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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
T 上の資料をから、フイリップ4世はどこの王で誰と何のために争ったのかを答えさせ、また、教皇庁はアヴィニヨンに移されたがそれはどこにあったのか。上の資料は何を意味しているのかを考えさせる。
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(フスの火刑 ベーメンのカレル大学(プラハ)学長フスは、ウイクリフ説を唱えてコンスタンツ公会議で異端とされ、悪魔の紙帽子を被せられ処刑された(1415)。これはチェック人の民族意識を高め、フス戦争(1419~36)に発展した。 浜島書店「アカデミア世界史」より)
T 上の絵を見せて、①フスはどこの人か。②現在のどこの国にあたるのか。③なぜフスは火刑に処せられたのか。④なぜフスの火刑がチェック人の民族意識を高め、フス戦争に発展したのかを考えさせる。
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3 農村の変化
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  (教科書の記述「農奴制の廃止などを求めるこの反乱の参加者は10万人にのぼり、一時ロンドン市を占領した。図は指導者の一人ジョン・ボールが農民軍を激励しているところ。彼は『アダムがたがやし、イヴが紡いだとき、どこに領主がいたか』と説いた。」
T 上の絵と教科書の記述からこの反乱名と、どこで起こったのかを答えさせる。また、農民軍を激励しているボールはどんな職業の人かを答えさせる。また、彼の説いた言葉は何を意味しているのかを考えさせる。そしてこの乱と同じ14世紀フランスで起こった乱の名前を答えさせ、なぜこの頃にこのような大きな農民反乱が起こったのかを考えさせる。
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T イタリアでは都市共和国として自立するものが多かったが、代表的な都市名を上の地図から答えさせる。また、バルト海から北海にかけて発展した諸都市では都市同盟を結んだが、その同盟を何と呼びどんな都市が参加したかを答えさせる。なぜイタリアやドイツでは、都市共和国や都市同盟が成立したのかを考えさせる。
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(ハンブルクの港)
 ハンブルクはベルリンに次ぐドイツ第2の都市で、大阪とも姉妹都市である。その歴史は古く、6世紀にはエルベ川河口に港湾都市が生まれ、808年にはカール大帝により城塞が築かれ、811年には大聖堂が建設され、ハンブルク(湾の城)の基礎が整った。その後、12世紀末には皇帝から十字軍への貢献の報償として、船舶航行の特許状を与えられ、商業上の特権を獲得した。13世紀にはリューベックやブレーメンと防衛同盟を結び、やがてハンザ同盟の有力な一員として、皇帝から自由都市の特権を与えられ、自治権を獲得した。その後、三十年戦争、ナポレオンの占領、1842年の大火災の被害を受けたが、1871年、ドイツ帝国の成立の際も、ハンブルクはどこの州にも属さず独立を維持した。現在もベルリンと同様に一市単独で連邦州を構成する特別市となっている。
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(リューベック「ホルステン門」)
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(リューベック「レンガ造りの塩の倉庫」)
 リューベックの町は12世紀中頃、ホルシュタイン伯のアドルフによって建設され火災により荒廃したが、ザクセン公ハインリヒ獅子公により再建された。この町が繁栄を極めたのはハンザ同盟の盟主になったことによる。ハンザ同盟のハンザとは団体という意味で、リューベックはドイツ帝国都市であるハンブルクやブレーメンなどと12世紀頃に都市同盟を結び、経済的な連合だけではなく政治的・軍事的連合として機能した。ハンザ同盟は13~14世紀に繁栄し、15世紀の最盛期には加盟都市は200を超えた。リューベック繁栄の背景には、リューネブルクの岩塩をおさえたことにある。北海やバルト海で荷揚げされた鰊などの海産物が、リューベックへ運ばれて塩漬けにされてヨーロッパ各地にはこばれた。また、リューネブルクの塩もリューベックを経てロシアや北欧へと輸出された。昔から塩は貴重であり、王や貴族は家来に給料として塩を渡していた。塩はドイツ語でザルツ、英語ではソルトである。現在、給料のことをサラリーと呼ぶのはここからきている。(以上「ドイツ旅行記より」)
