<   2014年 03月 ( 22 )   > この月の画像一覧

 第49回世界史講座は2月8日(土)午後2時よりおこなわれました。まとめを書くのが遅れたのは、「中央ヨーロッパ旅行記」を37回連載していたためです。途中で世界史講座を入れると旅行記がとびとびになってしまうので、旅行記が終わってからまとめを書く方がよいと判断したからです。
2 大戦の拡大
1) ドイツの西ヨーロッパ制圧
  ヒトラーは、1940年にデンマーク・オランダ・ベルギーなど西部戦線への攻撃に転じ、パリを占領した。これを見たイタリアのムッソリーニは、同じ1940年にイギリスとフランスに宣戦布告し、地中海への軍事侵略に乗り出した。ドイツに敗れたフランスでは、軍人のペタンによる親ナチス政権であるヴィシー政権が南部に成立した。ロンドンに亡命したド・ゴール将軍は自由フランス政府を組織し国民にレジスタンスを呼びかけた。
a0226578_10521768.jpg
(第一学習社「最新世界史図表」より)
a0226578_10531666.jpg
(第一学習社「最新世界史図表」より)
2) 独ソ戦の開始
 1941年、ドイツはユーゴスラヴィア・ギリシアを攻撃し、バルカン半島への侵略を本格化させ、6月には独ソ不可侵条約を破棄し、宣戦布告なしにソ連への侵略をはじめたが、これを独ソ戦と呼ぶ。ドイツ軍は半年ほどでソ連西部を占領したが、ソ連軍の抵抗により進撃はくい止められ、戦争は長期化した。
a0226578_1153626.jpg
(東京法令「世界史のミュージアム」より)
 ドイツ人でソ連のスパイであったゾルゲは、日本でドイツの新聞記者としてドイツ駐日大使と懇意となった。そしてドイツ大使からドイツ軍が6月にソ連を攻撃するという重要な情報を手に入れ、スターリンにその情報を送ったが、スターリンはその情報を無視した。その結果、ソ連はドイツの攻撃をまともに受け、第二次世界大戦で最も多くの犠牲者を出すことになったのである。
[PR]
 プラハの旧市街を歩いていると立派な建物が目に入った。後で調べてみるとその建物は聖ミクラーシュ教会だとわかった。
a0226578_8443586.jpg
(聖ミクラーシュ教会)
 この教会は12世紀に創建されたが、現在のバロック様式に改修されたのは18世紀初頭である。設計者はボヘミア・バロックを代表する建築家のキリアーン・イグナーツ・ディーンツェンホファーである。この教会は現在はフス派の教会となっている。
 旧市街を散策した後、私たちが向かったのはスメタナ博物館である。
a0226578_9114022.jpg
(博物館の横のスメタナ像)
a0226578_914329.jpg
(スメタナ博物館)
 この博物館となっている建物はラジャンスキー宮殿と呼ばれ、スメタナはここに39歳から45歳まで住んでいた。スメタナはドボルジャークと並ぶチェコを代表する作曲家である。彼が生きていた時代のチェコはオーストリアの支配下にあった。そのため公用語はドイツ語であり、上流階級やプラハの市民たちもドイツ語を話し、チェコ語を話す者は田舎者扱いされた。愛国者であったスメタナは、チェコの歴史、伝説、風景を描写した作品『わが祖国』を発表したが、第2曲の「ヴァルタヴァ」(モルダウ)が特に著名となった。しかし民族主義者の彼さえもチェコ語を正確に話すことができず、一部の人達から批判を受け、後にチェコ語を学習したといわれている。彼はたくさんの子供を病気で亡くす悲劇に見舞われたが、さらに50歳で病気により完全に聴覚をうしなった。彼はその後も作曲活動を続けたが、精神を蝕む病によって、1884年には保護施設へと収監され、それから間もなく亡くなった。
 博物館の入館者は私たち夫婦だけであり、ゆっくりと館内を見ることができた。展示物にはスメタナの自筆の楽譜が置かれていた。
a0226578_10113140.jpg
(自筆の楽譜)
 館内にはスメタナの手紙もたくさん展示されていた。
a0226578_10231233.jpg
(自筆の手紙)
 この手紙には1840年とあるから、スメタナがチェコ第4の都市ブルゼニの学校に通っていた頃に親に出した手紙だと想像される。また、リストの写真と手紙が展示されていた。
