<   2013年 07月 ( 7 )   > この月の画像一覧

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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
6 東南アジア
1)フィリピン
 東南アジアは、19世紀後半までに欧米の植民地として商品作物の生産をしいられるようになっていた。16世紀後半からスペインの植民地となっていたフィリピンでは、ホセ・リサールやアギナルドを指導者として独立運動が広がり、1898年には独立宣言を発して革命政府を樹立した。しかし、米西戦争に勝ったアメリカによって占領され、その植民地となった。
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
2)インドネシア
 スマトラではムスリムの抵抗運動が鎮圧され、オランダの支配は強化された。ジャワでは、ブディ・ウトモ(最高の知恵)のような民族主義団体が結成され、またイスラームや相互扶助をかかげたイスラーム同盟は、第一次世界大戦後、独立運動の中心となった。
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
3)ヴェトナム
 フランスの植民地となったヴェトナムでは、ファン・ボイ・チャウの知識人が日本の明治維新にならった独立と立憲君主制をめざして維新会を結成し、日本への留学運動である東遊運動を行った。しかし、フランスの要請を受けた日本政府は留学生を圧迫し追放した。
7 南アジア
 インドでは、1885年にインド人の資本家や知識人を中心に、インド国民会議が開かれ、民族運動の中心となっていった。イギリスは1905年に、運動の中心であったベンガル州を、ヒンドゥー教徒とムスリムのあいだで分割するというベンガル分割令を出した。これは宗派対立を利用して民族運動の分裂を図ったものである。これに対して国民会議派はボイコット(イギリス商品の不買)、スワデーシ(国産品愛用)、スワラージ(自治)、民族教育の4つのスローガンを掲げて、イギリスに立ち向かった。他方、ムスリムの指導者は、全インド・ムスリム連盟を結成し、イギリスはこれを後押しした。
8 西アジア
 トルコではスルタンの専制の打倒と立憲政治の復活をめざす青年トルコ(統一と進歩委員会)が、1908年に軍の反乱を組織し、やがて政権をにぎった。
 イランでも、国王の専制への批判が強まり、1906年には、ウラマーや民衆の要求に応じて国民議会が招集され、列強への利権譲渡や外債の拒否を議決し、憲法が発布されたが、これをイラン立憲革命と呼ぶ。しかし、ロシアの軍事介入により挫折した。
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第40回世界史講座は、7月27日(土)午後2時より行なわれました。受講者は4名でした。
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(帝国書院「エスカリエ」より)
 5 辛亥革命
1) 清末の改革
 義和団事件後、清朝はようやく政治体制の改革に着手した。科挙が廃止され、憲法大綱が発布されて、立憲帝政への移行がすすんだ。しかし、満州族の支配に反発する気運も高まり、各地で革命運動が活発化した。1905年には東京で孫文を中心に中国同盟会が結成された。孫文は、民族独立・民権伸張・民生安定を革命の三大目標とする三民主義を唱え、武装蜂起を繰り返した。
 なぜ孫文は今までの中国でおこった政治運動とは違い、近代的な革命思想を持つことができたのか。それは、康有為や梁啓超などの科挙試験に合格した官僚出身ではなかったからである。彼はハワイの学校で民主主義思想を学習したという彼の生い立ちが大きな役割を果たしていると思われる。孫文については、このブログの「人物世界史」の「孫文」を参照してください。
2)辛亥革命
 1911年、清朝は外国からの借金によって政権を強化しようとはかり、その担保として民間鉄道の国有化を強行した。これに対して各地で激しい反対運動がおこり、四川省で民衆暴動がおきると、武昌では同盟会などの革命派が軍隊を動かして蜂起し、清朝からの独立を宣言した。これをきっかけにして、清朝からの独立を宣言する動きが各地であいつぎ、1912年1月、孫文を臨時大総統とする共和政の中華民国が南京に樹立されたが、これを辛亥革命と呼ぶ。
 清朝は、軍事力をにぎる実力者袁世凱を起用したが、袁世凱は革命政府と結んで、清朝最後の宣統帝を退位させるとともに、孫文から臨時大総統の地位をゆずり受けた。革命派は議院内閣制の確立をめざしたが、袁世凱はこれを武力で弾圧し、独裁を強化して帝政の復活をくわだてた。これは内外の反対により挫折したが、そののち中国では、列強の支援を受けた有力な地方の軍人である軍閥が対立抗争をくり広げ、中国の統一は困難をきわめた。
