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2 貴族文化と学芸の発達
1) 教育機関
 このころ、和気氏の弘文院、藤原氏の勧学院、橘氏の学館院、在原(ありわら)氏の奨学院など、有力貴族のなかには、子弟を為政者にふさわしい教養をもたせるための教育を行う大学別曹(べっそう)がつくられた。また空海は、東寺に隣接して綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)をもうけ、民衆のために儒教・仏教・道教の教授をめざした。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2) 漢詩文
 漢詩文では、名手として、小野篁(おののたかむら)や都良香(みやこのよしか)、意見封事(ふうじ)十二か条を記した三善清行らが出て、『凌雲集(りょううんしゅう)』・『文華秀麗集(ぶんかしゅうれいしゅう)』・『経国集(けいこくしゅう)』の三大勅撰集ができた。
3) 書
 書では、のちに三筆(さんぴつ)と呼ばれる嵯峨(さが)天皇・空海・橘逸勢(たちばなのはやなり)があらわれ、唐風の書を発展させた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 次回の第11回日本史講座は、1月10日(土)午後2時より行います。みなさま、よいお年をお迎えください。
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 Ⅱ 唐風文化
1 平安仏教の発展
1) 弘仁・貞観文化
 9世紀になると、唐はおとろえはじめていたが、日本ではむしろ唐風文化の影響が最盛期をむかえた。これを弘仁・貞観文化とよぶ。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2) 新仏教の誕生
 仏教では、唐で学んだ最澄(さいちょう)・空海(くうかい)が新しい仏教の教えを伝えた。最澄は唐の天台山で学び、山岳でのきびしい修行をとおして仏教本来の教えに立ち返ることを説く天台宗を伝えて、比叡山に延暦寺を開いた。空海は真言宗を伝え、京都の教王護国寺(東寺)を中心に活動し、高野山に金剛峯寺(こんごうぶじ)を開いた。空海は、加持祈祷(かじきとう)により、現世利益がえられるとする密教を唐から持ち込んだが、この世の栄華を求める貴族の間に広まった。天台宗も密教の要素をとり入れたため、真言系の密教を東密(とうみつ)、天台形の密教を台密(たいみつ)と呼ぶようになった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 密教は山岳修行を重んじたため、伽藍(がらん)配置をもつ寺院にかわって、室生寺(むろうじ)や神護寺(じんごじ)などの山岳寺院が盛んに建立された。密教世界をあらわす両界曼荼羅(りょうかいまんだら)や、不動明王などのすぐれた作品が生まれ、密教美術が成立した。とくに彫刻では、1本の木材から彫りだす一木造(いちぼくづくり)の技法や、衣の量感を躍動的にあらわす翻波式(ほんぱしき)の表現が見られた。
 また、密教と山岳信仰とが結びついて修験道(しゅげんどう)がおこるとともに、土俗的な信仰との融合がすすみ神仏習合の考えが一層強まった。神は仏の権(かり)の姿だとする本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)がとなえられた。また民間にも仏教が広がり、各地の仏教説話を集めた『日本霊異記(りょういき)』がつくられた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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3 富豪百姓と公営田制の導入
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(ほるぷ出版「日本の歴史」より)
1) 富豪百姓
 律令制度は公地公民制のもとで、農民に平等に口分田を貸し与えて税を徴収するというのが原則であった。しかし時代とともに、その原則は大きく変化していった。農民のなかには、私出挙(しすいこ)を使って周辺の農民らに荒れはてた耕地や未墾地を開発させて所有地を広げ、さらに耕地を購入して大規模な農業経営を行う富豪百姓があらわれた。私出挙は、春に種籾(たねもみ)を貸し付けて秋の収穫時に利息を付けて返済させるもので、このころ民間で広く行われていたが、その利息は10割という高率だった。
2) 下層民の抵抗
 租税の負担にたえかねた下層民のなかには、浮浪(ふろう)や逃亡を行い、富豪百姓のもとで働いたり、上級官人や寺院などの下働きになる者が増えていった。また、女性が庸(よう)や調(ちょう)を負担しなくてもよかったことを利用して、性別や年齢を偽って戸籍の記載をごまかそうとする偽籍(ぎせき)もめだつようになった。
3) 朝廷の対策
 このため、戸籍は実態とおおきくかけはなれ、戸籍にもとづく口分田の配布が困難になった。さらに庸・調の不足や品質の低下がいちだんと進んだ。そこで朝廷は、823年、太宰府管内の収穫の多い良田(りょうでん)1万町の経営を富豪百姓にまかせる直営方式を採用したが、これを公営田制(くえいでんせい)と呼ぶ。これに成功すると、天皇家の財源確保のための勅旨田(ちょくしでん)や、官人の給与にあてる官田(かんでん)など、国家の財源を確保するための直営方式の田をもうけ、その経営も富豪百姓にまかせるようになっていった。
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 第10回日本史講座は12月20日(土)午後2時より、受講者8名で行われました。
2 あいつぐ政争
1) 藤原北家の台頭
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(三省堂「日本史B」より)
 藤原氏北家の藤原冬嗣は蔵人頭から左大臣となり、天皇家と姻戚関係を結んで藤原式家にかわり台頭していった。冬嗣の子藤原良房は、842年、有力貴族の伴健岑(とものこわみね)や 橘逸勢(たちばなのはやなり)らが謀反を企てたとして流罪とした承和(じょうわ)の変で政敵を倒した。さらに良房は娘の明子(あきらけいこ)を天皇の後宮(こうきゅう)に入れ、みずから太政大臣となり権力をにぎった。858年に娘の明子の子を9歳で即位させて清和(せいわ)天皇とし、良房は天皇の外祖父(がいそふ)として政治を代行するまでになった。さらに866年、良房は、大納言(だいなごん)の伴善男(とものよしお)が、左大臣の源信(みなもとのまこと)の失脚をねらった応天門(おうてんもん)の放火事件を利用して、伴氏とこの事件に関与した紀(き)氏を追放したが、これを応天門の変と呼ぶ。有力貴族を次々と追放した藤原良房は正式に皇族以外で最初の摂政(せっしょう)となり、外戚(がいせき)の地位を背景に大きな勢力をもった。
 884年には、良房の養子の藤原基経(もとつね)が光孝(こうこう)天皇の事実上の関白(かんぱく)となり、天皇が成人しても関白として政務を行うという摂関(せっかん)政治の先例をつくった。
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(東京書籍「図説日本史」より)
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