<   2013年 06月 ( 14 )   > この月の画像一覧

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(旧市街アーケイド)
 聖墳墓教会見学後、私たちはエルサレムの旧市街アーケイドを通ってレストランへと向かった。アーケイドの両側には芸術作品が多数並んでいた。作品の横には作者の連絡先が書かれており、作品を買いたい人はそこに連絡して値段の交渉をするのだとガイドさんに教えてもらった。
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(アーケイドの壁画)
 アーケイドの壁に古代のユダヤ人街の様子が描かれていた。
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(マリア永眠教会)
 旧市街のレストランで昼食をとった後、私たちは歩いてシオンの丘周辺の観光へと向かった。シオン門のすぐ南にイエスの母マリアを祀って建てられたマリア永眠教会が建っていた。この教会はエルサレムでも有数の大きな教会で、1910年に10年がかりで完成したものである。
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(マリアとイエス)
 教会内部の天井には、マリアとイエスの絵が描かれていた。
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(永眠するマリア像)
 地下聖堂に降りると永眠するマリアの像が横たわっていた。新約聖書にはマリアの記述はほとんどなく、そのために各地にマリアに関する記念の地が残されている。私が以前トルコ旅行したときにも、エフェソスに「マリアの家」があり、マリアはイエスの死後、そこで余生をおくったとされていた。しかし、当時の交通事情と、マリアに縁のない遠いエフェソスに行ったとはとうてい考えられないとガイドの信夫さんは主張するが、私も同感である。イエスが葬られている場所の近くで余生をおくったと考えた方が妥当であると私も思う。さて、キリスト教では、古代においてはマリアはあまり重視されてこなかった。だからこそ新約聖書にもマリアの記述がほとんどないのである。ローマ帝国を倒したゲルマン人がキリスト教を受け入れたときに、ゲルマン人が持っていた地母信仰がキリスト教に影響を与え、聖母マリア信仰が広がっていったのだといわれている。
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(最後の晩餐の部屋)
 マリア永眠教会のすぐ近くに、イエスが処刑前夜に弟子たちを集めて最後の晩餐を行ったといわれる部屋を訪れた。部屋の中は殺風景で、ダ・ヴィンチの名作「最後の晩餐」に描かれた場所とはまるで違っている。なぜこの部屋が最後の晩餐の部屋と指定されたのか根拠がよくわからなかった。
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(ダビデ王の墓)
 最後の晩餐の部屋の下には、古代ヘブライ王国の二代目の王であるダビデの墓がある。ダビデはミケランジェロの作品でも有名で、ペリシテ人の侵略からヘブライ王国を守った英雄である。石棺はダビデの星が刺繍されたビロード布に覆われている。しかし、今から3000年も前の王の墓がこんな場所にあり、しかも石棺がビロードで覆われて現在も残されているなど、私にはそれが本物であるとは思われなかった。
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(ダビデ王の像)
 ダビデ王の墓の入口にダビデ王の像が置かれていた。そのダビデ王は竪琴を持っている。なぜダビデが竪琴を持っているのかというとそれは神話に由来する。羊飼いの少年であったダビデは心の病をわずらっていたサウル王を竪琴で癒したとされているからである。
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(聖墳墓教会の入口)
 イスラエルにはキリスト教徒にとって最も重要な教会が三つある。ナザレの受胎告知教会、ベツレヘムの聖誕教会、エルサレムの聖墳墓教会である。
 聖墳墓教会は、イエスが十字架刑に処せられたゴルゴタの丘に建てられた教会である。ゴルゴタというのは、ギリシア語で髑髏(ろくろ)のことであり、丘の地形が頭蓋骨の形に似ているからという説と、旧約聖書に出てくる最初の人間であるアダムの頭蓋骨が埋葬されていたからという説がある。イエスはここに埋葬されたと新約聖書に書かれているが、この場所を発掘して教会を建てたのは、コンスタンティヌス帝の母ヘレナであり4世紀のことである。教会は、その後ササン朝ペルシアやイスラム勢力により大打撃を受けるが、十字軍時代に大改築されている。現在の教会は、19世紀に大火事で大破し再建されたものである。
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(毎朝門を開けるアラブ人)
 教会には、カトリック、ギリシア正、アルメニア、コプトなどの各宗派がチャペルを管理しているが、対立が絶えないらしい。教会の門の所有権をめぐっても争いが起こり、毎朝入り口の門を開けるのは近くに住んでいるアラブ人の仕事になっている。
