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2 白村江の戦いと国内体制の整備
1) 東アジア情勢の変化
 7世紀前半、朝鮮半島では新羅が勢力を増し、660年に百済を滅ぼした。朝廷は復興をはかる百済の遺臣の要請にこたえて大軍を派遣した。663年に朝鮮半島の西部にある白村江(はくそんこう)で新羅と唐の連合軍に大敗したがこれを白村江の戦いと呼ぶ。さらに新羅は高句麗も滅ぼし、676年に朝鮮半島を統一した。
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(東京書籍「図説日本史」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)
2) ヤマト王権の対策
 朝廷は、新羅と交流する一方で、防備の強化と国内体制の整備を急いだ。664年、対馬(つしま)・壱岐(いき)・筑紫(つくし)国などに、防人(さきもり)と烽火(のろし)をおき、また筑紫に大堤(おおつつみ)を築き、水を貯えさせた。今も太宰府(だざいふ)の近くに残っている水城(みずき)は、そのためのものである。翌年には、百済人をつかって、長門(ながと)や太宰府の近くに城を築かせた。さらに667年、11月には大和、讃岐、対馬に城をつくらせた。この頃、瀬戸内海を中心に対馬から大和にまで築かれた山城(やまじろ)の遺跡が今も残されている。私が対馬に旅行したときに、金田城(かねだのき)に登ったが、そこには古代の山城の遺跡とともに大砲がおかれていた。おそらくそれは太平洋戦争の時の防備のために設置されたものであろう。古代であろうと現代であろうと、対馬の山城は日本の防備にとって重要な場所であると考えられたのであろう。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(三省堂「日本史B」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)
3) 近江朝の政治
 667年3月、中大兄皇子は都を近江(おうみ)の大津に移した。遷都の理由は、「飛鳥地方の旧勢力を避けるためであるとか、白村江の敗戦のショックによるとか、百済からの渡来人が近江の近くに多く住んでいたこととも関係があるとか、いろいろ説があるが、よくわからない。ともかく評判はよくなかった。」と『ほるぷ出版 家長三郎編 日本史1』では書かれている。翌年正月、皇子は天智(てんじ)大王として即位し、弟の大海人皇子(おおあまのみこ)を皇太弟として政治が行われた。670年には最初の戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく)がつくられた。前掲書によると、戸籍は、それまでにも部分的につくられたことはあるが、日本のほぼ全国にわたってつくられたのはこれが最初である。この戸籍は1戸1戸について、属している人すべてを書き出し、人民の1人1人を国家が直接に支配するためのものであった。普通の戸籍は、30年で捨ててよいが、この戸籍だけは、永久に保存しなければならないというだいじな台帳であった。この頃、近江令(おうみりょう)と呼ぶ新しい律令を制定したとされており、これが日本ではじめての令だというが確実なことはわからない。
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  Ⅱ 大化の改新と壬申の乱
1 東アジアの変化と大化の改新
1) 東アジアの情勢
 7世紀以降、隋を倒して中国を統一した唐は、律令制度を基本とする中央集権体制をととのえ、東アジア周辺諸国に対して支配権の拡大をめざした。朝鮮半島では、高句麗や新羅が唐の律令制度を取り入れて国力の充実につとめたが、唐が高句麗に遠征すると、新羅は唐と接近し、百済は倭との連合を強めようとした。
2) 内政
 このような東アジア情勢は朝廷内に大きな影響をあたえた。豪族を中心とする政治にかわって、大王のもとで中央集権体制をととのえようとする勢力があらわれた。ところが、推古大王の没後、舒明(じょめい)・皇極(こうぎょく)両大王のもとで蘇我馬子の子蝦夷(えみし)が政治権力をにぎり、643年には、蝦夷(えみし)の子入鹿(いるか)が厩戸皇子(うまやどのみこ)(聖徳太子)の子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)を攻め滅ぼすなど、いぜん蘇我氏は権勢ををほこった。なぜ入鹿が山背大兄王を滅ぼしたのか、その理由は蘇我氏と大王家との対立がはげしくなったからといわれている。しかし、「ほるぷ出版 家長三郎編 日本史1」によると、蝦夷と山背大兄王とは親密な関係にあり、この事件によって蘇我系の王たち約20名がいっきょに失われたと指摘している。この事件の真相は、「蘇我氏と大王家の対立ではなく、他の王子たちと山背大兄が対立し、それに入鹿が関係したと考えた方が正しいようである」と前掲書は指摘している。
