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 前回のまとめ③「倭の五王」の追加
 「倭の五王」が南朝の宋に朝貢して称号をもらったが、その称号が当時の東アジアの中でどのような地位にあったのかという資料をお見せしよう。この資料を見れば、「倭の五王」の国際的な地位がいかに低かったのかがわかる。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 もう一つ資料は、梁の「職貢図」に書かれていた絵画である。梁というのは、南朝の宋王朝の次の次の王朝であり、「職貢図」とは、古代中国王朝に対する周辺国の進貢の様子を表した絵図のことである。この絵には、倭国使と百済使が比較して描いてある。上田正昭氏によると、「倭国使の姿は当時の倭国使を描いたものではない。おもに『魏志』東夷伝倭人の条の記述を参考に描いた想像図であった。」と書かれているが、当時の中国において、倭国がどのように見られていたのかということが想像できる。
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(小学館「日本の歴史2」より)
3 ヤマト王権の支配のしくみ
1) ヤマト王権の成立
 5世紀後半ころ、ヤマト王権は地方に勢力を広げ、吉備などでは近畿の巨大古墳と同じような規模のものが見られるなど、古墳は東北から九州南部にまで広がった。このような古墳の広がりは、地方の勢力がヤマト王権に従属していったあかしであると考えられている。
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(東京書籍「図説日本史」より)
2) 氏姓制度
 ヤマト王権は、大王を中心に、大和・河内を基盤とする豪族によって構成され、豪族は氏(うじ)と呼ばれる血縁を中心とした同族集団ごとにまとまり、その長である氏上(うじのかみ)が氏を代表して大王に仕えた。氏には、居住地にちなんだ平群・巨勢・葛城・蘇我などのほかに、軍事を司る物部・大伴や、祭祀を司る中臣・忌部らがいた。氏上は、氏の祖先である氏神を祭る儀式をとり行うとともに、氏の構成員である氏人を統率した。また氏上は、氏人のほかに、中臣部や葛城部のように所属する豪族の名をつけられた私有民である部曲(かきべ)と土地である田荘(たどころ)をもち、勢力の基盤とした。
 大王は、氏に対して、家柄や職務に応じて臣(おみ)や連(むらじ)、君(きみ)、直(あたい)、首(おびと)などの地位や身分を示す姓(かばね)と呼ばれる称号を与えた。臣や連の姓をもつ豪族のなかでも、有力な氏の蘇我らの氏上は大臣(おおおみ)として、物部・大伴らの氏上は大連(おおむらじ)として政務を担当した。地方豪族に対しては、直や君などの姓を与えて、国造(くにのみやつこ)や県主(あがたぬし)に任命し支配をまかせた。こうした、氏の組織を基盤として、姓によって秩序だてられたヤマト王権の支配のしくみを氏姓(しせい)制度と呼んでいる。
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(東京書籍「図説日本史」より)
3) ヤマト王権の地方支配
 ヤマト王権は、地方豪族の領有地の一部を割いて、屯倉(みやけ)と呼ばれる直轄地とし、大王やその一族への奉仕や貢ぎ物を納める名代(なしろ)・子代(こしろ)の部を設けた。ヤマト王権の祭祀や軍事などの特定の職務は、伴造(とものみやつこ)と呼ばれる氏が担当し、伴造は品部(しなべ)を従えて、代々その職務に奉仕した。
 次回の第4回日本史講座は、9月13日(土)午後2時より行います。 
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2 東アジア世界のなかの倭国
1) 東アジアの情勢(4~5世紀)
 この頃、中国では三国時代のあと、4世紀はじめに北方民族が華北を進入したことをきっかけに、魏晋南北朝時代と呼ばれる分裂時代をむかえた。このような中国の混乱は、周辺諸国への影響力を弱める結果となった。
 朝鮮半島では、313年、中国東北地方から朝鮮半島北部へ勢力を広げていた高句麗が楽浪郡を滅ぼした。朝鮮の南部では馬韓・辰韓・弁韓・という三つの小国連合体が分立していたが、4世紀中頃、馬韓と辰韓はそれぞれ百済・新羅に統一され、弁韓はいぜん伽耶(加羅)と呼ばれる小国連合体がつづいていた。4世紀後半には、高句麗が南下して百済や伽耶と対立した。一方、ヤマト王権(倭)は、伽耶や百済を足がかりにして鉄などの資源や農業・土木・建築、各種の手工業の技術を手に入れようとして高句麗と対立した。
