河の建設は、フランス人技師レセップスの指導により、難工事のすえに完成した。運河は、エジプト王とフランスなど外国資本の共同出資で建設されたが、外国債務に苦しむエジプトはスエズ運河株をイギリスに売却した。
 
 次回の第36回世界史講座は、4月13日(土)午後2時より「専制と立憲運動」「南アジア・東南アジアの変動」をテーマにおこないます。多数ご参加下さい。
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(帝国書院「タペストリー」より)
   Ⅱ 西アジアの変動
1 オスマン帝国の改革
1)タンジマート(恩恵的な改革)
 オスマン帝国は、17世紀以降、スルタンを頂点とした集権体制がゆるみ、弱体化した。17世紀以降、オーストリアやロシアに軍事的に敗北を重ね、バルカン半島の領土を割譲していった。外圧に直面したオスマン政府は、多民族国家としての統一を維持するために、19世紀中ごろに、すべての臣民の生命・財産の保障と法の下での平等などを定めた勅令を発布し、タンジマートと呼ばれる恩恵的な改革に着手した。
2)ミドハト憲法
 これによって、行政、法律、教育などの諸制度は西欧化されたが、経済的には、ヨーロッパの資本に従属する結果となった。1876年には、宰相ミドハト・パシャによって、西欧式の議会と責任内閣制を盛り込んだミドハト憲法が発布された。翌年、露土戦争が起こると、その敗北の責任を問われてミドハトは流罪となり、これを口実に1878年、憲法の施行がスルタンによって停止され、専制政治は復活された。しかし、1905年にロシアで革命が起こると、その影響を受けて1908年に若手将校らを中心とする秘密結社青年トルコが決起し、スルタンにミドハト憲法を宣言させたが、これを青年トルコ革命と呼ぶ。
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アジアの三角貿易
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(東京書籍「新選世界史」より)
3 アジアの三角貿易
 18~19世紀にイギリスは、海外の植民地と本国を結びつけた、たくみな分業体制をつくりあげた。インド産の綿布は軽くてあざやかな着色で人気をはくしていたが、イギリスはこれを自国で工業化し、アフリカ、中東、さらにインドに輸出した。このためインドは、綿布よりも原料の綿花をイギリスに供給することになった。イギリスは中国から紅茶や絹を輸入したが、その赤字をうめるために、インドでアヘンを栽培させ、これを中国に輸出した。このような三角貿易によって、イギリスは多大な利益をあげた。
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(東京書籍「新選世界史」より)
3)産業革命以後の貿易
 18~19世紀の産業革命は、アジアとヨーロッパの関係を逆転させた。産業革命や市民革命で近代化を成功させたイギリスやフランスなどのヨーロッパ諸国は、軍事技術で優位に立ち、アジア諸国の政治的分裂に乗じて植民地とし、工業製品の販売市場、農産物や工業原料の供給地として、世界大の資本主義体制に組み込んでいった。
2 東インド会社の独占と抗争
 イギリス、オランダ、フランスは、17世紀にはいると、いぶれも自国の東インド会社に対して、アジア地域での外交や軍事を含む独占的な貿易の特許を与え、互いに争った。オランダは、香料の産地であるモルッカ諸島やバタヴィア、台湾、平戸に商館を建設し、優位に立った。17世紀後半になると香料に代わりインド産の綿織物やカリブ産の砂糖の需要が高まり、七年戦争の時に、植民地で戦ってフランスをやぶったイギリスは、これらの地域での支配権を確立した。
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(東京書籍「新選世界史B」より
   第10章 世界市場の形成とアジア諸国
  Ⅰ ヨーロッパ諸国のアジア進出 
1 ヨーロッパとアジア
1)アジアの商品
 東南アジアの香辛料、インドの綿、中国の陶磁器、絹、茶など、アジアは、魅力ある生活物資の宝庫であった。これらは、中国の朝貢貿易やムスリム商人の交易などによって取り引きされ、ヨーロッパにも輸出された。
2)ポルトガル・スペインの活動
 16世紀に新航路が開拓されると、ヨーロッパの諸国は、これらの物資を求めてアジアに来航した。16世紀にはポルトガルが、ゴア、マラッカ、マカオなどを占領し、スペインはマニラを拠点とした。ヨーロッパ諸国は、アジアに輸出する商品を持っていなかったので、アメリカ大陸や日本から大量の銀をもちこんだ。しかし、17世紀までは、ヨーロッパ本国とアジアとの交易よりも、アジア地域間の交易のほうが利益は大きかった。 
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(帝国書院「タペストリー」より)
3 19世紀の文化
1)科学技術の発達
 ダーウィンは、進化論を展開し、その自然淘汰理論は社会科学にも大きな影響を与えた。また、キュリー夫妻は放射性物質を研究しラジウムを発見した。遺伝学でもメンデルにより遺伝の法則性が発見された。
2)文学