a0226578_10355199.jpg
(リストに出した手紙か)
 この展示物には、「プラハ1843~1856」と書かれてあるから、彼が19歳から32歳までプラハに住んでいた時の手紙であることがわかる。彼はリストを尊敬しており、リストに手紙を送ったのであろう。彼は1856年10月にプラハを出てスウェーデンに移っている。それは1854年から1856年の間に次女、長女、四女の3人の子供を亡くし、妻も結核の診断を受けるなど家庭の不幸に見舞われたこと。また、1856年7月、彼の旧友であり革命運動を共にした友人が死去したこと。さらにオーストリアの圧力により、プラハの政治的な自由が奪われていくという風潮があったとともに、プラハでは彼の評価が低かったということがあげられる。
 館内にはその他に楽器なども展示されていた。
a0226578_1123794.jpg
(楽器の展示)
 館内にはスメタナの家族の写真も展示されていた。
a0226578_11133787.jpg
(家族の写真)
 写真の上段がスメタナと奥さん、中段が子供、下段が孫たちだと思われる。
 スメタナ博物館の次はドボルジャーク博物館へ行きたかったが、残念ながら休館となっていた。再び旧市街を散策したが、この日は天気がよくプラハ城がきれいに見えた。
a0226578_11231545.jpg
(旧市街から見たプラハ城)
 私たち夫婦はカレル橋を何回も往復し、いよいよプラハ最後の目的地である展望台へと向かった。
a0226578_11261890.jpg
(カレル橋)
 展望台はペトシーン公園の中にある。ヴァルタヴァ川に面した広い緑の丘の広い範囲が公園となっており、そこに展望台がある。高さが60mあるこの展望台は、パリのエッフェル塔を模して1891年に建てられた。
 私たちはトラムを利用してケーブルカー乗り場へと向かった。
a0226578_12301963.jpg
(展望台へ向かうケーブルカー)
 ケーブルカーを降りてしばらく歩くと展望台が見えてきた。
a0226578_12351444.jpg
(展望台)
 展望台から見たプラハの町は本当に美しかった。
a0226578_12362964.jpg
(展望台から見たプラハ城)
a0226578_1238623.jpg
(展望台から見たヴァルタヴァ川)
 ヴァルタヴァ(モルダウ)川はボヘミア盆地の水を集めてプラハを南から北へ流れエルベ川に合流する。エルベ川はドイツのドレスデン、ハンブルクを通って北海に流れる。一方、ドナウ川はドイツ南部の森林地帯(黒い森)に端を発し、東から南東方向に流れ、オーストリア、ハンガリー、ウクライナなど10カ国を通って黒海に流れる。私たちがこの旅行で見てきたブダペストやウィーンの川とプラハの川は同じように見えるが、全く違う方向に流れていくのである。自然とはなんと不思議なものだ。
a0226578_13101797.jpg
(展望台から見たカレル橋)
a0226578_13111018.jpg
(プラハ城)
 私たち夫婦は展望台からプラハの旧市街に戻った。食事をしようと思って財布を見るとチェコの通貨であるコロナがほとんど残っていなかった。今日が旅行の最終日なので、いまさらコロナに両替するのはばからしい。ガイドさんお勧めのレストランでは、ユーロやクレジットカードでいけるか聞いてみたがだめだった。しかたがないのでカード払いが可能な大型のスーパーマーケットを探し、食料品やお土産を買うことにした。運のいいことにそのスーパーマーケットからすぐに地下鉄の駅があったので、私たち夫婦は早めにホテルに帰ることにした。
第9日目(2月4日)
 私たちは翌朝7時30分にバスでプラハの空港へと向かった。午前10時頃の飛行機に乗り、フランクフルトで乗り換えて関西空港に着いたのは翌日の2月5日の午前8時45分頃であった。
 これで私の「中央ヨーロッパ旅行記」を終わります。長い間読んでいただいて「ジェクユ ヴァーム」(チェコ語でありがとう)。それでは「ナ スフレダノウ」(チェコ語でさようなら)


 
[PR]
 ヴィシェフラドの墓地を見学した後、私たち夫婦は地下鉄で旧市街にある国立博物館へと向かった。私たちは1日フリーパスのチケットを購入していたので、地下鉄、バス、トラム、ケーブルカーなどは自由に乗ることができた。午前10時過ぎに国立博物館に到着したが、残念ながら工事中で入場できなかった。
