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(帝国書院「エスカリエ」より)
4) 茶とアヘン
19世紀前半、インドの茶の栽培が成功する以前に、イギリスが茶を輸入していたのは、中国の清朝であった。18世紀末における茶貿易の増大はイギリス政府にとって銀の流出という重大な問題を提起した。銀の流出というのは、イギリスが中国から購入する茶に対して、見返り品として適当なものがなく、全体にかなりの片貿易となっていて、その決済手段として銀を持ち出さねばならなかったことである。茶の輸入増加とともに大量の銀が流出し、銀不足がひどくなってきた。といって、茶の輸入をいまさら抑えるわけにいかず、これ以上の銀の流出もまたイギリスにとって困るという状況にあった。だから銀の流出を避け、銀に代わるものを何に見出すかが緊急の課題となった。そこで採用された政策が、インド植民地を媒介にして、アヘンを中国に輸出して銀を獲得するという方法である。アヘンは芥子の実からつくる麻薬である。これを常飲すれば、中毒症状によって精神も肉体もともに蝕まれ、廃人状態になってしまう。アヘンをジュースにして飲む方法は古くから中国で行われ、痛みをとる薬用に使われていたが、タバコのようにアヘンを吸飲する風習は、17世紀中頃、オランダ支配下の台湾から伝わった。しかし、その量はまだ極めて少なく、中国社会の大きな問題にはならなかった。ところが、イギリスが18世紀末からインドで大量にアヘンを生産し、これを中国に輸出するようになって、今まで華南に限られていたアヘンの流行は、たちまち華中から華北にまで拡大した。
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(帝国書院「タペストリー」より)
 アヘンの輸入の増加とともに、銀の流れが大きく変化した。中国への銀の流入は減少し、逆に1820年代中頃以降、中国から銀が大量に流出し始めたのである。清朝は当然アヘン貿易に反対した。1837年、政府はアヘン取締りの強権を発動して多くの中国人を逮捕する一方、アヘンを没収することによって一応の成果をあげた。しかしこれに対するイギリスの報復によってアヘン戦争が引き起こされ、イギリスの近代的兵器・艦隊の攻撃の前に屈した清朝は、屈辱的な南京条約を押し付けられた。その結果、香港をイギリスに割譲し、軍費、アヘン賠償金など2100万ドルの支払い、広東のほか、五港の開港、そこにおけるイギリス商人の居住と商業の自由を認めることになった。
                      参考文献 (角山栄著「茶の世界史」中公新書)
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(帝国書院「タペストリー」より)
4) なぜ紅茶が世界で広がったのか。
 喫茶の風習がヨーロッパで最初にはじまったのは、17世紀のオランダである。ヨーロッパ人は東洋の珍しい風習を茶器とともに模倣し、茶は上流階級の間で流行した。茶は東インド会社が貿易を独占していたため、非常に高価であり、それをたしなむことはぜいたくな文化であった。同様にヨーロッパで産しない高価な砂糖を入れて飲むことは、上流階級の地位の象徴であった。
 オランダをまねて上流階級を気取る傾向が強かったイギリス社会では、紅茶は社会的地位の上昇をめざす人々にとって、あこがれの的になった。18世紀にはティー=パーティーがさかんにおこなわれた。
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(帝国書院「タペストリー」より)
 19世紀、産業革命により都市で生活するようになった工場労働者は、劣悪な住居と食生活を強いられた。そのなかで、紅茶とパンからなる「イギリス風朝食」は、労働者階級にとっても一日の活力を養う貴重なカロリー源となった。
 19世紀後半になって、インド=セイロン紅茶の栽培が本格化して大量に輸入されるようになると、茶の値段は非常に安くなり、紅茶の文化は庶民の日常生活に完全に定着した。トマス=リプトンのように、チェーン店で紅茶を大量販売する業者もあらわれた。
問 茶の値段が安くなると、経営者たちは労働者の飲み物として茶の普及を促進したが、それはなぜでしょうか。
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(帝国書院「タペストリー」より)
答 上の資料に書かれてあるように、産業革命以前の職人たちは日曜日には安い酒であるジンを飲み、月曜日は仕事にはならなかった。そこで経営者は仕事に差し障りのないジンのかわりに紅茶を飲むことを勧めたのである。
 特にイギリス人の間で茶が広がったのは、フランスや他のヨーロッパ諸国と比べると、水は別として最も飲み物の貧弱な国であった。だからフランス、イタリア、スペインといった地中海のワイン文化圏では、茶はほとんど割り込む余地がなかったのに、伝統的飲料が最も貧弱であったイギリスに茶が入りやすかったのである。
