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5 平氏政権の成立
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

1) 平清盛

 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる者も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前のちりに同じ。」これは有名な「平家物語」の冒頭にでてくる文章である。祇園精舎とはシャカが説法をした場所でインドの地名である。また、沙羅双樹とは夏ツバキのことで、この花の寿命はわずか1日で花の命のはかなさを代表している。このうたは、平氏政権のはかなさを仏教的無常観で表現したものであり、「平家物語」は琵琶法師により日本各地に伝承されていった。
 さて、平治の乱後、平氏は院との関係を強め、政界における勢力を拡大した。清盛は武士としてはじめて太政大臣になり、娘の徳子を高倉天皇の中宮とし、その子の安徳天皇の外祖父(がいそふ)として権力をふるうようなった。以後、一族の子弟を高位・高官につけ、検非違使を支配下に置いて警察権力を掌握するなど「平氏にあらざるは人にあらず」と平時忠(たいらのときただ)が放言したような全盛期がもたらされた。

2) 経済的基盤
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(東京書籍「図説日本史」より)

 また清盛は、多くの知行国と500余の荘園を獲得して財政基盤を確保するとともに、一族や家人をその国司や荘官に任命して国衙や在庁の武士団との結びつきを強めた。さらに日宋貿易にも力をそそぎ、11世紀後半以後も高麗や南宋との間で活発な民間貿易が行われた。そのため、摂津国の大輪田泊(おおわだのとまり)を修復するなど瀬戸内海航路の安全をはかった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

3) 平氏政権の性格
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(東京書籍「図説日本史」より)
 
 平氏政権は、政治的地位や経済的基盤において貴族的な性格を残していた。しかし、畿内・近国や西国の武士団との間に主従関係を結び、それらを権力の基盤にしているなど武家政権への過渡的な性格を持っていた。


 
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 第16回日本史講座は3月28日(土)午後2時より受講者8名で行われました。
4 保元・平治の乱
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(東京書籍「図説日本史」より)

1) 保元の乱
 12世紀半ばになると、天皇家や摂関家の内部で皇位や「氏の長者」の地位をめぐる対立が激しくなった。天皇家では父の鳥羽法皇と子の崇徳(すとく)上皇が、摂関家では兄で関白の藤原忠通(ただみち)と弟で左大臣の藤原頼長(よりなが)がそれぞれ対立した。やがて、鳥羽法皇により後白河天皇が即位すると、弟の後白河天皇と兄の崇徳上皇の対立に、忠通・頼長の兄弟争いが結びついて、政界を二分する激しい争いとなっていった。
 1156年、鳥羽法皇が亡くなると、崇徳上皇側は、源為義(ためよし)・源為朝(ためとも)・平忠正(ただまさ)らの武士を見方にして天皇側を討とうとしたが、逆に源為朝の長子義朝(よしとも)・平忠正の甥清盛(きよもり)ら後白河天皇側の攻撃によって敗退したが、これが保元の乱である。
2)平治の乱
 保元の乱後、武士の進出はめざましく、なかでも平清盛と源義朝の勢力は強大であった。清盛は院の近臣である藤原信西(しんぜい)と結んで勢力をはったのに対して、源義朝は藤原信頼(のぶより)と結んだ。
 1159年、義朝と信頼は、清盛が熊野参詣に出た留守をねらって兵を挙げ、信西を捕らえて自殺に追い込み、後白河上皇を宮中に幽閉した。しかし、清盛の反撃にあって敗北し、義朝は殺され、その子頼朝(よりとも)は伊豆に流されたが、これが平治の乱である。
 保元の乱で貴族の争いに利用された武士は、平治の乱では彼らの対立が戦乱の原因の一つになるほどとなった。この乱ののち、平氏の勢力は急速に伸び、数年後には早くもその全盛期を迎えるのである。
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(東京書籍「図説日本史」より)
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3 荘園公領制の確立
1) 荘園公領制の確立期
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(三省堂「日本史B」より)
 
 鳥羽院政期にあたる12世紀前半ころには、寄進地系荘園の数は増え、各国では荘園と国衙領があいなかばするほどとなった。この割合は鎌倉時代になっても変わらなかったため、鳥羽院政期のころに中世社会を支える荘園公領制が確立したとされている。
2) 知行国制
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 
 このころ地方政治においては知行国制度が広まってきた。知行国とは、皇族や上級の貴族、寺社などに対して、国司を推薦する権利を与え、その国からの租税収入をある期間得させる制度である。国務の知行権を与えられた者を知行国主とよび、知行国主が国司となるのではなく、現地へは目代(もくだい)と称する代理を送り、知行国主は、そこからの収入のほとんどを獲得した。その後、院が知行国の分配権を握るようになり、知行国制は院政の重要な財政基盤となった。
3) 荘園の経営と負担
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(東京書籍「図説日本史」より)
 