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2)都市の発達と自治
T 教科書の上の「中世ヨーロッパの商工業者」の絵を見せて、①どのような店があるか。②ギルドとは何か、なぜそれが作られていったのか、また、記述のなかに「ギルドの組合員である親方は、…大商人に対抗して市政への参加を要求した。」とはどのようなことかを考えさせる。
(私はヨーロッパの中世都市がどのような特色を持っていたかを生徒に理解させるための教材として、阿部謹也著「ハーメルンの笛吹き男 伝説とその世界」を取り上げている。)
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(ハーメルンの時計台の仕掛け人形でねずみ取り男がネズミを川に誘い込んでいる。 「ドイツ旅行記」より)
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(魔法使いとなって子どもたちをさらっている。)
先ずグリム童話の有名な「ハーメルンの笛吹男」のストーリーを話したあとで、この本の内容を説明する。
ドイツ中世史の研究者である著者が、ドイツのハーメルンで研究していたときに、「子どもたちがいなくなってから何年目」という記録を発見する。1284年6月26日に130人のこどもたちが突然いなくなったという伝承が残っており、その伝承にもとづいて、その子どもたちは笛吹き男に導かれて消えてしまったというおはなしがつくられていった。やがて何時のころからか、ねずみ取り男が登場してストーリーは完成する。
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(ネズミが溺れ死んだといわれているヴェーザー川)
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(ヴェーザー川の横には、石に笛吹き男と子供たちの絵が見える。「ドイツ旅行記」より)
ハーメルンの町は製粉工場の町として発展し、ネズミが繁殖していたことは間違いない。それではなぜ笛吹き男とねずみ取り男がドッキングするようになったのか。そこには中世都市の性格を理解する重要なてがかりがある。中世の都市はギルドを中心とした社会であった。商人や手工業者さらには乞食・泥棒にいたるまで何らかのギルドとよばれる一種の共同体があり、その中でこそ生活が可能であった。ところが、単独で町を渡り歩く笛吹き男=旅芸人などは、当時の社会で差別され、軽蔑され、恐れられていた。このような差別の裏返しとして彼らは不思議な力=魔力を持った者と見なされた。ネズミ取り男も同じくギルドに属さず、単独で町を渡り歩いて生活しており差別の対象となっていた。このようにして、笛吹き男とねずみ取り男がドッキングしてこのような物語になったのではないかと、著者は推測している。
 ところで、子どもたちが消えてしまった理由としては、①子供十字軍に参加した。②ドイツ東方植民に参加した。③遭難説を著者はあげていたが、最近の研究ではドイツ東方植民が進んで、労働力が不足し子どもたちが誘拐されたという説が有力である。
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 2013年12月24日(火)に歴史教育者協議会の世界支部会で「西ヨーロッパの変容をどう教えるか」を報告しました。前回は、志賀さんが十字軍について報告されたので、その後の西ヨーロッパの時期をあつかった報告です。
【授業のねらい】
① 中世都市がどのように発達し、どのような特色を持っていたのかを理解させる。
② 貨幣経済の発達が封建的な農村社会を崩壊させるとともに、農民の成長が大きな農民一揆をもたらしたことを理解させる。
③ 王権の強化が教皇権の衰退をもたらし、教会大分裂や教会批判が行われていったことを理解させる。
④ 強大な農民一揆を鎮圧する中で王権が強まり、それが英仏の百年戦争やイベリア半島のレコンキスタを促したことを理解させる。
【教材など】
① 教科書…「東京書籍 新選世界史B」
② 2011年度 2年世界史プリントNO16
③ 掛け図(ヨーロッパ)
④ 写真パネルなど
【授業時間】 約2時間
【授業展開】
2 商業と都市の発達
1)遠隔地貿易
T 教科書の下の図を見せて、中世ヨーロッパの遠隔地貿易の二つのルートとそれぞれの重要な都市の名前、さらに各ルートではどのような商品が取引されていたのかを答えさせる。

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(東京書籍「新選世界史B」より)
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2 ニュー・ディール政策とブロック経済
1) ニュー・ディール政策
