<   2014年 06月 ( 23 )   > この月の画像一覧

 私たちはこの美術館で最も人気のあるレオナルド・ダ・ヴィンチの『モナリザの肖像』へと向かった。
a0226578_9271016.jpg
(モナリザの肖像)
 「世界で最も名の知られたタブロー(絵画)は、まだ謎に満ちている。肖像のモデル(と思われる人物)は、判明している。フランチェスコ・ジョコンドの妻、リザのことである。「ジョコンダ」とは喜びをもたらすという意味だ。苗字がこの女性の微笑む表情の発端で、作品の通称『ラ・ジョコンダ』になっているのであろう。謎はモデルの身分ではなく、この画家が提供する数々の尽きることのない示唆に起因している。互いに浸透しあい形を捕らえ難くする影と光の示唆、そして顔に露出しているかのような魂の魅惑的な暗示。今でありながら遠い昔のひと時の示唆。若い女性が、奇妙な未開の領地、世界の起源を想起させる山と氷河の風景の入口で守護神のようにポーズを取っている。人間とその宇宙的背景は、この絵が≪惹きつける強い魅力≫を備えているならば映しうる、謎に満ちた現象の連鎖に巻き込まれているかのようだ。」と書いてある。この絵の周りは黒山の人だかりで、ラファエロの『聖母子像』とあまりにも差がありすぎる。ご存じのようにこの絵は小さな作品なので、前に行ってよく見ないとなかなか見えない。そのためか、この絵の周りには広い空間がとってあった。
 次に鑑賞したのは、バオロ・カリアーリ通称ヴェロネーゼの『カナの婚礼』という作品である。
a0226578_9502269.jpg
(カナの婚礼)
 「ヴェロネーゼは、当美術館では最大のこの巨大なタブロー(絵画)で、その装飾画家としての驚くべき素質を発揮した。聖書の場面がヴェネツィアの素晴らしい宮殿に移しかえられ、そこで華々しい宴が繰り広げられている。タブロー(絵画)中央のキリストとマリアの周りに、当時の服装を纏った人物群を配置している。画家自身も、そしてその友人ティツィアーノティントレット、バッサノ、パラディオも場面の全面、演奏家の一群の中に描かれている。」と書かれている。解説に書かれている画家自身の絵は、白い服を着てヴィオラを弾いている人物である。この作品のなかには、フランス王フランソワ1世とその王妃、イングランド女王メアリー1世、オスマン帝国皇帝スレイマン1世など当時の歴史上の人物が描かれているといわれている。
 次にヴェルサイユ宮殿にもあった『皇帝ナポレオン1世とその皇后ジョゼフィーヌの戴冠』という作品を鑑賞した。
a0226578_12171431.jpg
(皇帝ナポレオン1世とその皇后ジョゼフィーヌの戴冠)
 「皇帝の公式画家ダヴィッドは、パリのノートルダム寺院で1804年12月2日に行われた戴冠式を記念する絵画を請け負った。当初、戴冠するナポレオンを、事実に従って描いた。しかしその行為が挑発的過ぎるとされ、祝福を授けるローマ法王ピウス7世が大勢の人物と共に(批判的に)見つめる中、皇帝がジョゼフィーヌを戴冠する場面の例証を選んだ。左にはナポレオンの王女たち、姉妹、義姉妹が並び、中央部高壇には、(実際は欠席であった)皇太后が座っている。直ぐ下に、ミュラをはじめ着飾った元帥たちがいる。前景右は、権力の勲章(王杖、司直の手、黄金の玉)を持っている政界のお偉方である。『ナポレオン1世の戴冠』は、当時の歴史のみごとなタブロー(絵画)であり同時に巨大な肖像画集でもある。皇帝は「これは絵画ではない。このタブロー(絵画)の中で、人が動いている」と、作品が完成したときご満悦であったらしい。」と書かれている。さて、以前ガイドによって指摘されたヴェルサイユ宮殿の絵画とこの絵画との違いはどこにあるでしょうか、もう一度、ヴェルサイユ宮殿の作品をご覧に入れましょう。
a0226578_1219193.jpg
(皇帝ナポレオン1世とその皇后ジョゼフィーヌの戴冠)
 わかりましたでしょうか。さらに違うところを大きく撮った写真を載せましょう。
a0226578_12191544.jpg
(皇帝ナポレオン1世とその皇后ジョゼフィーヌの戴冠)
 もうわかったでしょう。ルーヴル美術館の絵では、戴冠式に参加している5人の女性はみな同じ白い服であるのに対して、ヴェルサイユ宮殿の絵では一人だけピンクの服を着ています。画家の遊び心を感じますね。
 次に鑑賞したのはジャン・オーギュスト・ドミニク・アングルの『グランド・オダリスク』という作品である。
a0226578_15402224.jpg
(グランド・オダリスク)
 「ロマン主義芸術の騒々しさとは逆に、アングルは復活した古典伝統の代表者である。解剖学的事実を歪曲した連作により、理想美のカノンを覆し、自然、ラファエロ、古代に典拠を求めている。この『オダリスク』は形式の厳格な研究を物語っている。形と線の調和自体で調和たりうるように、背中、腕、指は引き伸ばされ、乳房の位置がずれ、肉付けが軽減されている。」と書かれている。ガイドによると、足とお尻が不自然であり、またこのような姿勢ではあのように乳房は見えることはないとのことである。
 次にウジューヌ・ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』を鑑賞した。
