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2) 東北地方の征服事業
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 東北では律令国家への編入をこばむ蝦夷(えみし)の反乱がおこり、780年には蝦夷出身の郡司伊治呰麻呂(いじのあざまろ)が鎮守府の多賀城を襲撃し、陸奥・出羽両国にまたがる大反乱となった。桓武天皇はたびたび征討軍を派遣したが、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は797年に征夷大将軍となり、蝦夷の族長阿弓流為(あてるい)を服属させ、802年、鎮守府を多賀城から胆沢(いざわ)城にすすめた。征夷大将軍はのちに武士の最高の地位となり、鎌倉幕府や江戸幕府の将軍とは征夷大将軍のことでありのちに重要な役割を担うことになった。
3) 律令制の再建
 この頃、農民の疲弊と耕地の荒廃が広まっていた。財政難におちいっていた朝廷は、口分田の不足から6年ごとの実施が困難になっていた班田を12年ごとに変更し、雑徭(ぞうよう)を60日から30日に半減するなど農民らへの負担を軽減した。792年には、正丁(せいてい)を徴発して編成した軍団を廃止し、郡司らの子弟を健児(こんでい)として国衙(こくが)などを守らせる健児制にあらためた。国司交代のさいのひきつぎをめぐる争いを監督させるために、797年頃、令(りょう)に定められていない官職である令外官(りょうでのかん)の勘解由使(かげゆし)をもうけた。
2 律令体制の再編
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(東京書籍「図説日本史」より)
1) 蔵人所(くろうどどころ)
 桓武天皇の政策は、子の平城(へいぜい)天皇・嵯峨(さが)天皇にうけつがれた。嵯峨天皇は国政を主導し、810年には、政治機密の保持のために、天皇の側近にあって詔(しょう)・勅(ちょく)の伝達や訴訟などを太政官にとりつぐ蔵人所を設置した。蔵人所の長官である蔵人頭(くろうどのとう)には、天皇の信頼のあつい北家の藤原冬嗣ぐ(ふゆつぐ)らが任命された。
2) 検非違使(けびいし)
さらに政情不安な京の治安維持などを職務とする検非違使を設置した。
3)三大格式(きゃくしき)
 嵯峨天皇の頃には、格や式にもとづいて国政が運営されるようになり、膨大になっていた格や式の分類・整理が行われ、弘仁格式が編纂された。これは、後に編纂された貞観(じょうがん)格式・延喜(えんぎ)格式とあわせて三大格式と呼ばれている。
 次回の第10回日本史講座は、12月20日(土)午後2時よりおこないます。
 
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2 奈良時代の人々と信仰
1) 神仏習合
 この頃の人々は、呪術的な信仰をうけつぎ、自然の石や樹木に神霊(しんれい)を認めて神聖視した。また、土俗的な信仰はいぜん根強く、祖先の霊や土地の霊などへの礼拝もさかんになった。鎮守社(ちんじゅしゃ)などの神社の境内に神宮司(じんぐうじ)がもうけられるなど、土俗的な信仰と仏教とがまじりあう神仏習合が広まった。
2) 結婚
 葬儀は仏教の影響から火葬も一部では行われたが、土葬が一般的だった。また、結婚は男が女の家にかよう妻問い婚(つまどいこん)が多く、婿入り婚(むこいりこん)や嫁入婚(よめいりこん)なども行われた。
  第5章 貴族政治と平安文化
 Ⅰ 平安京と律令体制の動揺
1 平安遷都と蝦夷との対立
1) 平安遷都
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 奈良時代末期の政争のなかで即位した天智天皇系の光仁(こうにん)天皇は、仏教勢力を政治から排除して律令国家を立て直そうとしたがなかなかすすまなかった。ついで即位した桓武(かんむ)天皇は、寺院などの旧勢力の強い奈良から都を移して、政治の再建をはかった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 784年、桓武天皇は、秦氏など渡来系の氏族の協力をえて、琵琶湖と難波津とをむすび水陸交通に便利な淀川沿いの山背(やましろ)国の長岡京へ遷都をはかった。しかし、洪水や造宮使(ぞうぐうし)の暗殺などがおきて社会不安が広がり、造都は中止された。そして794年、和気清麻呂(わけのきよまろ)の進言で、同じ山背国葛野(かどの)郡の地に遷都した。その後、新都は「平安楽土」の地として平安京と名づけられ、人口10万人をこえる大都市となった。平安京遷都から鎌倉幕府の成立までの時代を平安時代とよんでいる。この遷都をきっかけに山背は国名を山城と改めた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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 第9回日本史講座は、11月22日(土)午後2時より行われました。受講者は8名でした。
 Ⅲ 天平文化
1 国家仏教と天平文化
1) 国家の仏教保護(鎮護国家)
