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(帝国書院「エスカリエ」より)
4)日本・アメリカ
 19世紀末には、植民地争奪戦に日本もアメリカも参加し、大国どうしが対立するようになった。アメリカは、米西戦争でスペインをやぶり、フィリピンやカリブ海域の島々を獲得して太平洋と中南米に対する支配を強め、1914年にはパナマ運河が開通した。また、日本は清と戦って台湾を奪い、次いで日露戦争によって朝鮮半島の支配権を得た。
5)3C政策と3B政策
 一方、アフリカ縦断政策をとったイギリスと横断政策をとったフランスの利害は衝突し、ファショダ事件が起こった。また、ケープタウンからカイロ、カルカッタを結ぶイギリスの3C政策は、ベルリンからビザンティウム(イスタンブル)、バグダードを結ぶドイツの3B政策と対立した。イギリスとフランスは協商を結び、また両国はそれぞれロシアとも協商を締結したが、これを三国協商と呼ぶが、ドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟に対抗した。二つの陣営の対立は世界大戦に発展する。
 次回第39回世界史講座は、6月22日(土)午後2時より「帝国主義と国民」「アジアの民族主義と国家建設」などをテーマにおこないます。多数のご参加をお待ちしています。
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(帝国書院「タペストリー」より)
2 帝国主義と世界の分割
1)イギリス
 19世紀末、各国はアジアやアフリカに進出して武力をもちいて屈服させ、その地を植民地とする帝国主義政策をとった。イギリスは1870年代、スエズ運河の支配権を確保し、さらにヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国をつくり、インドを完全に支配した。1880年代には、エジプト、スーダンをまたアフリカ南部でもボーア戦争でオレンジ自由国とトランスヴァール共和国を征服し、南アフリカ連邦を建設した。
2)フランス
 フランスも、ナポレオン3世の時代にインドシナ半島や南太平洋に進出したほか、1830年代に獲得したアルジェリアから南下してサハラ砂漠一帯を獲得し、さらに東に向けて植民地を拡大させた。
3)ドイツ・イタリア
 ドイツも1880年代からアフリカと太平洋に進出を開始した。1890年代になると、イタリアがアフリカ東部に進出し、アフリカ大陸はヨーロッパ各国の間で、ほぼ完全に分割された。
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(帝国書院「エスカリエ」より)
   第11章 世界の分割
 Ⅰ 世界を支配する国々
1 重工業の時代
1)第2次産業革命
 19世紀後半になると、欧米の経済の中心は重化学工業に移った。この分野では技術革新があいついで行われ、石油と電気を利用する巨大産業が発達したが、これを第2次産業革命と呼ぶ。
2)独占資本
 重化学工業の設備には莫大な資本が必要だったため、企業は中小企業を吸収・合併し、様々な企業統合形態であるカルテル(企業連合)・トラスト(企業合同)を形成し、少数の巨大企業が生産と市場を独占したが、これを独占資本と呼ぶ。
3)アメリカ
 アメリカの工業生産量は1890年代に世界1位になった。とくに鉄鋼生産は、20世紀初頭にはヨーロッパ全体の生産量とほぼ同じになり、また、自動車産業では、フォードT型に見られるような大量生産の仕組みが確立され、石油精製業なども育った。
4)ドイツ
 ドイツでは、ビスマルクが保護関税政策をとるなど、政府が企業の経済活動を積極的に支援し、1880年代、製鉄や化学工業はイギリスをしのぐまでになった。ドイツの重工業は鉄鋼や造船、化学など、軍事活動と結びつく部門で大きく発展した。
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第38回世界史講座は、5月25日(土)午後2時より行なわれました。受講者は7名でした。
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(帝国書院「エスカリエ」より)
 6 日清戦争
1) 朝鮮の改革
 1882年、清朝と結びついた保守派の閔氏政権に抗議する兵士らの反乱である壬午軍乱をきっかけにして、清の軍事的・政治的介入が強まると、これに危機感をもった金玉均らの開化派が、日本と結んで近代化を進めようとした。開化派は、1884年末、清仏戦争のために清の朝鮮駐留軍が移動するのを見てクーデターを起こしたが、失敗したが、これを甲申政変と呼ぶ。こうして、朝鮮をめぐり、清と日本との間に軍事的緊張が高まるなか、日親両国は、翌年に天津条約を結んで、朝鮮へ出兵するさい事前の相互通告を取り決めた。
 甲申政変については、私のブログの「歴史のとびら⑦」の「金玉均の悲劇」を見て下さい。