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(ほるぷ出版「家長三郎編 日本の歴史1」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)
3) 改革
 645年、反蘇我氏の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)らは蝦夷・入鹿を滅ぼしたが、この事件を乙巳(おつし)の変と呼ぶ。中大兄皇子は孝徳大王を即位させ、みずからは皇太子として改革に着手した。皇子は大臣(おおおみ)・大連(おおむらじ)を廃止して、左大臣・右大臣をもうけ、唐から帰国した高向玄里(たかむこのげんり)と僧侶の旻(みん)を国政顧問として国博士(くにのはかせ)に任じ、鎌足を内臣(うちつおみ)として政策の立案にあたらせた。新政権は、中国にならって年号を大化とするとともに、翌年には、改新の詔(みことのり)として、①私有地・私有民を廃止して公地公民とする。②国・郡・里の行政区画をさだめ、地方官を任命する。③戸籍・計帳(けいちょう)を作成し、班田収授法を実施する。④新しい税制をさだめる。の四か条を出した。そして、都を蘇我氏の影響力の強い飛鳥から、大陸との窓口にあたる難波(なにわ)に移した。こうした乙巳(おつし)の変からはじまる一連の改革を大化の改新と呼んでいる。
 しかし、大化の改新については多くの疑問が出されている。特に改新の詔については、明らかに701年の大宝律令を模倣して書かれている部分がある。例えば行政区画に「郡」が用いられているが、当時は「評(こおり)」だったことを示す木簡が発見されている。そのため改新の詔は後世に改められたと考えられている。また、乙巳の変(大化の改新のクーデター)に対しても多くの疑問がある。入鹿暗殺が三韓朝貢の儀式の時に行われたとあるが、朝鮮の高句麗・百済・新羅は当時対立しており、同時に朝貢することはありえないだけでなく、当時の常識として外交儀式の最中にクーデターを起こすことはありえない。また、クーデターの後も蘇我氏は勢力を持っており、蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ)は右大臣になっている。ウィキペディアでは、大化の改新について、「7世紀中~後半に、大化の改新と同様な改革が行われたことは、比較的見解の一致するところではあるが、その時期を645年よりもっと後に設定するべきであるとの考え方もある。中大兄皇子は氏族内の内部対立を利用して、勢力をそぎ、皇室の力を伸ばしていった可能性が高い。また、天皇権力が強くなる理由のひとつとして、壬申の乱の存在を考慮すべきとの考え方も存在する。律令制度が完成したのは、大宝律令からであり、その大宝律令と重ね合わせて解りやすく『日本書紀』には記述した可能性が高い。これは藤原不比等が、父親である藤原鎌足の功績を高く評価させたためとも考えられる。」と書いているが、私もこの考え方に賛成である。
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(東京書籍「図説日本史」より)
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(ほるぷ出版「家長三郎編 日本の歴史1」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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 第5回日本史講座は9月27日(土)午後2時より行われました。いつものメンバー3人は東京旅行のため欠席され受講者は6名でした。
4 飛鳥文化
1) 特色