 奈良時代には、遣唐使がもたらした国際色ゆたかな国家仏教を特徴とする天平文化が平城京を中心に花開いた。752年に平城京で行われた盧舎那仏開眼会(るしゃなぶつかいげんえ)は、中国・ヴェトナムの仏教僧やインドのバラモン僧も参加した盛大な国家行事であった。国家の保護をうけた仏教は発展し、平城京には、東大寺や興福寺など南都七大寺をはじめとする大寺院がつくられ、南都六宗(なんとりくしゅう)では仏教理論の本格的な研究もはじまった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 僧尼は民間布教を禁止されるなど、国家の統制をうけた。さらに朝廷は、僧尼の資格を整備するために、唐から高僧である鑑真(がんじん)を招き、正式の僧侶になるために守らなければならない戒律をさずける戒壇をもうけた。きびしい統制にもかかわらず、民間布教を行う僧侶もあらわれた。行基(ぎょうき)は橋や道路の修理などをおこないながら、畿内周辺で精力的に仏教の教えを広めた。ところで去年私は、行基の足跡を訪ねてというフィールドワークに参加して、このブログの「その他」のジャンルに書いていますのでぜひ読んでください。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2) 天平美術
 光明皇后が東大寺に献納した聖武天皇の遺品は正倉院宝物(しょうそういんほうもつ)とされ、ササン朝ペルシアの影響を受けた美術作品などが数多く残されている。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 天平文化を代表する仏教建築として唐招提寺金堂(とうしょうだいじこんどう)や東大寺法華堂 (ほっけどう)などがある。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
3) 文芸
 漢詩文は貴族の教養として流行し、最初の漢詩集である『懐風藻』が編まれた。歌謡が一般的だったが、和歌では、自然を題材とした山部赤人(やまべのあかひと)や人生や社会の感慨を歌った山上憶良(やまのうえのおくら)、詩情豊かな作品を残した大伴旅人(おおとものたびびと)・大伴家持(おおとものやかもち)らがあらわれた。九州に防人として送られる歌や東国の農民が家族との別れを悲しむ東歌(あずまうた)など生活感情にねざした作品も生まれた。約4500首の和歌を集めた『万葉集』が編まれた。
 

 
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 石舞台を見学した後、私たちは聖徳太子ゆかりの地である橘寺には時間の余裕がなかったので立ち寄らず、亀石へと向かった。30分以上歩いてやっと亀石に到着した。
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(亀石)
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(亀石の説明文))
 パンフレットによると、「穏やかに微笑んだような表情が愛らしい、明日香を代表する謎の石造物。橘寺の西方約600mにあり、長辺4.26m、短辺2.72m、高さ1.94m。巨大な花崗岩に亀のような動物が彫られている。造られた理由はわかっていないが、条里の境界を示すとする説、居住域と墓域の境界とする説、碑の台石の未完成品とする説などがある。中世の伝説によると、亀石は当麻の蛇の仕業で湖が干上がって死んでしまった亀を弔ったもので、亀は北向きから東向き、さらに現在の南西へと向きを変えており、亀が当麻の方向である西を向いたとき、大和国一帯が泥の海に沈むといわれている。」と書いてある。
 私たちは亀石を見学した後、鬼の雪隠(せっちん)、鬼の俎(まないた)へと向かった。標識が少なく、場所がわかりにくかったが、20分以上歩いてようやく鬼の雪隠・鬼の俎に到着した。
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(鬼の雪隠)
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(鬼の雪隠の説明文)
 パンフレットによると、「謎の石仏に見えるが、実は刳貫式横口石槨(こかんしきよこぐちせきかく)の蓋石(雪隠)と床石(俎)。7世紀中頃に築造された長方墳かとみられている。組み合わせたときの大きさは石室の最大長2.7m、幅1.9m。俎の東側でもう一つの床石も発見されており、一つの墳丘に二つの石槨(せきかく)をもつ合葬墓だったと考えられる。形から鬼が付近を通る旅人を俎の上で料理し、雪隠(トイレ)で用を足したと伝えられた。」と書いてある。鬼の雪隠のすぐ近くの階段を登ると鬼の俎があった。
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(鬼の俎)
 なぜ古墳の蓋石が下まで落ちたのであろうか、地震かあるいは人が蓋石を何かに利用しようとしたが重たくてそのまま捨ててしまっただろうか、謎である。
 鬼の雪隠・鬼の俎を見学した後、私たちは最後の遺跡である猿石へと向かった。私たちは13分歩いて吉備姫王墓(きびひめのみこのはか)にある猿石に到着した。