 アメリカでは1931年、フーヴァー大統領は、世界経済の破たんをくい止めるために、ドイツの賠償や連合国の対米政策の支払いを1年間停止するフーヴァー・モラトリアムを提唱したものの、成果はあがらなかった。
 1933年、大統領に就任したフランクリン・ローズヴェルトがニューディール政策と呼ばれる景気回復策をとった。これは、農業調整法と全国産業復興法によって農業と工業を調整して価格の安定をはかった。また、テネシー河流域開発公社(TVA)のような大規模な公共事業により失業者を救済することによって国民の購買力を高めようとするものであった。
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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
2) ブロック経済
 またイギリス、フランスは、深刻な経済危機の打開のため、輸入品に高関税をかけたり、植民地や自国の勢力下にある諸国にブロック経済にくみこむなど、排他的な市場をつくる政策をとった。イギリスは1932年、カナダのオタワでイギリス連邦経済会議をひらいて他国からの輸入を制限するスターリング・ブロックを組織し、フランスも広大な植民地を利用してフラン・ブロックをつくった。
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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
 次回の第47回世界史講座は、1月11日(土)の午後2時より、「スターリン体制下のソ連」「ナチス政権の登場」「ファシズムの台頭」「スペイン内戦」などをテーマにおこないます。多数のご参加を待っています。
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  Ⅴ 世界恐慌とファシズム
1 世界恐慌のはじまり
 大戦後、アメリカはドイツやイギリス、フランスなど西ヨーロッパに資金を提供し、世界経済をささえ、1920年代には繁栄を謳歌した。しかし、1920年代後半には西ヨーロッパ諸国の工業生産は回復し、植民地でも産業が発展したうえに、ソ連経済も発展し、世界工業生産は大きく伸びた。しかし、日本やヨーロッパの多くの国では貧富の差が大きいため、労働者や農民の購買力は伸びず、生産過剰の傾向が強まっていった。
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(第一学習社「最新世界史図表」より)
 1929年10月、ニューヨークの株式取引所で株価の大暴落がおきると、これがきっかけとなって、アメリカ国内では破産や倒産が続出し、また失業者も増大し、商業や貿易も不振におちいった。
 当時のアメリカは資本主義世界の中心であり、大恐慌は他の国々の経済に深刻な影響を及ぼし、たちまち世界恐慌がはじまった。
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(帝国書院「タペストリー」より)
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3 大衆文化の時代
 1920年代には都市の人口が農村を上まわり、経済的な繁栄を背景に大衆文化が成立したハリウッドの映画産業は大衆に新しい娯楽を提供した。また、無声映画にかわってトーキーが登場した。
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
 資料にあるあるように「十戒」や「ベンハー」は1920年代に映画化されており、私達が昔見た映画はリメイクされたものであることを参加者の誰も知らなかった。
 音楽ではジャズがさかんになり、アメリカを代表する音楽となった。もともとジャズは黒人の音楽であったが、大戦中に労働力として北部に移住した黒人によって伝えられた。
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(第一学習社「最新世界史図表」より)
4 保守主義の台頭
 アメリカの国民意識が高まるなかで、ロシア革命に対抗して社会主義勢力を抑圧する姿勢が強まった。また、北部の工業地帯への黒人の大量移住、東・南ヨーロッパやアジアからの移民の増加などにより、ワスプ(WASP)(White Anglo-Aaxon Puritan) と呼ばれるアングロ・サクソン系の白人中産階級を中心に保守主義の傾向が強まった。イタリア移民を無実の罪で処刑したサッコ・ヴァンゼッテイ事件、反黒人・反ユダヤ・反移民をとなえるK・K・K(クー・クラックス・クラン)の勢力拡大、日系移民などの排除を目的とした移民法などはそのあらわれであった。
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
