<   2015年 02月 ( 15 )   > この月の画像一覧

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(生体実験が行われた第10号ブロック)
 他の収容所と同じくアウシュヴィッツでもSS医師が被収容者を使って、凶悪な生体実験を頻繁に行っていた。例えばカール・クラウベルグ教授はスラヴ民族の生物学的殲滅に効果的な方法を確立するため、ユダヤ人の女性を使ってアウシュヴィッツ第10ブロック(収容棟)において、残忍な断種実験を行った。ヨゼフ・メンゲレ博士は遺伝子・人類学研究という名目で、双生児や障害者を実験に利用していた。アウシュヴィッツでは新薬の開発や成分の適合のために様々な試薬をしたり、被収容者の皮膚に有害物質を塗布するなどの皮膚移植も行っていた。実験中に何百人もの被収容者が死んだが、生き残った人々も重大な疾患や不治の障害が残った。
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(窓に木製の覆いが付けられた第10ブロック)
第10と11ブロックの間の広場は、両側の高い壁で仕切られていた。第10ブロックの窓に付けた木製の覆いは、ここで行われた処刑を見られないようにするためであった。「死の壁」でSS隊員は数千人、主にポーランド人を銃殺した。
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(死の壁)
 第11ブロックの広場では鞭打ちの刑や背中に両手を括って被収容者をつり上げる柱の刑も課した。第11ブロックは「死のブロック」と呼ばれ、収容所内の刑務所の役割を果たした場所だった。政治犯として裁判で有罪とされた囚人は、ここから「死の壁」へ連行されるが、その前に洗面室で服を脱がなければならなかった。
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(銃殺の前に服を脱がされた洗面所)
 第11ブロックの地下の写真撮影は禁止されていた。ここで1941年9月にチクロンBで集団殺人の実験を行った。当時、約600人のソヴィエト軍捕虜と250人の収容所内病院の患者が殺された。地下で3種類の懲罰用監獄を見ることができる。大部分は取調中の被収容者が過ごした監獄である。18番は餓死刑を言い渡された収容者が閉じこめられた監獄のひとつである。1941年、ここにポーランド人のマキシミリアン・コルベ神父が収監された。コルベ神父は私にとって思い入れの深い人物であった。昔、私たち家族が九州旅行へ行ったときに、大浦天主堂で彼が宣教活動をしていたことを知った。その後、彼に関する本を読み、私の授業で彼のことを取りあげるようになったからである。彼は他の被収容者の身代わりになって餓死刑となった。
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(コルベ神父)
 22番の監獄は90㎝四方の4つの小さな地下室で、特別な懲罰を課せられた被収容者が4名ずつ閉じこめられた。
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(集団絞首刑台)
 点呼時にSS隊員は収容人数を確認した。ここでは移動絞首台や集団絞首台で公開処刑も行った。点呼広場に復元されている。一般市民と連絡をとって3名の仲間の脱走を手伝ったという容疑で、SSはここで1943年7月19日に12名のポーランド人被収容者を吊した。
 
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(収容所の柵には220ボルトの高圧電流が流されていた。)
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(収容所の見張り小屋)
 私たちはアウシュヴィッツの主だったブロックの見学を終えて収容所の外へと出たが、内と外との間には大きな柵があり、そこには220ボルトの高圧電流が流されていた。
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(火葬場=クレマトリウム)
 柵の外にはクレマトリウムと呼ばれる火葬場があった。遺体を焼いていた焼却炉で、最も広いところは遺体置き場として使われていたが、のちに大量虐殺のガス室となった。焼却炉は3台あったが、現在は2台残されいる。当時は1日に340人もの遺体が焼かれていたという。
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(アウシュヴィッツ強制収容所初代所長ルドルフ・ヘスの死刑執行が行われた絞首台)
 クレマトリウム(火葬場)の前にある絞首台では、アウシュヴィッツ強制収容所初代所長ルドルフ・ヘスの死刑執行が行われた。
 
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(アウシュヴィッツの死の工場の見取り図)
 ナチスが集団殺戮の重犯罪をおこなった場所を赤で示している。つまりそれは処刑場やガス室、焼却炉、野外の死体焼却場である。
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((人間の髪の毛で作られた生地「アウシュヴィッツ インフォメーション」より)