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(猿石)
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(猿石)
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(猿石)
 吉備姫は欽明天皇の孫で、皇極天皇・孝徳天皇の母、天智天皇・天武天皇の祖母にあたる。猿石についてパンフレットによると、「年代や制作理由も不明の、猿を思わせる顔の石造物。江戸時代に欽明天皇陵南の田から掘り出され天皇陵に置かれたが、明治5(1872)年に吉備姫王墓に移された。特徴から僧、男性、女性、山王権現の名前がつき、それぞれ高さ1m前後。高取町の高取城内には、ここから石材として持ち出されたもう一体の猿石がある。また同町の光永寺にもここから持ち出されたと思われる顔石がある。」と書かれている。猿石と名付けられた石だが、私にはどう見ても猿には見えない、古代ペルシア人のような風貌に見える。
 私たちは猿石を見学した後、飛鳥駅から橿原神宮前で乗り換え、さらに大和西大寺で乗り換えて難波に到着したのは午後6時頃であった。
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 酒船石を見学した後、私たちは10分ほど歩いて伝飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいたぶきのみやあと)に到着した。
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(伝飛鳥板蓋宮跡の表示板)
 パンフレットによると、「板蓋宮は、7世紀半ばの皇極天皇の宮殿で、中大兄皇子(天智天皇)らによって蘇我入鹿が暗殺された乙巳(おつし)の変(大化改新)の舞台。草葺屋根だったそれまでの宮殿と異なり、板葺き屋根だったことに由来する。ここには複数の宮殿遺構が重なっており、現在復元されている石敷広場や大井戸跡は上層の飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)のもの。」と書かれている。私は表示板の写真は撮ったが、肝心の遺跡の写真を撮るのを忘れていたので、パンフレットで紹介しよう。
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(伝飛鳥板蓋宮跡 パンフレットより)
 私たちが明日香村を訪れた日には、いけばなの草月流のイベントが明日香村でおこなわれており、村のあちこちに フラワーアレンジメントの作品が展示されていた。
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(フラワーアレンジメントの作品が展示されていた)
 私たちは伝飛鳥板蓋宮跡から30分ほど歩いてようやく石舞台に到着したが、ここでもフラワーアレンジメントの作品なのであろうか、大きなモニュメントが石舞台の横に置かれていた。
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(石舞台の横に置かれたモニュメント)
 石舞台には、大型バスや自家用車が行き交い、多くの見学者で混雑していた。ここも昔は無料だったが、現在は拝観料として250円が必要だった。
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(石舞台での記念写真)
 拝観券の裏に書かれている資料によると、「この石舞台古墳は、横穴式石室を持つ方形墳で、築造は7世紀の初め頃と推定されます。既に古墳上部の封土は失われ巨大な天井石が露出した姿になっています。被葬者は不明ですが、6世紀後半にこの地で政権を握っていた蘇我馬子の墓ではないかといわれています。
 昭和8(1933)年と10(1935)年に本格的な発掘調査が行われ、その結果、玄室の長さ7.8m、幅約3.4m、高さ4.8mで大小30数個の花崗岩が使用されており天井に使われている石の重さは、北側が約64t、南側が約77t、総重量は約2.300tという大規模な古墳であることが判明しました。
 『石舞台』の名の由来については、一般には石の形状からとされていますが、昔狐が女性に化けて石の上で舞を見せた話しや、この地にやって来たたび芸人が舞台がなかったので仕方なくこの大石を舞台に演じたという話しもあります。」と書かれている。私たちが石室の中に入っていると、団体客のガイドが石舞台の説明をしてくれたので、私たちも聞くことができてラッキーであった。
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 私たちは甘樫丘を降りて次の目的地である酒舟石へと向かったが、その途中に水落遺跡があった。
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(飛鳥水落遺跡)