a0226578_1181191.jpg
(民衆を導く自由の女神)
 「1830年7月の「栄光の三日間」、パリの人々がシャルル10世の独裁体制に反乱し、首都全体にバリケードを張り巡らせた。ドラクロワは寓話(三色旗を振る自由の女神)を地面に横たわる遺体の悲劇的現実主義に挿入したタブロー(絵画)で、この事件を記念した。」と書かれている。この絵画は世界史の教科書にもフランス七月革命のところで必ず出ている。シルクハットの男性がドラクロワ自身だといわれている。
 3階にある絵画の鑑賞が終わって、再び私たちは1階の彫刻の場所へと戻った。彫刻では、ミケランジェロの『奴隷』を鑑賞した。
a0226578_11244452.jpg
(奴隷)
a0226578_11253522.jpg
(奴隷)
 「ローマ法王の墓碑のために彫られ、エクアン城のファサードそしてリシュリュー城に置かれ、最後にルーヴル美術館に所蔵されたミケランジェロの『奴隷』たちの数奇な運命。彼らは、フィレンツェ・アカデーミア美術館の『奴隷』そしてローマの『モーセ像』と共に、出資者の死で規模が失せてしまった途方もない企画の唯一の遺物である。ミケランジェロにシスティナ礼拝堂天井の造営を任せたユリウス2世は、ローマのサンピエトロ聖堂の彼の廟墓制作も依頼した。ミケランジェロはピラミッド型の骨組みを想像し、魂の運命を想起する彫像で装飾した。新プラトン学派の視野において、『奴隷』は肉体に囚われている魂を象徴していたに違いない。作品が未完成であるのは、生み出すと同時に閉じこめる素材との戦いを際立たせている。ミケランジェロの才能は、緊張した人間の身体表現にはっきりと認められる。その筋肉の力強さは、悲壮表現の他に匹敵しうるものがない。」と書かれている。
 ガイドが最後に案内してくれた作品は、アントーニ・カノーヴァの『クピドの接吻で目覚めるプシュケ』である。
a0226578_12204944.jpg

 「新古典主義彫刻の巨匠カノーヴァのこの作品は、彼の創作の中で最も繊細である。カノーヴァの技巧は、力と権威の感興と並び、マニエリズムの巧緻に近い様式を培っている。この集合像のように、大理石を念入りに磨き、姿勢の優雅さが微妙な矛盾を帯びた官能姓を与えている青年期の肉体演出を好んだ。この彫刻はナポリ王であった将軍ミュラが、同じくルーヴル美術館所蔵の『クピドとプシュケ』と同じ時期に取得した。」と書かれている。何のことかよくわからないが、このクピドとはキューピットのことで、ギリシャ神話の美の神ヴィーナスの息子である。プシュケとはとても美しいと評判の人間の娘である。ヴィーナスは美しいと評判のプシュケに嫉妬して、息子のクピドを使わしてプシュケを不幸な恋に陥れようとした。しかし、プシュケの美しさにクピドも虜になってしまった。カノーヴァのこの作品は、薬によって眠らされてしまったプシュケをクピドの愛の接吻で目覚めさせる場面を彫刻したものである。
[PR]
 私たちは1階から2階の美術工芸の部屋へと向かった。
a0226578_9143127.jpg
(1階の天井)
ルーヴル美術館の窓からガラスのピラミッドが見えた。
a0226578_92019.jpg
(ガラスのピラミッド)
 美術工芸の部屋には宝石品がたくさん陳列されていた。
a0226578_9183678.jpg
(美術工芸の部屋の天井)
a0226578_9241067.jpg
(赤色縞瑠璃の水差し)
 「ルイ14世は情熱的な愛好家として、≪ジェム≫とも呼ばれた硬石の古代壺のみごとな蒐集品を持っていた。瑠璃、赤色縞瑠璃、碧玉、ラピスラズリ、アメジスト、水晶が、異様な形状の金銀細工台座にはめ込まれていた。ピエール・ドラバールはこの技術の巨匠の一人で、色のついた石の周りで極彩色釉薬(うわぐすり)がきらきら輝く幻想的装飾(ドラゴンなど)への審美眼を主張した。この水差しは、1861年以来アポロンのギャラリーで展示されている。」と書かれている。「赤色縞瑠璃の水差し」とはこの写真の一番奥に見えるものである。
a0226578_941427.jpg
(王冠)
 次に「絵画」の部屋へと向かった。ガイドが最初に案内してくれたのは、ドメニコ・ギルランダイオの「老人と少年』であった。
a0226578_9463641.jpg
(『老人と少年』)
 「心を動かすこのタブロー(絵画)のモデルは、メディチ銀行重役であったフランチェスコ・サッセッティとその孫と思われる。病気で顔が崩れた年老いた男とその腕の中に縮こまっている子供との間に交わされる視線が、やさしい雰囲気を作りだしている。この老いと子供時代の対比は、寓意としても読み取れる。後景の曲がりくねった道が、人生の道を想起している。」と書いてあるが、ガイドも同じような解説をしていた。ガイドがなぜこの作品を私たちに真っ先に見せたのかよくわからないが、彼がこの作品を高く評価していることは間違いない。この作品の横にラファエロの『聖母子と幼児聖ヨハネ』通称『美しき女庭師』が置かれていた。
a0226578_100467.jpg
(『聖母子像』
