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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
3 国共合作の成立
1) 国民党と共産党の成立
 五・四運動が高まる中で、孫文は革命運動の支持基盤を広げるため、国民に開かれた中国国民党を組織し、1920年に、広州に革命政府(広東政府)を建てた。また、陳独秀らはロシア革命の影響を受け、コミンテルンの指導のもとに1921年に中国共産党を結成した。
2) 国共合作
 孫文もソ連と接触を深め、1924年に国民党は共産党員の入党を認めて、第一次国共合作を成立させた。これ以降、国民党は「連ソ・容共・扶助工農」をかかげ、反帝国主義・軍閥打倒をめざして急速に党勢を拡大した。
3) 五・三〇事件
 この間に、大戦で後退していた列強の圧力が再び強まりつつあった。1925年5月、上海の日本資本の工場でストライキが起きると、イギリス警察隊が労働者のデモを鎮圧し、多くの死傷者を出した。これを五・三〇事件と呼ぶ。この事件の影響は全国に及び、列強とそれと結ぶ軍閥政府に反対する大規模な抗議運動に発展し、なかでも香港の労働者のストライキはイギリスの支配をゆるがした。
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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
4 北伐の開始と国共分裂
1) 北伐の開始
 孫文の死後、国民党は広州で国民革命軍を組織するとともに、国民政府の成立を宣言した。1926年、孫文の後継者となった蒋介石を総司令とする国民革命軍は軍閥を倒す北伐を開始し、1927年には南京や上海を占領した。
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(中華民国の軍閥政治家1875~1928)(東京法令「世界史のミュージアム」より)
2) 国共の分裂
 北伐が進むのにあわせて、各地で農民や労働者の運動が盛んとなり、共産党の影響力が強まった。これに脅威を感じた大地主や資本家の支持を得て、1927年、蒋介石は上海で共産党への弾圧を行ったが、これを上海クーデターと呼ぶ。こうして国共両党の合作は解消した。こののち北伐は再開され、途中の済南で日本軍と衝突しながら、1928年に東北軍閥の張作霖を北京から追放した。蒋介石は南京に国民政府をおいて主席に就任し、同年末には、全土の統一をほぼ達成した。
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(第一学習社「最新世界史図表」より)
3)中華ソヴィエト共和国臨時政府の成立
 国共分裂後、共産党は地主の土地を没収して貧農に分配する土地改革を行い、農村を革命の拠点とした。1931年、江西省の瑞金に毛沢東を主席とする中華ソヴィエト共和国臨時政府が作られると、国民党軍はこれを包囲して攻撃をくり返した。
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第44回世界史講座は9月28日(土)午後2時よりおこなわれました。受講者は6名でした。
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(帝国書院「タペストリー」より)
Ⅲ アジアの独立運動と革命
1 中国の新文化運動
 中国では、第一次世界大戦でヨーロッパが戦場となったため、紡績業を中心に民族資本が急成長した。
 大戦中の1915年、日本は北京の袁世凱政府に対して、二十一か条要求を押しつけ、山東半島などでの権益の拡大をはかった。袁世凱は要求を受け入れたが、これは中国民族意識を強く刺激した。
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(第一学習社「最新世界史図表」より)
 中国では、労働者や学生が増え、ジャーナリズムが発展して、陳独秀らを中心に新文化運動と呼ばれる啓蒙運動がおこった。運動の中心となったのは「民主と科学」をかかげた雑誌『新青年』であった。この雑誌は儒教などの伝統的な思想を徹底的に批判するとともに、西洋思想の紹介につとめた。胡適は口語によって思想を自由に表現しようという口語文学(白話文学)を奨励し、魯迅は白話文で『狂人日記』や『阿Q正伝』などの作品を書き、儒教をはじめとする伝統思想と文化を否定した。