 荘園では、田堵(たと)にかわって名主(みょうしゅ)が農業経営の中心となった。荘園の耕地はいくつかの名田(みょうでん)に分割され、名主が耕作と納税の責任を負った名田を百姓名(みょう)といい、名主は家族や下人を使って耕作し、荘園領主に年貢と公事(くじ)を納入した。年貢は名田にかかり、米が一般的であったが、荘園によっては絹・綿・布の繊維製品や、塩・鉄・砂金などを納めさせた。公事は、田地のほかに山林・畑地・屋敷などにも課され、労役である夫役(ぶやく)も負担させた。

 次回の第16回日本史講座は3月28日(土)午後2時より行います。
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2 院政の展開
1) 鳥羽上皇
 鳥羽上皇は院の権力と経済基盤を強化するために、院長下文(いんちょうくだしぶみ)や院宣(いんぜん)によって荘園を許可するなど荘園整理に消極的であったため、院への荘園の寄進が増大した。
2) 権門勢家への荘園集中
 摂関家は藤原氏の「氏の長者」が代々継承する所領である殿下渡領(でんかのわたりりょう)を中心とする荘園群をつくりあげ、大寺院・大神社もまた、白河・鳥羽・後白河の三上皇の保護を受けて、多くの荘園を集めた。そのため、この時期に荘園は急速に拡大した。
3) 売位売官
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(東京法令「図説日本史」より)
 三上皇は仏教を崇拝し、出家して法皇となった。そして造寺造仏事業がたびたび行われたので、その膨大な費用の調達のために成功(じょうごう)や重任(ちょうにん)などがますます盛んとなった。特に白河天皇以後の天皇家によって、法勝寺(ほっしょうじ)・尊勝寺(そんしょうじ)など「勝」の字がつく六勝寺(りくしょうじ)が建立された。
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(東京法令「図説日本史」より)

 このころ、興福寺や延暦寺などの大寺院や大神社は、荘民や下級僧侶からなる僧兵や神人(じんにん)を組織して、神木や神輿(みこし)をかついで朝廷に強訴(ごうそ)し、実力で権益を獲得していった。
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(東京法令「図説日本史」より)

 白河上皇は「天下不如意(てんかふにょい)」つまり自分の思い通りにならないものとして、鴨川の水、双六の賽(さい)、山法師(やまほうし)をあげて嘆いている。鴨川の水とは洪水のことで、造寺造仏などによって森林を伐採したことが、洪水を引き起こしたのであり、双六の賽とはバクチのことで、このころ社会不安が拡大してバクチが流行っていた。また山法師とは延暦寺の僧兵を指している。
 寺院や神社の武力に対抗するため、朝廷や院は武士を起用した。そのため、武士の棟梁(とうりょう)の中央政界への進出が一層進んだ。なかでも、平正盛(まさもり)の子の平忠盛(ただもり)は、鳥羽院政期に瀬戸内海の海賊鎮圧などに活躍して西国の受領を歴任し、日宋貿易に力をそそいで平氏繁栄の基礎を築いた。
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 第15回日本史講座は3月14日(土)午後2時より、受講者9名で行われました。
 Ⅰ 院政と平氏政権
1 院政の開始
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(東京書籍「図説日本史」より)

