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写真3
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写真4
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【6】
 鉄道はイギリス人の生活や社会をどのように変えていったのか
(解説)
 写真3は、1865年当時、労働者用の早朝割り引き列車からはき出された人々の大群である。鉄道の発達は通勤圏を拡大した。ロンドン近郊には新しい住宅地が広がり、朝のラッシュが見られるようになった。
 鉄道によって農村から都市へ流入した若い労働者は、男性ばかりでなく、女性も多かった。女性の仕事は、メイドなどの家事使用人がもっとも多かった。都市にあこがれる彼女たちにとって、メイドとして金持ちの家で働くことが夢だった。そして、この時代のある研究家は「人々を地方から都市に出したのは、なんと言っても大都会でメイドになっていた地方出身の若い女性が故郷に書き送った手紙だった。」と記している。
 写真4は、フランス人画家が1877年に描いたもの。赤れんが長屋の裏庭を見下ろしながら、汽車が高架陸橋を走っている。鉄道のもたらす騒音や煙などの公害は、開設されたころからの社会問題であった。(東京書籍『新選世界史B』)
 鉄道の発達がイギリス社会に与えた影響について、角山栄氏によると「鉄道建設は、たんにレールの敷設という以上に、その築堤や堀割り、橋や駅を含めてワンセットの公共建築物をつくりだすことであって、・・・強大なものであった。さしあたり鉄道が誘発した経済効果は、鉄工業・石炭業・重機械工業・建設業の飛躍的発展をもたらしたばかりでなく、資本と労働と商品の市場拡大にいちじるしく貢献した。1830~1850年の鉄道建設の初期の20年間に、イギリスの銑鉄生産は、69万トンから275万トンへ4倍に増加したし、同じ期間に石炭産出量もまた、2200万トンから4900万トンへ2倍以上になった。・・・1845~1850年頃、鉄道の銑鉄需要に占めていた割合は、・・・レールのほか車両・鉄橋・駅など関連した鉄需要を含めた場合、銑鉄生産の50~70%を占めていた。」と指摘している。このように鉄道の発達が、イギリス産業革命を発展させてきたことを押さえておく必要があるだろう。
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(イギリスの鐵道網)
【5】
 なぜ鉄道網がイギリス国内で急速に拡大していったのか
(資料5)
 建設された鉄道は、輸送コストを大幅に引き下げた。たとえば、マンチェスター・リヴァプール間の乗合馬車の運賃が10シリング(片道4時間)であったのにたいし、有蓋列車では5シリング、無蓋列車では3シリング6ペンス(片道1時間半)であった。旅行が楽で運賃が比較的安かったため、鉄道の乗客数は1年で16万5000人だったが、1832年にこの2つの都市を往来した人は約35万7000人、1835年は約50万4000人に達した。この路線が赤字でなかったことは当然である(1832年の純益は約6万ポンド、1835年は約8万4000ポンドであった)。この経済効果こそが、鉄道を普及させた最も大きな原因である。(前掲『世界技術史』)
*当時のイギリスの通貨は、1ポンド=20シリング 1シリング=12ペンスでした。
(解説)
 上の資料のように、馬車と鉄道の差は運賃で半額以下、時間も3分の1に短縮されたのである。このような理由で、地図に見られるようにイギリス国内では瞬く間に鉄道網が拡大されていったのである。このイギリス鉄道の大成功に目をつけたのがロスチャイルド家であった。オーストリアのロスチャイルド家のサロモンが1835年に帝国政府から鉄道事業免許証を取り付けて、ウィーンとボヘミア間に、およそ96㎞で着工させた。これがヨーロッパ大陸初の鉄道となった。パリのロスチャイルド家のジェームズも大々的に鉄道事業に乗り出した。まずセーヌ川沿いにパリとサン・ジェルマンの間、さらにパリとヴェルサイユの間に鉄道を完成させ、ついでフランスの北部諸都市とパリを結ぶ北方鉄道がパリ・ロスチャイルド家の最大の資産になる。このほかロスチャイルド兄弟はベルギーの鉄道建設に融資するなど、ヨーロッパ鉄道にいたるところで関与した。(横山三四郎『ロスチャイルド家』講談社新書 参照)
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写真2
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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
【4】