 「ラファエロが描いたすべての聖母マリア像の中で、最も有名な作品の一つ。作者がフィレンツェで活動した1504年~1508年、ミケランジェロとレオナルド・ダ・ヴィンチの芸術に触れ、彼の様式が絶頂を迎えた時のものである。ピラミッド型構図の完璧なバランス、形の丸み、物腰と表情の穏やかさが、澄んだ風景と調和している。この作品は、その絶頂期におけるルネッサンス古典主義の模範である。」と書かれてある。ところが、ガイドはこの作品についてほとんど解説してくれなかったし、またこの作品を鑑賞している人もほとんどいなかった。この作品は世界史の授業でも出てくる有名なものであり、またラファエロといえば、ダヴィンチやミケランジェロと並ぶルネッサンス三大巨匠の一人である。時代によって作品や人物の評価が大きく変わるものであることを実感した。
 
[PR]
 遅い昼食は中華料理であったがなかなか美味しかった。昼食後、バスでパリ観光へと向かった。最初に行ったのはエッフェル塔であった。
a0226578_930454.jpg
(エッフェル塔)
 エッフェル塔ではバスから降りて写真撮影の時間をとってくれた。スケジュール表では、「シャイヨー宮」の見学と書いてあったが、時間がなかったのか外からの見学もなかった。次に向かったのは「凱旋門」と「シャンゼリゼ通り」であったが、車窓からの見学だけであった。
a0226578_9403740.jpg
(凱旋門)
a0226578_9413967.jpg
(シャンゼリゼ通り)
 次に向かったのは「ルーヴル美術館」で、ガイドさんによるとここで4時間の見学時間をとっているとのことであった。「ルーヴル美術館」には地下にバスの駐車場があり、私たちは地下から美術館に入ることになった。そのため美術館の正面にあるガラスのピラミッドや建築物を見ることができなかった。ここでも私たちのガイドは上手に案内してくれたが、やはり写真撮影と記録を書きとどめることが難しかったので、美術館で購入した『ルーヴル美術館 傑作選集』という本を参考にして紹介しよう。
 ルーヴル美術館はもともと宮殿であり、最初に城を建築させたのはカペー朝第7代のフランス王フィリップ2世で、1190年のことであった。最初は城というよりも要塞としての役割が強かったらしい。当時の建物の面影が地下室に残っている。
a0226578_1041429.jpg
(当時のお城の模型)
 14世紀、ヴァロワ朝第3代の王シャルル5世の時代にパリに新しく城壁が建築されたことにより、城塞の防御の役割は小さくなった。ルーヴルはその後国王の住居となり、王政を誇示する場所となり宮殿となった。16世紀、ヴァロワ朝第9代の王フランソワ1世の時代には、レオナルド・ダ・ヴィンチのパトロンになるなど文芸を保護奨励したが、宮殿の増改築にも積極的に取り組んだ。ブルボン朝になっても歴代フランス王の王宮として使用されていたが、1682年にルイ14世が、王宮の拠点をヴェルサイユ宮殿としたことにより、ルーヴル宮殿の役割は、1692年以来収集されてきた古代彫刻などの王室美術品コレクションの収蔵、展示場所となった。
 私たちは、地下の見学から「古代オリエント」「古代エジプト」へと進んだ。
a0226578_1115567.jpg
(大スフィンクス)
 「このスフィンクスは、第12王朝から第22王朝の君主たちから愛され、そのうちの何人かは次々に彼らの名前を添えていった。しかしこのスフィンクスはギザの有名なスフィンクスのように、おそらく第4王朝下で彫られたと考えられる。2体とも、おだやかでありながら冷徹な強さの表現など特徴のいくつかが似ている。特に、ギザのものは日の出の方向を向いていて、太陽の象徴という手がかりを与えている。スフィンクスはライオンと人間を重ねた性質で、王と太陽神ラーの結合を表し、守護の力を受け継いでいる。」と書かれている。
 次に「古代ギリシャ・エトルリア・ローマ」へと進んだ。
a0226578_11275241.jpg
(ミロのヴィーナス)
a0226578_1128579.jpg
(ミロのヴィーナス)
a0226578_11335381.jpg
(ミロのヴィーナス)
a0226578_113011100.jpg
(ミロのヴィーナス)
 昔、日本にこの「ミロのヴィーナス」が来たことがある。大変話題になり、多くの人達が見学に行ったが、あまりにも人が多かったので立ち止まって見ることができなかったといわれている。ガイドによると、この時の展示は後ろから見られないような展示の仕方をしていたがそれは間違いだ。作品は前から横から後ろから見てその作品がわかるのであると主張していた。確かにここではどの作品も周りから見られるようになっている。
 「『ミロのヴィーナス』は、1821年ルーヴル美術館に収まって以来賞賛され、模写され、引用され、曲解され、大衆を魅惑してやまない。この腕のない女性は世界的に有名であるにも関わらず、真価がまだ理解されていない。まず、そのギリシャ名『メーロスのアフロディーテ』から、適正な名前を与えられなければならなかった。象徴物は不在であるが、愛の女神への同一化が議論の的となっている。このように謎めいて崩れた古代彫像の数々がルーヴルに入るが、これほどの思索を引き起こした作品はない。彫刻家の刀で開化した肉体は、古典カノンを踏襲した顔以上に控えめな魅惑を発散している。衣服が滑り落ちそうになっている一瞬を捉えたと思われ、そこに羞恥の仕草はない。『入浴するアフロディーテ』の古代イコノグラフィー(図像学)以上に、現れるものと隠されるものとの間の微妙な動きを創っている。鑑賞者は、分散する複数の対角線に沿って彫像の周りを回りながらその動きを追うことになる。」と書かれている。