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(東京書籍「図説日本史」より)
2) 「好太王碑文」
 4世紀末から5世紀はじめ、高句麗の好太王の功績を示す碑文には、高句麗が百済を攻めたとき、倭を打ち破ったことが記されている。この碑文に書かれてある史料をよりどころとして、「大和朝廷」による「朝鮮出兵」が行われた例証とされた。明治政府による朝鮮侵略を合理化するのにこの史料は利用されてきた。ところが、戦後の研究でこの碑文を持ち帰ったのは参謀本部の酒匂中尉であり、彼はスパイのような使命をおびていたと考えられている。しかも碑文の解読は参謀本部でおこなわれたのである。碑文をめぐっては、その解釈をはじめとして謎が多い。
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(三省堂「日本史B」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)
3) 「宋書」倭国伝
 4世紀には中国の歴史書に倭についての記述は全くない。その理由は、この頃の中国が北方民族の侵入により、政治が混乱していたという事情があったと思われる。しかし「宋書」倭国伝では、5世紀に讃・珍・済・興・武の倭の五王が、南朝の宋に朝貢してきたという記述がある。なぜ倭の王は中国の王朝に朝貢したのか。その理由は、高句麗に対抗して朝鮮半島南部の支配権を認めてもらためであったと考えられる。
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(東京書籍「図説日本史」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)
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 Ⅱ 古墳文化とヤマト王権
1 前方後円墳の出現とヤマト王権
1) 古墳時代(3世紀後半~7世紀)
 上田正昭氏によると、古墳とは①墳丘を主流として発展する墓制であり、②弥生時代の墓制とは異なった立地条件・規模・形態・内容をもって造営された墓制であり、③死者を納めた葬地が死者を葬るに必要とする土地空間よりも大きく、その葬地は死者の永久の占有地として、他と明確に区別されている墓制である。と定義している。さて、このような古墳が3世紀後半になると、近畿から瀬戸内海沿岸にかけて見晴らしのよい丘陵に出現する。
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(東京書籍「図説日本史」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)
 古墳は、弥生時代の首長墓の特徴を引き継ぎながらも、はるかに大きな墳丘をもち、前方後円墳や前方後方墳、方墳など独特の形をしている。古墳の表面は葺石でおおわれて、埴輪や土器がめぐらされ、内部の竪穴式石室には粘土でくるんだ長大な木棺があり、三角縁神獣鏡をはじめとする銅鏡や宝器などの副葬品とともに遺体がおさめられている。古墳時代は、前期(3世紀後半~4世紀)・中期(5世紀)・後期(6~7世紀)の3期に分けている。
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(東京書籍「図説日本史」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)
2) ヤマト王権の成立
 古墳の築造には多くの労働力や進んだ土木技術が必要となることから、小国の連合をさらに統合した、強大な権力をにぎった司祭者的な性格を持つ豪族と呼ばれる勢力が出現したと考えられる。なかでも、規模の大きな古墳が大和川沿いに集中していることから、この地域に強大な権力者が出現したと考えられている。このような豪族の連合体をヤマト王権(倭王権)と呼び、豪族連合の盟主を大王と呼んでいる。
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(東京書籍「図説日本史」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)
3) ヤマト王権の範囲
 4世紀中頃には、関東から北部にかけて同じ形式の古墳が見られ、ヤマト王権は西の吉備や出雲、東の毛野など各地の豪族を支配下に組み入れていった。5世紀になると、古市古墳群や百舌鳥古墳群など、巨大な前方後円墳群が大阪平野に現れる。なかでも大山古墳や誉田山古墳はヤマト王権の力を反映した世界最大級の王墓である。古墳には、大陸の支配層の風習にならった遺品や、朝鮮製の鉄製の武器・馬具や装身具などが大量に副葬されている。
