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(観光7日目)
 
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(聖ティロン大聖堂)
 10月15日(火)、私たちは午前8時頃にバスでキシナウにある聖ティロン大聖堂へと向かった。この教会は19世紀半ばに建造されたルーマニア正教会である。モルドバはルーマニアと同じラテン系で、モルドバ人の中にはルーマニアとの併合を望む人達も多い。モルドバは、オスマン帝国の支配下の後、ロシアそしてソ連に併合されていった。しかし、1991年に独立すると都市名もロシア語からルーマニア語に戻し、首都のキシニョフも現在はキシナウと呼ばれている。
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(ルーマニアの国旗)
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(モルドバの国旗)
また、国旗もルーマニアと似たものになっている。現地ガイドのナターリャさんによると、国旗の青が空、黄色が太陽、赤が生命を表し、旗の中の鷲はベッサラビアの紋章であると解説してくれた。ネットでベッサラビアの紋章を確認したが、鷲ではなく牛の紋章であった。
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(聖ティロン大聖堂の内部)
 教会の内部はきれいに装飾されており、十字架のイエスとマリアとピエロが描かれた聖像(イコン)があり、信者が熱心に祈っておられた。
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(十字架のイエス)
 また、教会の横の空き地には修築中であろうか、十字架に架けられたイエスの像が置かれていた。
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 私たちは、クリコバのワイナリーの見学を終え、町に戻ってキシナウ大聖堂の観光へと向かった。
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(キシナウ大聖堂)
 私の古いガイドブック(97~98年版地球の歩き方)によると、この大聖堂は、「キリスト降誕大寺院」と書かれてあるが、現在は「キシナウ大聖堂」と呼んでいる。この教会は、1836年にロシア正教会として建てられたものである。
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(大聖堂内部)
 教会にはいると、たくさんの聖像(イコン)が描かれていた。以前、「キリスト降誕大寺院」と呼ばれていたから、イエスの降誕の聖像が多いと思ったがそうでもなかった。
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(大聖堂の横の鐘楼)
 大聖堂の横には白い鐘楼が建っていた。この鐘楼は、ロシアがトルコとの戦争に勝利した祈念碑として、オスマン帝国の大砲を集めて造ったものである。大聖堂の周りは公園になっており、今日、10月14日はキシナウのお祭りの日であり、それで大勢の人が集まっていたのである。
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(大聖堂の公園に集う人々)
 
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(レストランでのバイオリンと笛の演奏)
 大聖堂を見学した後、私たちはレストランでモルドバの料理を食べた。レストランでは、バイオリンと民族楽器であろうと思われる笛で、私たち日本人のために「里の秋」を演奏してくれた。
 モルドバはさすがワインの国である、食事にはワインが無料で付いていた。残念ながら私はお酒が弱いので少ししか飲めなかった。ところで、モルドバで作られたワインの90%は輸出されるとのことである。友達の話によると、新聞のチラシにモルドバワインが売り出されていたとのことである。今や日本でもモルドバワインは有名となっている。
 
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(ライトアップされた凱旋門)
 夕食の後、私たちは添乗員さんのお誘いでキシナウの夜の散策に出かけた。大聖堂の近くにある凱旋門は、露土戦争の勝利を記念してパリの凱旋門をまねてつくられたものである。
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(ライトアップされた鐘楼)
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(ライトアップされた大聖堂)
 夜の人混みはすさまじく、歩くのも大変であった。突然、モルドバの若い女性が日本語で私たちに挨拶してきた。「私のお母さんは日本人です」と言って彼女は通り過ぎていった。、モルドバ人と結婚してここで暮らしているとは、日本の女性はたいしたものだと感心した。
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(観光6日目)
 10月14日(月)、私たちは午前7時30分に集合し、モルドバの首都キシナウへと向かった。オデッサから約172㎞、バスで約5時間の行程である。
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(ウクライナとモルドバの国境)