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胡適(1891~1962)(第一学習社「最新世界史図表」より)
2 五・四運動
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五・四運動(第一学習社「最新世界史図説」より)
 中国は1919年のパリ講和会議で連合国の一員として参加し、二十一か条要求の撤回を要求した。しかし、ドイツ権益は日本に譲渡されることになった。これを知った北京の学生たちが、1919年5月4日、条約調印拒否を求めてデモを行うと、排日運動が中国全土で広まった。政府がこれを弾圧すると、各地で日本商品のボイコット運動がおき、中国代表はヴェルサイユ条約への調印を拒否せざるをえなかった。この運動を五・四運動と呼ぶ。毛沢東は五・四運動を高く評価し、中国の革命運動はこれ以後、民衆を主体とする革命運動に変化していったととらえ、これを新民主主義運動と呼んでいる。
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(ハンリム出版社「韓国の歴史」より)
3) 壬午軍乱
 江華条約以来、日本の略奪的な対朝鮮貿易は、物価の高騰をもたらし朝鮮民衆を苦しめ、反日感情が高まっていった。
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(ハンリム出版社「韓国の歴史」より)
 一方、日本の介入を受け入れて軍制を改め新式軍隊として別技軍を設け、日本人を軍事教官として招いた。閔氏一派が旧式の軍隊を差別待遇したことから、1882年に不満を持った兵士と貧しいソウルの市民が合流して起こったのが壬午軍乱である。
 兵士たちは政府高官を殺傷し、日本人教官を殺して日本公使館を襲撃した。この時、兵士に人気のある大院君が政権についたが、朝鮮に勢力を扶植する機会をねらっていた清が軍隊を出動させて、大院君を清に連れ去った。
 この結果、閔氏一派は政権の維持には成功したが、親清政策をとらざるをえなくなった。
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(ハンリム出版社「韓国の歴史」より)
4) 甲申政変
 甲申政変でリーダーシップをとったのは金玉均である。この人物については、私のブログの「歴史のとびら⑦」に「金玉均の悲劇」として書いているので、その文章の一部を紹介します。
「 金玉均は、朝鮮の近代的改革をおこなうためには、閔氏一族を打倒する以外にないと考え、朴泳孝・洪英埴などの名門貴族出身者とともに開化派を組織した。そして、清仏戦争で清軍が打撃を受けた1884年に行動を起こすことを決定するのである。
 彼らの計画は次のようなものであった。郵政局の新築竣工パーティー時に隣の建物に放火し、その混乱を利用して、パーティーに出席していた閔氏一族を暗殺する。そして、国王を保護し、その間に新政府の綱領を発表する。もし清軍が行動を起こした時には、日本駐留軍がこれを迎え撃つ。日本の駐朝公使である竹添進一郎も協力を約束した。
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(ハンリム出版社「韓国の歴史」より)
 1884年、12月4日、クーデターは計画通りに実施され、12月6日には14カ条の新政府綱領が発表された。しかし、閔氏の要請を受けた清軍は、袁世凱の指揮で12月6日午後3時ごろ攻撃を開始した。当時、ソウルには清軍2000あまりが駐在し、日本軍はわずか200あまりであった。多数の清軍の侵入に驚いた日本軍は、約束を破って逃亡し、残された約100名の開化派の軍隊が最後まで戦ったが敗れ、金玉均の政権は文字通り「三日天下」に終わった。これが「甲申政変」と呼ばれるものである。」
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(ハンリム出版社「韓国の歴史」より)
(近代史)
1 開国と開化運動
1) 大院君の拝外政策
 19世紀中頃になると、通商を求める外国船が朝鮮半島海域に現れた。この頃政治の実権を握った人物が高宗の父親大院君であった。彼は鎖国政策を強化するとともに、18世紀頃から布教活動をおこなってきた天主教(キリスト教)に対して大虐殺を断行した。これに対してフランスは、1866年にフランス東洋艦隊を江華島に進行させたが、朝鮮軍隊に破れ撤退した。