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(第10ステーション、イエス、衣を脱がされる)
 教会に入り、右側にあるカトリックの小聖堂が第10ステーションである。ここでイエスは衣を脱がされたといわれている。
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(第11ステーション、イエス、十字架に釘付けにされる)
 カトリックの釘付けの祭壇には、釘付けにされたイエスの聖堂画が飾られている。
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(第12ステーション、イエス、十字架上で息を引き取る)
 新約聖書によると、「イエスは大声で叫ばれた、『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ』と。訳すと『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てですか』である。・・・イエスは大声を出して息絶えられた。」とある。ここには、ギリシア正教会の十字架の死の祭壇がある。
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(第13ステーション、イエス、十字架から降ろされる)
 ここにはイエスの死を嘆くマリアの小祭壇があり、十字架から降ろされるイエスの絵が飾られている。ここでマリアがイエスの亡骸を受け取ったと伝えられている。
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(第14ステーション、イエス、墓に葬られる)
 ヴィア・ドロローサの終点。イエスが墓に納められた場所とされている。現在はギリシア正教会の聖堂になっており、2メートル四方の小部屋の半分を墓が占めている。
 イエスの墓が納められている聖堂は人であふれていた。墓に入るためには参列者の後ろに並ばなければならないので諦めた。
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(アラブ人の商店街)
 「嘆きの壁」を見学した後、私たちはアラブ人の商店街を通って「ヴィア・ドロローサ」(悲しみの道)へとむかった。
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(鞭打ちの教会)
 「ヴィア・ドロローサ」(悲しみの道)は、イエスがローマ総督のピラトの官邸で行われた裁判で死刑とされてから、十字架を背負って死刑場となったゴルゴタの丘への全長1㎞の道をラテン語で「悲しみの道」と呼ばれているのである。「ヴィア・ドロローサ」は第1ステーションのピラトの官邸からゴルゴタにある聖墳墓教会まで14ステーションある。私たちは第1ステーションのピラトの官邸のあった場所(現在はオマリエ学校)から歩いて第2ステーションの「鞭打ちの教会」を見学した。ここで十字架を背負わされたイエスは、茨の冠を被せられ、ローマ兵に鞭打たれる。
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(「鞭打ちの教会」のステンドグラス)
 この教会のステンドグラスにはイエスが鞭打たれている様子が描かれている。また、祭壇上のドームには茨の冠も飾られている。
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(紫の服を着せられたイエス)
 また、この教会には紫の服を着せられたイエスの壁画が飾られている。新約聖書によると、ピラトの兵士たちは、ふざけてイエスを「ユダヤ人の王」といって紫の服を着せたと書かれている。紫色は高貴な人が着るものであるから。
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(エッケ・ホモ・アーチ)
 第2から第3ステーションに行くまでの間に、有名な「エッケ・ホモ・アーチ」がある。「エッケ・ホモ」とは、ラテン語で「この人を見よ」という意味である。この場所でピラト総督が茨の冠を被り、紫の服を着て出てきたイエスを指していった言葉からきている。このアーチは、135年にローマのハドリアヌス帝がエルサレム征服を記念し、建造した三重の凱旋門の一部が残ったものである。
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(第3ステーション)
 第3ステーションは「イエスが十字架の重みに耐えかね、最初につまずいた場所」である。現在この場所には、ポーランド・カトリック教会がある。
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(第4ステーション)
 ここは、母マリアが群衆に混じってイエスを見守ったとされる場所であり、それを記念して現在アルメニア・カトリック教会が建てられている。
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(第5ステーション)