a0226578_13403378.jpg
(国立博物館)
a0226578_13412557.jpg
(国立博物館)
 しかし国立博物館にある展示物は道路を挟んだ前の建物に移してあるということで、その建物に入場することにした。
a0226578_14374811.jpg
(国立博物館の前の建物)
 そこに展示されていたものは、世界の産業や商業や民族衣装に関する展示物などが置かれていた。
a0226578_13583292.jpg
(蒸気機関車の絵)
 この絵は、スティブンスンが最初の公共鉄道をストック・ダーリントン間に走らせた蒸気機関車を描いたものであると思われる。
a0226578_1473426.jpg
(金・銀などの貨幣)
 また世界の商業に大きな役割を果たした人物も展示されていた。
a0226578_14101996.jpg
(ロスチャイルド)
 ロスチャイルはユダヤ人で銀行業を営み世界の大富豪となった一族である。
a0226578_14152719.jpg
(ロックフェラー)
 ロックフェラーはアメリカの実業家で世界の大富豪となった一族である。
a0226578_14223693.jpg
(フォード)
 フォードはアメリカで自動車産業で最初にベルトコンベアーを使った大量生産方式を採用して現在のフォード会社を設立した大富豪である。
a0226578_14281829.jpg
(金のインゴット)
 純金のインゴットがどれくらい重いものであるかを体験させてくれた。
a0226578_14331975.jpg
(チェコの民族衣装か)
 展示室にはチェコの民族衣装と思われるものやその他いろんなものが置かれていた。国立博物館の展示物を見た後、私たち夫婦は徒歩でヴァーツラフ広場へと向かった。
a0226578_14592386.jpg
(ヴァーツラフ広場)
 この広場は1968年の「プラハの春」や1989年の「ビロード革命」の舞台となった場所である。「プラハの春」は共産主義時代のチェコで民主化を求めた運動であったが、ソ連がこの広場に戦車を乗り入れて運動は弾圧された。一方、「ビロード革命」は民主化を求める学生のデモが発端となり、共産党政権が崩壊した歴史的事件である。
 
 
[PR]
 フス戦争に見られるように当時のボヘミアの人々にとってヤン・フスがいかに重要な人物であったかがわかる。独立国家となった現在のチェコでは彼の像はあちこちで見られるのではないかと予想していたが、私が彼の像を見たのは旧市街広場だけである。私がよく見かけたのは、ヤンはヤンでもヤン・ネポムツキー像である。彼は王妃の懺悔内容を明かさなかったために殺害されただけの司祭である。一方、ヤン・フスはカレル大学の総長という地位にありながら、カトリックの権威に屈せず、自己の主張を貫いて処刑された。彼の行動が後の宗教改革につながっていくのである。それなのになぜ現在のチェコでフスは重要視されないのか。その理由として考えられるのは、現在のチェコは宗教心が薄れたとはいえカトリックの国であるということ。そして、フス戦争によって国土が荒廃すると共にカトリック教会の施設などが破壊されたことなどによるのではないか。
 その後、私たちはバスでビアレストランに行き、夕食にソーセージ料理を食べた。このレストランでは1杯分だけビールが無料で付いてきた。チェコのビールは本当においしかった。夕食後、レストランを出るとチェコの夜景がきれいに見えた。
a0226578_10223117.jpg
(チェコの夜景)
 夜景を見た後、私たちはホテルへと帰った。
第8日目(観光7日目)2月3日(月)
 この日は1日自由行動の日であった。私たち夫婦はホテルから歩いて行けるヴィシェフラドの墓地へと向かった。このヴィシェフラドとは高い城という意味でここには古い城がある。ここには7世紀の伝説の王妃リプシェが住んでいたといわれる城である。私たちが目指したのは城ではなく墓である。この墓には有名な音楽家が眠っているとガイドブックに書かれている。歩いていると立派な門が見えた。
a0226578_10561462.jpg