 18世紀の合理主義や啓蒙主義に反発して、ロマン主義の傾向があらわれた。自由主義と社会主義の双方に傾倒したドイツの詩人ハイネ、ギリシアの独立運動にかかわったイギリスの詩人バイロン、あるいは『レ=ミゼラブル』を発表したユゴーはその代表的な作家であった。
3)音楽
 フランス革命の頃になると、各国君主の富や力は衰え、宮廷芸術家を雇う余裕はなくなった。交響曲第五番『運命』の作曲者ベートーベンやシューベルトなど、このころの音楽家は作曲や演奏の収入で生活するようになった。これは、有料の演奏会に来ることのできる中小市民層の増加に対応していた。この時代の音楽作品の傾向はロマン派と呼ばれる。ポーランド出身のショパンは美しいピアノ曲を数多く作曲した。19世紀後半にはロシアの作曲家チャイコフスキーは、国民音楽派と呼ばれ、新しい時代をつげた。
4)会画
 絵画の領域でも19世紀前半はロマン派と呼ばれる。19世紀半ばには、写実主義や自然主義の絵画が歓迎され、後半になるとマネやモネ・ルノアールなど光の明暗のコントラストに特徴を持つ印象派が好まれるようになる。その影響下に『ひまわり』で有名なゴッホが出て、20世紀の絵画に大きな影響を与えた。
 次回の第35回世界史講座は、3月23日(土)2時から、「ヨーロッパ諸国のアジア進出」「西アジアの変動」をテーマにおこないます。多数ご参加下さい。
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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
2 市民の文化
1)哲学
 イギリスでは、市民の成長もはやく、17世紀にはフランシス・ベーコンが経験論を創出した。これに対してフランスのデカルトはすべてのものの存在を疑いながらも疑っている自己の存在を認める合理論を説いた。
2)社会・政治思想
 市民たちは、絶対王政の批判をおこなった。名誉革命の頃、イギリスのロックは、王権神授説を批判し、王の権力は人民との間の契約によるものと考えた。そして、人民の安全や幸福に害を与える政府は取り替えることができると主張した。18世紀には理性の優位を主張する啓蒙思想があらわれ、理性的な社会の運営のしかたを検討して、教会や王権を批判した。三権分立を主張したモンテスキューや、人民主権をとなえたルソーが代表的な人物であった。
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ロココ様式のサンスーシー宮殿
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(自著ドイツ旅行記①より)
    Ⅵ ヨーロッパの文化
1 宮廷の文化
1)宮廷の文化
 絶対王政の時代には、君主は強さや豊かさを誇示した。王たちは壮大な宮殿を建設し、内部を絵画や彫刻で飾った。スペイン王室は、ベラスケスを宮廷画家としてやとい、ルイ14世は、当時のフランスの一流の建築家や芸術家を集めて、ベルサイユ宮殿を建てた。この宮殿のスタイルはバロック様式と呼ばれ、左右対称で重厚な印象を与えた。18世紀なかばのロココ様式のサンスーシー宮殿は、軽やかさが特徴である。ルネサンス時代にイタリアで始まったオペラや、新しい芸術バレエも流行した。バロック音楽のバッハやヘンデルは、ドイツ領邦君主の宮廷音楽家であった。
2)自然科学
 ルネサンスの時期に始まった自然についての研究は、17世紀から18世紀にかけて物理学や化学、生物学などにわかれて発達した。万有引力の法則を発見したニュートンはこの時代の人である。これらの学問は実用的な役割をもっていた。
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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
2)南北戦争
 合衆国の南部では、黒人奴隷を使って綿花やタバコを栽培する大農園が発達した。生産物はイギリスに輸出されたので、農園主は自由貿易をのぞんだ。工業が発達した北部は、ヨーロッパからの工業製品輸入を制限するために保護貿易を主張し、また人道的な見地から奴隷制に反対した。
 このころ、ストウ夫人の書いた小説「アンクル=トムの小屋」は、北部で奴隷制反対の感情を喚起した。また1859年には、狂信的な奴隷制度廃止論者のジョン・ブラウンによる奴隷解放運動の実力行使もおこなわれた。ブラウンは逮捕され絞首刑に処せられたが、南北戦争の開戦以来、かれの功績を讃えて「リパブリック賛歌」が作られ、北軍の行進曲として採用された。日本では、替え歌として「権兵衛さんの赤ちゃん」として有名である。
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(帝国書院「タペストリー」より)
 1861年、南部諸州がアメリカ連合国として独立しようとすると、南北戦争がはじまった。リンカン大統領の奴隷解放宣言の後、1865年、優勢となった北部が勝利をおさめたので、合衆国の統一は維持された。こうしてアメリカは北部が主導する工業国となった。奴隷の身分は廃止されたが、人種差別の問題は未解決のまま20世紀にもちこされた。
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