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1 古代ユダヤ教(キリスト教前史)
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
 前15世紀頃、遊牧民ヘブライ人がパレスティナ(カナーン)に定住。ヘブライ人の一部がエジプトへと移住。
前13世紀頃、ヘブライ人はモーゼに率いられてエジプト脱出しカナーンへ、この途中シナイ山において神はモーゼを通じて彼らに十戒を授ける。
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
 前10世紀頃、ヘブライ人は王国を建設し、ダビデ王とソロモン王の時に最盛。しかしソロモン王の死後、イスラエル王国とユダ王国に分裂。前722年にイスラエル王国はアッシリアに征服され、前586年にユダ王国は新バビロニアに滅ぼされた。この時、住民の多くはバビロンに強制移住された。これをバビロン捕囚と呼ぶ。  前538年に古代ペルシャ帝国により解放され、ヘブライ人はエルサレムに民族神ヤーヴェ(エホバ)の神殿を建設した。この頃に、自分たちは神から選ばれた民だと考える選民思想と、メシア(救世主)によって救われるというメシア思想を特徴とするユダヤ教が確立した。
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
 (ヘブライ人)
 セム語族の一派。自らはイスラエル(「神が支配する」の意味)と称した。前2000年紀にユーフラテス川流域からシリアに移り、一部はエジプトに移ったが、前13世紀にモーセに率いられてエジプトを脱出し、パレスチナに建国した。その後、あいつぐ政治的悲運の中でユダヤ教を創始し、キリスト教の母胎となった。アレクサンドロス大王の支配、ローマ帝国に征服された後は、世界に四散し、ユダヤ人と呼ばれる。
(モーセの十戒)
 ① あなたには、わたしのほかに、ほかの神がみがあってはならない。
 ② あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。(後略)
 ③ あなたは、あなたの神、主の御名(みな)を、みだりに唱えてはならない。(後略)
 ④ 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。(後略)
 ⑤ あなたの父と母を敬え。(後略)
 ⑥ 殺してはならない。
 ⑦ 姦淫(かんいん)してはならない。
 ⑧ 盗んではならない。
 ⑨ あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
 ⑩ あなたの隣人の家を欲しがってはならない。
 (『旧約聖書』「出エジプト記」)
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4 朝鮮戦争後の北朝鮮
1)  金日成体制(1945~1994)
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(金日成)
① 1949年に朝鮮労働党が成立し、金日成が委員長に就任
② 1972年 韓国と同時に南北共同声明を発表
③ 1977年 国家の公式理念がマルクス=レーニン主義から主体思想に変更される。
④ 1991年 国際連合に南北同時加盟
⑤ 1994年 金日成死去
2) 金正日体制(1994~2011)
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(金正日)
① 2000年 南北首脳会談により 6・15南北共同宣言発表
② 2002年 日本人拉致の事実を認めて日本人拉致被害者5名を日本に帰国させる。
③ 2005年 核兵器製造・保有を公式に認める。
3) 金正恩(2011~現在)
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(金正恩)
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4) 盧泰愚政権(1988~1993)
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(盧泰愚)
 「六・二九民主化宣言」の直後、16年ぶりの大統領選挙で当選した盧泰愚大統領は、1988年のソウル五輪を成功させた。一方、共産圏との関係改善に取り組み、1991年に国際連合に南北同時加盟を果たした。
5) 金泳三政権(1993~1998)
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(金泳三)
 1992年の第14代大統領選挙にて大統領に当選した。
6) 金大中政権(1998~2003)
 
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(金大中)
 韓国の民主化運動に早くから取り組み、朴正煕政権時代の1973年8月に東京のホテルから拉致され、韓国に連れ戻されたいわゆる「金大中事件」の被害者で、民主化運動の象徴的な人物である。
 1998年に大統領に当選すると、2000年には北朝鮮に対する「太陽政策」を実施して、南北首脳会談を成功させた。さらに2002年には日韓共催サッカーワールドカップ開催を行った。
7) 盧武鉉政権(2003~2008)
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(盧武鉉)