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(東京書籍「図説日本史」より)
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 第3回日本史講座は、8月23日(土)午後2時より、受講者8名で行われました。
前回の宿題として、「なぜ倭国の王たちは中国王朝に朝貢したのか。」という問題の答えを考えてくるということでした。皆さんの答えの中では、「中国の高い技術や文化を取り入れるため」という答えが多かった。また、「中国の侵略をまぬがれるため」という答えもあった。中には「生口というのは奴隷ではなく留学生であり、中国の文化を持ち帰るために派遣された」というユニークな答えもあった。「倭国の王は、中国王朝の権威を利用して、首長権を強化する目的で朝貢したと考えられる。」というのが私の答えであった。
5 邪馬台国
1) 中国王朝の興亡
 中国では、220年に後漢が滅び、魏・蜀・呉が対立する三国時代に入った。その中で最も勢力が強大であった華北の魏は、江南の呉や中国東北地方の高句麗と対立して、倭との外交を重視するようになった。
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(東京書籍「図説日本史」より)
2) 『魏書』東夷伝倭人の条(『魏志』倭人伝)に見える倭
  『魏書』東夷伝倭人の条には、2世紀後半から3世紀半ばまでの倭についての記述が詳しく述べられている。それによると2世紀後半に倭国で大乱が起きたが、邪馬台国の卑弥呼を王とする、およそ30の小国の連合体が形成された。邪馬台国はどこにあったかという論争は江戸時代からあり、おもに九州説と畿内説に分かれている。九州説をとれば、3世紀半ばまではまだ西日本の統一は進んでおらず、畿内説をとれば、3世紀には西日本の統一が進んでいたと考えられる。この論争の原因は 『魏書』東夷伝倭人の条に書かれてある経路と方角の記事に問題がある。経路によれば畿内説、方角によれば九州説に有利となる。現在は、発掘されている遺跡や新たな研究から畿内説が正しいのではないかと私は考えている。そもそも客観的に考えて、「水行10日陸行1月」など詳しい経路が書かれているのであるから、経路を重視すべきである。方角については、後の中国の地図でも日本列島をもっと南に描いている地図がある。三国時代に魏が倭との外交を重視したのは、倭が呉の南に位置していると錯覚ていたからではないかと思われる。
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(東京書籍「図説日本史」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)
3) 邪馬台国
 都には城柵や物見やぐらがあり、宮殿では兵士に護衛された女王が神のお告げによる呪術的な政治を行い、弟がこれを補佐していた。この社会は、支配階級の王と大人、彼らに従属する下戸と奴隷とに分かれ、租税や刑罰の制度があり、市も開かれていた。卑弥呼は、魏の皇帝に使いを送り、239年には「親魏倭王」の称号と金印や銅鏡などを与えられた。
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(東京書籍「図説日本史」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)
 
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4 小国の形成と連合(中国史書に見える倭)
 今まで弥生時代の発展を環濠集落や高地性集落の出現、甕棺墓、大規模な方形周溝墓と銅鏡・銅剣・銅矛など中国・朝鮮製青銅器などの考古学的な研究から、この頃の日本列島に有力な首長=王が他集団を従属させ、小国が形成されたと推測してきた。
 そのような小国の成立を証明するものとして倭国についての書物が残されている。「古事記」や「日本書紀」は8世紀に書かれたものであり、弥生時代の日本列島には文字は存在していなかった。ところで、文字というものは人類の文化にとって最も重要な役割を果たしたことについて、あまり認識されていないと思われる。現在、私たち日本人が使っている漢字は中国の文字であることを忘れている人が多いのではないか、漢字を抜きにしては日本の文化を語ることはできない。