 一方、辛亥革命をきっかけにして、それまで清の領土であった外モンゴルとチベットが独立を宣言した。外モンゴルでは、ロシア革命の影響のもとで、1924年にモンゴル人民共和国を建国した。チベットでは1913年、ダライ・ラマ13世が独立を宣言したが中国側は認めなかった。
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(帝国書院「エスカリエ」より)
3 日露戦争
1)日露戦争の背景
 義和団事件以後も、中国東北地方(満州)に軍隊を駐留させていたロシアは、さらに朝鮮に勢力を拡大しようとした。日本はこれに危機感を持ち、またイギリスもロシアの南下政策を押さえようとした。日本とイギリスは1902年に日英同盟を結び、東北地方への関心を強めていたアメリカも、日本を支持した。一方、ロシアもフランスやドイツの支持を得ていた。こうした国際関係のなかで、1904年に日露戦争がおこった。
2)戦争の経過
 1904年2月8日、日本軍が旅順港に停泊中のロシア艦隊を奇襲し、10日に宣戦布告
 1905年1月旅順攻略、日本は5万9000あまりの大きな犠牲
       3月奉天会戦、両国とも30万前後の大軍が激突、以後戦闘はこう着状態
       5月日本海海戦で日本軍の勝利
 日本は戦局を有利に進めたが、戦力の限界に達した。ロシアでも、1905年におこった「血の日曜日事件」をきっかけとする第一次ロシア革命のため、戦争の継続が困難となった。両国は、アメリカ大統領セオドア・ローズベルトの仲介によってポーツマス条約を結んで講話した。この結果、日本は韓国の保護権、遼東半島南部の租借権、東清鉄道の南満州支線の利権、南樺太などを得た。
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(帝国書院「エスカリエ」より)
4 日本の韓国併合
 日本は、日露戦争開戦の1904年に第一次日韓協約を結び、韓国政府に日本人顧問を採用させた。さらに1905年には第二次日韓協約を結んで韓国統監府を設置し外交権を奪った。1907年に韓国皇帝の高宗がハーグ万国平和会議に密使を送ったが、列強はこれを無視し、日本は高宗を退位させ、第三次日韓協約を結んで韓国の内政権を獲得し、軍隊を解散させた。これに対し半日義兵闘争が起こり、初代の韓国統監だった伊藤博文は、ハルピンで韓国人青年安重根に射殺された。翌1910年、日本は日韓併合を断行し、朝鮮総督府を設置して朝鮮半島を完全な植民地とした。
 
 次回、第40回世界史講座は7月27日(土)午後2時より「辛亥革命」「アジアの民族運動」などをテーマに行います。
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(帝国書院「タペストリー」より)
   Ⅱ アジアの民族主義と国家建設
1 中国分割と清末の改革
1)中国の分割
 下関条約の後、ロシア・フランス・ドイツが日本に圧力をかけ、遼東半島を清に返還させたが、これを三国干渉と呼ぶ。しかし、ロシアは東清鉄道(シベリア鉄道のバイパス)の権利を手に入れた。この頃から列強は、租借地や鉄道建設の利益を獲得したり勢力範囲を定めたりした。ドイツは山東半島をロシアは旅順・大連(遼東半島)など、イギリスは威海衛(山東半島)と長江流域と香港・九竜半島など、フランスは広州湾などを獲得した。遅れて進出したアメリカは、門戸開放宣言を出し、割り込みをはかった。
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(帝国書院「エスカリエ」より)
2)変法運動
 こうした列強の動きに対して、清朝では1898年、光緒帝の支持を得た康有為、梁啓超らが、日本の明治維新をモデルに急激な改革をすすめたが、これを変法運動と呼ぶ。しかし、西太后ら保守派は洋式陸軍の司令官袁世凱と組んでクーデターをおこし皇帝を幽閉したが、これを戊戌の政変と呼ぶ。
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(帝国書院「タペストリー」より)
2 義和団運動
1)義和団運動
 北京条約で公認されたキリスト教の教会が各地につくられると、しだいに外国人排斥の意識が強まり、キリスト教の布教に反対する運動が各地に広がっていった。宗教結社の義和団は、ドイツが急速に進出した山東省の農民に支持を広げ、1899年に「扶清滅洋」をとなえて教会をおそった。1900年には北京に入り、外国公使館を包囲したが、これを義和団事件と呼ぶ。
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(実教出版「高校世界史B」より)