1)後三条天皇
 摂関家の藤原頼通(よりみち)の娘に皇子が生まれなかったため、摂関家を外戚としない壮年の後三条天皇が即位することとなった。天皇は、藤原氏に不満を持っていた中・下級貴族らの支持を得て、学者の大江匡房(おおえのまさふさ)らを登用して親政を復活させた。
 1069年、後三条天皇は、荘園の拡大で公領が減少したため、荘園整理令を出して摂関家領をはじめとするすべての荘園を中央で調査し、不法なものを没収して公領の回復につとめた。朝廷に記録荘園券契所(記録所)を設置して荘園領主から関係文書を提出させ、基準にあわない荘園を整理するという徹底したもので、摂関家や寺院・神社も例外ではなかった。
 さらに天皇は、全国の耕地の調査を行うとともに、不ぞろいであった升(ます)にかえて一定して計量の単位を統一した。これを宣旨枡(せんじます)といい、その後の升の基準として広く用いられることとなった。
2) 白河天皇
 白河天皇も父の後三条天皇の政策を受けついで政治をすすめたが、1086年、わずか8歳の堀河天皇に位をゆずり、上皇となった。これは、摂関家や先例などの政治的制約の少ない上皇の立場を利用して、天皇家の権力の強化をめざそうとしたためであったがこれが院政のはじまりである。
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(東京書籍「図説日本史」より)
3) 院政
  院政は白河天皇ののち、鳥羽(とば)・後白河両天皇にも引きつがれておよそ100年あまり院政がつづくこととなった。
 白河上皇は、富裕な受領を官位によらず院の近臣に登用したり、北面の武士に平正盛など畿内近国の武士を組織するなど、慣例や先例にとらわれない政治をおこなった。
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(東京書籍「図説日本史」より)
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3 大武士団の形成
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

1) 武士団
 在庁官人のなかには、紛争の解決のために一族や農民を武装させ、武士団にまとめあげる者が現れた。このような武士団や、10世紀頃から追捕使などとして活躍してきた小武士団を統合し、武家の頭領になったのが、清和源氏(せいわげんじ)と桓武平氏(かんむへいし)である。
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(東京書籍「図説日本史」より)

2) 源氏と平氏
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 源氏は源経基(みなもとのつねもと)を祖とし、その子の満仲(みつなか)が安和(あんな)の変などで活躍して中央政界での地位を高めた。その後、満仲の子の源頼信(よりのぶ)は、1028年に上総(かずさ)を中心に起こった平忠常の乱を平定し、源氏が関東に勢力を伸ばす基礎をつくった。平氏は将門の乱・平忠常の乱のあと、関東での勢力を衰退させたが、平貞盛(さだもり)の子の維衡(これひら)が伊勢国司に任命され、伊勢・伊賀両国の北部に勢力を広げ、維衡の3代あとの平正盛(まさもり)が白河上皇に北面の武士として登用され中央政界進出への足がかりをつくった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
3) 前九年の合戦・後三年の合戦
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 源氏は、1051年、陸奥(むつ)の安倍頼時(あべのよりとき)が国司に従わず勢力を拡大すると、頼信の子の源頼義(よりよし)と孫の源義家(よしいえ)が出羽の清原氏の援助をえて、1062年にこれをおさえたがこれを前九年の合戦(ぜんくねんのがっせん)とよぶ。さらに1083年、源義家は、奥羽に勢力を拡大していた清原氏の内紛に乗じて介入し、清原氏一族である藤原清衡(きよひら)を助けて、清原氏も滅ぼしたが、これを後三年の合戦(ごさんねんのがっせん)とよぶ。以後、奥羽では平泉に本拠地を置いた清衡が支配権を確立し、藤原基衡(もとひら)・藤原秀衡(ひでひら)の3代にわたって栄華をきわめたが、これを奥州藤原氏とよんでいる。
 東国の武士のなかには、義家と主従関係を結ぶ者が増え、所領を義家に寄進してその保護を求める者も多く現れ、義家を統領とする源氏の大武士団が形成された。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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 第14回日本史講座は2月28日(土)午後2時より10名の受講者の参加で行われました。
 第6章 古代から中世へ
 新しい章の題名が「古代から中世へ」ということで、講座の初めに時代区分についてかなりの時間を割いて説明した。
 私が使っている教科書「三省堂 日本史B」でも時代区分は、原始・古代・中世・近世・近代・現代となっているが、ほとんどの教科書でもこのような時代区分が行われている。受講者に原始とはどのような時代かを問うてみたが、なかなか答が返ってこなかった。原始時代とは貧富や階級のない社会であり、階級が生まれて国家が誕生した頃から古代社会へと移行すると私は答えた。古代から中世への移行についても質問したが難しかったようだ。私は古代から中世の移行は、平安から鎌倉時代だと答えると、平安時代が古代に入るとは思わなかったという感想が受講者の中から出てきた。さらに中世から近世、近代、現代の時代区分について説明し、さらに世界史でも時代区分の説明をしたがここでは省略する。
 説明が終わったあとで受講者から、時代区分の指標となるものは何なのかという鋭い質問が出された。これについて私はマルクスの古代奴隷制、中世農奴制、近代資本主義というとらえ方があると紹介しておいた。
Ⅰ 荘園公領制の展開
1 大名田堵の登場と開発の推進
 平安時代後期になると、次の時代への新たな動きがはっきり現れるようになった。なかでも、田堵は農業生産をにない、次の時代へ移行する原動力となった。田堵の堵は垣根という意味で、荘園の一部を垣根で区画して請作(うけさく)したところからこの名がある。田堵は現地での農業生産の担い手として、荒廃田や灌漑施設の開削(かいさく)や整備を進めた。田堵のなかには隷属農民を従えながら村落を形成して大規模な耕作地を持つ大名田堵とよばれる有力者も現れた。
 このような大名田堵や地方豪族は、荒廃田や原野の開墾を国司に申請し、定額の年貢を納める条件で開発した。彼らはしだいに耕作地を私領化して開発領主へと成長した。開発領主は、それらの耕地を周辺の農民に耕作させて地代をとるという新しい経営方式によって、経営規模をさらに大きくしていった。
2 国衙領と荘園
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(東京法令「日本史のアーカイブより)
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(東京書籍「図説日本史」より)