[PR]
 私たちは「王の居殿」から「王妃の正殿」へと入った。パンフレットには、「ヴェルサイユの特徴とも言える左右対称の様式は、当初『王妃の正殿』と『王の正殿』にも見られた。双方が同数の部屋をもち、装飾も同じ神や星をテーマにしたものであり、異なるのはアーチ形の局面部の絵画だけである。国王の姿は男性的で、王妃の姿は女性的である。」と書かれている。
 「王妃の寝室」にはきれいなベッドが置かれていた。
a0226578_10233637.jpg
(王妃の寝室)
 この部屋は、ルイ14世が王妃マリー・テレーズのために作り、その後マリー・アントワネットも使った。3人の王妃が利用し、19人の王子がこの部屋で誕生した。寝室に置かれているベッドの奥行きが短いのは、当時は足を曲げて寝ていたからであるらしい。
 マリー・アントワネットの小間使い頭であったカンパン夫人の『回想録』によると、当時の出産の様子がわかる。「助産婦ヴェルモンがうわずった声で『王妃がご出産です』というのを聞くと同時に多くの人々が寝室に入って騒がしくなり、王妃がお亡くなりになるのではと思われるほどだった。」と書かれているように、当時の王妃の出産は公開であった。王の子供が替え玉ではなく、ちゃんと王妃から生まれたことを証明する必要があったのだろう。
a0226578_10534286.jpg
(王妃の寝室の隠し扉)
 写真では見えにくいが、王妃の寝室には「隠し扉」があった。ガイドさんの話では、「ヴェルサイユ行進」で民衆が宮殿の中に入ってきたときに、この扉からマリー・アントワネットは逃げて王の部屋に行ったとのことである。
a0226578_111338.jpg
(王妃の寝室)
 王妃の寝室には、マリー・アントワネットの胸像が置かれていた。これは1783年にフェリックス・ルコントが製作したものである。
a0226578_1163180.jpg
(貴人の間)
 「王妃の寝室」の横には「貴人の間」があった。この広間では、フランス王妃による公式な接見や、新たに宮廷に迎えられた婦人たちの紹介が行われた。
a0226578_1110577.jpg
(大会食の控えの間)
 王妃への謁見がかなった招待客は、ここで辛抱強く待った後、「貴人の間」か「王妃の寝室」に通された。この広間は、またコンサートや芝居にも利用された。大会食という名前は、皆の前で君主が食事をとる儀式に由来している。1764年1月1日、ルイ15世と王妃マリー・レクザンスカが幼少のモーツアルトとともにした食事は最も有名である。
 
a0226578_11302168.jpg
(アレクサンドロスの足元に跪くペルシアの王妃)
 この広間の天井には、シャルル・ル・ブラン作「アレクサンドロスの足元に跪くペルシアの王妃」という作品が飾ってあった。
a0226578_11564060.jpg
(「マリー・アントワネットと3人の子どもたち」パンフレットより)
 この広間に飾られている絵画の中で最も有名なのは、ヴィジェ・ルブラン夫人が1787年にサロンで発表した「マリー・アントワネットと3人の子どもたち」という作品である。左側に立っているのが長女で、フランス革命時代を生き延びた後にロワイヤル夫人と呼ばれた。アントワネットが抱いているのが、第2王子ルイ・シャルル。夭折した兄に代わって王太子となるが、両親とともにタンプルの牢獄に幽閉される。父ルイ16世の処刑に伴いルイ17世となるが、間もなく母からも引き離され、1795年、劣悪な環境に置かれたまま病死した。右側に立っているのが王太子ルイ・ジョゼフである。彼は1789年、まさに革命が勃発したその年に早世している。脊椎カリエスを併発した肺結核だったという。また、ルイ・ジョゼフが指差している揺りかごの中は空っぽなのだが、これはこの年に亡くなった第4子の第2王女ソフィーを暗示していると言われている。
 私たちは、「王妃の正殿」を経て「歴史の回廊」へと向かった。ここには「戴冠の間」があった。
a0226578_12392626.jpg
(1804年12月2日、パリ・ノートルダム寺院における皇帝ナポレオン1世と皇后ジョセフィーヌの戴冠)
 この部屋には、ジャック・ルイ・ダヴィッド及びジョルジュ・ルジェの有名な作品「1804年12月2日、パリ・ノートルダム寺院における皇帝ナポレオン1世と皇后ジョセフィーヌの戴冠」という絵画が置かれてあり、この部屋の名前の由来になっている。ガイドさんの話では、この作品と同じものがもう一つルーブル美術館にもあるが、作者は少しだけ絵の色を変えている。
a0226578_12213490.jpg
(戴冠式の5人の女性)
戴冠式に出席している5人の女性の服の色がルーブルにあるものと変えているのである。私たちは、この後ルーブル美術館に行ってそれを確かめ写真に撮ってきた。明日のブログでその違いが皆さんにもわかるだろう。