 出発して1時間余りでウクライナとモルドバの国境に到着した。私たちはバスから降りる必要はなかったが、何回もバスの中に警官が入ってきて全員のパスポートを持って行った。数十分してパスポートは戻ってきてバスが出発したがすぐに停車した。再び警官が入ってきてまたパスポートを提出した。先ほどの警官はウクライナ側で、今度がモルドバの警官である。数十分してやっとパスポートが戻ってきたが、パスポートにはモルドバのハンコが押してあった。私たちはバスに乗ったまま30分ほどかかってやっとモルドバの入国が完了し、バスは出発した。
 モルドバという国は、多数の住民がラテン系でルーマニア人に近い。ルーマニアの名前の由来は、ラテン人のローマから来ている。ベッサラビアとよばれるこの地方では、14世紀にモルダヴィア公国として独立するが、住民が正教徒でキリル文字を使っていることを理由に、ロシアは保護権を主張していた。1878年の第6次露土戦争後のベルリン会議でオスマントルコの保護領からロシア領となった。1917年にロシア革命がおきるとルーマニアが占領したこともあるが、第二次大戦後はソ連領となった。1991年にソ連が崩壊すると独立を宣言し、同年、独立国家共同体に加盟した。現在の人口は400万人で領土の面積は日本の九州よりやや小さい。
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(クリコバのワイナリーの地下道)
 私たちは、予定通り約5時間余りかかってキシナウから北に15㎞にあるクリコバのワイナリーに到着した。
このワイナリーはロシアのプーチン大統領も訪れた有名な場所である。
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(400万本を超えるワインが眠っている)
 モルドバのガイドさんによると、このワイナリーは、アレキサンダー2世によって1842年に建設されたものであるという。もともとは石灰岩の採掘場であったが、1950に採掘場が閉鎖されると、ワインの熟成に適した坑道を利用してワイナリーは多くのワインを貯蔵熟成するようになった。地下50mから80mに延べ60㎞以上広がる天然のワインセラーは世界最大級で、400万本を超えるワインが眠っている。
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(昔のぶどう圧搾機)
 ワイナリーには、昔ワインを作るのに使われていたぶどう圧搾機などの道具が陳列されていた。ところで、ドイツのグーテンベルクは、15世紀半ば、このぶどう圧搾機を改良して印刷機を発明したのである。
 私たちは、このワイナリーで昼食とともに、赤ワインを2本、白ワインを2本、白のスパークワイン1本、ロゼのスパークワインを1本、合計6本のワインを試飲した。とてもおいしかったので、私はお土産に上等の赤ワインとロゼと白のスパークワインをそれぞれ1本ずつ買うことにした。

 
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(オデッサの中央駅)
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(オデッサ中央駅の内部)
 博物館の見学後時間が余ったので、旅行の日程表にはなかったが、オデッサ中央駅を見学することになった。中央駅の外観も立派だったが、内部の美しさは秀逸であった。
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(ロシア正教会)
 駅の近くには、ロシア正教会のきれいな建物が見えた。
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(オデッサのレストラン)
 オデッサ中央駅の見学後、私たちはレストランへと向かった。
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(バンドゥーラの演奏)
 私たちは、民族楽器の「バンドゥーラ」の演奏ときれいなお嬢さんの歌声を聞きながら、おいしい夕食を食べることができた。たくさんの曲を歌ってくれたが、有名なロシア民謡「カチューシャ」もあった。
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(オデッサの散策のつづき)
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(エカテリーナ2世の像)
 オデッサの町は、ロシアの女帝エカテリーナ2世によって18世紀末に建設された。そのためこの町にはエカテリーナ2世の像が設置されていた。
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(ポチョムキンの像)
 彼女の像の下にはポチョムキンの像があった。ポチョムキン公爵はロシアの軍人であり政治家であり、エカテリーナ2世の愛人でもあった。彼が病没したのが1791年であり、彼の名前を付けた戦艦で反乱が起きたのが1905年のことである。だから彼は死んでから100年以上も経って世界的に有名となった人物である。
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(ギリシア風の建物)
 この町には世界中の富豪が集まり、ここに住居を構えたが、この町がギリシア時代から港町として栄えていたこともあり、富豪はギリシア風の建物を好んで建てた。
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(貿易港オデッサ)