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(はじめに)
 生活文化の世界史の授業は、私が高校の総合学習の授業で5時間おこなったものです。その内容は、生活に身近なもので、茶・コーヒー・砂糖・酒・時計の5つのテーマをとりあげました。1テーマに1時間割り当てました。この5つのテーマを選んだ理由は、生活に身近なだけでなく、手ごろな本が出版されていたからです。これを参考にして1テーマに1枚の穴埋めプリントをつくって授業をおこないました。このブログで紹介したいと思います。
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
1) 茶のルーツ(茶の原産地はどこか)
 茶の原産地は近年、中国雲南省西南部あたりが茶の木のルーツ地帯であろうという説が最も有力視されており、どのような茶も中国が世界の茶のルーツと考えられる。
2) 茶の種類
  茶は、製造加工工程のちがいで大きく分けて緑茶と紅茶にわかれる。同じように摘まれた茶の葉が、途中の製造方法のちがいによって、発酵させないものは、緑茶、発酵させたものは紅茶となり、飲み方も大きく違ってくる。しかし紅茶は中国でも比較的新しい飲み物で、発明されたのは宋の時代だといわれている。なお発酵を途中でとめたものはウーロン茶である。今日、世界で生産されている茶の約8割は紅茶であり、緑茶は日本や中国にかぎられる。
3) 茶の歴史と成分
 茶は葉を飲料とするツバキ科の常緑樹で、中国では漢の時代にはすでに飲用され、日本には奈良時代に伝来し、鎌倉時代以後、各地に広まった。
 茶の成分はカフェイン、タンニン、ビタミンCなどである。
①カフェイン・・・大脳皮質に作用し感覚受容および精神機能のたかぶりが進み、眠気を除去する。その他心臓に作用して心筋の収縮力を増強させ、冠動脈を拡張させる。利尿効果も重要な作用の一つで、モルヒネ、アルコールなどの急性中毒に用いて有効である。強心剤として狭心症などに使用される。
②タンニン・・・血中コレステロールの抑制など、主要な成人病症状の改善。特に脂肪や油を分解して消化を助ける効果がある。
③ビタミンC・・・免疫力の強化や抗酸化作用をはじめ、多彩な働きを持つ栄養素、 コラーゲンの生成、美容にもよい。
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(帝国書院「エスカリエ」より)
  Ⅱ ヴェルサイユ体制
1 ヴェルサイユ体制の成立
1)パリ講和会議
 第一次世界大戦が終わると、1919年1月からパリ講和会議が開かれたが、ドイツをはじめとする敗戦国やソヴィエト政府は招かれなかった。この会議では、アメリカ大統領ウィルソンが大戦中に発表した14か条の原則にもとづいて討議された。しかし、戦勝国が自国の利益を優先したため、1919年6月ドイツとの間で調印されたヴェルサイユ条約では、ドイツに植民地の放棄、軍備制限、賠償金支払いなどが課せられたように、敗戦国を犠牲にして、一部戦勝国が利益を分配することになった。
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(帝国書院「タペストリー」より)
2)ヴェルサイユ体制
 ウィルソンの提案にもとづいて国際平和期間として国際連盟が設立されたが、これにもドイツとソ連は加盟を認められず、アメリカも1823年に出されたモンロー宣言にもとづく孤立主義をとる議会の反対により参加しなかった。
 こうして生まれた大戦後の新しい国際秩序はヴェルサイユ体制と呼ばれるが、イギリス、フランスなどの利益の重視と、ドイツへの報復、ソヴィエトの敵視とともに、連合国の植民地の維持を目的とするものであった。また、この体制はアメリカの経済力に依存していたため、1929年にアメリカで大恐慌が発生すると、大きくゆらいだ。
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(帝国書院「タペストリー」より)
 世界史講座の参加者から、このようなヴェルサイユ条約はドイツの反発を招くのは当然である。という感想が出された。ヒトラーはドイツ人の反ヴェルサイユの感情を利用して政権を取り、第二次世界大戦を起こしたのである。このような歴史の反省の上に立って「ヨーロッパ連合」が成立したのである。
 次回、第43回世界史講座は、9月14日(土)午後2時より、「ワシントン体制の成立」「ドイツの復興と国際協調の進展」「大英帝国の変容とフランス」「イタリアのファシスト政権」「帝国の解体と東欧諸国の独立」をテーマに行いますので、多数の参加を期待しています。
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(帝国書院「エスカリエ」より)
6 ロシア革命
1)三月革命
 ロシアでも戦争の長期化により民衆の生活が苦しくなった。1917年3月、ロシアの首都ペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)で労働者のストライキが起きると兵士もこれに加わり、労働者や兵士の代表機関ソヴィエト(議会)が結成された。民衆の闘いは皇帝(ツァーリ)の専制政治打倒をめざす運動に発展し、皇帝ニコライ2世は退位し、議会の自由主義派が臨時政府を樹立したが、これを三月革命と呼ぶ。
