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 Ⅳ 国風文化
1 国風文化の繁栄
1) 国風文化
 10世紀になると、唐の文化を日本の風土や感情に適合させた、貴族を中心とする洗練された文化が花開いた。これを9世紀の唐風文化にたいして国風文化と呼んでいる。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2) 仮名文字の成立
 国風文化を代表するのは、漢字の草書体やその一部分をもとにして、宮中の女性や僧侶らが使いだした平仮名や片仮名の仮名文字である。片仮名は、僧侶が仏典を読む時、読み方を記す必要から利用したものであるとされている。また平仮名を使用することによって、漢字だけでは十分にいいあらわせなかった日本人固有の感情を豊かに表現できるようになった。「五十音図」や「いろは歌」もこのころ成立したと考えられている。「いろは歌」の作者は空海であるという説が有名であるが、時代的にはあわない。なぜ空海説が出てきたのかというと、「いろは歌」には仏教的な無常観が歌われており、これほどまでにみごとに作ることのできる天才は空海しかいないというとことらしい。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
3) 和歌・詩文の発達
 仮名文字がつくられると、優美で繊細な和歌が数多く詠まれるようになり、漢詩文とならぶ地位をえて、紀貫之(きのつらゆき)らが『万葉集』以後につくられた約1100首を最初の勅撰和歌集『古今和歌集』に編んだ。以降、室町時代までに21の勅撰和歌集が編まれた。和歌は、朝廷の宴会や社交の場でさかんに詠まれ、和歌の上手として六歌仙が選ばれ、藤原公任(きんとう)は当時流行していた和歌や詩文を『和漢朗詠集』に編んだ。仮名文字の普及は書風を唐風から和風へと変化させ、のちに三蹟(さんせき)と呼ばれる小野道風(おののとうふう)・藤原佐理(ふじわらのすけまさ)・藤原行成(ふじわらのゆきなり)らの名筆家が生まれた。
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(東京書籍「図説日本史」より)
 次回の第13回日本史講座は、2月14日(土)午後2時よりおこないます。
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5 地方支配の変化と抵抗
1)地方支配の変化
 このころになると、朝廷は、これまでの徴税方法や国郡制の維持をあきらめ、国司に徴税をまかせて地方支配を一任するようになった。
 国司は、高い官職をのぞめない中級貴族が多く、任期が短く希望者も多かったため、寺院・神社の造営費などを朝廷に寄進して、任期後に条件のよい官職をえようとする成功(じょうごう)や、同じ官職に重任(ちょうにん)される売官が一般化した。国司のなかには勝手に課税率を高くして成功のために私利をむさぼる者もあらわれた。また国司に任命されても、自分は京にいて、かわりに目代(もくだい)を派遣して政務をとらせ、収入をえる遥任(ようにん)も多くなった。任国におもむいた国司は受領(ずりょう)と呼ばれ、強い権限をふるい、なかには巨額な財産を蓄える者もあらわれた。
 『今昔物語』には、信濃守藤原陳忠(のぶただ)の「受領は倒るるところに土をつかめ」という言葉をのせ、強欲な受領としてえがいている。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2) 地方の抵抗
 こうした国司の過酷な収奪に苦しんだ田堵(たと)らは、国司と対立するようになっていた郡司らと結んで、朝廷に国司を告訴する愁訴(しゅうそ)や、国司への襲撃事件をあいついで起こした。なかでも988年に尾張国司藤原元命(もとなが)を訴えた尾張国郡司百姓等解文(げぶみ)は、受領の収奪のありさまと地方の実態を物語る史料として有名である。
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(三省堂「日本史B」より)
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 第12回日本史講座は、1月24日(土)午後2時よりおこなわれました。受講者は8名でした。
4 摂関政治の展開
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
1)摂関政治の全盛期
 藤原忠平の頃、天皇が幼少の時には摂政に、元服後は関白に就任して、天皇の後見役として国政を主導するという摂関政治の基礎がつくられた。藤原北家は摂政・関白を独占して摂関家と呼ばれるようになり、10世紀後半から11世紀半ばにかけての北家中心の政治を摂関政治と呼んでいる。
 969(安和2)年、醍醐天皇の第10皇子という高貴な身分であり、実力者であった左大臣の源高明(みなもとのたかあきら)が源満仲(みつなか)の密告によって失脚した安和(あんな)の変によって、北家主体の摂関政治が確立した。