 アウシュヴィッツの収容所が解放されると、ソヴィエト軍は倉庫で袋詰めされた約7トンの髪を見つけた。それは収容所当局がドイツ第三帝国内の工場へ売って納品するのに間に合わずに残されていたものであった。専門家の分析によると、見つかった髪からチクロンに毒性をもたらすシアンの反応があった。人間の髪の毛からドイツの会社は生地を生産していた。また、殺された人々の死体から抜かれた金歯は延べ棒にされ、SS中央衛生管理局に送られた。人間の骨粉は肥料として使ったり周辺の池や川に撒いて捨てた。
 追放された人々が収容所に持ってきた財産は分別して倉庫に保管したあと、SSやドイツ国防軍、一般市民のためにドイツ第三帝国内へ運ばれた。ガス室で殺された人々の持ち物は収容所のSS隊員も利用した。略奪した財産は定期的に鉄道で配送されたが、倉庫はいつも溢れていた。
 
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(被収容者の写真)
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(被収容者の写真)
 新たに到着した者の服やあらゆる私有物を取りあげ、髪を切ってシャワーを浴びせ消毒した後、囚人番号を与えて登録した。初期の頃、被収容者は三面から写真を撮られた。1943年に刺青をを入れた写真が展示されていた。ナチスの収容所で囚人番号を被収容者に刺青したのは、アウシュヴィッツ強制収容所だけであった。しかし、大量に送られてきたユダヤ人には写真は写されなかったと書かれている。
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(囚人番号が刺青されている写真)
 逮捕の理由によって被収容者は様々な色の三角印で識別され、囚人番号とともに囚人服に縫い込まれた。被収容者の一部が付けた赤色の三角印は政治犯を示すものであった。ユダヤ人の被収容者は、彼らの逮捕理由にあわせた三角印に黄色の三角印をあわせて作ったものを受け取った。クロの三角印はロマとナチスに反社会的分子と扱われた被収容者だった。エホバの商人に紫の三角印を付与し、同性愛者はピンク、刑事犯罪者は緑だった。
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(被収容者らの逮捕理由により色分けされた三角印)
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(展示されていた囚人服)
 縞模様の薄い囚人服では寒さから被収容者を守れなかった。下着は何週間ごと、いや何ヶ月ごとに交換ということさえあって、洗濯はできなかった。そのことが様々な伝染病が流行する原因となった。とくにチフスと疥癬(かいせん)が流行った。
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(被収容者の食事)
 被収容者用の日常の摂取量は約1,300~1,700キロカロリーで、朝は500ccの「コーヒー」と呼ばれた飲み物、または草を煎じたもの、昼は約1リットルのしばしば腐りかけた野菜で作ったスープ。夜は約300~350gの粘土みたいな黒パンにわずかな量の添加物(例えば20gのソーセージ、または30gのマーガリンかチーズ)と草を煎じたもの、または「コーヒー」だった。
 重労働と飢えは身体がひどく衰弱する原因となった。被収容者の栄養失調はしばしば死に至らしめた。
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(解放されたときには23~25キロの体重だった被女性収容者の写真)
 アウシュヴィッツでは子どもたちもまた大人と一緒に収容所で過ごした。とりわけユダヤ人やロマでポーランド人やロシア人もいた。収容所は彼らを大人と同じく扱った。ユダヤ人の子どもの大部分は到着後すぐにガス室で殺された。収容された者は他の人と同じく厳しい規律の下に置かれた。子どもたちのなかで、例えば双生児などは医学実験の材料にされた者もいた。他の者は重労働を強いられた。
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(ソ連軍によって解放された子どもたちの写真)
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((選別前の様子)
 各地から集められたユダヤ人たちは、家畜などを運ぶ貨車に積み込まれアウシュヴィッツにやってくると、SS(親衛隊)将校と医師がユダヤ人の選別をおこない、労働のために収容するか、働けないとみなしてガス室へ送るかを決めた。ルドルフ・フスの証言によれば、到着した人々の70~75%がガス室へ送られた。この写真は追放されたユダヤ人の集団が二隊列に分けられている。右手に男性、左手に女性と子どもたちが立っている。
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(鉄道用荷下ろし場に着いたハンガリーのユダヤ人、奥に焼却炉の煙突が見える)