2)北京議定書
 これに勢いづいた西太后らは各国に宣戦したが、列強は8カ国連合軍をつくって出兵し、北京を占領した。翌1901年、清は8カ国連合軍に屈服し、巨額の賠償金と北京などへの外国軍の駐留を認める北京議定書に調印した。これ以降、北京周辺には列強の軍隊が駐屯するようになった。
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第39回世界史講座は、7月13日(土)午後2時より行なわれました。受講者は5名でした。
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
 3 帝国主義と国民
1)労働運動の発展と社会民主党の成立
 イギリスでは、1880年代にはほぼ完全な男子普通選挙制が確立し、20世紀初めには労働者の利益を代表する労働党が成立した。
 急激な工業化の進められたドイツでは、ビスマルクが社会主義者鎮圧法を制定する一方で、ヨーロッパ諸国に先がけて社会保険制度を制定した。1890年代に社会主義者鎮圧法が廃止されると、社会主義者の政治活動は活発になり、ヨーロッパで最大の社会主義政党であるドイツ社会民主党が活躍するようになった。
2)パリ・コミューンと第三共和政
 フランスでは1870年に普仏戦争に敗れてナポレオン三世が捕虜となり、第三共和政が宣言された。1871年、フランスはプロイセンに降伏し、アルザス・ロレーヌを失った。これに不満をもったパリ民衆は、直接民主政を求めてパリ・コミューンと呼ばれる革命をおこしたが鎮圧された。この結果、1870年代には労働運動や社会主義運動は弾圧された。しかし、19世紀末、男子普通選挙制のもとで社会主義政党が発展し、20世紀のはじめには労働省が設立された。
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(浜島書店「アカデミア世界史」)
3)第2インターナショナルの成立
 1864年にマルクスの影響を受け、労働者の国際連帯を訴える第1インターナショナルがロンドンで創立されたが、パリ・コミューンのあと、1876年に内部対立などで解散に追い込まれた。しかし、1889年、第2インターナショナルがドイツ社会民主党を中心に成立した。ここでは労働者の国際連帯、とくに反戦平和をめざして活動することになった。
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(ホテルの部屋のドアの飾り)
(観光6日目)
 いよいよイスラエル旅行も早いもので今日が最終日となった。ところで、ガイドさんによるとホテルの各部屋のドアに飾られていたものは、ユダヤ教で最も重要な教えである「神はただ一つ」のひとつをあらわしているとのことであった。なるほど、イスラエルという国はユダヤ教を国教としており、ホテルの各部屋にまでこのようなユダヤ教の教えを守らせるようにしているのかと感心した。しかし、熱心なユダヤ教徒はイスラエルの人口の3割ほどだということである。都市によってその割合は異なり、エルサレムは熱心なユダヤ教徒は4割ほどで、これから行くテルアビブは、2割もいないとのことであった。
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(エルサレムの路面電車)
 今朝の出発は11時ということで、私たちはホテルの近くの駅前にショッピングへと出かけた。エルサレムの新市街には高層ビルが建っており、近代的な路面電車が連結されて走っていた。駅には大きなスーパーもあったが物価が高いので買うメリットもなく、荷物にもなるので何も買わなかった。
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(イスラエルのホンダ車)
 私たちは午前11時にバスでヤッフォへと向かった。距離で62㎞、所要時間は約1時間の予定である。
 イスラエルのナンバープレートは、ユダヤ人とアラブ人によって色が違っており、ユダヤ人は黄色でアラブ人は白である。イスラエルでは国産車はなくすべて輸入車である。ドイツなどヨーロッパの車が多く、全体の3割が日本車で2割が韓国車とのことである。ところが、近年、韓国車の方が安いのでその割合は逆転しているらしい。自動車税が高く、200万円の車なら400万円になるとのことである。バスの窓からガソリンスタンドの看板にリッター7シェケルと書かれていた。日本円で210円となりガソリン代も日本よりかなり高いことがわかった。大学進学率は3割と意外に低く、大学卒の初任給は15万円ぐらいであるとガイドの信夫さんに教えてもらった。
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(ヤッフォのクジラのモニュメント)