 その後、北家内では、身内どうしではげしい権力争いがつづくが、藤原道長がこれに勝利した。彼は4人の娘をつぎつぎと皇后や皇太子妃とし、3天皇の外祖父として権勢をふるった。道長は、娘の威子(いし)が後一条天皇の后になった時、祝宴の席で、有名な「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも 無しと思へば」という歌をよみ、栄華ぶりを示した。その子の藤原頼道も、道長の外孫である後一条・後朱雀(すざく)・後冷泉(れいぜい)の三代天皇のもとで摂政・関白となって、およそ50年間、権勢をほこった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2) 律令政治の変容
 このころ、国政は摂政や関白を中心に公卿らが運営するようになり、詔(みことのり)や勅(ちょく)にかわって太政官が出す太政官官符(かんぷ)が増えていった。摂関家が官吏の任免権をもったため、人材登用を原則とする官人制はしだいにくずれ、特定の貴族や官人が官職を請け負い、世襲するようになった。
3) 刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)
 1019年、沿海州地方の女真(じょしん)が対馬や壱岐(いき)、北九州を来襲する事件が起きた。この時、太宰権帥(だざいのごんのそち)の藤原隆家(たかいえ)や地方武士らの活躍でようやくしずめることができた。女真は、約50隻の船で対馬や壱岐さらに筑前(ちくぜん)の海岸にも上陸して、住民を連れ去った。のちに高麗が一部の日本人を帰国させてきたため、女真が連れ去ったことがわかった。この事件を刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)と呼ぶのは、高麗では夷狄(いてき)のことを刀伊と呼んだことに由来する。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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3 武士の登場
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
1) 承平(しょうへい)・天慶(てんぎょう)の乱
 10世紀前半、東国と西国で朝廷の支配体制をゆるがす事件がほぼ同時に発生した。平将門の乱と藤原純友の乱で、この二つの反乱をあわせて承平・天慶の乱と呼んでいる。
 平将門は、9世紀後半から関東に土着した桓武天皇の子孫で、下総(しもうさ)(現、千葉県)に本拠地をもつ地方豪族であったが、935(承平5)年、一族間の所領争いを発端として反乱を起こした。939(天慶2)年に将門は、常陸(ひたち)(茨城県)・上野(こうづけ)(群馬県)・下野(しもつけ)(栃木県)などの国府を攻めて関東の大半を占領し、新皇(しんのう)と称して独立をはかった。しかし940年、平貞盛(さだもり)と下野の豪族藤原秀郷(ひでさと)によって鎮圧された。一方、伊予(いよ)国(愛媛県)国司であった藤原純友は、任期を終えても帰京せず、936年、瀬戸内海の海賊を組織して反乱を起こし、太宰府などを襲ったが、941年、源経基(つねもと)らに鎮圧された。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2) 武士団の組織化
 この反乱を起こした者も、鎮圧した者も、武士と呼ばれる地方豪族であった。このころ、武士はその武力を期待され、都では武士が侍(さむらい)に登用された。侍は「侍(さぶろ)ふ」の名詞形で、武力を任務として貴族に仕えたことから出た呼称である。宮廷や貴族の邸宅・有力寺院・神社の警備に利用され、地方でも国司が治安維持を行う追捕使(ついぶし)・押領使(おうりょうし)に武士を任命していた。10世紀中頃に、宮中警備のためにおかれた侍は、その詰め所が清涼殿(せいりょうでん)の滝口にあったので、滝口の武士と呼ばれた。武士は朝廷や貴族、国衙との結びつきを強め、一族の者を家子(いえのこ)、一族以外の者を郎党(ろうとう)とする武士団を組織しはじめた。
 次回の「第12回日本史講座」は、1月24日(土)午後2時より行います。
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2 延喜の国政改革と田堵の登場
1) 延喜の国政改革