 なぜスティーヴンソンの蒸気機関車は成功したのか
(資料4)
 スティーヴンソンの成功の原因は、蒸気シリンダのピストンを機関車の車輪に直結して、燃料から得られる出力を最大限にしたことである。かれはまた煙管ボイラーを使用し、蒸気の注入による押込通気を創始した。(R・J・フォーブス著『技術の歴史』岩波書店)
(解説)
 写真1のトレヴィシック蒸気機関車と写真2のスティーヴンソンの蒸気機関車を比較すると、スティーヴンソンの蒸気機関車の優れている点がよくわかる。それは、トレヴィシックの蒸気機関車がピストンの運動は、連結棒、クランクを使って歯車装置をつうじて動輪に伝えられたのに対し、スティーヴンソンの蒸気機関車は、ピストンを機関車の車輪に直結している点である。これによって燃料から得られる出力を最大限にしたことにより、蒸気機関車の重量を低く抑えることができたとともに、そのスピードをあげることができるようになったことである。
 スティーヴンソンの技術的な成功は、鉄道経営における成功をもたらし、その名は世界中に知られるようになった。一方、鉄道から手を引いたトレヴィシックは、高圧蒸気機関の製作へと移って南米のペルーへと渡った。しかし戦争に巻き込まれるなど不運に合い、無一文でイギリスに帰り貧しいままで一生を終え、人々から忘れられてしまった。彼が注目され、「蒸気機関車の父」と呼ばれるようになったのは最近のことである。
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トレヴィシックの蒸気機関車
 
 
 【3】
トレヴィシックの発明した蒸気機関車はどのような弱点をもっていたのか
(資料3)
 トレヴィシックが蒸気機関車の建造とその運転の実験にはじめて大きな成功をおさめたのは、1803年から1804年にかけてである。この機関車の原動機は模型のシリンダーをもち、ピストンの運動は、連結棒、クランクを使って歯車装置をつうじて動輪に伝えられた。機関車の実験は公開でおこなわれた。トレヴィシックの機関車は、およそ10トンの貨物(鉄)と約70人の乗客を約15㎞以上も運んだ。速度はおよそ時速8㎞であった。この実験に関する記事は当時の新聞に載せられ、熱狂的にとりあつかわれた。のちに(1808年)自分の発明した原理を普及するために、トレヴィシックは、ロンドンにテストとアトラクションを兼ねる環状鉄道を敷設した。機関車は時速約24~32㎞で走った。のちにレールの破損が原因で機関車が転覆したため、すでに機関車の建設にかなりの資金を使っていたトレヴィシックは、その他のテストを断念しなければならなかった。(ソ連科学アカデミー編・金光不二夫他訳『世界技術史』大月書店)


(解説)
 イギリスでは16世紀中ごろから木炭や薪にかわって燃料として石炭が利用されていた。そのため石炭採掘に際して、坑内の排水のためにニューコメンやワットにより蒸気機関が発明されていた。銀鉱山の技師であったトレヴィシックは、高圧蒸気機関の先駆者であった。高圧蒸気の応用は単位重量当たりの馬力の増加を意味し、機関が軽くなってきたとき、これらの機関を運輸に使う可能性が生まれてきた。そして、上の資料のような蒸気機関車が製作されたのである。しかし、彼の蒸気機関車は実用化されなかった。それは、燃料の効率が悪いためにまだまだ大型の蒸気機関が必要であり、蒸気機関と積荷の重さに耐えられずレールが破損してしまったからである。
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(「最新世界史図説 タペストリー」帝国書院より)
(資料2) 
 ①綿工業における技術革新
1733年 ジョン・ケイ   飛び杼
1764年 ハーグリーブズ  ジェニー紡績機
1768年 アークライト   水力紡績機
1779年 クロンプトン   ミュール紡績機
1785年 カートライト   力織機

 ②イギリスの綿花輸入量 年平均(単位:100万重量ポンド)
1780~1782年     7.9
1789~1791年     30.9
1799~1801年     51.8
1809~1811年     105.6
1819~1821年     141.0
1829~1831年     249.0
1839~1841年     452.0
1849~1851年     621.0
(角山栄 「イギリス産業革命」『岩波講座世界歴史18』)


(解説)
 安価で丈夫なインド綿布はイギリス本国だけでなく、アフリカや西インドなどイギリスの植民地でも需要が増大していった。そこでイギリスの資本家たちは、インド綿布に負けない安価な製品をつくる必要から大量生産方法として、上の資料に見られるような機械が発明されていったのである。その結果、綿花の輸入量は飛躍的に伸びて、その輸送手段として蒸気機関車が利用されたのである。本格的な鉄道がロンドンではなく、綿工業の中心地であるリヴァプール・マンチェスター鉄道から始まったと言うことが、その状況をあらわしている。
