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 シュテファン大聖堂の見学後、私たちはウィーンの中心街をガイドさんに案内してもらった。その中には、昔オーストリアの王家の御用達の店であったことを示すシンボルが描かれてあった。その絵はハプスブルク家の紋章「双頭の鷲」である。
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(王家の御用達であったことを示す「双頭の鷲」が描かれた店)
 私たちが大聖堂から歩いたのはケルントナー通りと呼ばれるが、その名の由来は城壁の門 (ケルントナー門) の名前からきている。中世にはすでに存在していたことがわかっており、13世紀の文献で確認することができる。ケルントナー門からはケルンテン州を経由してヴェネツィアやトリエステへと向かう道が延びており、南方との交易に重要な役割を果たしていた。
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(ケルントナー通り)
 私たちはオペラ座の前まで歩いた。
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(オペラ座の前)
 その後、私たちはウィーンにある中華料理店で昼食を食べたが結構おいしかった。昼食後は自由行動になっていたが、私たち夫婦はオプションで「ウィーンの森観光」を申し込んでいたので、午後1時よりバスでウィーンの森へと出かけた。参加費用が高かったせいか、オプションの参加者は4名だけであった。
 バスは高速度道路を南へと走り1時間ほどで目的地に着いた。
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(ウィーンの森 ぶどう畑が見える)
 森を散策するのかと思ったがそうではなく、「マイヤーリンクの館」と呼ばれる建物へと案内された。
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(マイヤーリンクの館)
  この建物は、もともとハプスブルク家の狩猟の館であった。しかし、1889年の1月30日にヨーゼフ1世の息子ルドルフ皇太子が、男爵令嬢マリア・ヴェッツェラとここで心中したために、今は修道院となっている。偶然にも、私たちが訪れた日と皇太子たちが心中した日が同じであった。ルドルフ皇太子は、マイヤーリンクのこのような冬の景色を見て心中したのかと思いをめぐらした。
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(館周辺の風景)
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(館周辺の風景)
 
 
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 シェーンブルン宮殿を見学した後、私たちはバスで市内に戻りシュテファン大聖堂を見学した。大聖堂の前には観光用馬車がいっぱい並んでいた。
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(大聖堂の前に並ぶ馬車)
 この聖堂はウィーン大司教区の司教座聖堂であり、2001年に世界遺産に登録された。
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(シュテファン大聖堂)
 12世紀、ここにロマネスク様式の小さな教会があったが、ハプスブルク家のオーストリア公ルドルフ4世の命によってゴシック様式の大聖堂に改築された。
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(シュテファン大聖堂)
 シュテファン大聖堂のシンボルである南塔は1359年に65年がかりで完成されたもので、高さが137mで世界第三位の高さを誇っている。
 聖堂内部のフラッシュは禁止されているので内部の様子ははっきりと撮影できなかった。聖堂入り口から奥にある祭壇までの内陣身廊の長さは107mにも及んでいる。
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(長さ107mの内陣身廊)
 シュテファン大聖堂はハプスブルク家の歴代君主の墓所であるほか、モーツァルトの結婚式が行われ、また葬儀が行われた聖堂としても知られている。
 
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 シェーンブルン宮殿の内部にはカメラを持って入れなかったので、あとで購入した「シェーンブルン宮殿ガイド」という本などを利用して宮殿を紹介しよう。
 まず、シェーンブルン宮殿に関する年表を紹介しよう。
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(「シェーンブルン宮殿ガイド」より)
 すでにマリア・テレジア時代の1779年以来、シェーンブルン庭園が市民に公開されていたばかりでなく、式典用の広間やサロンも見学可能であった。今日、宮殿内の豪華な広間やサロン、皇帝一族の私室の数々は見学コースとして一般に公開されている。