8) 李明博政権(2008年~2013)
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(李明博)
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3) 全斗煥政権(1980~1988)
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(全斗煥)
 1979年の軍事クーデターで朴正煕政権が崩壊した後、全斗煥による軍事政権が樹立された。そして、1980年5月には、非常戒厳令拡大措置を実施して9月に大統領に就任した。これに対し、韓国全土で民主化運動が起こるが、特に光州で30万の市民が闘争に参加し軍事力で弾圧されるが、これを光州民主化運動と呼ばれている。
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(光州民主化運動の中心地となった全羅南道旧道庁前広場)
 全斗煥政権の独裁政治に対する民衆の不満は、1987年の「6月民衆抗争」を招いた。反政府デモは100万人に達したといわれている。そして、この民衆の闘いは勝利し、「六・二九民主化宣言」を全斗煥政権から勝ち取った。この宣言により大統領直接選挙制の受け入れと、金大中の赦免・復権を認めさせた。

 
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2) 朴正煕政権(1961~1979)
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(ハンリム出版社「韓国の歴史」より)
 1960年の「四月革命」により独裁政権は倒れたが、新政権は非常に不安定であった。このような状況の中で、1961年5月に軍事クーデターにより、政権を奪取した朴正煕は1963年に大統領に就任した。
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(ハンリム出版社「韓国の歴史」より)
 そしてアメリカの要請を受け、日本や韓国の民衆の反対運動を押さえて、1965年に日韓条約が締結された。この条約は、韓国政府を朝鮮における唯一の合法的な政府と確認するとともに、賠償の代わりとして、韓国に対する経済協力で、無償3億・有償2億ドルと決定した。
 また、朴正煕政権は1965年にはアメリカに協力してベトナム戦争に参戦した。
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(ハンリム出版社「韓国の歴史」より)
 日韓条約以降、韓国経済はしだいに発展していった。そして、1970年には北朝鮮の「チョンリマ(千里馬)運動」に対抗して「セマウル(新しい村)運動」を推進していった。しかし、朴正煕政権に対する批判は、学生を中心に日増しに強まり、これに対して、憲法を改正して朴正煕独裁政権を強化した。そして、ついに1979年の軍事クーデターで、朴正煕大統領はKCIA長官に暗殺され、政権は崩壊した。
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 土塔町公園・史跡土塔の次の目的地は最終地点の百舌鳥八幡宮であり、出発地点から13,7㎞ある。
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(菰池・下池の石碑)
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(菰池・下池水辺緑地)
 資料によると、「奈良時代、行基が谷を堰き止め灌漑用水を貯めるための池を作る。菰池の名の由来は 池の周りに菰の木が多く生えていたからだといわれる。」と書かれている。菰の木とはどんな木なのかわからないが、池の周りには紅葉があり美しかった。
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(ニサンザイ古墳)
 菰池・下池水辺緑地を通ってしばらく歩いていると、左側に古墳が見えてきた。地図で確認すると、ニサンザイ古墳と書かれてある。辞書によると、「墳丘は3段構築で全長は約290m、後円部の径は約156m・高さ約24m、前方部の幅は約226m・高さ約22.5mで、前方部を西に向けており左右に造り出しがある。日本で8番目の大きさとなっている。現在の周濠は一重だが、二重目の濠が一部確認されている。2012年に墳丘裾の護岸工事の際に行われた調査では、現在の墳丘の端から5m外側の濠の底から本来の裾部分が見つかっており、全長が300mを超えていた可能性が指摘されている「ニサンザイ」は「ミサンザイ」すなわち「ミササギ(陵)」の転訛したものと考えられており、宮内庁が『東百舌鳥陵墓参考地』に指定しているものの、天皇は埋葬されていないものとされている。同じ百舌鳥古墳群の田出井山古墳が反正天皇陵に比定されているが規模が小さいために、こちらを反正天皇陵とする説がある。5世紀後半の築造と考えられており、百舌鳥古墳群の大型古墳の中では最も時代が新しい。」と書かれている。
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(ニサンザイ古墳の遊歩道)
 ニサンザイ古墳の横には遊歩道があり、私たちは疲れていたがしばらく遊歩道を歩いた。