 この町は、今も貿易港として活躍している。オデッサから輸出している商品は、小麦やひまわりである。ひまわりは油などに使用されるが、ここから輸出されるのは、花をそのまま輸出するとのことである。
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(パッサージユのアーケイド)
 この町には、外壁を彫刻で飾った19世紀のアール・ヌーヴォー建築がたくさん残っている。その代表的なものがパッサージュのアーケイドである。
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(おもしろい外壁の建物)
 私たちが通りを歩いていると、おもしろい外壁をした建物が目に付いた。この建物は、外国の富豪が建てたものであるということだ。そこには、大きな丸い玉を2人の男が担いでいる。これは一体何を表しているのかとガイドさんに聞いた。
 さて、このブログを見て下さっている皆さんは、何を表していると思いますか。もしわかったらコメントに答を書いて下さい。
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(パルチザンの栄光博物館の入口)
 午後は、バスでパルチザンの栄光博物館へと向かった。市内から北西15㎞ほどにある。第二次世界大戦中、ナチスドイツの侵略に対して抵抗を行ったパルチザンが隠れ住んだ地下の洞窟が博物館として展示されている。パルチザンとは、占領軍に対する抵抗運動や革命戦争における非正規の軍事活動、またそれをおこなう遊撃隊を意味する。
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(地下の台所)
 この洞窟は、もともとは町の建設に使われた石灰岩の採掘場であった。そこに大人の男子64人、女性5人、子供6人が1941年から9ヶ月間隠れて住んでいたのである。
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(パルチザンが書いていた戦況の地図)
 パルチザンは電信などを使って当時の戦況を把握しており、ソ連軍がドイツ軍に反撃している地図が書かれている。彼らはソ連の勝利を確信して闘っていたのであろうか。
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(藁のベッド)
 彼らは狭いベッドの中で絶えず死の恐怖におびえながら生活していたのであろう。また、彼らが子どもたちに勉強を教えていた場所も残っている。
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(武器)
 通路から入ってきた敵を倒す武器が敵から見えないように置かれていた。洞窟は真っ暗であるから敵は武器が見えない。
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(壁に描かれた絵)
 パルチザンの人達が描いた絵であるが、ヒトラーとナチスドイツを皮肉っているのであろうか。
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(祈念の塔)
残念ながらパルチザンの人々は全員ドイツ軍によって殺された。パルチザンを支援していた農民の中に、情報をドイツ軍に提供した者がいたためである。パルチザンの人々の慰霊を祀るためであろうか、博物館の横には祈念の塔が立っていた。
 

 
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(観光5日目)
 10月13日(日)、今日の午前中は徒歩でオデッサの町を散策した。
 
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(オペラ・バレー劇場)
 まず最初に見学したのはオペラ・バレー劇場である。この劇場は、ウィーンの建築家によって設計され、1884年から1887年にかけて建てられた豪華な建造物である。しかし、ガソリンランプから引火した火災、さらにカフェからの火災と二度の火災に見舞われ、現在の建物は新しく建て替えられたものである。残念ながら私たちは劇場の中には入ることができなかった。劇場の周りには、新聞社・考古学博物館・図書館・市役所など、すばらしい建築物が並んでいた。
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(錨のモニュメント)
 通りにはオデッサの町のシンボルとなっている錨のモニュメントがあった。オデッサは、古代ギリシアの時代から港として栄えていたので錨が町のシンボルとなったのであろう。
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(世界の港町が書かれた表示板)
 この町は国際色豊かな港町で、通りには世界的に有名な港町の名前が書かれた表示板が置かれており、オデッサと姉妹都市となっている横浜の名前もあった。
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(バンドゥーラの演奏者)
 通りにはウクライナの民族楽器であるバンドゥーラを弾いている若者がいた。私は1ドル払って写真を撮らせてもらった。
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(ポチョムキンの階段)