 アウシュヴィッツ強制収容所で殺戮の対象となったユダヤ人の大多数は、ヨーロッパ東部に「移住」のための輸送と信じてやって来た。とくにナチスはハンガリーやギリシャのユダヤ人をだまし、ありもしない住宅用建設用地や農地、商店を販売し、架空の生産工場の労働を提供した。そのため、収容所へ殺戮のために送られた人々は大切な財産を持ってきた。
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(野外焼却場などの模型)
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(地下の脱衣場などの模型)
 選別後にSS隊員は全員に入浴が待っているように信じさせたので、彼らは落ち着いて地下の脱衣場に入っていく様子がわかる。服を脱ぐように命じて浴室に見せかけた2番目の地下へ追い立てた。天井にはシャワーが取り付けてあったが、水が出たことはない。210㎡の空間に約2千人を入れ、ガス室の扉を閉めるとSS隊員が天井の穴からチクロンBを投入した。チクロンBは「デゲッシュ」社が製造し、1941年~1944年の間に30万マルクほど販売し利益を上げた。アウシュヴィッツだけで1942年~43年の間に2万キロのチクロンBが使用された。ヘスの発言によれば、約1,500人を殺すために5~7キロのガスが必要だった。解放後、収容所の倉庫でチクロンBの使用済み空き缶の山が見つかり、中身が入ったものさえあった。
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(チクロンB)
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(チクロンBが入っていた空き缶)
 人々は15~20分で死んだ。死体から金歯が抜かれ、髪を刈り、指輪やピアスを取り去ると、1階にあった焼却場の炉へ死体を運んだ。焼却が間にあわない場合は野外で焼いた。
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(死体からとった義足)
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(死体からとった靴)
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(没収されたトランク)
 
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 私たちは午前11時30分にレストランで早めの昼食をとり、午後1時よりバスでアウシュヴィッツへと向かった。この日の午後の行動は、自由行動となっており、アウシュヴィッツ見学はオプショナルツアーであるが、このツアーに参加しなかったのは1人だけであった。
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(アウシュヴィッツ)
 アウシュヴィッツはドイツ名であり、ポーランド語ではオシフィエンチムである。この地はクラクフの西54㎞にある地方都市であった。なぜナチスはこの地に強制収容所を建設したのか、その理由の第一はこの地には戦前から廃墟となった軍舎があったこと。つまりこの軍舎を強制収容所として利用できると考えたからである。第二にそこは市街地から離れていて拡張と隔離が可能であったこと。第三にこの地が鉄道の要衝で輸送に適していたことである。
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(アウシュヴィッツ)
 収容所設立の命令が1940年4月に出ると、所長にルドルフ・ヘスが任命された。1940年6月14日ゲシュタポ(秘密国家警察)は最初の被収容者、ポーランド人728名の政治犯をタルヌフの刑務所からアウシュヴィッツへ送った。
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(ポーランド人728名の政治犯が収容所に鉄道で送られている写真)
 この収容所は厨房と管理棟をのぞいて合計2階建て28棟となった。1942年に一時期2万人以上に達したことがあったが、平均被収容者数は13,000~16,000人であった。
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(このような棟が28棟並んでいる)
 アウシュヴィッツ強制収容所はポーランド人や諸民族の最大の収容所であり、監禁や飢餓、重労働、生体実験や集団的または個別的に即刻の処刑を強いた。1942年から収容所は最大のヨーロッパのユダヤ人虐殺施設となった。アウシュヴィッツに連行されたユダヤ人の大部分は登録や囚人番号なく到着後すぐガス室で殺された。そのため正確な犠牲者数を定めることは難しいが、現在の研究では犠牲者の数は約150万人であるとされている。
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(収容所正門)
 私たちは現在博物館となっている収容所跡の門を通って中に入った。この門には「ARBEIT MACHT FREI」というドイツ語が書かれている。「働けば自由になれる」という皮肉な文字である。被収容者はこの門を通って毎日労働に出かけ、十数時間後に戻ってきた。文字には「ARBEIT」の「B」が上下逆さまに、つまり上の方がおおきくふくらんでいる。これは被収容者が作らされたものだが、せめてもの抵抗のあかしとしてこのように作ったという説がある。