 新約聖書によると、「そこへ、シモンというクレネ人が、田舎から出てきて通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。」と書かれている。この場所が第5ステーションである。
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(第6ステーション)
 この場所でベロニカという女性が、イエスの顔を拭ったという逸話があり、現在はベロニカ教会がある。
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(第7ステーション)
 ここは、イエスが2度目に倒れた場所を記念して第7ステーションとされた。この門にイエスの死刑判決文が貼り出されたことから、「判決の門」と呼ばれる。
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(第8ステーション)
 新約聖書によるとイエスは、「エルサレムの娘たち、私のために泣くな、むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け」と語ったが、この場所が第8ステーションである。現在建っているギリシア正教会の壁に、記念の十字架がはめ込まれている。
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(第9ステーション)
 ここはイエスが3度目に倒れた場所であり、コプト教会の入口にある。第10ステーションから第14ステーションは聖墳墓教会の内部にある。
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(観光5日目)
 イスラエル観光もいよいよクライマックスに入ってきた。私たちは午前8時にホテルを出発し、バスでエルサレムの旧市街へと向かった。旧市街は城壁に囲まれており、城壁には8つの門がある。門の名前は「ダマスカス門」「ヘロデ門」「聖ステパノ門(ライオン門)」「黄金門」「糞門」「シオン門」「ヤッフォ門」「新門」である。ガイドさんに説明されてもこれが何という門であったのかよくわからなかった。ホテルから旧市街へは距離的には近いのであるが、道が車で混んでおり40分かかってやっと旧市街に入った。
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(岩のドーム)
 私たちが最初に見学したのは神殿の丘に建つ岩のドームである。神殿の丘は、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教にとって歴史的にも精神的にもエルサレムの中心地である。特にユダヤ人にとって世界中で最も聖なる場所として崇められている。旧約聖書によると、神殿の丘の中心にある岩は、アブラハムが神の命により息子のイサクを生贄として捧げようとした場所である。後にソロモン王はここに第一神殿を建てたが破壊された。その後ヘロデ王により第二神殿もここに建てられた。現在残っている神殿の土台部分は第二神殿時代のものである。イエスも2000年前に頻繁にこの神殿を訪れたといわれている。
 神殿の丘の中心にありユダヤ人にとって最も聖なる岩の上には、現在イスラム教のモスク、黄金に輝く岩のドームが建っている。イスラム教によれば、ここは預言者ムハンマドが天馬に乗って昇天した場所であり、メッカ、メディナに次ぐ聖地なのである。
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(岩のドームの入口)
 岩のドームの入口には人が座っており自由に入ることができなかった。昔はお金を払って入ることができたが、残念ながら今はムスリム(イスラム教徒)以外はここに入ることはできない。
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(神殿の丘の広場)
 神殿の丘は思ったより広く、エルサレムの町を見渡すことができた。
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(嘆きの壁)
 岩のドームを外から見学した後、私たちは「嘆きの壁」にやって来た。この壁はユダヤ人にとって最も神聖なものであるが、彼らはこの壁を「西の壁」と呼んでいる。この壁はヘロデ王が紀元前20年に建てた第二神殿の城壁の一部である。ローマ帝国の支配に抵抗して紀元70年にユダヤ戦争が起こされたが、この時にローマ軍により神殿は破壊されたが西側の城壁が残ったのでそう呼ばれている。神殿の崩壊後、ユダヤ人のエルサレム立ち入りは禁止されていたが、ミラノ勅令の4世紀以降、1年に1日だけ立ち入りを許され、それ以来彼らは壁の前で祈るようになったのである。
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(壁の横にある図書館)
 「嘆きの壁」は男女分かれて祈るようになっている。それは、祈りの時に異性がいると祈りに集中できないからだとガイドさんに教えられた。「嘆きの壁」には誰でも入れるが、男性は頭を隠さなければならない。私は帽子を持っていたが、入口で貸してくれるナイロン製のキッパ(小さな帽子)をかぶって入った。添乗員さんによると、キッパを無料でくれるというので私は記念にもらって帰った。