 さて、弥生時代の日本列島に住む人たちのことを中国では倭と呼んだが、元々中国では中華思想があり、天下の中心には文化の高い漢人がおり、周辺の文化の劣った人たちの中で、背の低い人という意味が倭にはあった。しかし、この頃の中国の書物に出てくる倭とは、日本列島に住む人たちのことを指すようになっていた。
1) 『漢書』地理志
 日本に関する最古の史料が『漢書』という前漢の正史であり、その地理志に倭人の記事がある。なぜ、漢の時代になって東方の倭人の記事が書かれたのかというと、漢が強力な国家を築き、朝鮮半島に直轄地を設けて周辺地域に大きな影響を与えたことから、朝鮮半島の東方の倭人の情報が入ってきたのである。この書物によると、前1世紀頃、倭は百余国に分かれ、朝鮮半島の漢直轄地である楽浪郡へ定期的に使いを送っていたことがわかる。
2) 『後漢書』東夷伝
 『後漢書』は後漢(25~220)の歴史を記した正史である。この書物は5世紀に書かれたもので、「東夷伝」の倭の記事は、大部分『魏志』倭人伝によるものであるが、57年に倭の奴国の王が後漢の光武帝へ貢ぎ物を贈り、かわりに臣下と認める印綬を与えられたこと。また、107年にも倭国王の帥升が使いとともに、多数の生口(奴隷)を後漢の安帝に献上したという独自の記事がある。
 奴国は福岡県の博多湾岸にあった小国の一つで、志賀島からは「漢委奴国王」の金印が発見されている。
この金印は本物か偽物かという議論が盛んであったが、現在では本物説が有力である。
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(帝国書院「タペストリー」より)
(第一学習社「最新世界史図表」より)
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(帝国書院「タペストリー」より)
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(帝国書院「タペストリー」より)
 次回の第3回日本史講座は、8月23日(土)午後2時より行います。
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3 農業生産の発展と首長の登場
1) 中期末から後期
 弥生中期末から後期にかけて、鉄製の斧・鋤・鎌がつかわれるなど鉄器が普及し始めた。また、鉄の刃先をつけた鍬もあらわれ、未開墾の微高地にも水路を通し、灌漑施設もつくられるようになった。その代表的な例として静岡県の登呂遺跡があげられる。私も以前にこの遺跡を見学したことがあるが、その水田跡の大きさに感心させられた。
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(三省堂「世界史B」より)
2) 集団間の対立・抗争
 稲作の発展により人口も増加し、集落の規模も大きくなっていった。人手や耕地に恵まれた集落が米や鉄製農耕具をなどの富を蓄え有力となり、中小河川の水系ごとに複数の小集落をまとめた地域的な集団を形成していったが、これを農業共同体と呼ぶ。集落の中で農耕の祭りを司っていた司祭者的な性格をもつ指導者が政治力を併せ持つようになり、有力な集落の中に首長が現れたと考えられる。
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(三省堂「世界史B」より)
3) 考古学的な痕跡
 このような首長の存在は、祭祀用に使われたと思われる銅鐸や青銅製武器が近畿や北九州の各地で発掘されているところがら推測することができる。
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(三省堂「世界史B」より)
4) 首長支配権の拡大
 土地・交易をめぐる争いや、生産物や鉄器などを奪いあう激しい抗争が起こったため、周囲に濠をめぐらした環濠集落や山頂や丘陵上につくられた高地性集落などの防衛施設も見られるようになった。また、北九州では鉄剣や鉄ぞくが、近畿では石剣や石ぞくなど、殺傷力の強い武器が見つかっている。こうした対立や抗争の結果、有力な首長は、ほかの集団を統合・支配して権力を一層強化し、政治的支配者にかわっていった。首長を埋葬したと見られる甕棺墓や方形周溝墓などに銅鏡や銅剣・銅矛といった中国・朝鮮半島製の青銅器などの副葬品が納められていることから、地域ごとの首長の支配権の成長がわかる。
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(東京書籍「図説日本史」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)
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     第2章 原始から古代へ