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(帝国書院「エスカリエ」より)
2)十一月革命
 臨時政府は、イギリスやフランス両政府の支持を受けて戦争を続行した。これに対し、ボリシェヴィキ(のちのロシア共産党)の指導者レーニンが亡命先のスイスから帰国して戦争の継続に反対すると、民衆はボリシェヴィキを支持するようになった。この民衆の支持を背景に、11月になるとボリシェヴィキはケレンスキーを首相とする臨時政府を倒しソヴィエト政権を樹立した。これを十一月革命と呼ぶ。
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(東京書籍「新選世界史B」より)
7 一党独裁と戦時共産主義
1)ソヴィエト政権の政策
 レーニンの新政権は、「土地に関する布告」により、地主の土地を没収し無償で農民に分配された。また、鉄道や銀行などの国有化を進め、ソヴィエト制度を全国に広げていった。対外的には、「平和に関する布告」を出し、全交戦国に「無併合・無賠償・民族自決・講話の即時締結」などを呼びかけた。さらに、秘密外交の廃止を宣言し、旧ロシアが結んでいた秘密条約を暴露して旧ロシアの権益の放棄を宣言した。
 1918年1月、憲法制定議会の選挙でボリシェヴィキが敗北したため、レーニンは議会を解散させ、ボリシェヴィキによる一党独裁をはじめた。
2)対ソ干渉戦争
 1918年3月、ソヴィエト政府はドイツとブレスト・リトフスク条約を結んで単独で休戦した。革命の波及を恐れるイギリス、フランス、アメリカ、日本は軍隊を派遣して反革命軍を援助した。これを対ソ干渉戦争と呼ぶ。これに対してソヴィエト政府は、世界の革命運動を推進するためにコミンテルンを結成して対抗した。また国内では、農民から強制的に食料を徴発したり工業を国有化するなど、戦時共産主義と呼ばれる政策をとり、1920年代までに反革命軍を鎮圧した。
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 第42回世界史講座は8月24日(土)午後2時より行われました。受講者は4名でした。
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
5 アメリカの参戦と戦争の終結
1)アメリカの参戦
 ドイツは、イギリスの海上封鎖に対抗するため、無制限潜水艦作戦を展開し、中立国の船舶にも攻撃を加え、アメリカ人の犠牲がでた。それまで中立を保ち、いずれの国とも貿易を行って莫大な利益をあげていたアメリカは、しだいに連合国側にたち、1917年4月、ドイツに宣戦布告した。
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(帝国書院「タペストリー」より)
2)戦争の終結
 連合国側は、アメリカの軍事力と経済力によって優勢になると総反撃を開始し、1918年の秋には同盟国側は次々と降伏した。敗色濃厚となったドイツでは、1918年1月に大規模なストライキがおこった。11月には、キール軍港で水兵の反乱がおこるとたちまち革命に発展した。そのため皇帝が退位し臨時政府が成立したが、これをドイツ革命と呼ぶ。臨時政府は連合国側と休戦条約を結び第一次世界大戦は終結した。前回の世界史講座で、大戦はどうして終結したのはという質問が出されたが、ドイツ革命によって戦争は終結したのである。
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(帝国書院「タペストリー」より)
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(帝国書院「タペストリー」より)
4 大戦中のアジア
1)秘密外交
 連合国は戦争を有利に展開するため、秘密外交を展開した。イギリスは1915年にオスマン帝国を混乱させるため、その支配下にあったアラブ人とフセイン・マクマホン協定を結び、アラブ人の独立国家建設を約束した。一方、1916年にはフランス・ロシアとオスマン帝国分割の秘密協定であるサイクス・ピコ協定を結び、1917年のバルフォア宣言でユダヤ人にパレスティナにおける建国を約束した。これらの協定や約束は矛盾しており、のちのパレスティナ問題の原因の一つとなった。
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(帝国書院「タペストリー」より)
2)アジアの戦争協力
 アジアの植民地は、直接の戦争の被害はなかったが、連合国側に協力をしいられ、多くの犠牲を払った。イギリスの植民地インドからは、戦後の自治の約束とひきかえに、インド人兵士150万人が戦場に送られた。またフランスの植民地であるインドシナからは兵士や労働者に加え、食料も徴発された。