(墓の途中で見た門)
 門をくぐってさらに歩いていくと立派な教会が見えた。この教会は聖ペテロ聖パウロ教会である。
a0226578_110134.jpg
(聖ペテロ聖パウロ教会)
 この教会の横に墓地があった。ガイドブックによるとスメタナやドボルジャークなどの墓があると書いてあるので探したがよくわからない。墓の横に番号が打ってあるのに気づき、もう一度墓の入口に戻ってよく見ると、名前と番号を書いた紙が貼ってあった。
a0226578_119239.jpg
(墓の名前と番号を書いた紙)
 用紙に書いてある名前と番号を手帳に書き写してもう一度墓を探して、やっとスメタナの墓を見つけた。
a0226578_1113010.jpg
(スメタナの墓)
 次にドボルジャークの墓を見つけた。
a0226578_11172780.jpg
(ドボルジャークの墓)
 ガイドブックにはムハやチャベックなどたくさんの有名なチェコ人の墓があると書いてあったが、私たちは探すことができなかった。
a0226578_1127778.jpg
(ヴィシェフラド墓地)
a0226578_1128791.jpg
(墓が一緒に並べられていた区域))
 
 
[PR]
 私たちはカレル橋をマラー・ストラナ地区から旧市街に向かって歩いたが、旧市街側のたもとにはこの橋の建設を命じたカレル1世(神聖ローマ皇帝カール4世)の像が立っていた。
a0226578_9273710.jpg
(カレル1世像)
 彼の右手に持っているのはカレル大学の設立証書である。台座には神学、法学、医学、学芸を表すレリーフが彫られている。それらはカレル大学を代表する4つの学部である。カレル1世が発行した大学設立証書には「どこの国の出身者であろうと大学の学生であるなら国王の特別保護下にある」と書かれている。14世紀半ばにはチェコ全土から、そしてドイツ各地やポーランドから多くの学生がプラハに集まってきた。
 私たちは旧市街の狭い商店街を通って「旧市街広場」まで歩いた。
a0226578_952727.jpg
(旧市街の狭い商店街)
 この広場に立つとひときわ目立つのが、2本の塔をもつティーン教会である。
a0226578_95761.jpg
(ティーン教会)
 この教会の前身は、1135年に建てられた外国の商人のための宿泊施設に付属する教会であった。今のゴシック様式の建物に改築されたのは1365年であり、2本の塔の高さは80mある。ティーン教会の名前は、教会の裏側に税関(ティーン)があったのでその名が付いたらしい。正式名は「ティーンの前の聖母マリア教会」である。
 広場にある建物で一番人気のあるのが旧市庁舎で、広場を挟んでティーン教会と向かい合うようにして建っている。なぜ人気があるのかというと、定刻になると旧市庁舎の鐘が鳴って仕掛け時計が動く仕組みになっている。
a0226578_10311749.jpg
(旧市庁舎の時計塔)
 時計塔のある館は14世紀前半に建設された。その後も隣にあった建物の買い取りや増築によって、旧市庁舎の西側は次々に拡張していった。もともと別の館が連なってできているため、旧市庁舎の建物が一体どこまでなのかがわかりにくい。
 時計塔の前に2つの天文時計が取り付けられている。
a0226578_1035647.jpg
(天文時計)
 上の天文時計は、地球を中心にしてまわりを惑星がまわる「天動説」に基づいてつくられている。
a0226578_10423367.jpg
(上の天文時計)
 一方、下に取り付けられた天文時計は、旧市街の紋章を軸に12の星座がちらばる構成になっている。天文時計の見方は複雑でわかりにくい。
a0226578_1044898.jpg
(下の天文時計)
 仕掛け時計は9時から21時まで、毎正時ごとに仕掛け時計が動く。 
 この仕掛け時計は、以前「ドイツ旅行記」で紹介したハーメルンやその他の町の仕掛け時計に比べると、単純であまり面白くなかった。
 広場にはヤン・フスの銅像が立っていた。
a0226578_110823.jpg
(ヤン・フスの像)
a0226578_1112073.jpg
(前日の写真が逆光だったので次の日にも撮ったヤン・フスの像)