 「6世紀後半から7世紀前半にかけて、わが国初の仏教文化が花開いた。この文化は、朝鮮半島から、中国の南北朝時代の高度な技術に裏うちされた仏教文化が移入されたものだった。これを政権の所在地にちなんで飛鳥文化とよんでいる。」と教科書に書かれている。しかし、『家長三郎編 日本の歴史』によると、飛鳥文化に対する疑問が書かれている。①飛鳥地方を中心とした文化というが、飛鳥文化を代表する法隆寺も中宮寺も斑鳩(いかるが)地方にあり、四天王寺は大阪で広隆寺は京都にある。②仏教を中心とした文化というが、その後の白鳳文化も、天平文化も、みな仏教を中心とした文化で、飛鳥文化だけの特色ではない。③飛鳥文化の代表だというが、斑鳩寺は焼けてしまい、法隆寺も聖徳太子が建てたものではないのに、なぜそういえるのか。という疑問を出している。

2) 寺院建築
 仏教は信仰の対象というよりも新しい文化として取り入れられた。人々が縄文以来の竪穴住居に住んでいる時代に、仏教寺院は瓦葺(かわらぶ)きの屋根をもち、礎石(そせき)づくりで、竪穴住居とは格段の差があった。この頃の寺院は豪族の氏寺を中心に建てられた。それを代表するものが日本最初の大寺院である飛鳥の飛鳥寺(法興寺)で、蘇我氏の氏寺として建てられた。次に聖徳太子の願いでつくられたとされる斑鳩の法隆寺・摂津の四天王寺のほか、大和や河内を中心に40数か寺が建立された。ところが、前掲書によると、四天王寺の建立ははやくても飛鳥末期と推定されるとし、法隆寺も四天王寺とだいたい同じ時期のものとされ、聖徳太子の建てたものではないと指摘している。
 寺院の伽藍(がらん)配置は、飛鳥寺式・四天王寺式・法隆寺式・薬師寺式・大安寺式へと変化している。寺院は、本来仏舎利(ぶっしゃり)とよばれる仏陀の遺骨を納める塔を中心に造営がなされたが、仏像(本尊)に信仰の対象が移り、本尊をまつる金堂が寺院の中心に造営されるようになった。
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(東京書籍「図説日本史」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)
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(三省堂 日本史B」より)
3) 仏像彫刻
 「仏像もつくられるようになった。金銅仏(こんどうぶつ)には渡来人の子孫である鞍作止利(くらつくりのとり)がつくった飛鳥大仏や法隆寺の金堂釈迦三尊像(こんどうしゃかさんぞんぞう)のほか、中国のものと共通した端正な鋭い表情をうかがわせるものが多い。」と教科書に書かれている。しかし、前掲書によると、釈迦三尊像に書かれている銘文(めいぶん)についても疑問視されている。鞍作止利も実際にいたかどうかもわからないし、銘文にでてくる仏師(ぶっし)の語は奈良時代になってからでないと記録に見えない。また、いちばん大きな問題として、「この釈迦三尊像が、発願(ほつがん)されてから、わずか1年で完成していることである。飛鳥大仏は鋳造に8年かかり、のちの山田寺の本尊も6年かかっているのに、釈迦三尊像がわずか1年でできるとは、鋳金の専門家によっても、それは不可能だという。」と指摘している。
 木像仏(もくぞうぶつ)には広隆寺や中宮寺の半伽思惟像(はんかしいぞう)などがある。この像は、台座に腰掛けて左足は垂下(すいか)し右足は左大腿部(だいたいぶ)にのせ、右手の指を軽く頬(ほお)にあてた姿の仏像で、早くはガンダーラ地方の菩薩像に見られ、中国において弥勒(みろく)菩薩の像となり、日本の飛鳥時代に伝わったものである。
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(東京書籍「図説日本史」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)
4) 絵画・工芸
 この時代の絵画を代表するものとしては、法隆寺金堂の阿弥陀浄土(あみだじょうど)を描いた壁画がある。この壁画は世界史の教科書に載せられているほど有名で、インドのアジャンター石窟寺院の壁画がシルクロードを経て日本の法隆寺の壁画に影響を与えたものだとされている。
 このような海外からの影響は工芸品にも見られるが、ギリシアに起源をもつ忍冬唐草文様(にんどうからくさもんよう)がその代表的なものである。法隆寺の柱は古代ギリシアで使用されたエンタシス(柱の胴につけられたわずかなふくらみ)が取り入れたれている。
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(東京書籍 新選世界史B」より)
 