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(収容所正門)
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(収容所の様子を描いたスケッチ)
 正門を通って戻ってきた被収容者は、厨房の横で収容所の楽団が被収容者の行進を整頓してSS(親衛隊)の人員点呼を容易にするためマーチを演奏させられた。
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(楽団が演奏している写真)
 現在、厨房所のあった横には楽団が演奏している写真が掲げられていた。そこには1941年SSが撮った写真であると書かれている。
 収容所建設の動機には、シレジア地方の刑務所が被収容者で溢れていたことが挙げられる。収容所にはユダヤ人だけでなくロマ(ジプシー)やソ連軍の捕虜もいた。
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(ロマが連行されている写真)
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(1941年のソ連軍捕虜の写真)
 
 

 
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(ヴァヴェル城)
私たちはヴァヴェル城をあとにして、次の目的地であるシンドラーの工場へとバスで向かった。
 映画「シンドラーのリスト」で有名となったオスカー・シンドラーは、1908年に当時オーストリア・ハンガリー帝国領だった、モラヴィア(現チェコ)に生まれた。彼の家系はドイツ系であり、27歳でズデーテン地方のドイツ民族主義的な政党に、そして35歳でナチスに入党したが、その年の1939年にドイツはポーランドに侵攻した。彼は一儲けを企んでクラクフにあるホーロー容器工場を買い取ったが、その工場はドイツ軍の厨房用品を製造して急激な成長を遂げ、巨大なホーロー容器工場にして、軍需工場に成長していった。 当初は安価な労働力としてゲットーのユダヤ人を雇い入れたが、クラクフ近郊にある収容所でユダヤ人が次々と殺戮されていくのを知り、彼の心境は変化していった。1944年に入ってソ連軍の反撃が始まり、シンドラーの工場の閉鎖が決定された。そこで働いていたユダヤ人がアウシュビッツに送られ殺害されることを察したシンドラーは、故郷であるチェコのズデーテン地方へユダヤ人を連れていくことを決心した。所持していた多額の財産を利用して一人でも多く救い出そうと、連れていくユダヤ人たちの名前を記載したリストを作成したが、その人数は1200名近くにのぼった。
 彼が経営した工場跡が、クラクフ歴史博物館として2010年6月にオープンした。
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(クラクフ歴史博物館の入口に書かれてある案内)
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(工場で働いていた労働者の写真)
 歴史博物館は、1939年から45年までのナチス占領下のクラクフをテーマとしている。
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(展示されていた写真 ナチス占領前のクラクフの紳士・淑女が映されている)
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(クラクフの町がナチスの占領下に入ったことが、ナチスのシンボルであるハーケンクロイツの旗が飾られていることでわかる)
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(ナチスがクラクフの大学教授などの知識人を連行している様子)
 現地ガイドのリチャードによると、クラクフでのナチスによる迫害の初めは、大学教授などの知識人に対してであったと教えてくれた。この絵画は1939年11月6日におこなわれた知識人の連行の様子が描かれてる。
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(処刑された人々)
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(迫害から身を守るため、できるだけ息をひそめて隠れるように暮らすユダヤ人家族の様子を再現。)
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(工場で生産されていたホーロー容器)
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(シンドラーが使っていた机や書類)
 私たちは歴史博物館となっているシンドラー工場跡を見学した後、昼食のために近くのレストランへと向かった。途中に、ユダヤ人ゲットーとなっていたカジミエシュ地区を歩いた。
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(カジミエシュ地区に残るゲットーの壁か?)