 水落というのは水時計のことで、資料によると、「日本初の時計として知られる漏刻(ろうこく)(水時計)台跡。『日本書紀』によれば、660年に、『皇太子、初めて漏刻を造り、民をして時を知らしむ』とあり、皇太子、すなわち天智天皇が造らせた漏刻(水時計)と推定される。方形基壇の上に楼閣状の建造物が建っていたと考えられ、銅管や木桶を使った複雑な導排水施設も確認された。」と書かれてある。私は、当時どのようにして漏刻(水時計)を造っていたのかという遺跡の説明書を写真に撮ったが、肝心の遺跡の写真を撮るのを忘れてしまったので、パンフレットの写真を紹介しよう。
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(水落遺跡 パンフレットより)
 水落遺跡から20分ほど歩くと酒舟石遺跡に到着した。この遺跡には、亀形石造物と酒舟石の遺跡があり、以前は無料であったが、今は300円の入館料が必要であった。最初に亀形石造物を見学したが、ここではボランティアのガイドさんが説明してくれたので大変おもしろかった。話しに夢中になり、また写真を撮るのを忘れたので、ここでもらったパンフレットの写真を紹介しよう。
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(亀形石造物 パンフレットより)
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(亀形石造物 パンフレットより)
 亀形石造物についてパンフレットによると、「酒舟石遺跡の北西に位置する謎の石造物。1999年発見された。全長2.4m、幅2mの亀形を呈する。顔を南向きにして据えられていた。丸く彫られた両目、4本の指の表現が施された両足が特徴である。甲羅部分は円形の凹型になっており、水を溜める仕組みであったことがわかる。水は鼻の穴から甲羅部分に流れ込み、V字状に彫り窪められ表現された尻尾の部分から流れ出すようになっている。亀形石槽のすぐ南側には小判形(船形)に彫り込まれた水槽を有する石造物が、さらに南側にこれら石造物に水を供給していたと思われる涌水施設が見つかっている。斉明天皇が信仰した道教の世界を表す両槻宮(ふたつきのみや)の一部ではないかとか、政治を占う施設とか、身を浄める場所とかさまざまな説がある。出土した土器などから7世紀中頃~10世紀の間にかけて利用されていたことが確認されている。」と書かれている。ガイドさんの話もだいたい同じであったが、パンフレットで読むよりも話しを聞く方がはるかにおもしろい。
 次に私たちは酒舟石を見るために狭い道を登っていったが、そこには柿がたわわに実っていた。
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(酒舟石)
 パンフレットによると、「石造物のうちの一つで、平坦な表面に液の溜まりと溝様の彫り込みがある。酒を搾ったものであろうとの想像からこの名前がついたが、油を造ったものであろうとか、庭園の施設の一部であろうとか諸説ある。この石はもともと大きかったものが、近世にはいって高取城を築城する際に大きく割って搬出されたのではないかとの言い伝えがある。近年の発掘調査によって、酒舟石のある丘陵は、裾部に花崗岩を据え、頂部に天理市の石上付近で産出する砂岩の切石を積み上げた『石垣』で取り囲まれていたことが数次にわたる発掘調査によって明らかとなってきた。これらの事柄は『日本書紀』にある『宮の東の山に石を累ねて垣とする』『石の山丘を作る』、石を『石上山』から運んだとする、などの記述をあらわしていると思われる。」と書かれている。松本清張によると、斉明天皇は道教ではなくイランで信仰されていたゾロアスター教の影響を受けていたのであると。そして、酒舟石は酒ではなく、ゾロアスター教の信仰に使われていた麻薬をここで作っていたと書かれている。私はこの石が占いなどに使ったのではないかという説が最も正しいのではないかと思っている。
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(酒舟石での記念写真)
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 私たちは飛鳥寺の西門を出たところで記念写真を撮った。
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(飛鳥寺の西門での記念写真)
 資料によると、飛鳥寺の西門を出て西に100mほど歩くと蘇我入鹿首塚(そがのいるかくびづか)があると書いてある。確かにそのあたりに五輪塔があったが、そこには何の表示もなかったので、近くの農家の人に確かめてみると間違いなかった。他の遺跡などには必ず表示されているのになぜここには表示がないのか不思議である。
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(蘇我入鹿首塚)
 この五輪塔は、大化の改新のとき、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で中大兄皇子らに暗殺された蘇我入鹿の首がここまで飛んできたとか、襲ってきた首を供養するためにそこに埋めたともいわれている。五輪塔自体は鎌倉時代または南北朝時代に建立されたものである。塔の高さは149mの花崗岩製で、笠の形の火輪の部分が大きく、軒に厚みがあるのが特徴であると資料に書かれている。