 891年に藤原基経が亡くなると、宇多天皇は関白をおかず、菅原道真を蔵人頭に登用して藤原氏をおさえようとした。つぎの醍醐天皇も藤原時平を左大臣、道真を右大臣に任じて、天皇親政をすすめた。10世紀前半の醍醐天皇から村上天皇までの時期は、摂政・関白をおくことが少なく、律令政治の再建が意図された時期で、のちに延喜・天暦(てんりゃく)の治(ち)と呼ばれている。菅原道真は遣唐使の中止を進言するなど政治力を発揮したが、これに脅威を感じた藤原時平は、901年、策謀によって道真を太宰府に左遷して、藤原氏の地位を強固なものとした。菅原氏は、道真の曾祖父の時、土師氏より菅原氏に氏を改めたものであり、中流の貴族であった。道真は幼少より詩歌に才能を見せるなど優秀な人物であり、藤原氏の権力を抑えようとする宇多天皇により重責を任されたが、藤原氏により太宰府に流されその地で亡くなった。死後、道真に関わる人物に次々と異変が相次いだ。政敵であった藤原時平が39歳の若さで病死。左遷させた醍醐天皇の皇子やその息子が次々と病死。宮廷に落雷があり、それにより左遷に関連ある人物が多数死傷し、それを目撃した醍醐天皇も体調を崩して亡くなった。当時、落雷の事件は道真の怨霊(おんりょう)による雷神(らいしん)と結びつけられ、京都の北野に北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとした。以後、災害が起こるたびに道真の祟りと恐れられ、天神信仰が全国に広がっていった。また、道真は優れた学者・詩人であったことから、天神様は学問の神として信仰されるようになった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2) 荘園の広がり
 中央貴族や寺院・神社と結びつき、彼らの権威を利用して国司の支配から逃れようとする富豪百姓らの動きは各地でますます活発になり、領有地などを荘園として、院宮王臣家にゆだねようとするようになった。そのため、902年、時平は班田のための口分田不足を阻止するために、貴族らの土地集積などを停止する目的で延喜の荘園整理令を発布した。しかし整理令は行政の妨げにならないものは国衙の判断で荘園としてもよいというものであったため、効果はあがらなかった。
3) 土地政策の転換
 そのため、時平のあとの弟の藤原忠平が政権を握ると、現実にみあった土地政策がとられた。朝廷は、すべての耕地を公田(こうでん)とし、富豪百姓に耕作をまかせ、耕作面積に応じて徴税するようにした。公田は彼らの名前をつけた名(みょう)・名田(みょうでん)ごとに編成され、名を耕作し租税を納める富豪百姓は、農業経営の専門家という意味で田堵(たと)と呼ばれた。
 この結果、戸籍に登録された農民から人ごとに租庸調を徴収するという律令支配の原則は崩れ、租にかわる官物(かんもつ)と調・庸にかわる臨時雑役(ぞうやく)などの租税が名の面積に応じて土地ごとに徴税されることになった。
4) 荘園の変化
 このころの荘園は田堵に耕作をまかせて、輸租田(ゆそでん)として国衙に租を納めていたが、土地政策の変更にともなって、荘園も形をかえた。荘園を所有する貴族や寺院・神社は大領主となり、国司や郡司の権限をしのぐ権勢を背景に、租免除の特権である不輸の権を獲得した。さらに、田地ごとに官物にあたる年貢と臨時雑役にあたる公事(くじ)を田堵から徴収する権利を朝廷から認可してもらった。この当時の荘園は、のちの耕地や村落、周辺の山や川などをひとまとまりの領域として持つ荘園とは異なり、田地ごとにそれぞれ年貢・公事の徴収を認められた土地の集まりであった。
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 みなさま、あけましておめでとうございます。今年、初めての「日本史講座」は、1月10日(土)午後2時よりおこなわれました。受講者は8名でした。
 Ⅲ 律令体制の変質と摂関政治
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(三省堂「日本史B」より)
1 東アジアの動揺
1) 中国
 中国では755年に安史の乱が起こり、辺境に設置されていた節度使は内地にも置かれるようになった。節度使は兵・民・財の三権を握って権勢をふるい、藩鎮と呼ばれる半独立的な軍閥となって唐衰亡の原因をつくった。9世紀後半、唐は内乱や土地制度の解体などによってさらに衰えていった。唐の弱体化は周辺諸国に影響を与え、中国から自立する動きが強まった。
 907年、唐は滅亡し、五代十国を経て、960年に趙匡胤が宋を建国するまで、諸国が興亡をくり返す激動の時代に入った。
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(東京法令「世界史のミュージアム」より)
2) 渤海と朝鮮半島
 中国東北地方・朝鮮北部に栄えた渤海は、日本ともしばしば貿易が行われていた。しかし、北方民族の遼(契丹)の耶律阿保機(やりつあぼき)によって滅ぼされた。
 また朝鮮半島でも、935年に新羅を倒した豪族の王建は、都を開城に定めて高麗を建国した。
3) 日本の対応
 大陸の変動を知った朝廷は、航海が危険なこともあり、政情不安な中国に遣唐使を派遣する意欲を失い、894年、遣唐大使菅原道真の権限をきっかけに遣唐使の派遣を中止した。
 10世紀後半に宋がおこると、東シナ海では各地の商船がさかんに行きかい、絹織物や陶磁器などの貿易や文化交流が拡大し、博多に宋の商人が居住するほどになった。
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