 壁の横は図書館のようになっている。学校の遠足なのか小学生が見学に来ていた。
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(熱心に祈るユダヤ教徒)
また、ユダヤ教徒が図書館にある旧約聖書を借りて熱心にお祈りをしていた。
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(ベツレヘムの検問所)
 ベツレヘムは、1995年以降パレスティナ自治区に返還されてアラブ人の町となった。そのためイスラエルのユダヤ人がここにはいるのは難しく、バスの運転手のウリさんはユダヤ人なので緊張しているとのことである。私たちは検問所でバスから降りて厳しい手荷物検査を受けた。
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(聖誕教会)
 新約聖書によると、ナザレに住んでいたイエスの両親は人口調査のためにヨセフの故郷であるベツレヘムへとやって来た。彼らがそこにいるうちに、マリヤは月満ちて、男の初子を生み、布にくるんで飼葉桶に寝かせたとある。コンスタンティヌス帝の母ヘレナにより、イエス生誕の地とされた地下洞窟の上に聖誕教会が建設され、339年に完成された。その後火災にあい、6世紀にユスティニアヌス帝により再建された。現在の建物は十字軍時代に修復され、外敵の攻撃を防ぐために要塞化されたものである。
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(聖誕教会内部の古いモザイクの床)
 この教会の床にはところどころ穴が開けてあり、モザイクが見られるが、それはコンスタンティヌス帝の頃のものである。
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(ギリシア正教会の管理する祭壇)
 この教会の入口は「謙虚の扉」と呼ばれる狭いドアがある。そこを入ると大理石の太い柱が並び、天井からは金属製のランプがたくさんぶら下がっている。
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(イエスが生まれた場所)
 正面の祭壇はギリシア正教会が管理しており、その横の階段を下りると洞窟がある。そこにビロードで覆われた祭壇があり、その下にはイエスが生まれたとされている場所に星の印があった。
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(聖カテリーナ教会)
 聖誕教会のすぐ北にはフランシスコ派修道院の聖カテリーナ教会がある。12月24日のクリスマスイブにはこの教会でテレビ中継が行われる。
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(教会にあるイエスの人形)
 クリスマスイブのミサではイエスの誕生が人形を使って演出されるが、そのときに使用される人形が教会に安置されていた。
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(ヒエロニムスの像) 
 この教会の前にはヒエロニムスの像が立っている。彼はこの教会の洞窟にたてこもって、ヘブライ語の聖書をラテン語に翻訳した。
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(洞窟に描かれたヒエロニムスとバウラの壁画)
 ヒエロニムスを援助したのがバウラと呼ばれるローマの婦人である。彼女の協力で翻訳を完成させることができた。壁画にはヒエロニムスとその弟子、バウラとその娘が描かれている。バウラの死後、彼は彼女の骨をそばに置き、翻訳作業を続けたという。ヒエロニムスの像をよく見ると、彼の足下に頭蓋骨が置かれている。
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(ベツレヘムの分離壁)
 ベツレヘムにも分離壁が設置されている。イスラエルがパレスティナ側からのテロを防ぐ目的でつくられたものであるが、アパルトヘイトウォール(隔離壁)とも呼ばれ、パレスティナ人を隔離する壁ともなっている。私たちがバスでベツレヘムを出るときに、イスラエルへの出稼ぎから戻ってきたパレスティナ人の労働者が、検問所に並んでいるのが見えた。
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(マハネー・イェフダー市場)
 ベツレヘム観光後、私たちはエルサレムの中心地にあるマハネー・イェフダー市場を散策した。
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(ナツメヤシ)
 私はこの市場で一番上等のナツメヤシを2キログラムとピスタチオを500グラム買った。ナツメヤシはチュニジアやモロッコでも買ったが、イスラエルのナツメヤシは大きくて立派なものだった。ここの市場では、私が訪れた他の国と違って一切ディスカウントはしてくれなかった。
 市場散策後、私たちはバスでホテルに帰った。