 同年、アメリカのシャーマン号も通商を要求して平壌の下流付近まで侵入したが、平壌の軍民と衝突し、船を焼かれてしまう事件が起こった。アメリカはこれに対してアジア艦隊を江華島海域に派遣し、江華島を占領したが、朝鮮軍隊によってついに撤退した。
 2回にわたる侵略を撃退した大院君は鎖国政策を一層強化するとともに、ソウルをはじめ全国各地に、外国勢力の侵入を警戒せよとの意味の「斥和碑」を建てて、国民の鎖国精神を高めた。しかし、大院君の政権も、高宗の王妃である閔氏一派の反対勢力によって、政権の座から追い払われた。
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(雲揚号)(ハンリム出版社「韓国の歴史」より)
2) 雲揚号事件と江華条約
 日本は大砲の威力により開国を迫ったアメリカの外交にならい、1875年、軍艦雲揚号を江華島砲台に接近させて朝鮮側の砲撃を誘発する、江華島事件を引き起こした。翌1876年に日朝修好条規(江華島条約)を結んだ。その内容は、釜山・元山・仁川3港の開港とともに、治外法権、日本商品の無関税などを規定した不平等な条約であった。
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(ハンリム出版社「韓国の歴史」より)
 こうした日本勢力の拡張に不安を感じた清は、これを牽制するために、西洋諸国との修交・通商を朝鮮に斡旋してきた。その結果、アメリカ、ドイツ、ロシア、フランスなどの諸国とも国交を開き、朝鮮も世界の舞台に登場するようになった。
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(ハンリム出版社「韓国の歴史」より)
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(ハンリム出版社「韓国の歴史」より)
3) 豊臣秀吉の侵略(壬辰・丁酉の倭乱)と清軍の侵略(丙子胡乱)
 日本全土を統一した豊臣秀吉は、明を征服するという口実で朝鮮に派兵した。陸戦では朝鮮半島を席巻したが、海戦では李舜臣が考案した「亀甲船」を主軸とする水軍により完敗し、一旦和議が成立した。しかし、3年後には再び侵略が始まった。戦争は秀吉の死によって終わったが、7年間にわたる侵略戦争は、朝鮮に莫大な損失と犠牲を負わせたが、これを倭乱と呼ぶ。韓国のアンケート調査によると、日本人で一番嫌いな人物が豊臣秀吉であるという。この侵略によって朝鮮では、掠奪と殺戮によって国土の荒廃と国民の疲弊がいかに大きかったかがわかる。
 一方、17世紀はじめ中国では明が衰退すると、中国東北地方(満州)にいた女真族が勢力を拡大して清朝を樹立した。 清は朝鮮に対して君臣の礼を要求したが朝鮮はこれを拒絶するや、20万の大軍を率いて侵入してきた。結局朝鮮は屈辱的な講話を結ばざるを得なかったがこれを胡乱と呼ぶ。
4)社会経済の発達
 倭乱や胡乱によって国土は荒廃したが、17世紀後半になると農業生産力はようやく発展していった。17世紀末には稲と麦の二毛作も行われ、タバコや人参などの商品作物や綿・麻・絹布・紙などの家内手工業製品を売って貨幣を手に入れるなどの商品貨幣経済が発達した。
 富農は、貧農の土地を手に入れて庶民地主と呼ばれるような、両班地主のように中央権力に依存しない地主に成長していった。また、豊かになった商人がお金で両班の身分を買うというように、封建的な身分制度が崩れていった。
 一方、商品貨幣経済の発達は貧富の差を拡大し、19世紀には各地で農民反乱が激化していった。
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(ハンリム出版社「韓国の歴史」より)
5)李朝文化
  朝鮮の文化は15世紀の初め世宗の時代から大いに隆盛したが、民族史上最も重要な文化的業績は、ハングルの作成である。韓国は、それまで固有の文字を持たず中国の漢字を使ってきた。世宗は韓国の言語に適し、誰もが習いやすく書きやすい独自の文字をつくるために、学者を集めて研究させてついに28字の表音文字からなる「訓民正音」、すなわちハングルを作成した。