 ヤン・フスは15世紀のウイクリフと並ぶ宗教改革の先駆者である。彼はカレル大学の学長でありプラハの説教師も務めていた。敬虔なキリスト教徒であったフスは、カトリック教会の腐敗や堕落をきびしく批判した。その結果、異端者とみなされて1415年に西南ドイツの町コンスタンツで火あぶりの刑に処せられてしまった。彼の死後、ボヘミア地方ではフスの信奉者たちが、フスは復活したとフス派を名のって立ち上がり、フス戦争へと発展した。私は世界史の授業で「フス戦争」は3つの戦いの意味を持っていると説明している。1つ目はカトリック教会に対する宗教的な戦い。2つ目はオーストリア・ハプスブルク家に対するボヘミアの民族的な戦い。3つ目は封建領主に対する農民の戦いという意味を持っていると。
[PR]
 城の高台から歩いてプラハの町へと下りて来た。そのあと私たちは、貸切のトラム(路面電車)の来るのを待った。
a0226578_11395033.jpg
(トラム)
 このトラムは、私たちのために普段は走らない特別のルートで走ってくれるのである。このトラムは旧式で、内部は木造だった。
a0226578_11423572.jpg
(トラムの内部)
 トラムに乗るとすぐにマーネス橋を渡ったが、向こう側に有名なカレル橋が見えた。
a0226578_11463140.jpg
(カレル橋)
a0226578_1146797.jpg
(アップしたカレル橋)
 橋をわたるとすぐに立派な建物が見えてきたが、これは芸術家の家という建物である。
a0226578_1148526.jpg
(芸術家の家)
 この建物は19世紀後半に約10年かけて建てられたもので、チェコのネオルネサンス様式の代表建築として知られている。トラムは特別の路線を走っているせいか、線路の切り替えを手動でおこなっていた。旧式のトラムに乗っていると、昔大阪市内を走っていた市電を思い出して懐かしかった。トラムは30分ほど走って、元の場所に戻った。その後、私たちは歩いてカレル橋へと向かった。
a0226578_13532519.jpg
(カレル橋)
 この橋はヴァルダヴァ川に架かるプラハ最古の石橋である。橋の建設が始まったのは1357年、カレル1世(神聖ローマ皇帝カール4世)の命で聖ビート大聖堂を手がけたペーター・パーラーが工事に携わった。橋が完成したのはヴァーツラフ4世の統治下の1402年のことであり、約50年の年月をかけている。全長約520m、幅は約10mもあり、両側の欄干に並ぶ聖人像は30体もある。左右の欄干に15体ずつ並べられており、聖書から題材をとったり、歴史的な聖人や英雄をモデルにしている。当時からあったものではなく、17世紀から19世紀にかけて加えられたものである。橋はゴシック様式だが、彫像はバロック様式のものが多い。最初に建てられた彫像は、聖ヤン・ネポムツキー像で、1683年に造られたものである。彼の墓は聖ビート大聖堂で見ている。
a0226578_14193544.jpg
(聖ヤン・ネポムツキー像)
 この像の下にはネポムツキーが橋から突き落とされる場面を描いた銅板がある。
a0226578_14355641.jpg
(ネポムツキーが橋から落とされている場面の銅板)
 また、ネポムツキーが実際に橋から落とされた場所であると言われている所にも彼の銅板が置かれていた。この銅板をタッチすれば幸運が訪れるといわれている。
a0226578_1441497.jpg
(橋から落とされた場所に置かれていた彼の銅板)
 聖人の中に日本人になじみの深い聖フランシスコ・ザビエルがあり、ザビエルを支えている人々の中に日本人らしき者もいる。
a0226578_1425124.jpg
(ザビエルを支えている日本人像)
 逆光で見えにくいが、刀をさしているのが日本人の像である。橋のたもとには塔が建っている。
a0226578_154128.jpg
(カレル橋のたもとにある塔)
 この塔はもともと通行料を徴収したり橋を守るために立てられたものである。




 
 
[PR]
 聖イジー教会を北に進むと「黄金の小道」と呼ばれる路地がある。わずか100mほどの小道に、カラフルで小さな家が片側にずらりと並んでいる。
a0226578_941077.jpg
(黄金の小道)