 カジミエシュという名前は、14世紀にポーランド国王として君臨したカジミエシュ3世に因んでつけられている。彼の手によってこの町がつくられたのである。国王はポーランドの領土を拡大させただけではなく、内政にも取り組み、ポーランドの経済を発展させた人物であり、大王とも呼ばれている。彼は当時ヨーロッパ各地で迫害されていたユダヤ人を保護したため、彼の時代にユダヤ人がクラクフに移り住み商工業の発展に寄与した。ところが、15世紀末にクラクフでユダヤ人の迫害が起こり、クラクフからユダヤ人がカジミエシュ地区にたくさん住むようになったのである。
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(50ズローチに描かれているカジミエシュ大王の肖像画)

 
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 ポーランドでは19世紀の終わりまで女性は大学で学べなかったが、現在では大学生の70%が女性である。クラクフは大学の町で、20万人が学生である。ポーランドの大学進学率は50%、また国立大学は50%もあり、授業料は無料だとリチャードが教えてくれた。
 私たちはリチャードの案内でヴァヴェル城へと向かったが、途中に聖フランシスコ教会が見えた。
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(聖フランシスコ教会)
 この教会は1269年、プラハから来たフランシスコ修道会の修道士達によって建てられた、初期ゴシック様式の教会である。14世紀に修道院が建設され、15世紀には教会の母屋が増設されたとのことである。
 しばらく南に向かって歩いて行くと、ようやくヴァヴェル城に到着した。
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(ヴァヴェル城)
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(ヴァヴェル城)
 城壁にはこの修築に寄付した人の名前が書かれていた。
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(ヴァヴェル城の城壁)
 この城は11世紀から16世紀までポーランド国王の居住した場所であり、また敷地内には大聖堂がある。
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(ヴァヴェル大聖堂)
 この大聖堂14世紀から18世紀までの約400年間、ほとんどのポーランド国王の戴冠式を執りおこなったところであるとともに、歴代の国王が眠る墓所でもある。
 私たちは大聖堂には入らず、旧王宮の建物の見学へと向かった。
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(旧王宮)
 周囲を取り巻く建物は、16世紀初頭にジグムント1世が建てたゴシックとルネサンスの複合様式のものである。リチャードの話によると、王宮の3階は他の1・2階よりも高く造られているが、それは3階で公式な行事が行なわれるからである。
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(旧王宮)
 確かによく見ると、旧王宮は3階の方が他の1・2階よりも高く造られているのがわかる。また、ある王が錬金術に熱中し、火事を起こしたことがあるとリチャードが教えてくれた。私たちは王宮にも入らないで、城の南の麓、城壁の最も川べりに近いところにある竜の像を見に行った。
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(ヴァヴェル城)
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(竜の像)
 伝説によると、昔ヴィスワ川に竜が住んでいた。時々町にあらわれて羊や牛を食べたが、とうとう美しい娘まで食べるようになった。そこで国王はこの竜を退治した者に王女との結婚を認めると宣言した。勇敢な騎士たちは竜を退治しようとしたが、皆失敗した。ところが、靴職人の見習いであるスクパが、羊の肉にタールと硫黄を染みこませ、それを竜に食べさせた。のどが乾いた竜はヴィスワ川の水を飲み続け、ついに身体が破裂してしまった。みごと竜を退治したスクパは、王女と結婚したという話をリチャードが教えてくれた。
 「竜が火を噴いた」と誰かが叫んだので、あわててカメラを出して竜が火の噴くところを写真に撮ろうとした。残念ながらその後、私が写真を撮ろうとした時には火を噴かなかった。この竜の像は、竜の洞窟の前に設置されているが、私たちは竜の洞窟も見学しないでヴァヴェル城を後にした。
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 クラクフの旧市街の中心にある中央広場は総面積4万㎡もある。中世からそのまま残っている広場としては、ヨーロッパ最大を誇っている。広場に面して商店やレストラン、カフェなどが軒を連ねている。