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3 遣隋使と遣唐使の派遣
1) 東アジアの情勢
 589年、北朝からおこった隋が後漢の滅亡から、魏晋南北朝時代と呼ばれる分裂時代の中国を370年ぶりに統一した。
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(隋の煬帝)(東京書籍「図説日本史」より)
2) 遣隋使の派遣
 朝廷は、600年に隋に使いを派遣し、607年には遣隋使として小野妹子(おののいもこ)を送り、仏教の教えを学ぶ留学生(るがくしょう)を同行させた。倭が中国の南朝に使者を派遣した「倭の五王」時代から百年以上経っている。派遣の目的は、東アジアの先進国である中国の文化を摂取することが主であったと思われる。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 遣隋使の小野妹子(おののいもこ)が煬帝(ようだい)に提出した文章に、「日出(い)づる処(ところ)の天子、書を日没(ぼっ)する処(ところ)の天子に致(いた)す。恙無(つつがな)きや、云々(うんぬん)」と書かれていた。これを覧(み)た煬帝は怒ったと「隋書倭国伝」に書かれている。
 当時の東アジアは「柵封(さくほう)体制」にあった。この体制は、中国の皇帝を君主とし、周りの諸国は家臣として中国皇帝に朝貢する体制であり、「倭の五王」も南朝の宋に朝貢していた。ところが、この文章には倭と隋を同等の「天子」として対等な関係であることを示していたのである。倭はなぜこのように中国と対等な立場に立とうとしたのか、その理由は朝鮮諸国に対する対策ではなかったか。柵封体制では朝鮮諸国は中国に対して家臣という立場であり、中国と倭が対等な関係であるなら朝鮮諸国に対して倭は君主の立場に立てるという思惑があったのではないか。そのような目的でこのような文章を提出したのではないかと考えられる。
 隋の煬帝は倭国に使者を派遣して倭と隋との交流は行われた。なぜ無礼な書を提出した倭との交流を隋はおこなったのか。この頃、隋は高句麗遠征を行っており、高句麗と対立していた倭と手を結ぶ方が隋にとって有利であると考えたからに違いない。
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(三省堂「日本史B」より)
3) 遣唐使の派遣
 隋は高句麗遠征遠征に失敗すると急速におとろえ、かわって、618年に唐が中国を統一した。朝廷はひきつづき中国との国交を維持するために、630年、遣唐使として犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)を送った。
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2 推古朝の政治
1)蘇我氏の勢力拡大
 朝廷のなかで、勢力を強めたのは大臣(おおおみ)の蘇我氏であった。蘇我氏は朝廷の財政権をにぎり、渡来人を重用(ちょうよう)するとともに大王家(おおきみけ)と婚姻関係をむすんで政治力を増していった。6世紀末、蘇我稲目(そがのいなめ)は仏教導入に反対する物部氏(もののべし)との争いに勝ち、政治を主導するようになった。587年に稲目の子の蘇我馬子(そがのうまこ)が物部守屋(もののべのもりや)を攻め滅ぼし、592年にはみずから擁立した崇峻(すしゅん)大王を暗殺して、蘇我氏が政治を独占した。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2) 天皇の称号について
 日本史の教科書では、天皇という称号は崇峻(すしゅん)から記述されているのがほとんどである。しかし、天皇の称号がいつから始まったかについては、推古朝のころから使われたとする考えと、国内で強い支配権を持ち始めた天武朝のころに成立したとする考えの二説がある。ウィキペデアでは、日本で最初に天皇と称された人物は天武天皇であると記述されているが、私もその考えに賛成である。そのため、教科書の記述とは違って、天武朝までは天皇という称号を使わずに大王と記述する。
3) 推古朝の成立
 592年、馬子の姪(めい)にあたる推古大王が蘇我氏の本拠地である飛鳥(あすか)で即位した。翌年、推古大王は甥(おい)の厩戸皇子(うまやどのみこ)を摂政とし、蘇我氏とともに政治にあたらせたとされている。