 「黄金の小道」という名は、ここに錬金術師たちが住み着いて実験をくり返していたという伝説に由来している。ハプスブルク家のルドルフ2世も錬金術師たちをここに住まわせ、黄金と不老長寿の薬を作らせていたと言い伝えられている。しかし実際に「黄金の小道」と呼ばれるようになったのは、プラハ城下町で発生した火災の後のことである。家を焼き出された金細工職人たちがここに移ってきたことに基づいているらしい。
 16世紀末、ルドルフ2世がプラハ城の番兵たちを住まわせるため、城壁回廊の下にあるアーケード部分を利用して小さな住居を設けた。18世紀にマリア・テレジアが、スラム化したこの路地を見かねて石造りの長屋に建て替えるよう命令を出している。19世紀末になって現在見られるような小道となった。フランツ・カフカがこの中の1軒を借り、1916年から17年にかけて仕事場として使っていた。
a0226578_1023135.jpg
(カフカが仕事場として使っていた部屋)
 「黄金の小道」は現在、15軒ほどが保存され、絵葉書やポスターなども扱う書店、工芸品、陶器など、すべて観光客相手の小さな店になっている。カフカの仕事部屋は本屋になっていて、カフカの作品や絵葉書などが売られている。
 小道を突き当たると階段があり、下っていくとダリボルカという塔に出る。中世には牢獄として使われていた場所で、拷問道具が置かれていた。
a0226578_10363212.jpg
(拷問道具)
a0226578_10373881.jpg
(拷問道具)
a0226578_10383076.jpg
(拷問道具)
 この塔の名前の由来は、こに最初に投獄された騎士ダリボルカからきている。ダリボルカは農民の反抗に加わって逮捕された。塔の中で毎晩バイオリンを弾きながら自らの境遇を歌って釈放を求めたが聞き入れられず、処刑されてしまった。スメタナはこの伝説的なダリボルカに題材を見出し、オペラ『ダリボル』を作曲している。
 プラハ城の見学を終え、私たちは城の高台からプラハの町を撮影した。
a0226578_119848.jpg
(城の高台から見えるプラハの町)
a0226578_11112549.jpg
(カレル橋が見える)
a0226578_11132834.jpg
(プラハの町)
[PR]
 聖ビート大聖堂には聖ヤン・ネポムツキーの墓がある。
a0226578_103123.jpg
(聖ヤン・ネポムツキーの墓)
 墓の周りには天使が、そして墓を守る騎士の姿が見える。台の上では聖ヤン・ネポムツキーが十字架を抱いている。彼の像には必ず背後に5つの星がある。それは彼がヴルダヴァ川に投げ込まれた時、水面に5つの星が現れ、彼の身体を取り巻いたと言い伝えられているからである。彼が殉教したのは1393年だが、この墓は1736年、ウィーンの銀細工職人によって作られ、使われた銀は2トンに及んでいるという。
 ネポムツキーは、王妃の懺悔内容を明かさなかったために国王ヴァーツラフ4世に殺害されたと伝えられている。大聖堂には、「ネポムツキー殉教の絵」が置かれている。
a0226578_10535573.jpg
(ネポムツキー殉教の絵)
 この絵の左側にヴァーツラフ4世の王妃がヤン・ネポムツキー司祭に懺悔をしている場面。右側は王が、王妃の懺悔を教えないヤン・ネポムツキーを追求している場面。左より真ん中にヤン・ネポムツキー司祭がカレル橋から突き落とされる場面が描かれている。
 大聖堂には3つの紋章が描かれていた。
a0226578_11114654.jpg
(3つの紋章)
 上に描かれているライオンの紋章はボヘミアの紋章。真ん中の鷲の紋章はモラヴィアの紋章。下の黒い鷲の紋章はシレジアの紋章である。3つの紋章は、国を構成している3つの歴史的な地域を表している。
a0226578_12535525.jpg
(大聖堂の内部)
 大聖堂を出ると旧王宮があった。外観は王宮とは思えない質素なものであった。
a0226578_13152499.jpg
(旧王宮)
 この王宮は16世紀まで実際に使われていたものであるという。旧王宮のバルコニーで、今も大統領の演説が行われる。また大聖堂を見るときれいに装飾された門が見えた。
a0226578_11284745.jpg
(黄金の扉)