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(ヨーロッパ最大を誇る中央広場)
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(中央広場に面する商店やレストラン)
 広場の中央に建っているルネサンス様式の建物は織物会館で長さが100mもある。14世紀に建てられたもので、当時は衣服や布地などの織物の交易所だったことからこの名が付けられた。
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(織物会館)
 織物会館の前に立つ銅像は、ポーランドの国民的詩人アダム・ミッキエヴィッチである。
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(アダム・ミッキエヴィッチの銅像)
 彼は19世紀末に、旧ポーランド東部(現ベラルーシー)地方で生まれた。ロシア帝国の支配からの独立を目指す運動のリーダーの1人として活躍したが、ロシア帝国によって逮捕され、ロシア領内への追放刑を受けた。その地で詩作の才能を伸ばし、1828年には14世紀のリトアニア大公国で活躍したドイツ騎士団についての叙事詩を発表し、その後にポーランドで続いた民族蜂起に思想的な影響を与えた。ロシア出国を認められた後、イタリアやフランスなどで活躍し、ゲーテやショパンなどとの交流も深めた。その後クリミア戦争が起こると、ロシアと戦うためにコンスタンチノープル(現イスタンブール)に移動したが、その地で病没した。彼の母語はポーランド語で、彼自身も基本的にポーランド語で創作活動を行ったが、元々はリトアニア人の家系で、住んでいたのはベラルーシだったため、ポーランド・リトアニア共和国として豊かな文化的土壌によって育まれた。彼はポーランドだけではなく、リトアニアでも国民的詩人として人気を集めていると、ガイドのリチャードが教えてくれた。
 織物会館の隣には、旧市庁舎の塔が建っていた。
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(旧市庁舎の塔)
 1820年に旧市庁舎の建物が取り壊されたときに、この塔だけが残された。塔の上部には、直径3mもある大時計と鷲の像がある。
 次に私たちが見た建物はヤギェウォ大学であった。
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(ヤギェウォ大学)
 この大学は1364年にカジミェシュ3世によって創立された、ポーランド最古の大学である。中央ヨーロッパでは、プラハのカレル大学に次ぐ歴史を持っている。地動説を唱えたコペルニクスも、前ローマ教皇であったヨハネ・パウロ2世もこの大学の出身である。日本語学科は人気があり、私たちがお世話になったポーランドの現地ガイドの何人かもこの大学の出身者である。構内にあるコレギウム・マイウスは、15世紀のゴシック様式を今に伝える貴重な建物である。大学内には自然科学や歴史、薬学に関する7つの博物館もある。
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(ゴシック様式のコレギウム・マイウス)
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(大学の建物にはコレギウム・マイウスの表札があった)
 大学の建物の前にはコペルニクスの像が建っていた。
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(建物の前のコペルニクスの像)
 
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 バスがクラクフに到着したのは午後の7時を過ぎており、私たちはレストランで夕食をとった後ホテルに入った。
(観光3日目)
 私たちは予定より30分早い、午前7時30分にホテルからほとんど徒歩で、世界遺産クラクフの町を観光することになった。
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(クラクフの町 「地球の歩き方」より)
 クラクフの現地ガイドはリチャードというハンサムな人であった。若く見えるが年齢は54歳で、日本語が堪能であった。日本語の勉強をするようになったきっかけは、若い頃に柔道をしたことにより日本に興味を持ち、大学で日本語を専攻するようになった。また、日本には何度も訪れたとのことである。
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(現地ガイドのリチャード)