1) 新しい徴税方式
 朝廷は、開発領主らによる私領の形成を好ましく思わなかった。しかし、11世紀中頃になると、財源不足から、開発領主らによる私領化を認める代わりに、公田と同じ額の年貢を徴収するように方針を転換し、私領と公田をあわせて公領(国衙領)として編成しなおした。
 国衙は、開発領主の私領を中心に、公領を郷(ごう)・保(ほ)という新たな行政単位に分け、開発領主を郷司職(ごうじしき)・保司職(ほじしき)などに任命して、開発の推進と徴税を請け負わせるようにした。開発領主は、この権限を利用して、領域内の農民や村落に対する支配を確立していった。そして、彼らはその職を代々世襲し、多くは国衙の行政を担当する在庁官人(ざいちょうかんじん)となった。

2) 寄進地系荘園の成立
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(東京書籍「図説日本史」より)
 開発領主のなかには、在庁官人にならず、自分たちの権益を国衙の支配や他の領主の侵害から守るために、自分が荘官になり現地での支配を続けることを条件にして、私領を貴族や寺院・神社に荘園として寄進する物も現れた。
 寄進を受けた貴族や寺院・神社は領家(りょうけ)とよばれたが、その地位を安定させるために、さらに上級の貴族らに寄進した。それを本家8ほんけ)といい、権門勢家(けんもんせいけ)とよばれる天皇家や摂関家・大寺院・大神社などに集中した。こうした寄進によって成立した荘園を寄進地系荘園(きしんちけいしょうえん)といい、寄進を受けた領家や本家を荘園領主とよんでいる。
 官省符荘(かんしょうふしょう)として租税免除の特権(不輸の権)を獲得した荘園では、それを根拠に、国衙(国司)が徴税を行うために田地を調査する検田使(けんでんし)や追捕使(ついぶし)の立ち入りを拒否する不入の権を獲得することもあった。このように、田堵の農業経営の拡大から生まれた荘園と国衙領(公領)からなる土地制度を荘園公領制とよんでいる。
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(東京書籍「図説日本史」より)
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3 平安時代の生活文化
1) 衣服
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(三省堂 「日本史B」より)

 平安時代は貴族の華麗な都市文化が発展するにつれて庶民の衣服や生活様式にも変化がみられた。衣服では、庶民は麻布を衣料として使い、活動しやすいように男性は烏帽子(えぼし)をつけ直垂(ひたたれ)を着用するのが普通となり、女性は単衣(ひとえ)を着ていた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 貴族は唐物(からもの)とよばれた絹織物をさかんに用い、男性は唐風の装束を日本風に改良した束帯(そくたい)を公用服とし、日常は直衣(のうし)や狩衣(かりぎぬ)を身につけた。女性はのちに十二単(じゅうにひとえ)といわれる女房装束を用い、ふだんは小袿(こうちぎ)を着た。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

2) 食事
 食事は、強飯(こわいい)に、副食として保存食を中心とした乾物(かんぶつ)を朝と夕に2回とるのがふつうであった。また仏教の浸透とともに、貴族の間に獣肉を忌(い)む習慣が広がった。
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(東京書籍「図説日本史」より)