 この門は黄金の扉と呼ばれ昔はここが正門であった。大聖堂と王宮の前には聖イジー広場があり、中世プラハ城の中心広場であった。広場の奥には2本の白い尖塔をもったイジー教会が建っていた。
a0226578_13455223.jpg
(聖イジー教会)
 イジーとはドイツ語でゲオルク。ゲオルクとは古代ローマのディオクレティアヌス帝のキリスト教弾圧で303年に殉教し、騎手や戦士の守護神となった聖人である。聖イジー教会は10世紀前半にヴワディスラフ1世により建設されたプラハ城最古の建物である。付属の修道院も10世紀末に設立された。聖イジー教会の前にも聖ヤン・ネポムツキーの像が立っていた。
a0226578_141459.jpg
(聖イジー教会の前の聖ヤン・ネポムツキーの像)


 
[PR]
 クトナーホラの町で最後に見たのはイタリア宮殿と呼ばれる建築物である。
a0226578_942742.jpg
(イタリア宮殿)
 この建物は13世紀後半に、もともと要塞としてボヘミアとモラビアを結ぶ重要な交易路の近くに設立された。13世紀末には、銀鉱石の保管場所として、また採掘を監視する王国の役人の住居としても使用された。14世紀に入ると、ここに中央造幣局が設立される。それまでプラハその他に点在していた造幣所が、全てクトナーホラに集約された。様々に入り乱れて流通していた通貨を統一し、新しい硬貨を鋳造するためにフィレンツェよりイタリア人の専門家が招かれた。これがこの宮殿の名前の由来である。
 私たちは午前11時頃にはクトナーホラの町の見学を終えバスでプラハの町へと戻った。12時30頃にプラハのレストランでチェコ料理のローストポークを食べた。
a0226578_10214282.jpg
(プラハのレストラン)
a0226578_10223493.jpg
(レストランの看板)
 昼食後、私たちは徒歩でプラハ城へと向かった。
a0226578_10352230.jpg
(プラハ城)
 この城はフラチャニと呼ばれる城地区の丘に長く横たわっている。ここは城というより、もともと一つの町であった。城壁で囲まれた空間に教会があり、広場もあれば街並みもある。そして城の敷地内に大聖堂が置かれている。最初のプラハ城は9世紀に築かれた。13世紀頃にはほぼ現在の輪郭ができあがったが、西門の前は壕で防御されていた。18世紀半ばにマリア・テレジアが城を大改築した時に、壕が埋められて現在の広場ができた。
 プラハ城には門が3カ所あり、いずれの門にも2人ずつ衛兵が立っている。
a0226578_10521564.jpg
(プラハ城正門)
 西門の上には「戦う巨人たち」という彫像がある。これは18世紀後半にイグナーツ・プラツェルによって造られたものである。
a0226578_1155390.jpg
(プラハ城)
 衛兵の交代は毎正時に行われるが、正午のセレモニーは音楽隊のファンファーレをともなった大々的なものらしい。プラハ城の衛兵はチェコの若者たちに人気があり、毎年行われる選考会には全国各地から多くの若者が応募する。倍率は毎年10倍を超えるといわれている。
 私たちは第1の中庭からマーチャシュ門をくぐり、第2の中庭に入った。
a0226578_11151954.jpg
(マーチャシュ門)
 ここの駐車場でチェコの国産車であるシュコダを見つけた。
a0226578_1118431.jpg
(国産車 シュウコダ)
 第2の中庭から門をくぐって第3の中庭に入ると、目の前に聖ビート大聖堂が現れた。
a0226578_11225372.jpg
(聖ビート大聖堂)
 大聖堂の場所にはもともと、926年にヴァーツラフが建てた教会があった。そこにカレル1世が1344年、ゴシック様式の大聖堂の建設に着手した。しかし、フス戦争や資金難によって工事はなかなか進行せず、着工から600年近い年月を経て、1929年になってようやく完成した。塔の高さは82mと97mで、大聖堂の全長は124mで幅は60mもある大教会である。
a0226578_11332817.jpg
(聖ビート大聖堂)
 教会の中にはいると、まばゆいばかりのステンドグラスに目を奪われる。
a0226578_11391143.jpg
(ムハが描いたステンドグラス)