しかし、なぜこの頃に日本で最初の女帝が誕生したのか。「日本書紀」によると、蘇我馬子は自分が擁立した崇峻が自分を嫌っていることを知り暗殺させたのである。だから独裁権をにぎった馬子にとって自分に逆らわない人物が必要であり、女性である自分の姪を大王に就けたのではないかと考えられる。
4) 聖徳太子伝説
 推古大王の甥にあたる厩戸皇子(うまやどのみこ)を摂政としたとされているが、当時は摂政という制度はまだなかったのであり、政治は馬子が独占していたのである。ところが、日本の歴史では、厩戸皇子(うまやどのみこ)が「蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど大陸の進んだ文化や制度をとりいれて、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った他、仏教を厚く信仰し興隆につとめた。」と書かれている。この厩戸皇子(うまやどのみこ)が聖徳太子であり、私たち年配者には1万円札でおなじみのスーパースターである。ところで聖徳太子という名称はいつ頃からあらわれたのかというと、8世紀中頃に編纂された『懐風藻(かいふうそう)』が最初であるといわれており、厩戸皇子(うまやどのみこ)が死んでから100年以上も経(た)っている。「皇室と蘇我氏の関係系図」を見ると明らかなように、厩戸皇子(うまやどのみこ)は蘇我氏との結びつきが大変強いことがわかる。厩戸皇子(うまやどのみこ)という名前の由来はたくさんあるが、私はそのなかの「母が実母である蘇我小姉君の実家、つまり叔父・蘇我馬子の家で出産したため、馬子屋敷が転じて厩戸と付けられたとする説」が最も正しいのではないかと思う。客観的に考えて、絶大な権力をにぎった蘇我馬子をおさえて、厩戸皇子(うまやどのみこ)が政治を指導したとはとうてい考えられない。馬子は自分が擁立した大王でも暗殺する人物であり、まして皇子は彼のもとで育てられたのである。だから皇子は馬子のロボットでしかなかったであろう。それではなぜ、後に皇子はスーパースターとして「日本書紀」に登場するようになったのか。その理由は、「大化の改新」のところでも触れるが、蘇我氏を倒し、さらに「壬申の乱」に勝利して有力豪族を押さえた天武天皇にとって、天皇を中心とする中央集権体制の端緒となった推古朝の政治改革の指導者が蘇我馬子では都合が悪い。そこで厩戸皇子(うまやどのみこ)が政治改革の指導者として描かれるようになり、やがて聖徳太子伝説を生み出していったのではないかと思われる。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
5) 推古朝の政治改革
 推古朝では、朝鮮半島での勢力回復をめざすとともに、内政では、603年に冠位十二階の制をさだめて、個人の功績や才能に応じて位(くらい)を与えるようにし、有力氏族が政治をとりおこなう氏姓制度(しせいせいど)の弊害をなくそうとした。また、604年に厩戸皇子(うまやどのみこ)がさだめたとされる憲法十七条には仏教や儒教の考えがとりいれられ、大王のもとに支配を秩序づけることや、官僚として勤務する心がまえなどが説かれた。このように推古朝の政治は、国内を統一しようとするもので、この姿勢はその後の政権に引きつがれた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(三省堂「日本史B」より)
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第3章 古代国家の確立
 Ⅰ 推古朝の政治と飛鳥文化
1 朝鮮半島の変動とヤマト王権
1) 5世紀末から6世紀初め
 朝鮮半島では、5世紀後半から6世紀にかけて、新羅や高句麗が領土拡大につとめ、百済や伽耶(かや)に進入しはじめた。伽耶(かや)というのは、朝鮮半島南部の地域で、加羅(から)とも呼ばれ、私たちの学生時代は任那とも呼ばれていた。「日本書紀」には、ここにヤマト王権が進出し「任那日本府」が設置されていたと書かれている。「任那日本府」は、戦前において日本の朝鮮侵略を合理化するのに利用されたこと、また、戦後は「日本書紀」を批判する研究が進んだこともあって「任那日本府」の存在を否定する意見が出された。確かにこの時代に倭国を日本とは呼んでいなかったので、「任那日本府」という呼び名は間違っている。しかし、最近の考古学研究の成果で、この地方に「前方後円墳」というヤマト王権特有の古墳が発見されているところから、何らかの形で伽耶(かや)地方にヤマト王権の勢力が進出していたのは間違いないと思われる。