 私たちは、昨日の夜に散策した中央広場にやってきた。そして、そこにあるオデッサで最も有名となった「ポチョムキンの階段」の上から港を見下ろした。この階段はソ連映画史上最も有名な「戦艦ポチョムキン」のなかでもこのオデッサの階段のシーンは有名である。実は、このツアーに私を誘った大学時代の友人は、この場所を見たいためにこのツアーに参加したのである。私もこの映画は友人と一緒に見た覚えがある。無声映画で、1905年の第一次ロシア革命時の戦艦ポチョムキンで起こった反乱をとりあげたものである。私が覚えているのは水兵に出された食事にはウジ虫がわいているというシーンで、階段のシーンはあまり覚えていない。ガイドブックによると「暴動を鎮圧する無表情な兵士たちの列が、ゆっくりと階段を下りていく、逃げまどう市民たちは次々と銃弾に倒れ、階段は血に染められていく。泣き叫ぶ赤ん坊を乗せた乳母車が階段を落ちていく場面を思い浮かべる人も多いことだろう。」とある。
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(下から見た階段)
 この階段は、1837年から1841年に造られた。おもしろいことに、上から見ると踊り場だけ、下から見ると階段だけしか見えない。また、最上段の幅は12.5m、最下段の幅は21.6mと、下に向かって少しずつ広くなっている。下から見上げたとき、いかにも堂々とした安定感が感じられるのはそのためだ。下から階段を上るのは少しきつい。そのために階段の横にケーブルカーが設置されている。私たちは昨夜、このケーブルカーに乗った。運賃は2グリヴナ24円であり、地下鉄の1区間の運賃と同じだった。
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(オデッサの市場)
 階段の見学後、再び徒歩で町の散策へと向かった。散策の後、バスでオデッサの市場に案内された。市場にはウサギの肉など珍しいものがたくさんあったが、お土産に適したものはなにもなかった。
 
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(観光4日目)
 私たちは、10月12日(土)午前8時頃にホテルを出発し、オデッサへと向かった。ヤルタから約550㎞、バスで約10時間の行程である。
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(道路沿いのお店)
 本日は朝から晩までひたすら移動日であった。途中の道路沿いには野菜や果物、干した魚などを売る店が並んでいた。私たちはバスを降りてお店を見て回った。するとお店のおじさんが、私たちに大きなスイカを一つプレゼントしてくれた。私たちが店の商品を買うとは思っていない。おそらく日本人に対しての好意を表すためにプレゼントしてくれたのであろう。このスイカは、最後の訪問地のモルドバのレストランでやっと食べることができたが大変おいしかった。
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(新郎新婦の撮影会)
 私たちが昼食をとったレストランの近くには公園があり、そこで結婚式を終えた新郎新婦の撮影が何組も行われていた。10月で季候もよく、土曜日だということもあり、たくさんの新郎新婦を見ることができた。
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(ウクライナ正教会)
 本日は観光をする所がないということで、現地ガイドさんがレストランの近くにあるウクライナの教会を案内してくれた。そこでは神父さんが赤ちゃんに洗礼を行っていた。
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(新婚式用に飾られた自動車)
 教会を出ると結婚式用の自動車が駐車されていた。ウクライナでも自動車は街にあふれていた。現地ガイドさんの話によると、初任給は日本円で2万円、平均賃金は5万円だということだ。しかし、一家に一台自家用車を持っており、ガソリン代もリッターあたり1ユーロだから130円ぐらいで日本とあまり変わらない。また、日本車は人気があり、自動車の値段もトヨタの高級車は400万円はするといっていた。公共交通機関や食料品は安いとしても生活するのは大変であろう。
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(レーニンの像)
 教会の近くにはロシア革命の指導者レーニンの像が置かれていた。ソ連が崩壊してもレーニンの像がそのまま残されているのは意外であった。
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(オデッサのカラオケ)
 私たちは午後6時30分頃に「黒海の真珠」と呼ばれる港町オデッサのホテルに到着した。夕食後、添乗員さんのお誘いで、オデッサの夜の町を散策することになった。ホテルのすぐそばにはカラオケと書かれたネオンサインが目に付いた。
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(中央広場の記念像)
 オデッサの中央広場には、この町の建設を推進したフランス人のリシェリエ公の像が建っていた。今日は、一日移動日であったが、オデッサの夜の町を散策できたのはよかった。

 
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 バフチサライのハーン宮殿の見学後、私たちはセバストーポリへと向かった。バフチサライから約41㎞、バスで約1時間の行程である。
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(クリミア半島を走るトロリーバス)
 クリミア半島では環境を守るために公共交通機関として電気で走るトロリーバスを採用している。営業距離の長さは86㎞にも達し世界一であり、ギネスブックにも登録されている。