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(百舌鳥八幡宮)
 ニサンザイ古墳を過ぎると、ようやく私たちが出発した場所である百舌鳥八幡宮に到着した。午前9時頃に出発し到着したのが13時を少し過ぎた頃であった。13,7㎞の距離を昼食の時間を入れて4時間近く歩いたことになる。
 さて資料によると、百舌鳥八幡宮は「4世紀末、神功皇后が三韓征討を終えての帰路この地にお立ち寄りになり、万代の平安を御誓願されその後、欽明天皇(532~571)の時代に、八幡大神のお告げをうけてこの地を万代(もず)と称しここに神社を創建してお祀りされたと伝えられている。社殿は江戸時代享保11年(1726年)の建築、昭和46年に修復され、その規模は府下屈指で、境内の楠木は大阪府指定天然記念物に指定されており、樹齢約800年と言われている。」と書かれている。
 もう少ししっかりと資料を読んでいれば、樹齢800年の楠木を写真にとっておいたのに残念である。しかし、天候にも恵まれ、「行基の足跡をたずねて」という歴史ウォークに参加して楽しかった。また、このブログを書くことでいろいろと勉強になった。
 最後まで「行基の足跡をたずねて」のブログを読んでいただいてありがとうございます。 おしまい。
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 水賀池公園の次の目的地は「土塔町公園・史跡土塔」であり、出発地点から10,2キロメートルある。
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(正面から見た土塔)
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(側面から見た土塔)
 資料によると、土塔は「真言宗。神亀4年(727年)行基60歳の時創建。本尊は十一面観音立像。大野寺の仏塔として建てられたのが土塔。一辺53m、高さ約9mの正四角錐台で十三重の棟。北方に行基が作ったと考えられる『菰池』(こもいけ)がある。」と書かれている。
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(瓦葺と文字瓦)
 「瓦葺と文字瓦」によると、この土塔には約60、000枚の瓦が全面に葺かれていた。葺かれていた瓦の製作年代から室町時代までは瓦の補修が行われていた。土塔からは、文字を記した瓦が約1,300点出土している。行基とともに土塔を建立した「知識」(ちしき)と呼ばれる人たちの名を記したと考えられ、男女を問わず僧尼や氏族の名前もみられる、と書かれている。
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(裏から見た土塔)
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(土塔の復元模型)
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(裏から見た土塔の復元模型)
 「土塔の復元」には、「発掘調査では十三層の形状が明らかにならなかったため、ひとつの可能性をこの模型で示しています。十二層には直径約6mの円形に粘土が並んでいたことから、十三層は饅頭型の土壇の上に八角形の木造建物を復元しました。また、出土した遺物から木造建物には、陶製の相輪があったと考えられます。建物の形状は、法隆寺夢殿(奈良県斑鳩町)や栄山寺八角堂(奈良県五條市)、室生寺五重塔(奈良県宇陀市)を参考にしています。」と書かれている。
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 鈴の宮蜂田神社の次の目的地は野々宮神社であり、出発地点から8,6㎞ある。
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(花のこみち)
 野々宮神社に行く途中に、「花のこみち」があった。資料には、「四季のゾーンに分かれ、手入れの行き届いたガーデン」と書いてあり、道の両側にきれいな花が咲いていた。
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(野々宮神社)
 資料によると野々宮神社は、「祭神は素戔嗚命・火参霊命(ほむすびのみこと)・菅原道真公で紀元は不明。古くから火の神、農業の神として崇拝。明治初期まで併存していた香林寺(行基建立四十九院の1院)は廃仏毀釈により廃寺となった。」と書いてある。
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(野々宮神社の石碑)
 資料にある素戔嗚命(すさのおのみこと)とは、高天原で大暴れし、それを怒った天照大神が天岩戸にこもった。そのため根の国に追放され、出雲に下り、ここで八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した。大国主命はその子孫とされている。また、火参霊命(ほむすびのみこと)とは、イザナギとイザナミとの間に生まれた神である。火の神であったために、出産時にイザナミの陰部に火傷ができ、これがもとでイザナミは死んでしまう。その後、怒ったイザナギに十拳剣「天之尾羽張(アメノオハバリ)」で殺された。
 この神社と行基とは全く関係がなかったが、もと字中村にあった野々宮神社が永正年中(1504~1520年)に火災にあい、神社が安村香林寺の境内に移されたため関係が生まれた。しかし、明治の廃仏毀釈で香林寺は廃寺となる。