3) 住居
 貴族は、庭園をそなえ、桧皮葺(ひわだぶき)の屋根と白木の柱をもつ日本風の寝殿造りに住んだ。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 部屋は移動式の家具で仕切られ、天井はなく、全体として夏向きにつくられ、照明や暖房は貧弱で冬は住みづらかった。寝るときは畳を敷物にして、ふすまに衣をかけて寝た。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 庶民の住居は、東国では12世紀ころまで竪穴住居がつづいたが、掘立柱(ほったてばしら)式の家屋が多くなり、寝るときは藁(わら)やむしろ・薦(こも)を使った。結婚すると夫はまず妻方に居住することが多く、のちに新居に住むこともあった。また墓地は住居から遠くへだたった場所につくられた。

4) 年中行事・娯楽
 収穫の祭である新嘗祭(にいなめさい)などの農耕儀礼が宮中の節会(せちえ)にも取り入れられ、年中行事として定着し、神事の神楽(かぐら)も行われた。
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(東京書籍「図説日本史」より)

 石合戦や物合(ものあわせ)などの遊戯も流行し、貴族は作歌の優劣を競う歌合(うたあわせ)や貝合(かいあわせ)を娯楽とした。

 
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 第13回日本史講座は2月14日(土)午後2時より受講者10人で行われました。まとめが遅くなったのは、「ポーランド旅行記」を終えてからと考えていたからです。「ポーランド旅行記」は24回でやっと終わりましたが、皆さん旅行記もぜひ読んで下さい。

1 国風文化の繁栄(つづき)
 『小学館 日本の歴史8 王朝貴族』の著者である村井氏によると、国風文化という呼び名は正しくないと指摘する。教科書には「唐の文化を日本の風土や感情に適合させた、貴族を中心とする洗練された文化が花開いた。これを国風文化とよんでいる。」(三省堂 日本史B)と書かれている。9世紀の弘仁・貞観文化を唐風文化と呼ぶのに対してこの名が付けられているのだが、当時一般的に「国」と呼ぶのは「河内の国」や「播磨の国」というように、律令制の国・郡・里の「国」を指す。だから国風という言い方は良くなくて、「和風」や「大和風」と呼んだ用がよいと指摘している。しかし、ここでは教科書通り「国風文化」とそのままにしています。

5) 文学
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(東京書籍「図説日本史」より)
 このころ漢文学への深い理解にもとづいて、仮名書きの物語や日記などもつくられるようになった。『竹取物語』はかぐや姫や5人の求婚者を描き、「物語のできはじめの租」と賞賛された。成立は9世紀から10世紀初め頃だとされている。紫式部が書いた『源氏物語』は、光源氏の愛の遍歴を通して宮中での人間関係を描いた作品で日本文学史上最高の傑作とされている。清少納言の『枕草子』は貴族の生活や自然を鋭敏な視点でとらえた随筆である。『土佐日記』は紀貫之が土佐守の任期を終えて帰京するまでを記した日記文学で、後の女流文学に大きな影響を与えている。
 ところでなぜこのころに女流文学が花開いたのか。その答のひとつは女性の地位が当時相対的に高かったということがあげられる。しかし最も重要な理由は、高い教養を持った女性が必要とされたからであろう。紫式部や清少納言は、中・下級の貴族の娘で宮中の家庭教師として雇われていた女官であった。なぜ家庭教師が必要かというと、藤原氏など上級貴族は自分の娘を天皇の后として送り込む必要があり、そのため娘に高い教養を身につけさせる必要があった。当時の男女の結びつきは手紙のやりとりから始まり、男性の気を引くためには高い教養を必要としたからである。

2 浄土信仰の広がり
1) 貴族社会
 摂関政治の長期化で政治が形式化するなかで方違(かたたがえ)や物忌(ものいみ)陰陽道(おんようどう)などが流行し、儀式や行動の吉凶を占うようになった。方違(かたたがえ)というのは、外出や帰宅の際に目的地に特定の方位神がいる場合に、いったん別の方角に行って一夜を明かし、翌日にちがう方角から目的地へ向かう。また、物忌(ものいみ)とは、ある期間中にある種の日常的な行為を控え、汚れを避けることで、具体的には、肉食や匂いの強い野菜をさけ、他の者と火を共にしないなどの禁止事項がある。陰陽道(おんようどう)は、古代中国の哲学思想で、陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)にもとづいて、方角や時間によって儀式や行動の吉凶を占った。
2) 浄土信仰
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(三省堂「日本史B」より)