 セバストーポリに到着したのは午後1時過ぎで、港の横にあるレストランで昼食を食べた後観光に出かけた。
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(セバストーポリの記念碑)
 港には大きな記念碑があり、人物像が建っていた。彼の名はナヒーモフで、ロシア黒海艦隊司令長官として活躍した英雄である。彼は1853年、クリミア戦争でトルコ艦隊を殲滅して名をあげ、1855年、英仏とのセバストーポリ要塞の防衛を指揮したが、頭に銃弾を受け戦死した。
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(ピヨートル1世)
 ロシアにとって黒海に港を持つということはとても重要な意味を持っていたのである。そもそもロシアはモスクワ大公国から成長した後進国であったが、17世紀末のピヨートル1世によって近代化が進められた。彼は、バルト海への進出のためサンクトペテルブルクを建設し、ここを都と定めた。
 しかし、ここは冬になると凍ってしまうので港としての役に立たなくなる。ロシアは不凍港を求めて南下政策を採ることになり、そこで目を付けたのが黒海北部に浮かぶクリミア半島であった。当時この地域はオスマントルコの支配下にあった。
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(アレクサンドル2世)
 当時ロシアは大国となっており、ロシアの南下政策を阻止しようと、英仏がトルコを支援して、英・仏・トルコとロシアとの戦争が行われた。この戦争はクリミア半島が戦場となったのでクリミア戦争と呼ばれる。この戦争で敗北したロシアのアレクサンドル2世は、ロシアの近代化の必要を痛感し、1861年に農奴解放令を出すのである。しかし、農民は農奴身分は解放されたが農地を手に入れることができず、貧しい小作人として生きていかなければならなかった。
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(第一学習社「最新世界史図表」より)
 クリミア戦争で活躍した女性といえばナイチンゲールである。ところが、セバストーポリには全くナイチンゲールに関するものがどこにもない。そこで現地のガイドさんに聞いてみると、ナイチンゲールはここには来ていない。彼女が活躍したのはイスタンブールのスキュダル(ウスクダル)というイギリス軍の基地となったところである。私は授業で、ナイチンゲールは戦場となったクリミア半島で敵味方の別なく看護活動をしていたと教えていたが間違いであったことがわかった。
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(黒海クルーズ)
 セバストーポリの散策後、添乗員さんから黒海クルーズへのお誘いがあった。もちろん私たちはセバストーポリの港を一周するクルーズへと出かけた。セバストーポリは今も軍港で、ロシア連邦の海軍基地とウクライナ海軍の司令部が置かれている。ソ連時代はソ連の黒海艦隊の基地であったが、ソ連解体後は協定により、毎年9億8000万円の賃料をロシアがウクライナに支払うという条件で、今でもロシア艦隊がこの軍港を使用している。
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(ヤルタの景色)
 クルーズが終わって私たちは再びヤルタのホテルへと引き返した。帰り道でヤルタの景色がよく見える場所にバスが停車してくれて私たちは記念写真を撮った。ところで、なぜ黒海という名前が付いたのかを添乗員さんが教えてくれた。彼によると、黒海の水は深さは2000m以上あり、川から流れた塩分の薄い表層水と塩分の濃い深層水では層を成して混合しない。このため深層水では酸素が欠乏し、バクテリアによって硫化水素を発生し、海水中の鉄イオンと結合し黒色の硫化鉄を生成する。そのため海の色が黒いので黒海と呼ばれるのであると。そういえば黒海の海の色は私たちが見る海の色より黒いような気がした。
 今日は予定にはなかった黒海クルーズにも行くことができて満足な一日であった。
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(観光3日目)
 私たちは、10月11日(金)の午前8時30分頃に黒海北部に浮かぶクリミア半島を巡り、バフチサライへと向かった。ヤルタから約82㎞、バスで約2時間の行程である。
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(バフチサライのハーン宮殿の門)
 バフチサライとは、クリミア・タタール語で「庭園の宮殿」という意味である。1532年から1783年にロシアに占領されるまで、ここにクリミア・ハン国の首都が置かれた。ハン国の君主であるサヒブ・ギレイによってハンサライ(ハンの宮殿)が建設された。宮殿はロシア軍によって破壊されたが、その後修復された。
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(中庭を取り囲む建物)
 門をくぐると広い中庭があり、周りを平屋建ての建築物が取り囲んでいた。
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(宮殿内のモスク)
 噴水のある中庭からモスクが見えたが、ミナレットが無ければモスクとはわからない。
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(謁見の間)