 私たちは「戴冠の間」を見学した後、ヴェルサイユ宮殿をあとにしてレストランへと向かった。
[PR]
 私たちは「大回廊」から「王の居殿」へと向かったが、その空間には「牛眼の控えの間」を通って「衛兵の間」と「大会食の控えの間」をのぞくことができる。
 「衛兵の間」は腰板やドアなどの木彫り細工が白一色で統一され、暖炉の上にはパロセル作『王の衛兵たちの戦い』がかけられている。
a0226578_1102627.jpg
(「衛兵の間」パンフレットより)
 「第二控えの間」は天井と扉の間の湾曲部に作られた窓の形から「牛眼の間」とも呼ばれているが、現在の広さになったのは1701年のことである。この部屋は国王の起床と就寝の儀式の際の待合室として使用された。
a0226578_11171735.jpg
(「牛眼の控えの間」パンフレットより)
 現在、ルイ14世時代の王家の人々の肖像画が置かれているが、特に有名なのはジャン・ノクレが神話風に描いた大作である。
a0226578_1119264.jpg
(『神話風に仮装した、ルイ14世の家族の肖像』)
 「王の寝室」は、初期の城館の頃から建物の中心部にあった大広間である。王妃マリー・テレーズの死後は「王の居殿」とつながり、一般に「国王の身支度を調える間」と呼ばれた。ルイ14世は1701年にここを寝室と定め、1715年9月1日にこの部屋で息をひきとった。また1789年10月6日の「ヴェルサイユ行進」でヴェルサイユからパリへ連行される前に、ルイ16世と王妃がこの部屋のバルコニーから群衆の前に姿を現した。
a0226578_1130157.jpg
(王の寝室)
a0226578_11404514.jpg
(王の寝室に置かれていたルイ14世の像)
 「王の寝室」の次が「閣議の間」である。この部屋はルイ14世の大広間と「かつらの間」を1755年に統合したものである。この部屋で毎週日曜と水曜、時に月曜に閣議が行われ、財務会議は毎週火曜と土曜に行われた。王は肘掛け椅子に座り、各大臣は折りたたみ椅子を使用した。また、ルイ14世の治世以降、王子たちの結婚に際して必要な登録簿への署名など、いくつかの儀式の際にも王がこの部屋に一族を招集した。
a0226578_11503239.jpg
(閣議の間)
[PR]
 次の「メルクリウスの間」と「アポロンの間」は、ヴェルサイユ宮殿の中でも最も贅を尽くした部屋である。天井には、ジャン・バティスト・シャンペーニュの『2羽のニワトリに引かれた戦車に乗るメルクリウス』が描かれている。
a0226578_9133121.jpg
(『2羽のニワトリに引かれた戦車に乗るメルクリウス』)
 宮殿内は暗いため、ガイドが小さな明かりをつけて天井画を見せてくれた。しかし、宮殿内のフラッシュは禁止されているので写真はすべて暗い。
 次の「アポロンの間」は天井に『シャルル・ド・ラフォス作『戦車に乗ったアポロン』が描かれているのでその名があるが、実は「王座の間」である。この部屋には高さが2.6mもある銀製の玉座が置かれていたのであり、この部屋で王の接見も行われていたのである。有名なリゴール作『ルイ14世の肖像画』は、フランス革命がはじまるまでここに飾られていた。
a0226578_9391823.jpg
(『ルイ14世の肖像画』)
 この絵と相対する形で当時の統治者の肖像画が飾られたが、現在はアントワーヌ・フランソワ・カレ作『ルイ16世の肖像画』が飾られている。
a0226578_9424480.jpg
(『ルイ16世の肖像画』)
 私たちは「王の正殿」から「大回廊」に入った。ここには「戦争の間」「鏡の回廊」「平和の間」があり一体をなしている。その装飾はルイ14世の戦勝と政治的偉業を称えるものとなっている。
 「戦争の間」は、オランダ戦争でのルイ14世の勝利と終戦時(1678年)の「ナイメーヘンの和約」をテーマとしている。大きなメダイヨン(円形薄浮彫り肖像)には、オランダ戦争中の1672年6月12日にフランス軍がライン川を渡った際のローマ皇帝の扮装をした馬上のルイ14世が描かれている。
a0226578_1104463.jpg
(ローマ皇帝の扮装をした馬上のルイ14世)
 フランス革命以前には「鏡の回廊」は「王の正殿」に通じていた。
a0226578_104381.jpg
(鏡の回廊)
 毎朝、礼拝堂に赴く国王を一目見ようと、宮廷人がここに集まった。この機会を利用して請願しようという者もいた。1686年のシャム使節団など特別な使節を迎える場合、ルイイ14世は「アポロンの間」にある王座をここに移動させた。また、ここでは王家の結婚式に際して、盛装舞踏会や仮面舞踏会などの宴も大々的に催された。
a0226578_1082132.jpg
(「鏡の回廊」の天井)
 天井にはシャルル・ルブランによる、フランドル戦争(1667~68)とオランダ戦争(1672~78)に焦点を当てたルイ14世の治世の歴史が描かれている。「鏡の回廊」の窓から庭園が見える。
a0226578_103349100.jpg
(「鏡の回廊」の窓から庭園が見える。)