 一方、経済の発展と政治の流動化は、思想的刺激となって新しい質の文化を生み出した。それが実学思想である。旧来の学問が、抽象的儀礼論議に終始したのとは対照的に、実学派は、自然と社会への現実的関心をもち、合理的・科学的思考を深めていった。それで「事実求是」学派略して実学派と呼ばれるようになるのである。18世紀以降、政治学・経済学・医学など幅広い分野で実学思想が発達した。また、ハングルの広がりは、「春香伝」のような小説が普及するなど、庶民文化を促した。
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(ハンリム出版社「韓国の歴史」より)
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(ハンリム出版社「韓国の歴史」より)
5 李氏朝鮮時代
1) 李朝の成立
 中国では元の末期に紅巾の乱が起こり、高麗に2度も侵入してきた。これを撃退したのが高麗の将軍李成桂であった。また、朝鮮半島の西南海岸に倭寇が出没したが、これを撃退したのも李成桂であった。
 1368年、明を建国した朱元璋は元を攻略し、彼らをモンゴル地方に追い払って中国の中央部を回復した。この頃、高麗王朝では、親元派と親明派が対立したが、親明派の李成桂は高麗王朝を倒して、1392年に李氏朝鮮を建国した。
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(ハンリム出版社「韓国の歴史」より)
2) 李朝の社会制度
 李朝時代の社会身分は、両班(ヤンパン)、中人、常民、賎民の四つの階層で構成された。両班とは、文官職の東班と武官職の西班を合わせた呼称で、学問武芸を学び科挙に合格して官職につく支配階級のことである。両班は、科挙に合格して官吏になると、国家から土地や俸禄をもらうほかに種々の特権を教授した。
 一方、技術職や中央と地方の実務行政を担当する人を中人といい、主に農業に従事し軍務と納税の義務を負う人を常人といった。そして、社会の最下層に属する賎民は、公私の奴婢が大部分を占め、そのほかに役者、芸人、巫女や屠殺人などであった。
 李朝時代の家族制度は家長を中心とする大家族制度であった。儒教的家族精神にもとづいた家長の権限は絶対的なもので、家族を代表かつ統率し先祖の祭祀を行う権利・義務を持っていた。従って、孝の精神にもとづく儒教的礼儀と道徳は、国王に対する忠誠の原理でもあった。
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(ハンリム出版社「韓国の歴史」より)
2) 武人政権の成立
 11世紀、契丹人(モンゴル系)が遼を建国し朝鮮半島に侵入してきたが、高麗軍によって撃退された。さらに、12世紀には、女真人(ツングース系)が金を建国して朝鮮半島を脅かした。高麗は鴨緑江から東海岸まで千里の長城を築いた。また、この頃各地で農民反乱が起こるというなかで、12世紀末には崔氏一族が政権を握り、武人政権が成立した。
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(ハンリム出版社「韓国の歴史」より)
3) モンゴルの朝鮮侵略(1231~1273)
 13世紀初め、ジンギスカンはモンゴルを統一し、中国東北地方から南部にまで勢力を伸ばした。1231年、フビライは大軍を率いて朝鮮半島に侵入してきた。高麗側では、三別抄と呼ばれる特殊部隊が活躍したが、崔氏政権が倒れ、モンゴルとの和議が成立した。
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(帝国書院「タペストリーより)
4) 高麗文化
 新羅に引き続き、高麗においても仏教が隆盛し、寺院は特権的大土地所有者となった。また、仏教の経典の編纂などから印刷技術が発達し、高麗『大蔵経』六千余巻は有名である。また、世界最古の金属活字がつくられた。さらに、宋の青磁の影響を受けた高麗青磁は、世界最高の芸術品として知られている。
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(ハンリム出版社「韓国の歴史」より)
4 高麗時代
1)高麗の建国 