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(ゲッセマネの園のオリーブの木)
 「主の泣かれた教会」見学後、私たちは「ゲッセマネの園」に入場した。ゲッセマネとはヘブライ語で油搾りを意味する。昔この辺り一面はオリーブの木が植えられており、オリーブの精製が行われていた場所である。そこには、ガイドさんによると樹齢1000年ともいわれるオリーブの木があった。
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((岩にイエスが祈っている姿が描かれている)
 新約聖書によると、弟子たちとの最後の晩餐を終えたイエスが、ゲッセマネの園に入り、このあとに起こる出来事を予感しながら、地の汗を流し、神に祈る様子が描かれている。
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(万国民の教会)
 次にゲッセマネにある「万国民の教会」を訪れた。この教会は苦悶しつつ祈ったところから別名「苦悶の教会」ともいわれる。この教会は380年にビザンチン教会として建立され、その後破壊されたが、1925年に世界12カ国からの献金によって再建されたので万国民教会と名付けられたのである。
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(苦悶のイエス)
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(ユダの接吻)
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(イエスの逮捕)
 この教会の壁には、「苦悶のイエス」「ユダの接吻」「イエスの逮捕」などの壁画が描かれている。
 「万国民教会」見学後、私たちは昼食にイスラエルの中華料理を食べた。ユダヤ教では豚肉やエビ・カニ・タコ・イカなどを食べてはいけないことになっている。このような食材を使わない中華料理はおいしくないだろうと思っていたが、意外とおいしかった。イスラエルの料理は私の口に合わなかったので、ここの中華料理をたらふく食べた。
 
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(遠くに分離壁が見える)
(観光4日目)
 私たちは午前8時にバスで展望のきく高台に案内された。そこからはヘブライ大学や東方のアラブ地区がよく見渡せたが、遠くにイスラエルが建設した分離壁が見える。この地域は、以前はヨルダンの領土であったが、ヨルダンはこの地域を放棄し、今はパレスティナ自治区となっている。現地ガイドの信夫さんによると、この壁のおかげでテロは激減し、イスラエルは安全な国になったと主張している。
 ところで、ユダヤ人が住んでいた地域をパレスティナと呼ぶようになったのはいつ頃かというと、それはローマ帝国の時代であるといわれる。ローマ帝国の支配に対して、紀元1世紀におこなわれたユダヤ戦争でユダヤは敗北した。その結果、ローマはこの地からユダヤ人を排斥し、ユダヤ人はローマ帝国各地に散らばっていった。ローマはユダヤ人が住んでいた地域を昔ユダヤ人と敵対していたペリシテ人の名をとって、パレスティナと呼ぶようになったといわれている。
 世界史は不思議なものである。古代のイスラエル王国を倒したアッシリア人やユダ王国を滅ぼした新バビロニア人、さらにはエジプト人やギリシア人、ローマ帝国を建てたローマ人でさえ民族的には消滅している。にもかかわらず2000年年も前に離散したユダヤ人は消滅せず、1948年にパレスティナにイスラエル国家を建設している。ユダヤ人が消滅しなかった理由は何か、それはユダヤ教という宗教である。実は、現在パレスティナ自治区に住んでいるアラブ人とユダヤ人のDNAを調べると、ほとんど違いはないらしい。パレスティナ人とユダヤ人を隔てているものは、宗教にもとづく言語や風俗・習慣などのちがいである。
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(主の祈りの教会)
 さて、私たちがエルサレムで最初に訪れたのは、オリーブ山周辺にある「主の祈りの教会」である。この教会は、4世紀にコンスタンティヌス帝の母ヘレナが、聖地巡礼をした際に、この地が荒れていることに心を痛めて建てたものである。教会の由来は、イエスが弟子に請われて、主の祈りを教えたといわれる場所に建てられた教会で、現在の建物は1874年に再建されたものである。
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(主の祈りが多くの言語で書かれた壁面のタイル)
 教会内部の壁面のタイルには、日本語をはじめ世界各国の言語で主の祈りが書かれている。
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(オリーブ山から見た景色)
 オリーブ山からエルサレムの城壁内を見ると、昔ユダヤの神殿があったといわれる場所に建てられた24金に輝く岩のドームがよく見える。城壁の手前にはアラブ人の棺が頭を岩のドームに向けて置かれており、オリーブ山の前にはユダヤ人の棺が足を城壁に向けて置かれている。神聖な場所に頭を向けるのが普通であるが、ユダヤ人はメシア(救世主)により復活したときに、神殿に向けて立てるように足を神殿に向けているとのことである。
