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  Ⅲ 多極化の進展
1 ドル危機と戦後秩序の変容
1) ドル危機
 戦後西側陣営は、ドルを国際通貨とするアメリカ中心の経済秩序のもとで高度成長をとげてきた。しかし、ECと日本の経済発展に追い上げられたアメリカは、ベトナム戦争での莫大な戦費負担に苦しみ、財政赤字と貿易赤字となった。このため金とドルの交換を維持したままで財政を立て直すことは不可能となり、1971年にニクソン大統領は、金とドルの交換を停止した。しかし経済の悪化やドルの下落はおさまらず、1973年にはIMFを中心とする固定相場制が崩壊し、変動相場制に移行せざるを得なくなった。
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
2) サミット
 アメリカ経済の後退により、世界経済はアメリカ、日本、ECの三局構造に変化した。また、先進工業国は1975年から主要先進国首脳会議(サミット)を開いて、エネルギーや国際経済の問題などで各国の利害を調整し、国際秩序をはかった。
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
 次回の第54回世界史講座は、5月10日(土)午後2時よりおこないます。
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6 中東戦争とアラブ世界
1) 第3次中東戦争
 西アジアでは、1967年にイスラエルのエジプト爆撃により第3次中東戦争が起こり、イスラエルはゴラン高原、シナイ半島、ヨルダン川西岸を占領して多くのパレスティナ難民が生み出された。これによりエジプトのナセル政権は大きな打撃をこうむった。こうしたなかで1969年、パレスティナの人々はイスラエルに奪われた土地や権利の回復を求めるパレスティナ解放機構(PLO)による独立運動がアラファト議長のもとで活発となった。
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
2) 第4次中東戦争
 1973年には、イスラエルに占領された地域を取り戻すために、エジプトとシリアが第4次中東戦争を起こした。この時に石油輸出国機構(OPEC)が原油価格を大幅に引き上げ、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)がイスラエルと関係の深い国々への輸出規制を行うという石油戦略を展開した。その結果、世界的に原油価格が高騰し、世界経済にオイルショック(第1次石油危機)を引き起こした。
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(第一学習社「最新世界次図表」より)
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(第一学習社「最新世界次図表」より)
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(第一学習社「最新世界次図表」より)
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5 ベトナム戦争と東南アジア・アメリカ
1) ベトナム戦争
 インドシナ戦争後のベトナムでは、アメリカに援助された南ベトナム政府の独裁政治に対抗して、1960年に南ベトナム解放民族戦線がゲリラ戦を始めた。東南アジアにおける社会主義圏拡大を恐れたアメリカ大統領ジョンソンは、1965年から本格的に介入し、北ベトナムへの北爆と南への地上軍を投入したが、これをベトナム戦争と呼ぶ。アメリカは韓国など同盟軍を加えて50万人の兵士と大量の兵器を投入したが、北ベトナムも解放戦線ともに、ソ連、中国の援助を受けて対抗した。さらに世界各地でベトナム反戦運動が広がった。内外から批判されたアメリカは、1973年のパリ平和会談により撤退し、1975年にはサイゴン(現ホーチミン市)が陥落してベトナム戦争は終結した。1976年に南北は統一されて、ベトナム社会主義共和国が成立した。
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
2) 東南アジア諸国連合
 1965年、インドネシアでは軍部のクーデターにより、親共産党路線のスカルノが失脚した。また、タイ、インドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポールはベトナム戦争の危機感から1967年に東南アジア諸国連合(ASEAN)を結成した。
 講座参加者から、ベトナム戦争の危機感とは何ですかといういい質問が出された。ここでいう危機感とは社会主義化の意味であり、当初のASEANは反社会主義的な側面を持っていたが、現在はベトナムもASEANに加盟している。
3)アメリカの公民権運動
 アメリカは、経済的に「豊かな社会」と自負してきたが、1950年代半ばから黒人の人種差別撤廃などをめざす気運がもりあがり、キング牧師らを中心とした公民権運動が起こり、各地で暴動が起こった。1963年にケネディ大統領が暗殺されるなど社会不安が広がるなか、1964年に公民権法が成立した。また、ベトナム反戦運動も盛り上がった。
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
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4 南北問題とA・A・LA
1) 南北問題
 1960年代に独立したアジア・アフリカ諸国は、多くの課題に直面していた。国境は列強の植民地境界線を引き継いだため、国内には複雑な民族や宗教の対立が起こった。また旧支配国は独立後も多くの権益を保持したため、原料供給地の状態のまま、先進工業国への経済的従属が深まった。
 アジア、アフリカ、ラテンアメリカ(A・A・LA)諸国など南の発展途上国と北の先進工業国との経済格差は、南北問題として注目されるようになった。国連は、1964年に国連貿易開発会議(UNCTAD)を設けて、途上国への開発援助で問題の解決を図ろうとした。しかし、先進工業国の技術革新や多国籍企業の投資は経済格差をさらに広げ、途上国はいっそう政治的に不安定になった。
2)アフリカ・ラテンアメリカの問題
 アフリカでは、民族や宗教の対立によりコンゴ動乱やナイジェリア内戦が起こった。一方、経済建設の失敗などから、独立の英雄的指導者が次々に失脚した。
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(第一学習社「最新世界史図表」より)