 次に「平和の間」に移った。この広間は、その名が示すように、「戦争の間」や「鏡の回廊」のテーマとなっている戦争の後に訪れる平和、そしてヨーロッパでのフランスの優位を正当化するためにフランス歴代の国王が築き上げてきた平和を表現している。かなり早い時期にこの部屋は王妃の居殿の一部となり「娯楽の間」として使用された。そのため、取りはずし可能な仕切りを置き、連絡通路を閉じて回廊との間の通り抜けができないようにした。ルイ15世時代に、王妃マリー・レクザンスカは日曜日ごとにここで宗教音楽や当時流行した音楽の演奏会を催し、ヴェルサイユの音楽活動面で大きな役割を果たした。
a0226578_115745.jpg
(「平和の間」パンフレットより)
[PR]
 庭園を見学した後、私たち16名のグループは現地ガイドの案内でいよいよ宮殿内部に入った。ガイドさんは私と同じ65歳の日本人の男性である。彼は元エリートサラリーマンで、若い頃に会社の仕事でフランスに出張を命じられた。3年たって帰国を命じられた時に彼は日本に帰らずフランスに残った。フランス人の彼女ができたから帰らなかったのかと尋ねるとそうではなく、日本の競争社会に絶えられなかったということである。彼は名ガイドで、混雑したヴェルサイユ宮殿の中を巧みに進み、興味深く案内してくれた。彼の話を書き留めようとしたが、あまりにも混雑しており写真を撮るのが精一杯で、記録することはできなかった。ここで購入したパンフレットを見ながら宮殿の内部を紹介しよう。最初に見学したのは「王室礼拝堂」である。
a0226578_11365492.jpg
(王室礼拝堂)
 「宮殿付属の礼拝堂の伝統を踏襲してこの礼拝堂も二層になっている。階上席は国王や王族、宮廷要人の席で、1階はそれ以外の信者を受け入れた。1710年の聖別を経て、王家の祖先であり守護聖人でもある聖王ルイに捧げられたこの礼拝堂は、ルイ14世時代にヴェルサイユで建立された最後の建造物である。」と書かれている。
a0226578_142443.jpg
(天井画「パンフレット」より)
 「天井画は旧約聖書と新約聖書からテーマを得て、三位一体の神秘を表現している。中央にアントワーヌ・コワペル作『救世主の到来を世界に告げる永遠の父』が描かれている。」と書かれている。
 次に「王の正殿」に入った。「王の小居殿や内殿に対する名称としてその名が付けられた『正殿』は、1678年から1686年にかけて『鏡の回廊』『戦争の間』そして『平和の間』が完成することによって完全な形となった。王の住居として短期間使用された後、祝宴用の大広間や《正殿の夜会》と呼ばれたパーティー用広間として使われた。」と書かれてある。私たちは「正殿」の「ヘラクレスの間」に進んだが、この広間は、宮殿内で最も大きな部屋で「1664年、ヴェネチア共和国からルイ14世に贈られたヴェロネーゼ作『パリサイ人シモン家の食事』を飾るために、ルイ14世のヴェルサイユ統治時代の1682年~1710年まで第四礼拝堂があった場所に作られた。」とある。
a0226578_1418041.jpg
(パリサイ人シモン家の食事)
 この広間が「ヘラクレスの間」と呼ばれるようになったのは、フランソワ・ルモワンヌによる『ヘラクレスの神格化』という天井画からきている。 
a0226578_1147308.jpg
(天井画『ヘラクレスの神格化』)
 この広間の改装作業が終了したのは、天井画が完成された1736年のことである。この天井画はルイ14世時代後期の最高傑作であるといわれる。
 次に「豊饒の間」へと進んだが、この部屋はルイ14世の金やダイヤなど貴重な所蔵品が置かれていた。さらに「ヴィーナスの間」に入った。この部屋は夜会では軽食をとる場所として使われた。この部屋には『ローマ皇帝の姿で描かれたルイ14世全身像』も置かれている。
a0226578_15153486.jpg
(『ローマ皇帝の姿で描かれたルイ14世全身像』)
 天井の楕円部には、この広間の名前の由来となったルネ・アントワーヌ・ウアス作『神々と強大国を従わせるヴィーナス』が描かれている。
a0226578_15194112.jpg
(『神々と強大国を従わせるヴィーナス』)
 ビリヤードの名手だったルイ14世は、「ディアナの間」を金の房飾りの付いた深紅のビロードの絨毯で覆い、この部屋の中央に大きなテーブルを置いてビリヤード台とした。この部屋の装飾はすべてディアナ女神の伝説に関するものなのでその名が付いた。
 次の「マルスの間」は、1682年まで「衛兵の間」として使用されていたが、後に音楽やダンスの部屋に変わった。この部屋にはカルル・バンロー作『マリー・レクザンスカ』の公式肖像画が掲げられていた。
a0226578_15501358.jpg
(『マリー・レクザンスカ』)
 
 
 
[PR]
(観光4日目)
 5月29日(木)午前8時30分にホテルを出発しヴェルサイユ宮殿へと向かった。目的地まで約27㎞、バスで約45分の行程である。1789年10月5日、パリ市庁舎に集まったパリ市民はパンを求めてヴェルサイユ宮殿へと向かった。本によると、「主婦たちは16キロもの行進に疲れはててヴェルサイユに着き、議場の外に座りこんだ。」と書いてある。これが「ヴェルサイユ行進」あるいは「十月事件」と呼ばれるものである。ところで、フランス革命の時代と現代とは道路事情も違うし、パリのどこを起点とするかによっても距離は違ってくる。現代では「ベルサイユ宮殿はパリのノ−トルダム寺院の西南西 17.5km のところにあります。」と書かれている。