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(東京書籍「図説日本史」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2) 磐井(いわい)の反乱
 527年、ヤマト王権はつながりの深かった伽耶(かや)へ援軍を派遣しようとしたが、新羅とむすんだとされる筑紫(つくし)の国造(くにのみやつこ)磐井(いわい)によってこれをはばまれたが、これを磐井の乱と呼ぶ。さらに、外交を担当していた大連(おおむらじ)の大伴金村(おおとものかなむら)が百済(くだら)に伽耶(かや)の領土への拡大を認めたこともあって、新羅と百済による伽耶への進入は強まり、562年、伽耶は新羅に滅ぼされた。「磐井の乱」は、磐井が新羅から賄賂(わいろ)を贈られていたので新羅征討(せいとう)軍に対して抵抗したとされている。現代の私たちの感覚からすると、磐井はヤマト王権を裏切ったなんと悪い豪族かと思われる。それは、国民国家という観念を持っているからであり、このような観念は近代において生まれてきたものである。この時代には磐井という豪族は、ヤマト王権とのあいだに同じ倭人であるという意識はなかったと思われる。
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(東京書籍「図説日本史」より)
3) 政治機構の整備
 朝鮮半島への影響力が大きく後退したヤマト王権は、国内でも、磐井の乱や吉備(きび)・毛野(けの)の豪族による反乱などがあいついで起こったため、その弱体ぶりが国内外に示された。吉備(きび)地方は現在の岡山県全域と広島県東部、香川県の島嶼部(とうしょぶ)さらに兵庫県西部にまたがる地方を指す。毛野(けの)地方は現在の群馬県全域と栃木県南部を指している。この地方には昔から有力な豪族がいたのである。そこで、ヤマト王権は地方の反乱を鎮圧しながら、東国など各地に直轄地である屯倉(みやけ)を増やして地方支配の強化と財源の確保をはかった。さらに王権は、大陸の制度を理解する渡来人を積極的に登用して、財政や支配のしくみを整え、朝廷と呼ばれるような中央政治をつくりあげた。
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5 古墳時代の人々のくらし
1) 民衆の生活
 古墳時代の人々は、切妻形屋根や掘立柱式の方形の竪穴住居に住み、数家族で集落をつくり、さらにいくつかの集落が集まって一つの村落を構成していた。人々は農業に従事したが、そのなかで女性の労働が占める役割は大きかった。大王や豪族のために鉄製品や織物を製作する氏(うじ)の部民(べみん)も、農業とともにその仕事に従事していた。竪穴住居の内部は、炉にかわって、壁ぎわにかまどがつくられ、煮炊きをしたり、甑(こしき)を使って米を蒸(む)すようになった。
 弥生土器の系譜を引く素焼きの土師器(はじき)にくわえ、5世紀中頃には窯(かま)で焼きあげる朝鮮半島渡来の須恵器もつくられた。
 この頃の婚姻形態は妻問婚(つまどいこん)と呼ばれるもので、夫が妻の家を訪ねる。夫婦は別居し、子供は妻の家で育ったが、それは母系制社会の名残であると考えられている。
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(三省堂「日本史B」より)
2) 農業技術の発達
 ヤマト王権や地方豪族の統率のもとで、堰(せき)・堤(つつみ)・溝などの建設が進み、大規模な溜池(ためいけ)や水路などの灌漑(かんがい)施設がつくられ、鉄製のU字型の刃先をもつ鋤(すき)や鍬(くわ)などの農耕具も普及して、湿田よりも生産性の高い乾田(かんでん)が増えた。稲は、直播(じかま)きや穂首刈(ほくびが)りが普及した。
3) 祭祀
 太陽や山・川などの自然物を神が宿るものとして神聖視し、太占(ふとまに)の法・盟神探湯(くかたち)などの呪術的な風習が行われていた。太占(ふとまに)の法というのは、鹿の肩胛骨を焼き、ひび割れの形によって吉凶を占う方法である。また、盟神探湯(くかたち)とは、沸騰した湯のなかの小石などをとらせ、手がただれるかどうかで真偽を判断する原始的な裁判である。