 ここから私たちは次の目的地である甘樫丘(あまかしのおか)に向かった。資料によると、この丘は標高148mで東西数百m、南北1kmほど広がる丘陵であると書かれている。私たちは丘の北側にある展望台へと階段で登った。
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(甘樫丘の展望台へと向かっている)
 ここで昼食休憩をとったが、展望台から見える景色は最高に美しく、ここで食べたおにぎりは本当においしかった。
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(展望台から見た景色、畝傍山の向こうには二上山が見える
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(展望台から見た景色、耳成山の向こうには生駒山が見える)
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(展望台から見た景色、左の山が耳成山で右側が天香具山)
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(展望台から見た景色、明日香村が見える)
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(展望台での記念写真)
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 私たちは予定より少し遅れて、次の目的地の飛鳥寺へと向かった。ところで、飛鳥という地名の由来についてネットで調べたが、なんと6つもの説があげられていた。少し煩雑であるが簡単に紹介しよう。①渡来人が日本に来て安住の宿とした場所を安宿(あすか)と名付けた。朝鮮語でアンスク、これがなまってアスカとなった。②古代朝鮮で村を意味するスカに、接頭語のアがついてできたという説。③仏教発祥の地インドのアショカ王の名前から転化したという説。④鳥は瑞兆(ずいちょう)として尊ばれたが、アスカの音はイスカという鳥の名前から転じたという説。⑤アは接頭語で、スカ(州処)は川水によって生じた砂地を表し、地形から名付けられたという説。飛鳥資料館ではこの説が採用されていた。⑥スカという語がイスケ、イスズ、ミソギと同様、みそぎをするなどの神聖な意味を持ち、神聖地に用いられたという説などである。私は、①朝鮮語の安宿説が正しいのではないかと考えている。なぜなら、この地域には朝鮮から来た渡来人が多数住んでいたからであり、彼らによって日本に高い文化がもたらされたのである。
 「国営飛鳥歴史公園」の資料によると、飛鳥資料館から飛鳥寺までは約1.1㎞、所要時間は20分と書いてあるが、予定どおり20分で飛鳥寺に到着した。飛鳥寺は蘇我馬子によって596年に創建された日本最古の寺で法興寺、元興寺とも呼ばれた。創建時の寺は塔を中心に東西と北にそれぞれ金堂を配する日本最初の本格的寺院で、その外側に回廊をめぐらし、さらに講堂を含む壮大な伽藍であった。
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飛鳥寺伽藍配置(パンフレットより)
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飛鳥寺(パンフレットより)
 本尊飛鳥大仏(釈迦如来坐像)は609年に天皇が詔して鞍作鳥(止利仏師)に造らせた日本最古の仏像である。旧伽藍は887年と1196年の火災によって焼失し、室町以降は荒廃したが、1632年と1826年に再建され今日に至っている。現在、真言宗豊山派に属し、新西国第9番、聖徳太子第11番の霊場でもある。とパンフレットに記載されている。
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(飛鳥大仏)
 私たちが飛鳥大仏を見ようと金堂の中にはいると、お坊さんがお寺や飛鳥大仏について説明してくれた。お坊さんによると、飛鳥大仏の顔の右側と左側とでは異なっているとのことだ。右側は目が少しつり上がり、唇も微妙にきつく閉じられているが、左側の目もとは下がり気味で、左の口元もほほえんでいるように見えると。また、この仏像はガンダーラ美術の影響を受けているとのことである。本来仏教ではお釈迦さんを描いたり像を作ったりすることは禁止されていたが、仏教がガンダーラ地方に入ってくると、仏像を造るようになっていった。その理由は、この地方には紀元前4世紀のアレクサンドロス大王の遠征以来、ギリシア系の人たちが住みつくようになった。ギリシア人たちは神々を彫刻する伝統があり、かれらの中に仏教が信仰されてくるとやがて仏像が造られるようになっていったのである。そのためガンダーラ美術の影響を受けた仏像はギリシア人のような顔をしており、この仏像もそのような面影を残しているように見える。