 Ⅰ 弥生時代の社会
1 稲の伝播と弥生文化
1) 中国大陸の動向
 いよいよ日本列島は縄文時代から弥生時代へと進むが、その決定的な要因となったのは大陸からの文化の流入である。それでは、大陸ではどのような状況であったのかを簡単に見ていこう。
 中国では前8世紀頃から国家同士が勢力を競いあう春秋・戦国時代が続き、北方からは異民族が侵入するなど、高度な文化を発展しつつも動揺が続いていた。
 前5世紀頃、政情不安な中国や中国の圧迫をうけた朝鮮半島から、水稲農耕や機織りの技術、金属器・弥生土器などをたずさえた集団が北九州から渡来してきた。稲作は食物栽培よりもはるかに生産性が高かったため、西日本の縄文人の生活は狩猟や漁労・採集から、稲作を中心とする生産生活へとかわっていった。こうした金属器と弥生土器を使い、稲作を主な生業とする文化を弥生文化と呼び、日本列島に定着した前5世紀頃から後3世紀中頃までを弥生時代といい、前期・中期・後期の三期に分けている。
 また、北海道ではオホーツク海地域の影響を受けた狩猟と採集による続縄文文化が続き、沖縄など南西諸島では水稲農耕は伝わらず、畑作と漁労による貝塚文化が続いた。
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(三省堂「日本史B」より)
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(三省堂「日本史B」より)
2 水稲農耕の開始
1) 稲作の普及
 北九州にはじまった稲作は、前期には西日本一帯に広まり、日本海経由で本州北部にまで伝わった。
 人々は以前血縁関係の強い世帯でまとまり、低地に数軒の竪穴住居と倉庫からなる集落をつくって住み、共同墓地はその付近にまとめて設けた。前期には大陸性の鉄製農具も少なく、水路をつくるには一つの集落だけでは労働力が足りなかったため、川に近い低湿地に簡単な灌漑施設をつくった小さな湿田が中心だった。
 耕作は、鋤・鍬・田下駄・大足・田舟などの木製農具を使いながら、田植えや籾の直播きをし、石包丁で穂首刈りにして収穫した。収穫した稲穂は高床倉庫や貯蔵穴にたくわえ、臼や竪杵で籾すりした。土器は、貯蔵用の壺、煮炊き用の甕や盛りつけ用の高坏など用途におうじて使い分けた。
 稲作によって生活は安定しはじめたが、機構の変化に大きく左右されたため、以前狩猟や漁労・採集も行われた。また、豊作への期待や感謝をこめる農耕の祭りが行われ、祭りの道具として銅鐸などの青銅製の祭器が使われた。
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(三省堂「日本史B」より)
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 第2回日本史講座は8月9日(土)午後2時より、台風接近の中でも、6名の受講者で行われました。
3 縄文社会と文化
1) 縄文人の精神生活
 縄文人の平均寿命は30歳前後と短かったのは、自然に頼らざるを得ない不安定な生活で、絶えず飢餓のおそれがあったからである。そのため人々は、太陽や星・山・川などのあらゆる自然物や、雷などの自然現象に神霊を認めるアニミズムを信仰した。特に後期から晩期にかけて、寒冷化や自然災害などの影響もあり、呪術による除災、収穫と豊産のための祈りとして土偶が作られ、成人に中身入りするための抜歯や死者に対するおそれからであろうか屈葬が行われた。
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(東京書籍「図説日本史」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)
 縄文時代には集落内に共同墓地が作られて埋葬されたことから、この時代には貧富の差のない平等な社会であったことがわかる。東日本では祖先の霊をまつる場所として環状列石や配石遺構や巨木遺構が造られ、自然や収穫物の再生を祈る祭りも行われたものと考えられている。
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(東京書籍「図説日本史」より)
2) 原始農耕の始まり
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(三省堂「日本史B」より)
 捕獲技術の進歩は人口の増加をもたらした。縄文中期には、豊富な木の実に恵まれた東日本を中心に人口が30万人ぐらいになったと推定されている。その結果、食糧不足となり野生の食用植物の栽培を工夫するようになった。前期から中期にかけての移籍からは荏胡麻・粟・ヒエ・栗・イモなどが発見され、後期から晩期の移籍では石鍬・小豆・麦などの雑穀類や稲の畑作(陸稲)も見つかっている。