2)日清戦争
 この頃、朝鮮では、東学と呼ばれる信仰が農民の間に広まっていた。1894年、東学を信じる人々は、増税に反対し西洋と日本の排斥を呼びかけて大反乱を起こしたが、これを甲午農民戦争と呼ぶ。朝鮮政府が清に助けを求めると、日本も軍隊を派遣し、日清戦争がはじまった。戦争は翌年に日本の勝利に終わり、下関条約が結ばれて、朝鮮と清との冊封関係はなくなった。清は遼東半島や台湾などを日本にゆずり、多額の賠償金を支払った。こうして日本は事実上、朝鮮をその勢力下におき、大陸侵略の第一歩をふみだした。
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(東京書籍「図説日本史」より)
5 日本と東アジア諸国
1)日本の開国と明治維新
 日本はアメリカのペリー艦隊が来航して開国をせまると、1854年に日米和親条約を、1858年には不平等条約である日米修好通商条約を結んで開国した。イギリスやロシアなどもこれにつづくなかで、開国に反対する薩摩藩や長州藩の下級武士たちは攘夷運動をおこし、それがやがて討幕運動へと発展していった。戊辰戦争に敗北した幕府は倒れ、1868年に天皇を元首とする新政府が樹立されたが、これを明治維新と呼ぶ。明治政府は、中央集権体制を整え、富国強兵と殖産興業につとめた。そして1889年に大日本帝国憲法を定め、近代国家としての体制を整えた。
2)琉球処分
 1871年、日本は清と日清修好条規を結んで国交を開いたが、琉球王国をめぐって対立した。日本は一方的に琉球王国を琉球藩にきりかえ、1879年には、沖縄県を設置したが、これを琉球処分と呼ぶ。
3)朝鮮の開国
 鎖国の方針を守る朝鮮(李朝)に対して、日本は開国を求めて江華島事件をおこし、不平等な日朝修好条規をおしつけた。
 授業のあとで受講者から、「条規と条約の違いは何か」という質問が出されたが私はよくわからなかった。ヤフー知恵袋によると「条約とは国家間または国家と国際機関との間の文書による合意です。条規とは国家間などに限らず、国内法やその外の取り決めをも含みます。掟・定めのこと。また、特に法令の規定をいう場合もあります。補足につきましては、『日朝修好条規」『日清修好条規』だけで条規となっていますが、どちらも条約を含んでいます。言われている理由はいくつかあります。条約とそれに付随する規定も含めて表しているため。中国で条約のことを条規と表すため。」と書かれている。長い間、生徒に教えていたが、このような質問は全く出てこなかったので、このような違いについてあまり意識してこなかった。
 次回の第38回世界史講座は、5月25日(土)午後2時より「日清戦争」「世界の分割」などをテーマにおこないます。多数のご参加をお待ちしております。
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(第一学習社「最新世界史図表」より)
3 地方軍の登場と洋務運動
1)地方軍の登場
 この頃、太平天国の内部で権力争いが生じ、しだいに勢力が衰えた。一方、漢人の官僚や地主たちが故郷を守るためにつくった地方の私的な義勇軍である郷勇が成長し、清朝の正規軍にかわって太平軍に対抗した。また、イギリスなどの列強は、外国人義勇軍である常勝軍を助け、清朝側にたって太平軍を攻撃した。1864年、太平天国は都天京(南京)を落とされ滅亡した。
2)洋務運動
 アロー戦争ののち、太平天国との戦いで力を発揮した曾国藩や李鴻章など漢人の地方官僚の発言力が増した。彼らは軍事工業をおこして、西洋の近代技術を積極的に摂取しようとする洋務運動を開始した。このときの洋務派の主張は中体西用論と呼ばれ、儒教の制度や伝統を守ろうとする点では保守派と同じだが、西洋の法や制度への認識を深めた人も現れた。
4 ロシアの東アジア進出
 1858年、ロシアは清朝に対してアイグン条約を結ばせ、アムール川(黒竜江)以北の地を獲得し、さらに北京条約によって沿海州の地を手に入れた。1875年には、日本と千島樺太交換条約を結んでサハリン(樺太)を領土とし、さらに中央アジアにも進出した。
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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
3 太平天国とアロー戦争
1)太平天国
 アヘン戦争後、アヘンの輸入が増え、巨額の賠償金支払いによって財政もゆきづまった。これに対し、「滅満興漢」をとなえて理想の国家を樹立しようとしたのが洪秀全である。彼はキリスト教の影響を受けた上帝会を組織し、南部の広西省で蜂起して国号を太平天国と称した。太平天国は、清の打倒、財産の公有制、土地の均分、男女平等などをとなえた。(太平天国については、私のブログの人物世界史「洪秀全」を見て下さい。)
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