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   Ⅳ アメリカ合衆国の繁栄
1 アメリカ合衆国の台頭
 第一次世界大戦は資本主義世界におけるアメリカの立場を大きく変えた。アメリカは、連合国向けのぼうだいな融資により、債務国から債権国となり、ニューヨークはロンドンとならぶ国際金融の中心となった。また外交では伝統的な孤立主義にもどって国際連盟にも参加しなかったが、ワシントン会議を招集したり、ドーズ案やヤング案などによってドイツの戦後復興を援助するなど、国際社会における影響力を高めた。
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
2) 繁栄の1920年代
 アメリの好景気は自動車や家庭用電気製品を生産するあらたな産業の出現が影響していた。フォードシステムで知られる流れ作業方式による大量生産のしくみも普及し、大量生産と大量消費の時代が到来した。こうしたなかで自動車やミシン、電気掃除機などが家庭生活の中で入り込むとともに、広告の影響やクレジットによって大量に販売されるようになった。しかし、1920年代の後半になると、農民や労働者の収入はほとんど伸びず、購買力は低下していった。
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(帝国書院「タペストリー」より)
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
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 12月1日の日曜日に世界史講座で初めてのフィールドワークに行ってきました。参加者は9名で、私達が行ったコースは、私が3月のブログ「大阪とコリア」で紹介したのと同じ所です。大阪は古くからコリアとの関係が深く、古代から現代までの歴史的な遺跡などをめぐるコースです。
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(西本願寺津村別院 親鸞像)
 お昼の12時に光明池駅前に集合し、中百舌鳥で地下鉄に乗り換え、エンジョイエコカードを600円で購入して最初に向かったのが本町にある「西本願寺津村別院」です。ここは、「朝鮮通信使」が9回も宿泊したといわれている場所です。
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(竹林寺)
 次に地下鉄の中央線の九条駅の近くにある「竹林寺」へと向かいました。途中、「松島」という昔の遊郭が有った場所を通りましたが、今でも昔のような風情があり、きれいな若い女性がライトアップされた場所に座っていました。このフィールドワークで一番印象に残ったのがこの場所であるという感想が参加者の中から有りました。竹林寺も「朝鮮通信使」が宿泊したところであるといわれています。
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(金漢重(キム・ハンジュン)の墓)
 竹林寺の中に、1764年の第11回朝鮮通信使で、大阪で病死した金漢重(キム・ハンジュン)の墓があり、墓には彼の辞世の詩が書かれてありました。
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(「九条島と朝鮮通信使」記念碑 )
 竹林寺の近くにある松島公園のなかに「九条島と朝鮮通信使」という記念碑がありました。
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(四天王寺「下馬石」
 次に地下鉄で四天王寺に行き、そこにある「下馬石」を見てきました。四天王寺は593年に聖徳太子が建立したといわれる日本仏教最初の官寺です。その様式は百済の様式であり、建設には渡来人の技術者集団が関わったとされ、その技術者集団が世界最古の会社とされる『金剛組』だとされています。また、この下馬石の文字は朝鮮通信使一行の金義信(キム・イシン号は雪峰)が書いたとされています。
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(堂ヶ芝廃寺「百済寺跡」)
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(堂ヶ芝廃寺「百済時跡」の説明文)
 次に四天王寺東大門前からバスで勝山三丁まで乗り、堂ヶ芝廃寺「百済寺跡」へと向かった。JR桃谷駅の北西にある堂ヶ芝廃寺は現在、豊川閣観音寺というお寺になっている。資料によると「この辺りは昔、百済郡と呼ばれ、百済の王族をルーツとする渡来人の居住した地域です。その百済王(くだらのこにきし)氏の氏寺の跡と考えられています。・・・境内から白鳳期から奈良時代の瓦が多く出土しています。」とある。