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(「シェーンブルン宮殿ガイド」より)
 シェーンブルン宮殿の案内図を見るとこの宮殿がいかに広いかがわかる。庭園は東西約1.2km、南北約1kmの規模を誇っている。
 次に宮殿の見取り図を紹介しよう。
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(「旅名人ブックス ウィーン」より)
 宮殿の部屋数は全部で1441室あり、その中で最も有名な部屋を紹介しよう。
 
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(「シェーンブルン宮殿ガイド」より)
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(「シェーンブルン宮殿ガイド」より)
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大ギャラリー(「シェーンブルン宮殿ガイド」より)
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(「シェーンブルン宮殿ガイド」より)
 「馬車行列の間は、マリア・テレジアと夫の謁見に際し、控えの間として用いられた。部屋の名前は、ここに飾られた絵画の一つに由来する。画面に描かれているのは、1743年に催された貴婦人による大規模な馬車行列で、会場はホーフブルク王宮にある。マリア・テレジアは白馬に乗って騎馬のカドリルを率い、これに続くのは、貝殻をかたどり銀箔を施した小型馬車である。」と解説されているが、どれがマリア・テレジアかわからなかった。ガイドさんによると、メリーゴーランドはこの馬車行列から生み出されたと紹介していた。
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漆の間(「シェーンブルン宮殿ガイド」より)
 漆の間は、皇帝フランツ1世の死後、マリア・テレジアによって夫君の思い出の間へと改装された。極めて高価で貴重な黒漆のプレートは、北京の帝室工房の製品である。
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 スロヴァキアの首都プラチスラバの見学のあと、私たちはオーストリアの首都ウィーンへと向かった。距離で68㎞、バスで1時間30分の行程である。シェンゲン協定のおかげで、今回も国境を越えるのに何の問題もなかった。また、スロヴァキアもオーストリアも通貨はユーロが使用されており、私は関空でユーロはたっぷり両替していたので何の心配もなかった。
 私たちは午後5時頃にウィーンのホテルに到着して休憩したのちに、バスでレストランへと向かった。夕食はウィンナーシュニッツェル(ウィーン風カツレツ)であった。食後、バスでホテルまでの夜景鑑賞を楽しんだ。
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(市庁舎の夜景)
 市庁舎などライトアップされた夜景はきれいだったが、バスからの写真ははきれいに撮れなかった。
(観光3日目)
 1月30日(木)の朝、私たちは8時30分頃にバスでウィーン観光へと向かった。最初に訪れたのがシェーンブルン宮殿であった。
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(シェーンブルン宮殿の入口)
 この宮殿の歴史をたどると、この地はハプスブルク家の狩猟場になっていたが、17世紀初頭にマティアス皇帝が狩猟の最中に美しい泉(シュエーナー・ブルンネン)を発見し、それがシェーンブルン宮殿という名前の由来となった。
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(シェーンブルン宮殿)
 マティアスはすでにあった小さな砦を壊して館を建てた。1683年にオスマン帝国の襲撃を受けて館が破壊されると、レオポルト1世はハプスブルク家を象徴する新たな宮殿の建設を1696年に始めた。
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(シェーンブルン宮殿)
 建設工事は1700年に主要部分が完成し、新しい離宮となった。その後、宮殿の建設は続けられたが、シェーンブルン宮殿の歴史を大きく変えたのはマリア・テレジアである。この離宮を気に入った彼女は、夏の宮殿として使うことを決め、大規模な改築に乗り出した。今日見られる豪華な部屋は、ほとんどがマリア・テレジアの時代に完成している。それまで薄いピンク色であった外壁を、彼女は濃い黄色に塗り替えた。これ以降、ハプスブルク家の建物は、この「マリア・テレジア・イエロー」と呼ばれる濃い黄色がしばしば使われるようになった。
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(手前がネプチューンの噴水、奥の建物がグロリエッテ)
 シェーンブルン宮殿には広大な庭園があり奥には丘がある。丘のふもとにはネプチューンの噴水があるが、この噴水は1776年に建造された。大きな泉水の中央には海の神ネプチューンと共に神話の神々が並ぶ。