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(第一学習社「最新世界史図表」より)
(課題)
1 蒸気機関車がどのような歴史的背景のもとに作られていったのかを明らかにする。
2 鉄道が人々の生活をどのように変化させていったのかを明らかにする。
(資料と解説)
【1】
トレヴィシックとスティーヴンソンは、どのような背景のもとで蒸気機関車を製作するようになったのか。
(資料1)
 17世紀末にあって、石炭を工業用燃料として組織的に利用していたイギリスにおいて、石炭利用に際して、技術的に解決を迫られる課題があった。それは、大量の石炭をいかにして安価なコストで消費地に運搬するかという輸送問題・・・などである。
 ・・・石炭輸送の課題はどのように解決されたのか。その解決の第一段階は運河開さくである。・・・1790年代には運河狂時代といわれるほどの、熱狂的にして大規模な建設時代を迎えた。・・・
 ところが石炭輸送の問題は、鉄道建設によって第二段階を迎える。初期の鉄道の歴史もまた炭坑開発の歴史でもある。・・・やがて蒸気機関の発明とともに、蒸気機関車が運輸に応用される。・・・イギリスでも1801年頃トレヴィシックが機関車をつくった。彼の機関車もやはり炭坑において石炭を運ぶためのものであった。しかしイギリスで最初に実用化された鉄道は、1825年に開通したストックトン・ダーリントン鉄道で、ダラムの内陸炭坑から海岸まで石炭を運ぶためのものであった。スティーヴンソンの「ロケット号」が走ったリヴァプール・マンチェスター鉄道(1830年)は、綿花を運ぶためのものであったが、その成功に刺激されて鉄道への投資が活発となった。(角山栄『イギリス産業革命』「岩波講座世界歴史18」)
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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
(解説)
 石炭は早くから海上や河川によって運搬されていたが、炭坑と工業地・消費地を結ぶ内陸輸送の必要性増大のため、上の資料に記述されているように運河の開さくが始まったのである。しかし、運河開さくに障害の多い炭坑地方には、それに代わる輸送手段が必要である。そしてその手段として蒸気機関車が発明されたのである。しかし、やがて輸送の主力は石炭から綿花へと変わっていくのである。
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スティーヴンソン(浜島書店「アカデミア世界史」より)
<生涯>
 ジョージ・スティーヴンソンは、1781年ニューカッスルに近いワイラム炭坑の鉱夫の息子として生まれた。家が貧しく学校に行くことができず、幼少の頃から牛番などをして働き、8歳の時に鉱山で働いた。
 14歳で火夫見習い、17歳で機関夫になった。18歳の時、初めて夜学で学校教育を受けた。21歳で結婚し、この頃鉱山の筆頭技師になっており、1805年には「機械博士」としての名をとどろかしていた。1812年には機関長に迎えられ、翌年に初めて蒸気機関車を製作し、1825年までに16台の蒸気機関車を製作している。
 1823年には2人の共同出資者とともに世界で最初の機関車工場を設立した。最初の列車は38台の車両を引き、時速20㎞で運行した。その後ベルギー、スペインなどの鉄道建設に従事し、1847年、世界最初の機械学界を創設し、翌年に没した。
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トレヴィシック
<生涯>
 リチャード・トレヴィシックは1771年にイギリスのコーンヴォールに鉱山監督の子として生まれた。この地方には有名な錫鉱山があり、排水装置として蒸気機関を利用しており、優秀な技術者を育てていた。
 彼が19歳のとき、エンジン技術の徒弟となったが、1800年に従来のものよりも小さくて価格も安い複動の高圧蒸気機関を作った。また、蒸気機関を用いた車両の製作を作って10トンの鉄と70人を乗せた5台の車両を牽引して時速8㎞で走らせた。しかし、当時のレールは鋳鉄製で弱かったため持続運転はできず、世間からほとんど注目されなかった。以後はもっぱら高圧蒸気機関の改良に努め、揚水用高圧ビーム機関や脱穀、製粉などの農業用の機関を製作した。
 1816年に銀鉱山用として注文をうけた高圧蒸気機関を据え付けるため南米のペルーへと渡ったが、戦争に巻き込まれるなどの不運に会い、1827年にほとんど一文無しの状態でイギリスに帰国し、その後、経済的にめぐまれないままで1833年に一生を終えた。しかし、現在のイギリスでは、かれの蒸気機関車を最初の鉄道用蒸気機関車と認め、かれを「蒸気機関車の父」と呼んでいる。