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(御幸森天神宮)
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(御幸森神宮の「難波津の歌」の碑)
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(「難波津の歌」の碑)
 次に徒歩で御幸森天神宮へと向かった。「伝承では、仁徳大王が鷹狩、または、近隣の渡来人の状況を視察のために来た(御幸した)折りに、この地の森で休憩したので、御幸森という地名になったと言われています。神社の記録では406年に仁徳大王を祭神に神社が作られたとされます。」とある。また、この神社とコリアとの関係について、「仁徳大王の即位に関わった百済出身の王仁博士が作ったとされる『難波津の歌』がハングルで書かれたものが兵庫県竜野の旧家から発見されました。2009年に『日本と韓国・朝鮮の平和共存と共生の願い』を込めて、コリアタウンの住民などにより、御幸森天神宮の境内に、万葉仮名・和文・ハングルで『難波津の歌』を記した碑が建てられました。」と資料にある。「難波津の歌」というのは、「難波津に 咲くやこの花冬籠もり 今は春べと 咲くやこの花」という歌である。参加者のなかに、「書道の作品ででこの歌を選んで書いたがそんな由来があるとは知らなかった。」と言われていた。
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(つるの橋跡)
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(つるの橋跡)
 次に徒歩で「つるの橋跡」へと向かったがなかなか場所が見つけられなかった。私は今年の3月に行ったところであるが、住宅地にあり狭い場所なのでよくわからず近くに住んでいる人に聞くと、大変親切に教えてくれたのでやっとたどり着くことができた。資料によると、「猪飼野を流れる川を昔、百済川といいました。その百済川に架けられた文献上では、日本最古の橋が『つるのはし』です。当時の渡来人の技術が駆使されていました。日本書紀に『仁徳天皇猪甘津(いかいつ)に橋をつくる、この処を小橋と名付く』とあるのは、このはしのことです。現在では、百済川(平野川)は改修されて、流路が変更されています。そのため『つるの橋』の場所は、川からはかなり外れた場所になっていますが、そこに記念碑と明治時代の石橋の親柱が残されています。」とある。小橋がなぜ「つるの橋」になったのかということについては、「生野区役所の案内」によれば、「この辺りに鶴がよく飛んで来たところから、いつのまにか鶴橋と呼ばれるようになった。」と書かれてある。
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(猪飼野新橋)
 次に向かったのは「猪飼野新橋」で、現在平野川と呼ばれている川に架かっている橋です。資料によると、「猪飼野新橋は平野川に架かる橋長18.5mです。1987年に完成しました。親柱は前方後円墳の形、高欄の支柱は勾玉の形をしています。高欄には『為橋於猪甘津即号其処曰小橋也』日本書紀に記された14文字の銘板を配するなど、この地が古代から開けた土地であることを表しています。」と書かれてある。
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(コリアタウン)
 次に向かったのは「コリアタウン」で、ここで焼き肉を食べることが目的で参加した人もいた。資料によると、「猪飼野は古代より朝鮮半島の渡来人の居住する場所でありましたが、近代以降、平野川(百済川)の改修などで、植民地朝鮮から多くの労働者が移り住み、生野区、特に猪飼野と呼ばれた地域は、現在でも、在日コリアンやコリアン系日本人の占める割合が高いです。その中で、御幸通り商店街は日本人の商店街でしたが、アジア太平洋戦争中に空襲を避けて、多くの日本人が疎開したこともあって、多くのコリアンが進出し、朝鮮市場と呼ばれました。20年ほど前までは、あまり注目されず、人通りもあまり多くなかったのですが、1993年頃からコリアタウンと呼ばれるようになりました。」と書かれてある。
 私達は「パゴダ」で焼き肉を食べたが、本当においしかった。また、お土産にキムチを買った人がおり、あとでそのキムチをわけてもらったが、特にゴボウのキムチはおいしかった。(おしまい)
(追伸、 私はフィールドワークにカメラを持って行くのを忘れてしまったため、写真のすべては藤井さんが撮影してくれました。藤井さんありがとうございました。次回は神戸に行く予定です。)
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