 丘の上に建てられたグロリエッテはコロネード(列柱回廊)として、泉より1年前に建造された。凱旋門を思わせる中央部の上には、ハプスブルク家の紋章である巨大な鷲が、地球の上に立って翼を広げている。
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 プラチスラバ城の近くの丘からドナウ川を見ると、近代的な橋が架かっていた。一般にUFOの塔と呼ばれているらしい。
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(ドナウ川に架かる新橋)
 この橋は、車道の下に歩道があり、歩いて対岸まで行けるとのことだ。UFOの塔と呼ばれる南側の塔は高さが地上80mの展望タワーになっており、プラチスラバの全景が眺められるとガイドのコバチョバさんが教えてくれた。
 次に私たちは旧市街へと向かった。昔旧市街は城壁に囲まれており、城壁には門が設けられていた。現在、唯一残されている門がミハエル門である。
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(ミハエル門)
 この門は14世紀にゴシック様式で建てられたが、16世紀になってルネサンス様式に改築された。屋根は18世紀にバロック様式で付け加えられたものである。塔は現在武器博物館になっており、中世の武器や武具が展示されているということだ。
 旧市街の道路は石畳となっており、その道路には珍しいものがいくつかあった。その一つは世界の都市の方向を示したものである。
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(世界の都市の方角を示した表示板)
 このように世界の都市の方向を表示したものは、ウクライナでも見たことがある。さらに歩いていると、道路に王冠のマークが埋め込まれていた。
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(王冠のマーク)
 ガイドさんによると、このマークは戴冠式のパレードのコースを示すものだそうである。さらに道路の端におもしろい置物があった。
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(マンホールから顔を出している像)
 また、旧市街地にはリストやモーツアルトなどの音楽家ゆかりの建物があった。
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(リストの幼少時代の家)
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(モーツアルトが6歳の時に演奏した家)
 旧市街には、14世紀の初頭に建てられたプラチスラバで最も古い教会である聖マルティン大聖堂があった。
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(聖マルティン大聖堂)
 ハンガリーがオスマン帝国に占領されてから後は、この教会でハンガリー王の戴冠式が行われるようになった。

 
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 パンノンハルマの修道院には200年前に建設された付属図書館がある。最も古い書物は13世紀のもので、19世紀の書物が多い。毎年5000~6000冊集められており、全部で40万冊近くの蔵書を誇っている。
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(付属図書館)
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(図書館の天井)
 修道院に残る古文書類は、ハンガリー建国当初の数世紀に遡る史料のコレクションとしては、質・量とも最高級のものである。そのなかには、1055年にはじめてマジャール語の語句の書かれた現存最古の書き物などが含まれている。
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(展示されていた古文書)
 パンノンハルマの修道院を見学した後、私たちはスロヴァキアの首都プラチスラバへと向かった。距離はわずか95㎞、バスで約2時間の行程である。
 私たちは、ハンガリーとスロヴァキアの国境を簡単に越えることができた。昨年の10月、私はウクライナ・モルドバを旅行したが、その時はウクライナを出国するのに警官にパスポートを見せ、モルドバに入国するのにまたパスポートを見せる必要があった。今回は、両国がシェンゲン協定に入っていたから簡単に国境を越えることができたのである。この協定は、欧州連合(EU)加盟国の一部が結んだ「検問廃止協定」のことで、協定に加盟した2国間の移動は、国内の移動と同じと扱われ、出国と入国の審査が免除されるのである。
 私たちはプラチスラバで昼食をとり、観光へと出かけた。プラチスラバのガイドさんは、コバチョバという名前のスロヴァキア人の女性であった。
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(コバチョバさん)
 添乗員さんによると、英語のガイドだといっていたが、彼女は上手な日本語で案内してくれた。彼女は仕事のために独学で日本語を勉強したとのことである。日本人の観光客が多く、日本語ができるとガイドの仕事が増え収入も上がるのであろう。