 ヤッフォは旧約聖書にでてくる古い港で、古代から栄えていた。歴史は紀元前18世紀にさかのぼる。紀元前10世紀のダビデ王の時代には、ヤッフォに荷揚げされた輸入品がエルサレムに運ばれた。ソロモン王の時代にはエルサレムの神殿にも使われたレバノン杉もこの港から運ばれた。
 私たちはクジラのモニュメントのところでバスを降りた。ガイドさんによると、なぜクジラのモニュメントがあるのかというと、旧約聖書にヤッフォの港に大きな魚が捕れたとあるので、大きな魚を勝手にクジラと決めただけのことである。
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(皮なめしシモンの家とされている)
 新約聖書では、ヤッフォの皮なめし職人シモンの家に宿泊していたペテロを、ローマ軍の百人隊長であったコルネリウスの使者が訪ねたとある。これはキリスト教がユダヤ人の宗教から異邦人へと広がって行く契機となったできことであり、キリスト教が世界宗教となる第一歩を踏み出したことになるのである。現在この家は、アルメニア人が管理しており、家の中に入ることはできなかった。
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(ケドゥミーム広場から見た地中海とテルアビブの町)
 私たちは、シモンの家からケドゥミーム広場に向かった。この広場は1740年に移民してきた最初のユダヤ人の宿泊施設が置かれた場所である。
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(願いの橋)
 ケドゥミーム広場には木製の橋がかかっている。伝説によると、「この橋を渡る者は、星座のサインを触りながら海の方を見ると願い事がかなう」といわれているが、残念ながら橋が老朽化しており渡れなかった。
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(聖ペテロ教会)
 ケドゥミーム広場に面したレストランで昼食をとった後、私たちは広場の近くにある聖ペテロ教会の見学へと向かった。この教会は、復活したイエスと会ったペトロが、ヤッフォを起点に伝道の旅に出発したのを記念して建てられたものである。しかし、聖ペテロ教会も工事中で中に入れなかった。
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(砂浜から見た地中海とテルアビブの町)
 そこで20分のフリータイムとなり、私は友人と2人で砂浜の所まで降りていった。
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(世界文化遺産のテルアビブの古い建物)
私たちはヤッフォからバスでわずか10分ほどでテルアビブに着いた。テルアビブは、20世紀に生まれた新しい都市で、各国大使館や主な企業、大学など政治、経済の中枢機関が集まっている。また、モダンアート特にダンスなどが盛んな都市である。イスラエルでは、ハイファ(イスラエル第3の都市)で働き、エルサレムで学び、テルアビブで踊るといわれている。エルサレムは保守的なのに対してテルアビブは現代的な都市である。
 エルサレムでは宗教的な地味な服装が多く、肌をみせる女性は少なかった。しかしテルアビブでは、ミニスカートやホットパンツの女性が多く、これがイスラエルの国なのかと疑うほどであった。
 ところで、テルアビブに人々が住みはじめたのは20世紀初頭のことである。当時アラブ人の街だったヤッフォに、ヨーロッパから移住した60家族のユダヤ人が、北の土地を購入したのが始まりであった。テルアビブとは、ヘブライ語で「春の丘」という意味で、建国の父、ヘルツの小説『アルトノイラント』(古くて新しい土地)の一節からきている。1920年代には、ポーランド商人を移民として迎え、1930年代には、ドイツから多くの知識人や文化人を招いた。
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(独立記念ホール)
 私たちは、「独立記念ホール」に面した通りで下車しその辺りを散策した。このホールは、1948年5月14日、ここで初代首相ベン・グリオンにより独立宣言が読み上げられた場所である。建物は、テル・アビブ初代市長のメイル・ディゼンゴフの家だったとのことである。
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(メイル・ディゼンゴフの像)
 「独立記念ホール」に面した通りにはテル・アビブ初代市長のメイル・ディゼンゴフの像が建っていた。彼は「この街には2万5000人の人が住むようになるだろう」と言ったが、ガイドの信夫さんによると、現在は周辺の都市を合わせて150万人に達していると。