 リチャードに現代のクラクフやポーランドについて聞いてみた。クラクフの夏は暑く30度ぐらいにはなり、最高気温は38度になったこともある。今年の冬は暖かいらしく、私たちのバスではいつも外気の温度が表示されるが、寒くてもせいぜいマイナス2~3度であった。例年の冬はマイナス14度にはなり、マイナス25度を記録したこともある。クラクフの人口は76万人で、ワルシャワの人口の半分である。ポーランドを訪れる観光客は1000万人で、イタリア人、ドイツ人、イギリス人が多い。平均寿命は女性が81歳、男性が73歳。出生率は1.2%で日本の1.4%よりも少ない。若者の失業率よりも中高年の失業率が高く、200万人もの人が外国へ出てしまったとのことである。とくに医者などの技術を持っている人は、同じ仕事をして高い給料を稼げる外国へと出かけるのである。初任給は500ユーロで、ドイツの4分の1であるが、物価は高くなっているので生活は苦しいらしい。社会主義時代は年金だけで生活することができたが、今は年金だけでは生活ができなくなっており、年配者は社会主義時代の方がよかったと嘆いているらしい。このような話はウクライナやチェコなど、旧共産圏で聞いたことと同じである。
 私たちがクラクフで最初に訪れたのは、バルバカンという要塞である。
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(バルバカン)
 クラクフは11世紀頃から1596年までの約550年間ポーランド王国の首都として栄えた都である。ボズナニが奈良の都になぞらえるなら、クラクフは京都にあたる。ところで13世紀中頃になると、東の方からやって来たモンゴル軍により町は燃やされた。モンゴル軍が撤退した後、クラクフには新たに外敵から守るために城壁が造られた。残念ながら城壁は19世紀に取り壊されて、現在ほとんど残っていない。クラクフの旧市街の北のゲートにあたるフロリアンスカ門は、1300年頃に造られた城門である。
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(バルバカンとフロリアンスカ門)
 この城門を防御するために円形の砦が、1498年に造られたバルバカンである。今日ではヨーロッパに3カ所しか残っていないが、クラクフにあるものが現存する最大のものである。フロリアンスカ門にはポーランドの国章である王冠をかぶった鷲が飾ってあった。
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(ポーランドの国章があるフロリアンスカ門)
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(ポーランドの国章)
 この門を入って、私たちはクラクフの旧市街を見学した。
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(クラクフの旧市街の町並み)
 私たちは旧市街の中央広場へと歩いた。
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(中央広場)
 中央広場の前には、聖マリア教会が建っていた。
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(聖マリア教会)
 この教会は、1222年に造られたゴシック様式の建造物である。残念ながら私たちは教会の中に入ることはできなかったが、以前にこの教会の話をテレビで見たことがある。13世紀にモンゴル軍がクラクフを襲った時、敵襲を告げるラッパがこの教会の塔から吹き鳴らされた。しかしモンゴル兵の放った矢がそのラッパ手ののどに命中し、ラッパ手は絶命した。そのことを悼んで、今でも1時間ごとに塔の上からラッパが吹き鳴らされる。テレビの放送では、ラッパ手の鳴らす音を聞くことができたが、今回の旅行では聞くことができなかった。
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(マリア教会二つの高い建物の中で、右がラッパを鳴らす塔で、左は見張りの建物)
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 私たちのバスは、午後1時過ぎにシヴィドニツァに到着し、この町のレストランで昼食をとった。
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(シヴィドニツァのレストラン)
 シヴィドニツァという町はポーランドの南西部に位置し、シロンスク地方と呼ばれる場所にある。シロンスク地方はシレジアとも呼ばれ、現在のポーランド南西部、チェコ北東部、ドイツ東部一帯を指す。この地方は世界史の教科書にも出ており、私にとってもなじみのある地方である。さて、1618年にドイツで三十年戦争というヨーロッパのほとんどの国を巻き込んだ宗教戦争が起こった。ようやく戦争が終わり、1648年にウエストファリア条約によってこの地方はカトリック派であるオーストリア皇帝ハプスブルク家の支配下に入った。しかし、この地方の住民の90%がプロテスタントであったことにより、この地方のヤヴォル、シヴィィドニツァ、グウォグフ の三カ所に「平和教会」というプロテスタント派の教会を建てることが認められた。グウォグフの教会は後年火災により消失してしまったため現存するのは二つ。ただし、これらの教会の建築には様々な条件が課せられた。
① 耐久性のない建材しか使用してはならない。
② 市壁の外側で、なおかつ大砲の射程距離内になければならない。