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(第一学習社「最新世界史図表」より)
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(第一学習社「最新世界史図表」より)
 ラテンアメリカ諸国は貧富の差が大きく、政治は不安定であった。1959年、キューバでは革命によって社会主義政権が成立したが、社会改革を進めようとしたグアテマラやドミニカ共和国の政権は、アメリカによって倒された。
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(第一学習社「最新世界史図表」より)
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3 西ヨーロッパ・日本の経済復興
1) ヨーロッパ共同体の成立
 西ヨーロッパ諸国は、戦後米ソ超大国の出現や植民地の喪失により国際的地位が低下した。しかし、アメリカの援助で経済が復興してくると、米ソに対抗する経済統合をめざした。ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)に加盟するフランス、イタリア、西ドイツなど6か国は1958年にヨーロッパ経済共同体(EEC)を結成し共同市場の形成がめざされた。1967年にはEECを母体にヨーロッパ共同体(EC)が発足した。域内の関税引き下げや資本・労働力の自由な移動が実現し、1973年にはイギリスなども加盟し、米ソに匹敵する経済圏が生まれた。
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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
2) フランス・ドイツの動き
 経済統合の中核となったフランスは、ド・ゴール大統領のもとで核兵器を開発し、北大西洋条約機構(NATO)軍事機構を脱退するなど、アメリカから離れて独自の道を歩んだ。
 西ドイツは、アデナウアー首相のもとで移民労働者を受け入れながら奇跡の経済成長をとげた。
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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
3) 日本の経済復興
 日本は、1956年に国連に加盟して、国際社会へ復帰した。日本では、1960年、はげしい反対運動がおきるなか、アメリカとの日米安全保障条約が改定され、高度経済成長政策が本格的におしすすめられた。この結果、1960年代末には資本主義圏第2位の「経済大国」となった。
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(東京書籍「図説日本史」より)
4)韓国の動き
 1960年、韓国では李承晩政権が学生運動によって倒され、翌1961年に朴正煕将軍がクーデターにより政権につき、工業化をはかるようになった。日本は、戦後賠償を足がかりにして東南アジアに経済進出していった。韓国に対しても、両国内ではげしい反対運動がおきるなか、1965年、日韓基本条約を結び、韓国に対日賠償請求権を放棄させるかわりに借款を供与し、経済進出をすすめた。
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(帝国書院「タペストリー」より)
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2 社会主義圏の多極化
1) プラハの春
 スターリンの死後、ソ連では1956年、フルシチョフがスターリン批判を行い、コミンフォルムが解散された。これをきっかけに、東欧諸国にソ連からの自立化と民主化を求める運動が広がった。しかし、1956年にポーランドとハンガリーで反ソ暴動がおこると、ソ連はこれを武力で鎮圧した。
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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
 一方ソ連では、フルシチョフを失脚させたブレジネフが1964年から政権を握り、国内や東欧諸国の民主化にきびしい姿勢でのぞんだ。1968年にチェコスロヴァキアで「プラハの春」と呼ばれる民主化運動がおこると、ソ連はこれを武力で鎮圧した。しかし、東欧での自由化・民主化への動きは強まり、ソ連の影響は次第に低下した。
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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
2) 中ソ対立
 一方中国では、毛沢東らが社会主義国家建設を急ぎ、1958年に農業集団化のために人民公社を全国に建設するとともに、急速な工業化をはかる大躍進運動を推し進めたが、急激な改革であったため運動は失敗し、大きな経済混乱を招いた。さらに中国は、ソ連の平和共存政策を批判してソ連と対立した。
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
3) 文化大革命
 中国では、毛沢東にかわり国家主席となった劉少奇らが調整政策をとったが、1966年、毛沢東は彼らを追放するため、大衆を動員して文化大革命を開始した。10年間にわたるこの運動は失敗して、社会や経済に大打撃を与えただけでなく、世界の民族運動にも混乱をもたらし、中国は世界から孤立することになった。一方、中ソ両国の対立は激しくなり、1969年には中ソ国境紛争までおこった。
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
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(帝国書院「タペストリー」より)
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 第53回世界史講座は、4月12日(土)午後2時よりおこなわれました。受講者は5名でした。
 Ⅱ 平和共存の模索
1 平和共存とキューバ危機
1) 平和共存の動き