 私たちはその後、バスでテルアビブの空港へ向かった。空港には3時間前に到着したが、厳しい手荷物検査を受けてやっと搭乗し、21時20分にテルアビブを飛び立ち、イスタンブールで乗り継ぎ、関西国際空港に到着したのは翌日の日本時間の午後5時を過ぎていた。
 私の「イスラエル旅行記」もやっと終わることになりました。最後にイスラエルとはどんな国なのかを簡単に記述しておきます。まず、人口は、約800万人(ガイドさんによる。ウィキペデアでは、2010年で650万人、私の電子辞書では1999年で620万人となっている。)面積は四国ほどの大きさ。産業の中心は、ハイテク産業・金融業・農業技術(近隣諸国に農業用水の灌漑などを作成)・鉱物資源(塩化カリウム・リン鉱石)観光産業など。首都はエルサレムで人口は80万人、住民の81%がユダヤ人で他は大部分がアラブ人。宗教はユダヤ人はユダヤ教でアラブ人は大部分がイスラム教。通貨はシェケルで現在1シェケルは約30円。言語はヘブライ語が大部分でほかにアラビア語など。
 以上、長い間読んでいただきトダー・ラバー(ヘブライ語でありがとう)それでは、シャローム(さようなら)
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(鶏鳴教会にかかっていた看板)
 ダビデの墓を見学した後、私たちは歩いて鶏鳴教会へと向かった。教会には鶏の絵の看板があり、英語で「聖ピーター教会」と書かれていた。ピーターとはペテロのことである。
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(鶏鳴教会)
 鶏鳴教会は、シオンの丘の東斜面に建っているモダンな教会で、ユダヤ教の祭司カヤパの屋敷跡だといわれている。ゲッセマネの園で捕らえられたイエスはこの屋敷に連行され、地下の牢獄に留置されて最後の夜を過ごした場所である。
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(鶏鳴教会の扉)
 教会の扉にはイエスがペテロに話している絵が描かれているが、その内容は新約聖書によると次のような会話である。「今夜あなた方は皆わたしにつまずこう。」ペテロは答えて彼にいう、「たとえ皆があなたにつまずいてもわたしは決してつまずきますまい。」と。イエスは彼にいわれる、「本当にいう、今夜にわとりが鳴く前に、三たびあなたはわたしを知らないといおう。」と。この絵のイエスには光輪が描かれているが、ペテロには描かれていない。
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(逮捕、連行されるイエス)
 ユダの裏切りで逮捕、連行されたイエスに対して弟子たちは逃げていったが、ペテロはカヤパの屋敷までついていった。しかし、召使いたちに「あなたもイエスといっしょにいました」と問われるとそれを三たび否定してしまう。そのとき鶏が鳴いたので、ペテロはイエスの言葉を思い出し、さめざめと泣くのである。鶏鳴教会の名前の由来はここからきている。
 
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(鶏鳴教会にある石段)
 現存している石段は、19世紀に発掘され、約2000年前のものであることが確認されている。つまりイエスが連行されたときの石段である可能性が高いのである。
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(鶏鳴教会内部の聖ペテロの壁画)
 イエスはカヤパの屋敷からこの石段を通ってローマ総督ピラトのところに連れて行かれ、十字架刑に処せられる。ペテロは復活したイエスに会い、弟子たちのリーダーとして伝道活動をおこなうのである。ペテロはローマ皇帝ネロの迫害を受け、逆さ十字架刑にかけられて殉教したといわれている。カトリック教会では、ペトロを初代の教皇と見なし聖ペテロと呼んでいる。鶏鳴教会内にある聖ペテロの壁画には、光輪が描かれている。
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(エルサレムの光のお祭り)
 鶏鳴教会見学後、私たちはホテルで夕食をとった。その後、私は「ダビデの塔での音と光のショー」というオプショナル・ツアーに参加した。その日は、「ライト 2013 イン エルサレム」というお祭りをやっており、お祭りを見学後、ダビデの塔へと向かった。「音と光のショー」は残念ながら写真撮影は認められていなかった。しかも、ショーはわずか30分ほどで終わってしまい、6000円というツアー料金は高すぎると思った。
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