③ 伝統的な教会建築様式をとってはならず、塔や鐘も備え付けてはならない。
④ 一年以内に建設し終えなければならない。
 これらの条件は、将来、「平和教会」がプロテスタント派の抵抗の拠点とならないために設けられたものである。このような条件が課されたため、これらの教会は木造で建てられ、一見教会とは思われない、独特の教会となり、現在世界遺産に登録されている。
 私たちは昼食後、「平和教会」の見学へと向かった。
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(「平和教会」の入口)
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(木造の「平和教会」)
 ガイドブックによると、シヴィドニツァの教会はヤヴォルの教会と同様に1655年に完成し、3500本ものオーク材が使われており、現在も95%がオリジナルを留めている。教会には後に建てられたのであろうか、塔も見えている。
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(「平和教会」)
 この教会は、木造建築の教会としてはヨーロッパ最大のものであり、数千人を収容することができる貴重な木造建築でもある。
 私たちは教会の内部に入らしてもらった。私たちが最初に目にしたものは大きな鐘である。
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(内部に置かれていた鐘)
 鐘も備え付けてはならないとされていたが、なぜ鐘がここに設置されていたのかよくわからなかった。
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(教会内部の祭壇)
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(教会の天井画)
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(教会の天井画 イエスと預言者ヨハネを描いているのであろうか。)
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(豪華なホッホベルグ家の専用席)
 この教会建設に大きく寄与したホッホベルグ家は、シレジア地方の大地主であり、鉱山経営により莫大な富を手にした。
 プロテスタント(ルター派)の教会として建てられた「平和教会」であったが、現在この地方のルター派はわずか120人しかいないと現地ガイドさんが教えてくれた。
 世界遺産シヴィドニツァの平和教会を見学した後、私たちはバスでクラクフへと向かった。ここからクラクフへは距離で約290㎞、約4時間30分の行程である。
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 私たちはボズナニ大聖堂を見学した後、旧市街広場を散策した。旧市街広場で最も立派な建物は、旧市庁舎であった。
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(旧市庁舎)
 この旧市庁舎は、13世紀にゴシック様式で建設されたものであったが、第2時世界大戦で焼失し、現在の姿は16世紀のイタリア・ルネサンス様式で再建されたものである。中はボズナニ市歴史博物館として公開されていると、ガイドブックに書かれているが、残念ながら私たちは中にはいることはできなかった。
 ガイドさんの話によると、東の壁面には仕掛け時計がある。
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(旧市庁舎の仕掛け時計)
 毎日正午になると仕掛け時計の窓が開いて、2匹の山羊が現れ角を突き合わせて闘う。旧市庁舎が建てられたときに山羊が現れ、闘ったという伝説にちなんで作られたものである。今では山羊はボズナニの町のマスコットとなり、お土産などに山羊をかたどった製品が売られていた。私たちは仕掛け時計の山羊が現れる正午までこの町に留まることはできなかったので、山羊を見ることはできなかった。
 旧市庁舎の前には、ギリシア風の噴水が置かれていた。
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(旧市庁舎の前のギリシア風噴水)
 旧市街にはきれいな建物が並んでいた。
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(旧市街のきれいな建物)
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(旧市街のきれいな建物)
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(旧市街のきれいな建物)
 私たちはボズナニの旧市街を散策した後、バスでシヴィドニツァへと向かった。ボズナニから約210㎞、約4時間の行程である。
 
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