a0226578_10472818.jpg
(帝国書院「タペストリー」より)
 「ヴェルサイユ行進」の当日は雨も降っており、武器も担いでいたので当時の服装でパリからヴェルサイユまで行進は大変だっただろう。さらに国王一家をパリへと連れて行ったことを考えると当時の民衆のバイタリティーには感心せざるを得ない。
 予定通りバスはヴェルサイユ宮殿前に到着した。宮殿前には入場券を買うために並んでいる個人旅行者で長蛇の列だった。予定の時間になってもガイドがなかなか現れず、私たちは宮殿の前で長い間待たされた。ガイドは団体切符を買うのに手間取っていたとのことである。
a0226578_118963.jpg
(ヴェルサイユ宮殿の前でガイドを待っている)
a0226578_11222161.jpg
(宮殿前で個人旅行者の長蛇の列の一部が見える)
 この宮殿は、もともとはルイ13世が建てた小さな狩猟の館であった。それを絶対王政のシンボルに替えたのは彼の息子ルイ14世であった。
a0226578_11275253.jpg
(宮殿)
 ルイ14世がパリを離れてヴェルサイユに宮殿を建て、生活の拠点をここに移したのには理由があった。彼がまだ幼少の頃、1864年から65年にパリで「フロンドの乱」が起こった。この乱は国王に対する貴族の反乱をきっかけに、重税と凶作に苦しむ民衆もパリで反乱を起こした。名前の由来となったフロンドとは投石玩具(パチンコ)のことで、当時ルイ14世の宰相であったマザラン邸をめがけて民衆が投石したことからこの名が付けられた。幼かったルイ14世はパリを一時脱出した。これ以後、ルイ14世はパリを嫌ったといわれている。
a0226578_11301143.jpg
(宮殿の全貌)
 1661年、ルイ14世の親政が始まると、彼はすぐにヴェルサイユ宮殿の建設を命じた。「有史以来、最も大きく、最も豪華な宮殿を」という言葉通り、この宮殿は50年に及ぶ工事によって太陽王と呼ばれるにふさわしい宮殿が完成した。
a0226578_11315980.jpg
(宮殿の門)
 私たちの団体は人数が多いので、庭園を先に見るグループと宮殿内を先に見るグループに分かれた。私たちは先に庭園を見学した。この庭園については、ここで購入したパンフレットによって紹介しよう。
a0226578_12313730.jpg
(庭園)
 庭園の設計をしたのは天才造園家といわれたル・ノートルである。彼の作品の特徴は、開放感と広がりであるといわれる。以前の庭園は閉鎖的でそれほど広くなく、彼によって庭園は周辺の景観と一体化し、大規模なものとなった。
a0226578_1237941.jpg
(水の前庭)
 ル・ノートルは建物のすぐそばに、階上からも眺められる「水の前庭」をつくり、これによって宮殿の建物を引き立たせようとした。
a0226578_1242101.jpg
(アポロンの泉水)
 庭園全体を通して展開される最も重要な神話的・象徴的・政治的テーマがこの泉水に与えられたのは、この泉水がそれにふさわしい場所にあったからである。ルイ14世が太陽神アポロン・ポイボスと同一視されるように、水面から出現するアポロンは日の出と前途有望な治世の夜明けを象徴している。
a0226578_14345176.jpg
(円形列柱廊)
 円形列柱廊の中央に置かれたものは、ジランドルの傑作『プロイセルビナの略奪』である。
 ルイ14世はヴェルサイユの庭園をこよなく愛し、『ヴェルサイユ庭園見学手引き』なる本を描かせた。私たちは庭園を大急ぎで見学したが、あっという間に予定の時間が来てしまい、庭園を後にして待ち合わせの場所へと向かった。

 
[PR]
 私たちは小雨の降る中、ジャンヌダルクが処刑場へと向かった道を歩いた。
a0226578_9133032.jpg
(ジャンヌが処刑場へと向かった道)
 その道にはお店が並んでおり、マカロンを売っているお菓子屋にはジャンヌダルクと思われる写真が飾ってあった。
a0226578_9221843.jpg
(ジャンヌの写真を飾ったお菓子屋)
 そこのお店の名前であろうか、「ジャンヌダルク・デ・ルーアン」とアルファベットで書かれていた。私はジャンヌダルクには大変な思い入れがある。その理由は私が参加している研究会で『人物世界史』という本を書いており、そこで私は9人の人物を執筆したが、その一人がジャンヌダルクだったからである。このブログの「人物世界史」にも書いているのでぜひ読んで下さい。
 さて、私たちはいよいよジャンヌが処刑された場所に到着したが、その場所にはモニュメントが設置されさらにジャンヌダルク教会が建てられていた。
a0226578_11242153.jpg
(ジャンヌダルクのモニュメント)
 モニュメントの横には彼女が火刑に処せられた場所があり、そこには花が飾ってあった。
a0226578_9462221.jpg