 次の目的地は水賀池公園で、出発地点から9,1㎞ある。
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(水賀池記念碑)
 資料によると、「行基の灌漑用水池の一つとして、和泉国深井郷薦池(こもえいけ)が挙げられるが、これが水賀池であろうと考えられている。」と書かれてある。
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(水賀池祈念碑建立の由来が書かれた石碑)
 この石碑は昭和55年に書かれた新しいもので、水賀池の歴史が刻まれている。この石碑によると、この
深井地区は和泉地方において、弥生時代に発展の基盤を持っていた。6~7世紀の律令国家の行政区画上、深井郷と称し、中世においては深井荘という大きな荘園であった。
 水賀池の築造時期は明らかではないが、堺市史によると行基の郷薦池であろうと考えられている。このことから7世紀後半から8世紀頃にかけ、その築造体験に基づいて、現在の規模の用水池が完成されたと考えられる。
 水賀池の外周が遊歩道で公園になっており、私たちはこの公園でお弁当を食べた。
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 家原寺の次の目的地は華林寺(けいりんじ)で、出発地点から6,5㎞ある。
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(華林寺)
 資料によると、華林寺は「真言宗。行基13歳のとき(680年)母方の蜂田連が氏寺として創建した。本寺に伝えられる行基13歳の有髪絵画は全国的にも例がなく、毎年旧暦2月2日の命日に掲示してお勤めが行われる。」とある。
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(華林寺の本堂)
 資料にある母方の蜂田連の連(むらじ)というのは、伴造(とものみやつこ)系の中央の最有力豪族に多い。また、おそらく蜂田という名前から現在の八田という地名がつけられたのであろう。
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(華林寺本堂の御内仏)
 私たちは資料に書いてあった行基の13歳の有髪絵画を見ようと本堂の中を見せてもらったが、残念ながら見つけることができなかった。
 華林寺の次の目的地は鈴の宮蜂田神社で、出発地点から6,9㎞ある。
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(鈴の宮蜂田神社)
 資料によると、この神社は「行基の母方の蜂田連の祖先、天児屋根命を祀る。蜂田連が土焼きの鈴12個を作り、毎年春の初めに神前に供え、鈴音の良し悪しでその年の吉凶を占ったという故事より「鈴の宮」と呼ばれる。」と書かれている。
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(鈴の宮蜂田神社の鈴塚)
 資料にある天児屋根命(あめのこやねのみこと)とは、高天原(たかまがはら)で祭祀をつかさどる興台産霊神(こことむすびのかみ)(天照大神の子)の子で、天照大神の侍臣(じしん) として仕えていた。天照大神(あまてらすおおみかみ)も、うっとりと聞き惚(ほ)れて、ついに天の岩戸を開けてしまったという美声の持ち主であったといわれている。
 写真には干支の形をした土焼きの鈴が12個並べられているが、これはわざわざ今日のために置かれたということである。
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(家原寺の行基誕生塚の石碑)
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(家原寺の行基誕生塚にある六角堂)
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(家原寺の御堂)
 私たちは拝観料200円を払って家原寺の境内を散策し、行基菩薩誕生塚の石碑や六角堂を見学した。その近くには、左に興正菩薩、中央に行基菩薩、右に弘法大師と書かれた御堂があった。中に入ることができなかったので、外からのぞいてみると中は薄暗くよく見えなかったが、どう見ても像は2体しかなかった。
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(家原寺のぼけ除け観音像)
 さらに境内には「ぼけ除け観音像」まであった。いつの時代に造られたのかはわからないが、昔からぼけを避けようとする願いがあったのか、それとも今のご時世にあわせて造られたのであろうか。
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(家原寺の三重の塔)
 最初、お寺に入った時には気づかなかったが、このお寺にも立派な三重の塔が見えていた。
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(家原寺の行基の像)
 私たちがお寺を出ようとすると行基の像が見え、像の周りを熱心に何回も歩いている人達がいた。いわゆるお百度参りとなっており、願いをかなえるために拝んでいる姿が見えた。
 
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