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(主の泣かれた教会)
 次に私たちは「主の泣かれた教会」を訪れた。この教会は、イエスがオリーブ山からエルサレムを眺め、その滅亡を預言し泣いたという云われる、新約聖書にもとづき、1955年に建てられた教会である。
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(昔のお墓)
 ここにはイエスの時代のお墓が発掘されており、横穴に棺が置かれていた様子がわかる。処刑されたイエスがこのような横穴のお墓に葬られたのである。
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(からし種の木)
 教会の周りを歩いていると、「からし種」の木を見つけたガイドの信夫さんが、花から種を出して見せてくれた。新約聖書には、「からし種」のたとえ話が出てくると教えてもらった。あとで調べてみると、聖書には、「からし種ほどの信仰があれば、この山にここからあそこに移れといえば移り、あなた方にできないことはなかろう」と。さらに、「天国はある人がつまんでみずからの畑にまいたからし種に似る。種という種のうちもっとも小さいが、育つと、野菜のうちでももっともおおきくなり、木になり、空の鳥が来て枝に巣くうほどになる」と書かれていた。聖書にあるように、「からし種」は本当に小さな種であった。
 
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(聖ガブリエル教会)
 古代イスラエル生活体験後、私たちはバスでナザレの町に向かった。ナザレは新約聖書によると、聖母マリアがイエスの誕生を天使ガブリエルに告げられた地であり、イエスが宗教活動を始めるまでの約30年間、両親と暮らしたところである。
 バスに乗っておよそ20分ほどでナザレの町に着いた。私たちが最初に訪れたのは聖ガブリエル教会である。この教会はギリシア正教会が、マリアが受胎を告知されたことを記念して17世紀に建てた聖堂である。
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(マリアの井戸)
 ギリシア正教会によると、天使ガブリエルがマリアの前にはじめて現れたのが、マリアの井戸と呼ばれる所である。この教会の地下は、マリアの井戸の水源となっている。
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(聖ガブリエル教会のイコン)
 聖ガブリエル教会にかかわらず、ギリシア正教会ではイコン(聖像)をたくさん飾るのが特徴である。イコンという言い方は正教会のみで、カトリックでは聖像画と呼んでいる。ところで、私たちがパソコンで使っているアイコンは、このイコンから来ているとガイドさんに教えてもらった。
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(受胎告知教会)
 次に私たちは受胎告知教会を訪れた。この教会は、326年にコンスタンティヌス帝が、母ヘレナの頼みに答えて、マリアの家の跡とされる場所に築いたものである。その後、7世紀にはイスラム教徒に占領され、11世紀には十字軍によって再建された。現在の教会は1969年に建てられたもので、中東最大の教会である。
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(受胎告知教会の聖堂)
 聖堂の三角形の屋根はアヴェ・マリアの「A」をかたどったものである。
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((受胎告知教会の地下にある洞窟の祭壇)
 受胎告知教会がこの場所に建てられた理由は、マリアの時代は洞窟に住んでいたのであり、ここで天使ガブリエルのお告げを受けたとされているからである。しかし、イエスの時代から300年も経って、マリアの住んでいた洞窟を探すのは、いくら皇帝であっても不可能なことだと私には思われる。
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(ルカ長谷川「華の聖母子」
 この教会には、世界の国々から贈られた聖母子像が飾られている。日本から贈られたルカ長谷川の作品「華の聖母子」が教会の上階の壁画に飾られている。
 次に私たちは聖ヨセフ教会を見学後、エルサレムに向かった。距離は約175㎞、約2時間30分ほどかかってエルサレムのホテルに到着した。
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 パンと魚の奇蹟教会を見学した後、私たちはバスでナザレへと向かった。距離は23㎞、所要時間は約30分の行程である。途中、映画「ダヴィンチ・コード」で有名となったマグダラを通過した。新約聖書によるとマグダラのマリアは、イエスによって七つの悪霊を追い出して病気を治してもらい、イエスに奉仕をしていた。また、復活したイエスの姿を最初に見たのもマグダラのマリアである。マグダラはアラム語で見張り塔を表し、港を防御するための塔があったために名付けられたといわれている。
 