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(帝国書院「タペストリー」より)
3 東南アジアの植民地化
1)オランダの進出
 オランダは、17世紀にジャワ島のバタヴィア(現ジャカルタ)を拠点に、インドネシア地域に進出した。19世紀には、香辛料やコーヒーや砂糖などの商品作物を強制的に栽培させ、多大な利益をあげた。
2)イギリスの進出
 イギリスでは、19世紀前半に、マラッカやシンガポールを獲得して、交易の拠点を握った。さらにマレー半島や北カリマンタンをあわせてイギリス領マレーを編成し、錫の採掘やゴムのプランテーション栽培を行った。3回にわたる戦争でビルマ(現ミャンマー)を併合し、インド帝国に編入した。
3)フランス
 フランスは、ナポレオン3世のときに、宣教師殺害事件をきっかけにヴェトナムを攻め、カンボジアを保護国とした。そののち、1887年にヴェトナムをめぐって清仏戦争で清朝をやぶり、1887年、フランス領インドシナを成立させ、やがてラオスも編入した。
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
4)シャム王国(タイ)
 シャム王国もヨーロッパ列強の圧力にさらされ、イギリスをはじめとして、不平等条約の締結を強いられたが、大陸部でイギリス・フランスの緩衝地帯に位置し、ラーマ5世(チュラロンコーン王)の近代化の努力もあって、東南アジアでは唯一、植民地化をまぬがれて独立を維持した。(おわり)

 次回の第37回世界史講座は、5月11(土)午後2時よりおこないます。4月27(土)の世界史講座はつごうにより休みます。
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
Ⅲ 南アジア・東南アジアの変動
1 インドの植民地化
1)プラッシーの戦い
 18世紀にムガル帝国は、地方の独立政権(藩王)=マハラジャが強くなって分裂状態になり、それに乗じて、イギリスとフランスが進出した。イギリスは、フランスとベンガル支配勢力の連合軍を、1757年のプラッシーの戦いでやぶり、インド東部の支配権を獲得した。イギリスは、各地の独立政権を軍事的に屈服させ、19世紀前半までに、ほぼ全インドを植民地とした。
2)イギリス東インド会社のインド支配
 イギリス東インド会社は、徴税権をにぎり、地租納入者を確保するために近代的な土地所有制度であるザミンダーリー制を導入した。イギリスで産業革命が進展すると、安価な機械制綿布が売り込まれ、インドの伝統的な綿工業は大きな打撃を受けた。インドはイギリスへの綿花の供給地、イギリス綿製品の市場となった。さらにイギリスは、インドで栽培させたアヘンを中国へ輸出するとともに、茶の栽培を強制した。
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(帝国書院「タペストリー」より)
2 インド大反乱
1)インド大反乱
 インドの植民地化が進むなかで、農民は土地を失い、旧支配者は領土や地位を奪われ、職人は没落していった。そのため、しだいに彼らの間に反英感情が高まった。プラッシーの戦いから100年目にあたる1857年に戦いが始まった。そのきっかけとなったのは、宗教的な問題であった。東インド会社のインド人傭兵=シパーヒー(ポルトガル人が最初にインド人傭兵を使ったので、ポルトガル語の名前がそのまま使用された。)の間で、小銃用の弾薬包に牛と豚の油脂が塗られているという噂が広まると、ヒンドゥー教徒とムスリムの傭兵は宗教的なタブーに触れるとして、その使用を拒否し、デリー近郊で蜂起した。反乱軍は、デリーを占領し、ムガル皇帝を擁立した。反乱はインド各地に広がり、藩王、地主、農民、職人などが加わり、民族的な大反乱となった。しかし、反乱軍は、具体的な政策を打ち出すことができず、指導者の間に分裂が生じ、本国から派遣されたイギリス軍により鎮圧された。
2)インド帝国
 インド大反乱に衝撃を受けたイギリスはムガル皇帝を廃し、東インド会社を解散させて、本国政府が直接インドを支配する体制をとり、藩王の地位を保障し、彼らの取り込みをはかった。領土の45%がこのような藩王国で占められた。1877年にヴィクトリア女王がインド皇帝となり、イギリス領インド帝国が成立した。その結果、インドの近代化は遅れ、言語の統一も進まなかった。現在、ヒンディー語が公用語となっているが、英語が準公用語として使用されており、通貨のルピー紙幣には、14地方の公用語も書かれている。
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