 新羅時代も9世紀以後になると、各地で農民や豪族の反乱が相次いだ。昔の百済の地には後百済が892年に建国され、高句麗の旧領土を中心に後高句麗が901年に建てられた。朝鮮半島は後三国時代に入ったが、これを再統一したのが後高句麗の王建である。918年、王建は高句麗を継承するという意味で国号を高麗と称した。太祖王建は仏教を保護しその教えを国の基本とし、数多くの寺院を建てた。そのため仏教は、高麗の社会と文化に大きな影響を与えた。
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(ハンリム出版社「韓国の歴史」より)
2)高麗の貴族政治
 高麗の社会構造は、貴族官僚と下級官吏からなる支配層と、良民および賎民からなる被支配層で構成されている。
 貴族は、科挙に合格した上級官吏以上の上流階級で、文官である文班と武官である武班とがあって、これらをあわせて両班と呼んだ。下流階級の良民とは農業、商業、工業に従事する平民のことで、賎民とは公私の奴隷、船頭、屠殺者、役者などがこれに属し、特に奴隷は金で売買された。
 高麗の前期は、支配層の貴族を中心に政治と経済が運営され、社会と文化が発達した。すべてが貴族本位の社会であったから、高麗の社会を貴族社会という。
 
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(ハンリム出版社「韓国の歴史」より)
3 統一新羅の時代
1)三国の統一
 6世紀中頃、新羅が漢江流域に進出すると、高句麗と百済は倭(大和政権)とも連盟して新羅のけんせいをはかった。これに対して、新羅は唐と手を結んだ。
 660年、新羅と唐の連合軍に敗れ百済は滅亡した。さらに668年、隋や唐の侵略を撃退してきた高句麗も、新羅と唐の連合軍の攻撃を受けて滅びた。
676年、新羅は朝鮮半島から唐を撃退し、三国統一を達成した。
2)統一新羅の政治と社会
 統一後の新羅は唐との関係を改善し、留学生や留学僧を唐に派遣して、律令制度や唐の文化を積極的に受け入れた。一方、新羅時代には、骨品制と呼ばれる独自の厳しい身分制度をおこなった。
 文化の面では、せん星台とよばれる世界最古の天文台を設立した。さらに、漢字を使って朝鮮語を表記する吏読(りとう)を成立させたが、これは日本の万葉仮名に影響を与えた。
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(ハンリム出版社「韓国の歴史}より)
3)鉄器の出現と国家の発生 
 鉄器は前4世紀頃には遼河流域から朝鮮西北部に現れ、しだいに朝鮮の中部・南部に広がった。
①北方
 前4世紀頃には遼東地方と朝鮮半島の北西地方にわたる古朝鮮(後の李氏朝鮮と区別して古朝鮮という)部族国家が成立していたとされている。
 前108年、中国の漢が遼東地方に進出し、楽浪郡以下四郡を設置した。
3世紀頃に高句麗が発展し国家形成を形成した。 そして、313年には朝鮮から中国勢力を追放した。
②南方
 南方の辰は前4世紀頃の国情が中国の記録に残されており、前2世紀には漢との交易を企てるほどの国力をもつようになった。しかし、その後前1世紀には馬韓・辰韓・弁韓の三国に分裂した。
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(ハンリム出版社「韓国の歴史}より)
2 三国時代
1)三国時代の成立
 馬韓は百済に辰韓は新羅に統合され、4~6世紀までには、中国東北地方南部と朝鮮半島に高句麗・百済・新羅の三国時代が成立した。
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(ハンリム出版社「韓国の歴史}より)
2)高句麗の発展
 5世紀に入って、広開土王は領土を拡大し、5世紀末には中国東北地方から朝鮮半島の中部以北にわたる大領土を確保した。 
612年、中国を統一した隋は100万の大軍で高句麗を攻撃したが、高句麗はこれを撃退した。
3)百済の成長
 3世紀半ばには馬韓を滅ぼし、領土が今の黄海、忠清、全羅地方にわたる古代王国に発展していった。しかし、5世紀末には高句麗によって漢江の流域を奪われたが、国力を回復して都を今の扶余に遷した。
4)新羅の興隆
 新羅は高句麗や百済よりも遅く、4世紀末に古代国家としての基礎を確立した。6世紀には仏教を公認して国家の指導理念に定め、諸制度を整え国力を充実させた。やがて漢江流域などにも進出し、伽倻国を併合して三国統一の礎を築いた。
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