 ハーンが来客を招いた謁見の間は、ステンドグラスが光に反射して美しかった。部屋の中にも噴水を設置されているが、これはイスラーム文化の特色だ。アラビア半島から起こったイスラームは水を好んだからである。
 タタールとは、13世紀にチンギスハンによって大帝国を築いたモンゴルを指す。大帝国は分裂し、南ロシアにはキプチャク・ハン国が成立したが、15世紀に内紛により衰退し、これにかわって16世紀にクリミア・ハン国が成立した。彼らはイスラーム教を取り入れたのでここにイススラーム文化が花開いた。
 しかし、第二次大戦中の1944年、スターリンによってクリミア・タタール人が中央アジアに強制移住させられたため、バフチサライのタタール人はいなくなった。ソ連時代の末期になって、ようやくタタール人の帰還がゆるされると、再びここにタタール人が住むようになった。
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(「涙の泉」の噴水)
 この宮殿には有名な「涙の泉」と呼ばれる噴水がある。これはクリミア・ハン国の王が思いを寄せていた異教徒の女奴隷の死をいたみ、涙を流す噴水としてつくらせたものである。この噴水が有名となったのは、ロシアの詩人プーシキンがこの見聞をもとに「バフチサライの泉」という詩を書き上げたからである。噴水にはバラの花が絶えず添えられており、噴水の横にはプーシキンの像が置かれていた。
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 リヴァディア宮殿の1階はヤルタ会談に関する資料が展示されていたが、2階にはロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ2世に関する資料が展示されていた。
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(ニコライ2世の家族写真 手前に皇太子のアレクセイ、後ろ左から3女のマリア、2女のタチヤナ、長女のオリガ。ニコライ2世の左には皇后のアレクサンドラ、右には4女のアナスタシアがいる。)
 ニコライ2世は、二月革命で臨時政府によって逮捕され、十月革命が起こるとボルシェヴィキ(後の共産党)によってウラル地方のエカテリンブルクの資産家イバチェフの館に監禁された。その後、ニコライ一家は処刑されたという情報があったがはっきりとしたことはわからなかった。
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(ニコライの子どもたち、左がアナスタシア)
 この頃から、四女のアナスタシアだけは難を逃れてロシアを脱出して今も生きているという伝説が流れた。ハリウッドではアナスタシアを題材とした映画が作られて人気を博し、私がアナスタシアだと名のる人物が30人も現れた。
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(大津事件 ニコライ皇太子)
 真相が解明されたのは、ソ連が崩壊した後の1994年のことである。発掘された遺体のDNA鑑定がおこなわれたが、その血液鑑定に重要な役割を果たしたのは日本の大津市である。実は、ニコライ二世がまだ皇太子の頃の1891年に来日したことがある。皇太子が滋賀県の大津市に来たとき、警備していた巡査が突然皇太子に斬りつけるという大津事件がおこった。ロシアの報復を恐れた日本は、天皇が直接謝罪するとともに、大逆罪を適用して犯人の死刑を司法当局に要求したが、当時の大審院長は政治的圧力を排して無期懲役に処し、司法の独立を守った事件としても有名である。この時にニコライの血を拭いたハンカチを大津市が保管しておりDNA鑑定に役立った。これによりニコライ一家全員が処刑されたことが確定され、アナスタシアもこの時に亡くなっていたことが証明された。
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(チェーホフの家博物館)
 リヴァディア宮殿を見学した後、私たちはチェーホフの家博物館へと向かった。ロシアの文豪チェーホフは結核を患い、1899年、39歳の時に医師に勧められてヤルタに家を建てて移り住んだ。以後彼は、家族とともに晩年の5年間をここで過ごし、ゴーリキーやトルストイまたラフマニノフらと交遊し、「三人姉妹」「桜の園」などの作品を書き上げた。
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(チェーホフの像)
 博物館の庭にはチェーホフの像が置かれていたが、若く男前の像であった。
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(晩年のチェーホフの写真)
 チェーホフは1901年、モスクワ芸術座で「三人姉妹」が初演され、その時のマーシャ役を演じた女優、オリガと同年に結婚した。彼には「紳士チェーホフ」という人物像があてはめられていたが、実際は女好きであり、オリガとの交際中も複数の女性と関係を持っていたといわれている。
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(ラフマニノフが弾いたピアノ)
 博物館は彼の写真や原稿、またラフマニノフが弾いたピアノなど、チェーホフが晩年を過ごしたときのまま大切に保存されている。
 チェーホフノ家博物館を見学した後、私たちはホテルに向かった。今日は、国内線の飛行機が2時間遅れたにもかかわらず、日程通りすべての観光を終えることができた。
 
 
 
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