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 日本史講座では、11月16日(日)に飛鳥の遺跡をめぐるフィールドワークを行いました。当日は天気もよくて風も穏やかで、絶好のハイキング日和でした。フィールドワークの参加者は13名でした。
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(当日訪れた場所①~⑮ 明日香村わくわくマップより)
 私たちは午前8時に光明池駅から難波で近鉄線に乗り換え、さらに大和西大寺で乗り換えて橿原神宮前駅に到着したのは午前10時頃だった。そこから第一の目的地である飛鳥資料館へとまっすぐ東に向かって歩いた。私たちが明日香村に入ったのは午前10時20分ころであったが、そこにはきれいなコスモスの花が咲いていた。
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(明日香村での集合写真)
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(明日香村にはコスモスの花が咲いていた)
 私たちが飛鳥資料館に到着したのは午前10時45分頃であった。「国営飛鳥歴史公園」という資料によれば、橿原神宮前駅から飛鳥資料館までの距離は3.1㎞で所要時間は30分と書いてあったが、予定よりも15分もかかったことになる。私はこの資料館に入ったのは初めてで、飛鳥の歴史や遺跡、高松塚の壁画や亀石などのレプリカが館内や庭に展示されていた。
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(亀石のレプリカ)
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(石神遺跡で発掘された石人像)
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(資料館での集合写真)
 
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2 奈良時代の政争
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
1) 藤原氏の台頭
 奈良時代に有力貴族として台頭してきたのは藤原氏であった。藤原鎌足の子である藤原不比等は娘の光明子(こうみょうし)を聖武天皇の妃(きさき)とするなど天皇家と緊密な関係をきずいて、大きな力を持った。
 彼の死後、天武天皇の孫である長屋王(ながやおう)が政治運営の中心にいたが、しだいに不比等の四人の子供である武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ)が力をのばし、729年には長屋王を謀反の疑いで自殺に追い込んだ。しかし、737年、藤原四子が天然痘であいついで亡くなると、皇親で光明皇后の異父兄である橘諸兄(たちばなのもろえ)が政治の実権をにぎり、唐から帰国した吉備真備(きびのまきび)や憎玄昉(げんぼう)らを登用して政治を独占した。これに反発した藤原宇合の子である藤原広嗣(ひろつぐ)が、740年に筑紫で反乱をおこしたので、政情不安が高まった。
2) 鎮護国家
 聖武天皇は、仏教の力をかりて政治や社会の不安を鎮(しず)めて国家を護ってもらおうとしたが、これを鎮護国家(ちんごこっか)と呼ぶ。741年、中国の制度を模範にして、国ごとの官寺(かんじ)として国分寺(こくぶんじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)を建立(こんりゅう)させた。しかし、その負担は農民が担うことになった。また、743年には大仏造立(ぞうりゅう)の詔(みことのり)を出し、近江国紫香楽(しがらき)で盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ)の造営をはじめた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
3) あいつぐ政争
 聖武天皇の死後、光明子の甥にあたる藤原仲麻呂(なかまろ)が718年に編(あ)まれた養老律令(ようろうりつりょう)をようやく施行するなど権勢をふるい、橘諸兄の子橘奈良麻呂(ならまろ)の反乱を鎮圧した。しかし光明子が亡くなると、僧の道鏡(どうきょう)が孝謙(こうけん)上皇に取りたてられて権勢を増したため、764年、仲麻呂が反乱をおこしやぶれた。仲麻呂は名前を恵美押勝(えみのおしかつ)と名乗っていたので、これを恵美押勝の乱と呼ぶ。そして、孝謙上皇がふたたび即位して称徳(しょうとく)天皇となると、道鏡は太政大臣禅師(ぜんじ)に任命され、仏教勢力が政治に進出していった。だが、称徳天皇が亡くなると、道鏡は失脚し、天智天皇の孫にあたる光仁(こうにん)天皇が即位して、政治の立て直しをはかった。
 第2回フィールドワークは、11月16日(日)に行います。行き先は「飛鳥」、光明池駅を午前8時に出発します。
 次回の第9回日本史講座は11月22日(土)午後2時より行います。
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