 後期から晩期になると、機構の悪化などによって東日本では食糧資源が乏しくなり、集落の規模も小さくなり人口も減少した。西日本では粟・小豆・麦などが栽培され、農業社会への準備が進んでいった。
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(資料⑧)
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(第一学習社「最新世界史図表」より)
(B)
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(第一学習社「最新世界史図表」より)
問 資料⑧「朝貢交易圏の発達」で大きな役割を果たした王国名は何か。また、当時の時代にどのような役割を果たしていたのか。
(解説) 
琉球王国は、明との朝貢貿易に加えて、東南アジア諸地域とさかんに交易を行い、中国・日本・朝鮮を結ぶ結節点として栄え、琉球人自ら海外交易活動を担った。
【課題】
① 「14~16世紀の東アジア・南アジア(明代中国を中心に)」というテーマであったが、南アジアについてはよくわからないのでここでは省いた。東南アジアの歴史はまとめて教えた方がわかりやすいのではないか。また、多くの教科書では14~16世紀と区切らないで、明・新時代をまとめてあつかっているが、その方が教えやすいのではないか。なぜ14~16世紀として分けたのか、その意図を教えてほしい。
② 朝鮮の歴史を「ハングル」と「亀甲船」の資料を使って教えたがこれでいいのか。朝鮮史もまた通史として教えた方がわかりやすいのではないか。
③ 琉球の歴史をもっと詳しく教えるべきなのか。このように見てくるといくら時間があっても足りないが、何時間ぐらいかけて教えるべきなのか議論してほしい。
【質疑・討論】
 討論は報告者の出した課題①を中心に進められた。明と清王朝には違いがある。明は漢民族の王朝であるが、清を単なる中国王朝と見るのではなく、モンゴル、チベット、ウイグルなどを含むハイブリッド的な王朝と見るべきだ。また、世界史をグローバルに見ていく必要がある。明・清時代と通史的に見るのではなく、「明と東南アジア」、「清と東南アジア」というようにその時代をグローバルに見ていくことが大切である。これに対し中国史、朝鮮史、東南アジア史と通史として教えた方が生徒にはわかりやすいのではないか。朝鮮史や東南アジア史が中国史の付け足しになってしまっている。また、研究者としてはグローバルに見ることが正しいとしても、生徒の理解を考えると難しいという問題がある。しかし、通史の羅列が生徒の世界史嫌いをもたらしたという意見も出された。その他、「朝鮮を中心とした東アジア史」、「琉球を中心とした東アジア史」など多くの課題が出されるなど、議論は盛り上がった。 以上
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資料⑥
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資料⑦
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問 資料⑥の文字は何と呼ばれどこの国で作られたのか。この文字はどのような意味を持っているか。
(解説) 
朝鮮の文化は15世紀の初め世宗の時代から大いに隆盛したが、民族史上最も重要な文化的業績はハングルの作成である。朝鮮はそれまで固有の文字を持たず中国の漢字を使ってきた。世宗は朝鮮の言語に適し、誰もが習いやすく書きやすい独自の文字をつくるために、学者を集めて研究させてつくらせた文字である。

問 資料⑦の亀甲船は誰によってつくられどのような戦いで活躍したのか。この戦いは朝鮮社会に何をもたらしたのか。
(解説)
日本全土を統一した豊臣秀吉は、明を征服するという口実で朝鮮に派兵した。陸戦では朝鮮半島を席巻したが、海戦では李舜臣が考案した「亀甲船」を主軸とする水軍により完敗し、一旦和議が成立した。しかし、3年後には再び侵略が始まった。戦争は秀吉の死によって終わったが、7年間にわたる侵略戦争は、朝鮮に莫大な損失と犠牲を負わせたが、これを倭乱と呼ぶ。韓国のアンケート調査によると、日本人で一番嫌いな人物が豊臣秀吉であるという。この侵略によって朝鮮では、掠奪と殺戮によって国土の荒廃と国民の疲弊がいかに大きかったかがわかる
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