 彼女によると、スロバキアの人口は540万人、首都プラチスラバの人口は50万人、面積も日本の約7分の1しかない小さな国である。
 ここの観光名所は、ドナウ川沿いの丘にたたずむプラチスラバ城である。
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(プラチスラバ城)
 この城は、12世紀にロマネスク様式の城として造られたが、15世紀にゴシック様式の要塞に改築された。やがてオスマン帝国の侵攻に備えて防備が強化され、17世紀に4つの塔が付け加えられて、現在のような外観になった。18世紀にはハプスブルクのマリア・テレジアの居城となったこともある。
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(観光用のバス)
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 次の朝、少し雪が降っておりホテルの前はうっすらと雪が積もっていた。バスに乗って外気温を見るとマイナス7度と表示されていた。
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(ホテルの前の風景)
 私達は8時に集合し、ハンガリーの西方にあるパンノンハルマへと向かった。ブダペストから約135㎞、バスで約2時間30分の行程である。
 バスは予定通り10時30分にパンノンハルマに着いた。ここにはベネディクト修道院がある。ハンガリーに現存する最古の修道院で世界遺産となっている。
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(ベネディクト修道院)
 スロヴァキアと国境を接しているハンガリー西北部には、西ローマ帝国が滅びた後、スラヴ系の諸民族が入植し、定住していた。そこにマジャール人の英雄アルパードが6人の部族長たちと共に侵入したのが896年である。その100年後の996年、その後継者のゲーザ大公は、キリスト教に改宗してパンノンハルマに修道院の建設を始めた。チェコからベネディクト会の修道士を招き、ハンガリーにキリスト教布教の道を開いた。彼の息子の名前はヴァイクであったが、キリスト教に改宗させてイシュトヴァーンと改めさせた。この旅行記には何度もイシュトヴァーンの名前は出てきたが、彼はこの修道士から西ヨーロッパの教育を受けて育ったのである。修道院は1002年にイシュトヴァーンによって完成される。しかし、その後何世紀にもわたって修復と増築がくり返された。広大な修道院の敷地内には、聖堂や付属図書館の他、僧院の生活関連施設や学校まである。ここのガイドさんの話では、現在修道士の人数は35名で、12~18歳の男子生徒300人が寮生活を送りながら学んでいるとのことである。
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(修道院の付属の建物、右端の人がここのガイドさん)
 ここには16世紀にオスマン・トルコ軍が侵入して18世紀に撤退するまで、3度も修道院の破壊がくり返された。その後、修復と増築が行われ20世紀初頭まで続けられた。1996年の百年祭に当時のローマ教皇ヨハネパウロ2世が訪れ、ここが世界遺産に登録された。
 この修道院は標高300m近くあるパンノニアと呼ばれる小高い丘の上にある。
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(修道院から眺めた景色)
 パンノニアという名前は、古代ローマ帝国がハンガリー辺りを指したもので、ローマ帝国はここを属州としていると世界史にも出てくる名前である。
 
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(18世紀頃の修道院)
 修道院の内部には、「聖イシュトヴァーン礼拝堂」があり、そこには二つのガラス絵があった。その一つは、ゲーザ大公の息子ヴァイクが洗礼を受けてイシュトヴァーンになる場面である。
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(洗礼の場面)
 もう一つは、後継者である息子のイムレを失ったイシュトヴァーンが、「このハンガリーの王冠を誰に授けたらよいのでしょうか。」と聖母マリアに尋ねている場面である。
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(聖母マリアに尋ねている場面)
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 私たちは午後6時にホテルのロビーに集合し、バスでレストランへと向かった。このレストランではティターやヴァイオリン、ベースで民族音楽を聴かせてくれた。
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(レストランでのディナーショー)
 このレストランには私たち以外にも日本人観光客がたくさんいたので、日本の音楽を演奏してくれた。また、女性が出てきてハンガリーの歌を唄ったり、男女のペアーが出てきて踊りやコントを演じてくれた。