 19世紀末から20世紀初頭にかけて作られたステンドグラスの中には、アールヌーボー様式の画家たちの作品がある。特に人気のあるのは、チェコが誇るムハの絵「聖キリルと聖メトディウス」である。
 大聖堂の入口の上にはゴシック教会特有の美しい「バラ窓」がある。
a0226578_11504826.jpg
(バラ窓)
 
 
[PR]
 クトナーホラのクトナーとは修道僧が着る袈裟、ホラとは山、つまり「袈裟の山」を意味する。13世紀後半、それまで小さな鉱山の町であったが、この地で銀鉱が発見された。「ゴールドラッシュ」ではなく「シルバーラッシュ」がおこり、大勢の鉱夫がヨーロッパ各地から集まった。この銀鉱で働く鉱夫たちは仕事中、フードの付いた足まである長い服を着た。その姿がまるで修道僧の袈裟に似ていたので「袈裟の山」クトナーホラと呼ばれるようになったとガイドブックに書かれている。
a0226578_10453181.jpg
(聖バルボラ教会にある「作業服を着た鉱夫像」)
 しかし現地ガイドのアンジェラさんは違う話を聞かせてくれた。彼女によると、1260年頃、この辺りの修道院にアントニーという修道僧がいた。彼が修道院の仕事をさぼって山で昼寝をしていると、夢で神様があらわれ、お前が寝ていた場所を掘れというお告げがあった。その場所を掘ってみると銀がでてきた。彼は皆に知らせようと、目印として着ていた袈裟をぬいでその場所にかぶせた。だから「袈裟の山」クトナーホラと呼ばれるようになった。
 アンジェラさんの話は面白いが、ガイドブックの方が説得力がある。聖バルボラ教会の「作業服を着た鉱夫像」を見ると、確かに作業服は修道僧の袈裟によくにている。
 13世紀末には、この鉱山の銀の産出量はヨーロッパの3分の1を占めていたことがわかっている。14世紀にはボヘミア王ヴァーツラフ2世により王立造幣局が設立され、グロッシュ通貨の鋳造を担った。
a0226578_132177.jpg
(聖バルボラ教会「造幣礼拝堂のフレスコ画」)
中世ボヘミアで第2の都市となったクトナーホラには国王も滞在し、一時は宮廷都市となった。しかし16世紀になると銀が枯渇し始め、17世紀には三十年戦争によって教会や民家が破壊され、またペストによる人口減少などで、町はしだいに衰退していった。18世紀にはいると銀山が相次いで操業を停止し、1727年にはついに造幣局が閉鎖された。
 私たちは午前10時になってようやく聖バルボラ教会にはいることができた。
a0226578_133816100.jpg
(聖バルボラ教会)
 この教会の名前の由来は、鉱夫の守護聖人である聖バルボラからきている。
a0226578_13481651.jpg
(「聖バルボラ」聖バルボラ教会主祭壇)
 鉱夫たちの守護神である聖バルボラは、左上の本を開いている人物である。さて、この教会の建設は1388年に開始されたが、建設資金のほとんどが、カトリック教会ではなく市民たち自身によって調達された。最初に設計を手がけたのは、プラハの聖ビート大聖堂やカレル橋の設計で有名なペトル・パルレーシュの息子、ヤン・パルレーシュであった。フス戦争や資金不足などで中断され、結局完成したのは建設開始から500年余り経った1905年のことである。教会内には、前に紹介した17世紀頃の袈裟のような衣装を着てランタンを掲げた鉱夫の像、貨幣鋳造職人たちのフレスコ画がある。
a0226578_1481350.jpg
(教会内ネオ・ゴシック式の祭壇)
a0226578_1495117.jpg
(祭壇に描かれた「最後の晩餐」)
a0226578_14121455.jpg
(聖バルボラ教会のステンドグラス)
 ステンドグラスには、皇帝フランツ・ヨーゼフ2世のクトナーホラ訪問の様子が描かれている。
a0226578_14214313.jpg
(聖バルボラ教会のアーチ型天井)
a0226578_14264034.jpg
(聖バルボラ教会から見えるクトナーホラの町)
 聖ボルボラ教会を出てクトナーホラの町を歩いていると、珍しいマンホールを見つけた。
a0226578_14333079.jpg
(クトナーホラのマンホール)
 マンホールの絵はクトナーホラの町の紋章で、ボヘミアのライオンとハプスブルク家の鷲をあらわしている。
[PR]