2)アロー戦争
 イギリスは中国市場へ進出したが、期待したほどの利益があがらなかった。そのため1856年、広州でおこったアロー号事件を口実にフランスをさそって共同出兵し、アロー戦争(第二次アヘン戦争)をおこした。連合軍は天津、北京を占領し、1860年にペキン条約を認めさせた。清は、公使の北京駐在、天津など11港の開港、キリスト教布教の自由、アヘン貿易の公認などを認めさせられ、香港の対岸の九竜半島の一部をイギリスに割譲した。
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林則徐(『ウィキペディア』より)
 第37回世界史講座は、5月11日(土)午後2時より行なわれました。受講者は7名でした。
  Ⅳ 東アジアの変動
1 清のおとろえとアヘン貿易
1)清朝の衰退
 18世紀の後半に、清は乾隆帝の治世の繁栄を謳歌していたが、そのうらでは深刻な社会問題が発生していた。中国の人口は急増したが、耕地の増加はそれに追いつかず、生活に苦しむ農民が辺境や海外に移住する動きもあらわれた。乾隆帝の末年、18世紀の末には、白蓮教徒の反乱と呼ばれる大規模な農民反乱がおこった。
2)三角貿易
 一方、外から中国をおびやかしたのはイギリスだった。イギリスではこのころ紅茶を飲む習慣が広まり、中国からの輸入が急増した。しかし清は、外国貿易を広州一港に限り、公行という特許商人の組合に独占させていた。茶や陶磁器などで生じた赤字を解消するため、イギリスは毛織物や産業革命で生産が増加した機械制の綿織物売り込もうとした。しかしこれらの製品は中国市場であまり売れず、イギリスはインド産アヘンを中国に密輸した。この結果、今度は中国から銀が流れ出るようになった。
2 アヘン戦争
1)アヘン戦争
 清朝皇帝の特命で広州に派遣された林則徐が、アヘンを没収してイギリス商人の貿易を禁止すると、イギリスは1840年、大艦隊を派遣して攻撃し、清をやぶったが、この戦争をアヘン戦争と呼ぶ。
2)南京条約
 1842年の南京条約などで、清はイギリスに対して香港の割譲と、上海など5港の開港、公行の廃止、賠償金の支払いを認めた。翌年には、領事裁判権、協定関税制、片務的最恵国待遇などを認めた。1844年には、清はアメリカ、フランスとも不平等条約をおしつけられた。これに対して、中国民衆は平英団と呼ばれる組織をつくって抵抗するなど、民族運動のさきがけとなる動きもめばえた。
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蒸気機関車860形(トレヴィシックの孫、リチャード・フランシス・トレヴィシックが設計と製作の指揮を行った日本最初の国産蒸気機関車)
 【7】 おわりに
 従来の産業革命の授業は木綿工業の機械化からはじめ、なぜこの部門から産業革命がはじまったのか、当時のイギリスの三角貿易とインド貿易など国際的な背景を中心に授業を進めてきた。しかし、イギリス産業革命全体をながめていけば、木綿工業よりも、むしろ鉄道の方が大きな役割を果たしていたのではないだろうか。また、生徒にとっても鉄道(蒸気機関車)は木綿工業よりも身近で興味があり授業を進めやすい。このような理由で私は鉄道(蒸気機関車)を中心とした産業革命の授業を試みたが、実は私にはもうひとつ理由があった。それはトレヴィシックという人物に興味をもったからである。イギリスでは、今でこそ彼を「蒸気機関車の父」と呼んでいるけれど、少し前までは彼の名前も忘れられていた。そして、「蒸気機関車の父」とは、スティーヴンソンを指していたのである。これらの違いはどこから生じたのか、それは鉄道事業に成功したかどうかによるのである。トレヴィシックは事業に失敗して極貧のなかで死に、スティーヴンソンは事業に成功して世界中にその名をとどろかせた。しかし、日本の鉄道開発においては、トレヴィシックの方が大きな役割を果たしている。彼の孫にあたるR・F・トレヴィシック(1845~1913)は、1888(明治21)年に汽車観察方として着任し、官鉄神戸工場にて、日本最初の国産蒸気機関車860形を製造(1893年)したのをはじめ、日本の技師養成に功績を残している。また、その弟のF・H・トレヴィシック(1850~1931)は、兄よりも早く、1876年に来日し、1889年に汽車監督となり、1893年には、信越線、横川ー軽井沢間のアプト式機関車の試運転を担当し、同年の開通に成功している。日本鉄道の歴史にとっても、トレヴィシックの名前は忘れてはならないであろう。(「日本大百科全書」小学館 参照)
(参考文献)
角山栄著「イギリス産業革命」『岩波講座 世界歴史(18)』岩波書店 1970年
R・J・フォーブス著・田中実訳『技術の歴史』岩波書店 1956年
ソ連科学アカデミー編・金光不二夫他訳『世界技術史』大月書店 1986年
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