 1953年にアメリカ大統領がトルーマンからアイゼンハワーにかわった。一方、ソ連ではスターリンが死亡すると、フルシチョフが実権を握り、1955年に西ドイツと、翌1956年には日本と国交を回復するなど、東西両陣営の平和共存を求める外交をすすめた。さらに世界的規模での平和運動や非同盟運動など、米ソに緊張緩和を求める国際世論も高まったため、米ソ両国は歩み寄りはじめた。1955年米英仏ソ4か国の首脳によるジュネーブ4巨頭会談では、戦後はじめて米ソの首脳が直接話し合った。1956年には、フルシチョフによるスターリン批判が行われた。
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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
2) キューバ危機
 一方、キューバでは1959年に革命政権が成立し、カストロを中心とする革命政権によって社会主義政策が進められた。そして、1962年にソ連がミサイル基地をキューバに建設したため、アメリカのケネディ大統領はキューバの海上封鎖を行い、一時両国には核戦争の危機が迫ったが、これをキューバ危機と呼ぶ。この危機は、アメリカのキューバへの不介入とひきかえにソ連がミサイルを撤去したためにおさまり、その後米英ソ3国の間で部分的核実験停止条約が結ばれるなど、米ソ両国の緊張緩和(デタント)の動きが進んだ。
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
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9 第三勢力の連帯と動揺
1) アジア・アフリカ会議(バンドン会議)
 アジア・アフリカの進行諸国は、米ソ冷戦のなかで第三勢力として連帯を強めようとした。1954年には中国の周恩来首相とインドのネルー首相が会談して平和五原則を発表し、両国が体制の違いをこえた共存を目指した。これを受けて、1955年にはアジア・アフリカ会議(バンドン会議)がインドネシアのバンドンで開かれた。ここでは、反植民地主義や平和共存など平和十原則を発表した。
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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
2) 非同盟諸国首脳会議
 1961年には、インドのネルー、エジプトのナセル、ユーゴスラヴィアのティトーらの提唱で、第一回非同盟諸国首脳会議がユーゴスラヴィアのベオグラードで開かれ、国際緊張の緩和、新植民地主義反対、平等な国際秩序の形成を世界に訴えた。こうしたアジア、アフリカ、ラテン・アメリカの国々は、自らを第三世界と呼んで、国連をはじめとする国際政治に大きな影響を与えるようになった。
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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
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8 アフリカの年
1) アフリカ諸国の独立
 北アフリカでは、1950年代にはリビア、モロッコ、チュニジアが独立した。フランス領のアルジェリアは激しい独立戦争をへて独立した。サハラ以南のアフリカでは、1957年にイギリス領ガーナがエンクルマのもとで独立を達成し、彼はアフリカの非同盟運動の中心となった。そして1960年には17か国がいっきょに独立して「アフリカの年」と呼ばれるほどとなり、1963年には植民地主義と戦うためのアフリカ統一機構(OAU)が設立され、アフリカ諸国の連帯と統一が進められた。この組織は2002年にアフリカ連合として改変されている。
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
2) アパルトヘイト
 その一方で、南アフリカ共和国では、以前人種隔離政策(アパルトヘイト)がとられ、独立した国々も、様々な集団間の対立や欧米諸国による経済支配や内政干渉など多くの問題をかかえていた。中でも1960年に独立したコンゴでは、銅資源の産地をめぐる紛争に旧宗主国のベルギーなどの干渉も加わり、内戦が起こった。
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(浜島書店「アカデミア世界史」より)
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(第一学習社「最新世界史図表」より)
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7 西アジア・アラブ諸国の独立
1) 第1次中東戦争
 西アジアでは、大戦中から大戦後にかけてシリア、レバノン、ヨルダンが独立した。しかし、イギリスやフランスの強い影響下におかれていた。こうしたなかで、1945年、アラブ諸国の連帯を目的にアラブ連盟が結成された。一方、パレスティナでは、戦時中、大量のユダヤ人難民が移り住み、1947年、国連総会はパレスティナをユダヤ人国家とアラブ人国家に分割することを決議した。1948年、ユダヤ人がイスラエルの建国を強行すると、アラブ諸国との間で、パレスティナ戦争(第1次中東戦争)がおこり、イスラエルがこれに勝利した。その結果、イスラエルはパレスティナの80%ちかくを領土としたが、大量のパレスティナ人が土地を失い、難民となった。なお、イスラエルの建国の様子については、このブログの「イスラエル旅行記⑯」をご覧下さい。
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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
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(第一学習社「最新世界史図表」より)
2) 第2次中東戦争
 エジプトでは、1952年にナセルらのひきいる自由将校団の革命により王政が倒された。1956年、外国支配の象徴だったスエズ運河の国有化を宣言すると、イギリスはフランス、イスラエルとともにエジプトを攻撃し、スエズ戦争(第2次中東戦争)をおこした。戦争は国連決議により3国が撤退して終わったが、エジプトのナセルはアラブの民族意識を高め、インドのネルーやインドネシアのスカルノとともに国際社会での発言力を高めた。
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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
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