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(女性ボーカル)
 演奏の最後に、このグループがCDを出しているということで、私は10ユーロを出して記念にCDを買った。
 夕食の後、私たちは遊覧船に乗るためにバスでドナウ川へと向かった。遊覧船の中は暖房がきていて暖かかったが、窓があるためにブダペストの夜景をきれいに撮影できなかった。きれいな夜景を撮るためには、窓のない場所に行って撮影するしかなかったが、ブダペストの冬の夜は寒くて暖房の効いてない場所に出ることはできなかった。
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(聖イシュトヴァーン教会)
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(夜のくさり橋)
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(朝のくさり橋)
 ブダペストを代表するものがこのくさり橋である。この橋の正式名は「セーチェニーくさり橋」である。セーチェニーとは、19世紀のハンガリーで多方面に活躍した貴族で、橋は彼の呼びかけによって、1839年から建設が始められ、10年かけて完成した。長さ375mの幅16mの吊り橋は、48mの大きな石のアーチとワイヤーによって支えられている。くさり橋という名前は、夜間の電球を連ねた証明が、鎖のように見えるからである。
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 国会議事堂の見学は40分ほどで終わり、6時の集合まで時間がたっぷりあったので、私たち夫婦は歩いてリスト記念博物館に行くことにした。地図を頼りにして歩いたがその場所がよくわからない。そこで私は道を歩いている女性に声をかけたが、なんとその人は男性だった。彼は親切に一緒に歩いて探してくれたがよくわからなかった。もう一度同じ道を歩いてやっと探し当てることができた。下ばかり見ていてわからなかったのである。
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(リスト記念博物館の看板)
 私たちは写真の看板に気付いて、この建物がリスト記念博物館であるとわかった。この博物館は、ブダペストで最も有名で歴史的な建物が多くあるアンドラーシ通りに面した建物の2階にある。リストがブダペストに滞在していたときに住居としていた三室が博物館となっている。
 私たちは入館料と日本語用の音声ガイドとカメラ使用料をカードで支払ったが、全部で5100フォリント、日本円で約2600円であった。
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(リストの手書きの楽譜)
 館内にはリストの手書きの楽譜がたくさん展示されていた。
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(リスト記念館の内部)
 また、館内にはリストが使用していたソファーや椅子などが置かれ、リストの肖像画もたくさん並べられていた。
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(ピアノと銀製の楽譜台)
 サロンとして使われていた部屋には、リストを敬愛する人々から送られたピアノがある。ピアノの上には送り主8人の名前が刻まれた銀製の楽譜台がある。その楽譜台を飾る3人は、シューベルト、ベートーヴェン、ウェーバーで、リストが最も尊敬していた音楽家たちである。
 可愛らしいミニピアノは、幼いリストのために父親が特注したものである。
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(ミニピアノ)
 私はリストについては全く無知で、彼がハンガリー人であったことさえ全く知らなかった。彼は、1811年にハンガリーで生まれたが、1822年にはウィーンに移住してウィーン音楽学院で学び、さらに1923年にはパリへと向かった。リストはハンガリー人でありながらハンガリー語ができなかった。彼の生きた時代はオーストリア・ハンガリー二重帝国の時代で、ハンガリーはドイツ語を話すオーストリアの支配下にあった。そのため彼の家庭ではドイツ語が使われており、リストがハンガリー語を学ぶ機会はなかったのであろう。
 リスト記念博物館の見学後、私たちは地下鉄でホテルに帰ることにした。
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(地下鉄)
 ハンガリーの地下鉄が開通したのは1896年で、マジャール人の英雄アルパードが6人の部族長たちと共に、カルパチア盆地に入ってきた896年の建国千年祭の年である。ヨーロッパ大陸では最も古く、電気運転の地下鉄としてはイギリスより古く世界初である。地下鉄として唯一世界遺産に登録されている。
 私たちはこの古い地下鉄と新しい地下鉄を乗り継いでホテルに到着したのは5時頃であった。

 
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 聖イシュトヴァーン教会を見学した後、私たちは町のレストランへと向かったが、その途中の路上でおもしろい置物に出会った。