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(カナ婚礼教会)
 バスで30分走った後、私たちはナザレの近郊にある「カナ婚礼教会」を見学した。ここは、新約聖書でイエスが最初に奇蹟を行った場所とし建てられた教会である。カナで婚礼があり、マリアやイエス、弟子たちも婚礼に招かれた。婚礼の最中にワインがなくなったことをマリアから聞いたイエスは、水をワインに変えたという。この教会の前にはワインを売る店があり試飲させてくれたが大変甘かった。私は記念に小さなボトルに2本入って1セットとなっているワインを1つ買った。
 
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(下校する中学生)
 カナの町を歩いていると、下校する中学生に出会った。現地ガイドさんによると、学校は8時に始まり午後1時か1時半には終わり、給食はないとのことだ。学校は、小学6年、中学3年、高校3年制で、18歳になると男子は3年女子は2年、徴兵に行かなければならない。徴兵を終えた男子は20歳を超えており、そのためか大学は3年制である。義務教育は、小学校に入学する前の幼稚園1年間と小・中学校と高校2年までである。日本と比較してなんと義務教育の期間の長いことか。まわりをアラブの国に囲まれているイスラエルにとって、人材の育成のために教育に力を入れているのがよくわかる。
 カナの町を後にして、私たちはバスでナザレのケファー・ケデムという村で、古代イスラエル生活を体験した。
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(ナザレの村で古代イスラエル生活を体験)
 古代イスラエルの民族衣装を着て、まずロバに乗って広場を一周した。馬と比べて背が低いので怖さはないが、なかなか云うことを聞いてくれない。歩かないで草を食べ始めるのである。ロバを叱るとまったく歩かなくなった。今度はなだめすかして頭をなでてやると、やっと云うことを聞いて素直に歩いてくれた。叱って育てるよりもほめて育てた方がよいのは、ロバも人間も同じである。
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(山羊の乳搾り)
 次に山羊の乳搾りとその乳でチーズをつくったり、パンを焼く体験をした。つくりたてのチーズやパンもおいしかった。
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(観光3日目)
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(ヤルデニットの洗礼場所)
 6月10日(月)午前8時にティベリアのホテルを出発し、ガリラヤ湖の南端に位置するヤルデニットへと向かった。ここはヨルダン川に流れ出すところで洗礼ポイントがある。イエスがヨハネから洗礼を受けたとされる場所は、さらに下流のエリコ近郊にあるが、エリコは現在パレスティナ自治区となっており、洗礼をおこなうにはこちらの方がよく整備されており人気がある。
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(山上の垂訓教会)
 洗礼ポイントを見学した後、私たちは山上の垂訓教会を訪れた。新約聖書に「求めよ、さらば与えられよう。」「狭い門から入れ」などの教えは、ここで生まれている。
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(山上の垂訓の丘からガリラヤ湖が見える。)
 1930年に完成した八角形の美しい教会は、高さ125mの丘の頂に建てられている。ガイドの信夫さんによると、「イエスは丘の上から教えを説いたとされているがそれは間違いだ。ガリア湖から船で到着したイエスは、イエスの話を聞きたいと集まった人たちの前で、下から丘に向かって説教をされたのである。なぜなら、当時は拡声器のない時代である。多くの人に聞かせるためには下から話した方がよく聞こえるからである。」と。
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(パンと魚の奇蹟教会)
 山上の垂訓教会を見学後、私たちは「パンと魚の奇蹟教会」へと向かった。この教会は新約聖書によると、2匹の魚と5つのパンでイエスについてきた5000人の群衆を満腹にさせたという奇蹟にちなんで建てられた教会である。ここは350年にはすでに教会が建てられていた。6世紀にはそれが修復され、現在はそれを土台として造られたベネディクト派の修道院がある。会堂にはビザンツ時代のモザイクの床が残り、2匹の魚とパンが描かれている。
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(教会の床に描かれた2匹の魚とパンのモザイク)
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