(ジャンヌが火刑に処せられた場所)
 本によるとジャンヌはヴィエ・マルシェ広場で火刑に処されたと書かれており、もっと広い場所を想像していたがこんなに狭い場所とは思わなかった。処刑されたのは1431年5月30日であり、私たちがこの地を訪れたのが2014年の5月28日であるから、あと2日で処刑されてから583年となる。裁判記録によると彼女は19歳であったと証言している。ジャンヌダルクとはどんな人物であったのか。
a0226578_836234.jpg
(ジャンヌ・ダルク像)
 この像は1485年頃に描かれたミニアチュールである。ジャンヌを直接のモデルとして描いた肖像画は現存しておらず、このミニアチュールもジャンヌの死後に想像で描かれた作品である 。
a0226578_8582553.jpg
(ジャンヌ・ダルク像)
 教科書などにも出てくる上の像は、ドミニク・アングルが1854年に描いた『シャルル7世戴冠式のジャンヌ・ダルク』であり、おそらく実物とは全くかけ離れたものであろう。
 15世紀、英仏百年戦争でフランスが危機に陥った頃に、北フランスのドンレミ村の幼い少女ジャンヌは「フランスを救え」という「神の声」を聞いた。ジャンヌはフランス皇太子シャルルに面会し、軍を与えられてオルレアンに赴き、包囲を破ってイギリス軍を撤退させた。ジャンヌが反国王派に包囲されたコンピエーニュの救援に赴いたが、攻撃に失敗し捕虜となった。やがてジャンヌは宗教裁判で「異端の魔女」との有罪判決を受け、ここルーアンで火刑に処されたのである。
 百年戦争がフランスの勝利に終わった後、シャルル7世はジャンヌ復権裁判をパリで開かせ、無罪・復権の判決がでた。さらにローマ教会は1920年にジャンヌを聖女に列した。フランスでは国民的英雄とされ、毎年オルレアンが解放された5月には聖ジャンヌ際が催される。
 ジャンヌの処刑された場所にはジャンヌダルク教会が建てられた。
a0226578_12232993.jpg
(ジャンヌダルク教会)
 教会の中に入ると、きれいなステンドグラスが目に飛び込んできた。
a0226578_1201038.jpg
(教会内部のステンドグラス)
a0226578_123398.jpg
(教会内部のステンドグラス)
a0226578_1222127.jpg
(教会内部のステンドグラス)
 教会には、ジャンヌに関する絵画と解説が書かれていた。
a0226578_12105220.jpg
(ジャンヌに関する絵)
 1485年頃に描かれたジャンヌの絵の横に描かれているのはシャルル7世である。
 ルーアンを見学した後、私たちはパリへと向かった。目的地まで約135㎞、バスで約2時間の行程である。パリには予定通り午後6時30分頃に到着しホテルに入った。

 
[PR]
 ノートルダム大聖堂を見学した後、私たちは現地ガイドの案内でルーアンの旧市街を散策した。しばらく歩いていると、この道路は古代ローマ時代に造られたものですとガイドが教えてくれた。
a0226578_930422.jpg
(古代ローマ時代の道路)
a0226578_97563.jpg
(古代ローマ時代の石畳の道路)
 ルーアンは「町そのものが美術館」と称されるように、通りには中世の木骨組みの家が並んでいた。
a0226578_943076.jpg
(木骨組みの家々)
a0226578_9444015.jpg
(木骨組みの家々)
a0226578_9542539.jpg
(木骨組みの家々)
 さらに歩いていると立派な建物が見えてきたがこれは裁判所だということである。
a0226578_1033961.jpg
(裁判所)
 この建物もフランボワイヤン・ゴシック様式で建てられたが、第二次世界大戦で破壊され、戦後になって元通りに修復されたものである。ナチスが破壊したのかと私が聞くと、連合軍が破壊したのだと教えてくれた。当時この都市はナチスの支配下に置かれていたとはいえ、連合軍がこのような文化遺産を破壊する必要があったのか理解に苦しむ。連合軍はフランスをナチスから解放したとはいえ、この町の人達にとって複雑な思いであろう。裁判所の建物の前には、爆撃された当時の写真が置かれていた。
a0226578_10165674.jpg
(爆撃された当時の写真)
 裁判所の前をしばらく歩いていくとルーアンで有名な大時計が見えてきた。
a0226578_10201260.jpg
(大時計)
 大時計は14世紀後半にゴシック様式の鐘楼として建築され、1409年に古代ローマ様式の壁の門のアーチの中に時計がはめ込まれた。現在の時計とアーチは、1527年から1529年の間に再建されたものである。
a0226578_10342527.jpg
(大時計)
 ガイドはこの大時計について、月と太陽、周間や時間を計ることができると説明してくれたがよくわからなかった。
 大時計を見学した後、私たちはジャンヌダルク教会へと向かった。教会は彼女が火刑に処せられた場所に建てられたもので、今歩いているこの道を通って彼女は処刑場へと向かった。通りには、彼女の名前が表示されていた。
a0226578_10481079.jpg
(通りにはジャンヌダルクの名前が表示されている。)

 
[PR]