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(昔の警察官の像)
 ガイドさんによるとこの像は昔の警察官だといっていた。観光客のためにこのような置物をおいているのであろうか。
 さて、私たちはレストランでグヤーシュというハンガリー風のシチュウを食べた後、自由行動となった。午後の1時からホテルで集合する6時までの5時間をどのように過ごすか。私たち夫婦は最初、ブダペスト国立西洋美術館へ行こうかと思った。そこには、エル=グレコやラファエロなどの絵画が展示されており、場所は英雄広場の横にある。英雄広場を見学したときに、ガイドのモニカさんがこの美術館はお勧めですと教えてくれたからである。
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(ブダペスト国立西洋美術館)
 しかし、私たちが選んだのは国会議事堂である。以前、ハンガリーの国会議事堂を紹介しているテレビ番組を見たことがあり、ぜひ行ってみたいと思ったからである。
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(国会議事堂)
 国会議事堂を見学するのにはチケットを購入しなければならず、2人で7000フォリント、日本円で約3500円が必要である。私はフォリントを持っていなかったが、なんとかクレジットカードで支払うことができた。見学時間は2時からで、ガイドが説明してくれると言うことであったが、残念ながら日本語ではなく英語のガイドであった。
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(国会議事堂の模型)
 国会議事堂は、ドナウ川の対岸から眺めるのが美しく、以前にも紹介したことがある。
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(ブダ地区から見た国会議事堂)
 この建造物は1884年から1904年まで、なんと20年の歳月をかけて建設された。長さ268m、幅118m、ドームの高さは96mである。この96という数字は、聖イシュトヴァーン教会と同じで、これはマジャール人の英雄アルパードが6人の部族長たちと共に、カルパチア盆地に入ってきた年の896年に数字を合わせたものである。
 また、面積は17745㎡もあり、部屋数は691室、全体で27戸の門があり、廊下や階段に敷かれた絨毯の長さは延べ20㎞に及ぶという。設計を担当したのはシュティンドル・イムレで、バロックやルネッサンス、ゴシック様式などを採り入れた折衷様式で全体をまとめた。建物の外観はネオ・ゴシック様式で、中央の卵形円蓋はルネサンス風。頭部にゴシック風の突き出た尖塔がある。
 フラッシュ撮影が禁止されていたので内部の撮影は鮮明に撮れなかった。
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(議事堂の内部)
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(天井の絵画)
 ガイドの英語が難しくあまりよくわからなかったが、次の部屋は撮影が禁止だと言ったように思われたので、残念ながら一番重要な部屋は撮影ができなかった。そこにはハンガリーの王冠が飾ってあった。写真がないので再度「旅名人ブックス『ハンガリー』」からお借りして紹介しよう。
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(ハンガリーの王冠が飾ってある部屋「旅名人ブックス『ハンガリー』」より)
 この部屋には、建国の父アルパード、初代国王イシュトヴァーン1世、マリア・テレジアなど、ハンガリーの歴史にとって重要な国王16人の彫刻が見られる。以前テレビでこの部屋の彫刻を紹介していたのを覚えている。
 いよいよ私たちは国会議事堂のメインである会議場へと進んだ。
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(会議場)
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(会議場)
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(会議場)
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(会議場のシャンデリア)
 黄金で装飾された会議場は1階から3階部分までが吹き抜けの大きなホールである。シャンデリアの下に議員席が馬蹄形に並んでいる。建物全体に使われた金の量は40㎏ある。なぜこれほど豪華にしなければならなかったのか。それはハプスブルクに対してハンガリー独自の力を見せつける必要があったからであろう。当時、オーストリア・ハンガリー二重帝国として屈辱的な地位に甘んじていたハンガリーにとって、ウィーンの国会議事堂をしのぐものでなければならなかったからであろう。実際に完成したときは実に世界最大規模の、そして世界一美しい国会議事堂となっていた。
 
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