 稲作の普及にともなって、春に豊作を祈る祈年祭(としごいのまつり)や、収穫した新穀(しんこく)を神に供えて感謝する新嘗祭(にいなめさい)などの農耕儀礼が行われるようになった。新嘗祭(にいなめさい)は後に宮中の重要な儀式となり、明治時代に11月23日に固定され、戦後は勤労感謝の日となった。また、氏の祖先を氏神(うじがみ)としてまつる神社もつくられ、大王家の祖先神である天照大神(あまてらすおおみかみ)をまつる伊勢神宮や大国主神(おおくにぬしのみこと)をまつる出雲大社、海神(かいじん)をまつる住吉大社などもつくられた。しかし、もともと天照大神と伊勢神宮とは何の関係もなかったが、太陽神をまつるというところから結びついたと考えられている。
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 第4回日本史講座は、9月13日(土)午後2時より受講者7名で行われました。
4 渡来人と大陸文化の移入
1) 帰化人と渡来人
 私たちの学生時代には、渡来人とはいわないで帰化人と習った。今のほとんどの教科書は渡来人と記述されてあるが、なぜ帰化人から渡来人と呼び名が代わったのか。コンピューターで帰化人を検索したところ、帰化人とは「君主の徳に教化・感化されて、そのもとに服して従うこと」と書かれていた。帰化人という呼び名は、戦前の皇国史観にもとづいて、日本の朝鮮支配を合理化するものであった。そのような理由から帰化人から、単に朝鮮半島から渡ってきたという渡来人という呼び名が使われている。
2) 先進文化の流入
 5世紀後半になると、朝鮮半島南部から渡来人が日本列島へと移住し、仏教や儒教、医術や易(占い)さらに漢字などの先進文化をもたらした。
 仏教は前6世紀頃にインドで成立したが、中国で盛んとなったのは南北朝の北魏時代(386~534年)であり、その後南朝にも普及し、隋・唐時代には大発展をとげた。仏教は朝鮮半島でも盛んとなり、日本列島へと伝わった。教科書によると、「欽明天皇のころ、百済の聖明王が教典や仏像をヤマト王権におくったことをもって仏教公伝(こうでん)としている。その年次については、『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』や『元興寺縁起(がんごうじえんぎ)』の538年説と、『日本書紀』の552年説がある。」と書かれている。仏教は単に宗教という面だけでなく、教典に書かれている漢字、仏像彫刻や寺院の建築など総合的な文化としての意義を持っていたのではないかと思われる。
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(東京書籍「図説日本史」より)
3) 渡来人の役割
 ヤマト王権や地方豪族は、渡来人を積極的に活用して、政治力や経済力を飛躍的に高めていった。ヤマト王権は彼らを近畿に住まわせ、韓鍛冶部(からかぬちべ)・陶作部(すえつくりべ)・錦織部(にしごりべ)・史部(ふひとべ)などに組織した。韓鍛冶部(からかぬちべ)とは鉄鋼技術者であり、陶作部(すえつくりべ)とは朝鮮半島渡来の窯で焼きあげる須恵器(すえき)の技術者である。また、錦織部(にしごりべ)は養蚕や織物の技術者で今年の全米オープンテニスで準優勝をとげた錦織の名前はここからきているのであろう。史部(ふひとべ)は記録や出納(すいとう)・外交文書の作成に従事した者であろう。ヤマト王権はこれらの渡来人の技術者集団を品部(しなべ)として組織し、彼らの代表者には姓(かばね)が与えられた。
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(東京書籍「図説日本史」より)
 特に西文氏(かわちのふみし)や東漢氏(やまとのあやし)・秦氏(はたし)らは、その後、氏族として厚遇された。教科書には、「『古事記』や『日本書紀』によると、西文氏(かわちのふみし)の祖とされる王仁(わに)は『論語』や『千字文』を伝え、東漢氏(やまとのあやし)は文筆にすぐれ、秦氏の祖とされる弓月君(ゆみずきのきみ)は機織り・養蚕の技法を伝えたとされている。)と書かれている。この記述に王仁(わに)という名前が出てきたが、この人物については、以前に私がこのブログで書いたことがある。それはフィールドワーク「大阪とコリア⑥」で御幸森天神宮を訪れた時に、この神宮の石碑に『難波津の歌』があったがこの歌を作った人物こそ王仁(わに)博士であった。
『難波津の歌』というのは、「難波津に 咲くやこの花冬籠もり 今は春べと 咲くやこの花」という歌である。
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万葉仮名・和文・ハングルで書かれた「難波津の歌」の碑
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