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
 次回の第42回世界史講座は、8月24日(土)午後2時より「アメリカの参戦」「ロシア革命」「ヴェルサイユ体制」などをテーマに行います。多数の参加を期待しています。
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
3 戦争の長期化と総力戦のはじまり
1)戦争の長期化
 ドイツ軍はパリをめざして進撃したが、1914年9月にはマルヌの戦い以後、戦況は一進一退の状態になった。ドイツは侵入したロシア軍を撃退してポーランドを占領したが、戦線は膠着し、戦争は長期化した。
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(帝国書院「タペストリー」より)
2)総力戦
 各国は短期間で軍需物資を使い果たし、戦争の勝敗は生産力に左右されることになった。そこで各国は、国民の消費を押さえたり、女性や植民地の住民を動員するなど、国内の物資や労働力を優先的に軍隊におくる総力戦の体制をきずいて戦争を戦いぬこうとした。また戦争が長期化する中で次々と新しい兵器が開発され、戦車や飛行機がはじめて戦場で使用されたほか、毒ガスのような大量殺戮兵器も登場し、第一次世界大戦では約900万人の戦死者と約2100万人の戦傷者がでた。
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(帝国書院「タペストリー」より)
2 第一次世界大戦の勃発
1)サライェヴォ事件
 1914年6月、ボスニアの首都サライェヴォを訪問中のオーストリア皇位継承者夫妻がセルビア人の青年に暗殺されたが、これをサライェヴォ事件と呼ぶ。
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2)対戦へと拡大
 翌月、オーストリアがセルビアに宣戦すると、これをきっかけにドイツ・オーストリアの同盟国側とロシア・イギリス・フランスの連合国側との帝国主義戦争がはじまった。ブルガリアとトルコは同盟国側について参戦し、日本が日英同盟を口実にして、ドイツが租借する中国の青島やドイツ領の南洋諸島を占領した。
 三国同盟の一員であったイタリアは英仏との間でオーストリア領の一部を獲得する秘密条約を結び、連合国側に加わり参戦した。戦争は、列強が植民地をもつアフリカや西アジアにもおよぶとともに、列強は植民地から兵士や多くの労働力と物資を調達したため、文字通り地球規模の世界大戦となったが、これを第一次世界大戦と呼ぶ。
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第41回世界史講座は、8月10日(土)午後2時より行なわれました。受講者は4名でした。
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
  第12章 二つの世界大戦と世界
 Ⅰ 第一次世界大戦とロシア
1 第一次世界大戦前夜
1)バルカン問題
 バルカン半島には多数の民族が入り交じっていたが、この地域を支配するオスマン帝国が19世紀後半に衰退すると、各民族は次々と独立をなした。この地域では、ロシアがパン(汎)スラヴ主義をとなえスラヴ系民族の支援をとおして進出しようとし、一方でオーストリアがパン(汎)ゲルマン主義による勢力拡大をねらい、両者は対立を深めた。こうしてバルカン半島ではさまざまな勢力が衝突したことから、「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた。
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)(資料に誤りがある。3C政策はイギリスで3B政策はドイツである。3Cとは、イギリスの植民地の重要な都市、ケープタウン・カイロ・カルカッタを指し、3Bとは、ベルリン・ビザンティウム・バグダッドを指す。)
2)バルカン戦争
 1908年、オスマン帝国で青年トルコの革命がおこると、オーストリアはこれに乗じてスラヴ系の多いボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合した。そのため、この地域のスラヴ系諸民族を統一しようとしていたセルビアはオーストリアへの反発を強めた。1912年になると、セルビアなどの諸国は、ロシアの支援を受けてバルカン同盟を結成し、弱体化したオスマン帝国に戦争を仕掛け、領土を奪ったが、これを第一次バルカン戦争と呼ぶ。しかし、奪った領土をめぐってブルガリアと他の諸国が戦ったが、これを第二次バルカン戦争と呼ぶ。やぶれたブルガリアはオーストリアとドイツに接近した。ドイツは、イギリスの3C政策に対抗して、バグダッド鉄道の建設など3B政策を推進した。こうしてバルカン諸国は大国の支援を受けて、二つに分かれて対立するようになった。
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