 このころ、社会の不安から逃れようとする人びとのなかに、阿弥陀仏の救いにより、極楽浄土に往生(おうじょう)することができると、来生の幸福を説く浄土信仰が広まった。
 10世紀中頃、民間では聖(ひじり)とよばれた正規の寺院から離れ、民衆教化につとめた僧侶が現れた。とくに空也(くうや)は庶民に念仏勧進(かんじん)を行って、市聖(いちのひじり)とよばれた。さらに天台宗の僧侶源信(げんしん)は『往生要集(おうじょうようしゅう)』をまとめ、多くの教典のなかから、地獄や極楽のありさまを示して、念仏による極楽往生を説いた。
3) 末法思想
 仏教では釈迦入滅後、しだいに仏教が衰え、釈迦の教えが行われなくなる時代が来るという仏教史観がある。教(教説)・行(実践)・証(結果)のそろっている正法(しょうほう)の時代が1000年(一説に500年)、教・行のみの像法(ぞうほう)1000年、ついで教のみの末法万年がやってくるという。日本では平安末期、1052年に末法に入ったと信じられた。
4) 仏教美術
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(平等院鳳凰堂 東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 極楽浄土を願うために、阿弥陀堂の建立が流行し、藤原頼道が建立した平等院鳳凰堂はその代表である。
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(東京書籍「図説日本史」より)
 数多くの阿弥陀仏がつくられたが、なかでも定朝(じょうちょう)が寄木造(よせぎづくり)ので優美な和様を完成し、彼が制作した平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像は柔和な美しさをかもし出している。
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(平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像 東京書籍「図説日本史」より)
 
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(遠くから見た王宮広場)

 王宮広場の見学後私たちはトイレ休憩となったが、休憩所から王宮広場がきれいに見えた。王宮の横には美しい教会が建っていたが聖アンナ教会である。
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(聖アンナ教会)

 この教会は1454年にベルナルド会の修道院として設立されたもので、当初はゴシック建築であったが、後に新古典主義に建て替えられた。横の細長い建物は16世紀にルネサンス建築の鐘楼として増築されたものである。
 私たちはバスで最後の見学地であるワジェンキ公園へと向かった。バスは昨日通ったクラクフ郊外通りを走ったが、そこには大統領官邸やワルシャワ大学などが並んでいた。昨日見られなかったコペルニクス像がポーランド科学アカデミーの前に立っていた。
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(ポーランド科学アカデミー前のコペルニクス像)

 バスに乗って15分ほどでワジェンキ公園に着いた。この公園はヨーロッパで最も美しい公園のひとつに数えられているが、18世紀にポーランド最後の王となったアウグスト2世によって1766年から30年もの歳月をかけて造営された公園である。公園の中には王の夏の離宮として建てられたワジェンキ宮殿、別名水上宮殿がある。ワジェンキとは「浴場」の意味で、公園内にすばらしい浴場がたくさんあったからそう呼ばれるようになった。
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(後ろから見たワジェンキ宮殿)
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(前から見たワジェンキ宮殿)

 公園に入ってすぐに目についたのがユゼフ・ピウスッキ像である。
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(ユゼフ・ピウスッキ像)

 現地ガイドのアレキサンドラさんによると、彼は「ヴィスワ川の奇跡」で活躍した英雄で、後にポーランド共和国の初代国家元首、国防相、首相となった人物であると教えてくれた。
 「ヴィスワ川の奇跡」とはロシア革命後の干渉戦争と内戦の混乱に乗じて、ポーランドがソ連に侵攻したが、1920年4月以降は赤軍が反撃を開始し6月にはワルシャワを包囲した。しかしユゼフ・ピウスッキ率いる騎兵部隊により、ポーランド軍は奇跡的に赤軍を撃破することができたのでこの名がある。彼は1926年にクーデターにより独裁者となり、国家元首や国防省、首相となったが、今でも国民の人気は非常に高い。
 彼と日本との関係は深く、資料によると「兄のブロニスワフと共に、ユゼフも日本と深い縁があった。日露戦争下の東京へ、ポーランド軍蜂起の計画書や日本とポーランドの同盟案の覚書を持参してきた。政府による大規模な協力は得られなかったが、日本に対しては好印象を持ち続け、後の独裁者の地位にあった1928年には、日露戦争時に軍功のあった日本軍将校たち51名に勲章を授与している。 ピウスツキ家の男系はポーランドでは絶えており、日本にのみいる。彼らはユゼフの兄ブロニスワフ(樺太で樺太アイヌの女性と結婚)の息子の家系で、現在横浜に住んでいる。」と書かれている。
 ワジェンキ公園で最も有名なのはショパン像であろう。
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(ショパン像)
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(ショパン像)

 この像はポーランドの公園設計家として有名なヴァツワフ・シマノフスキが造ったもので、像は風に揺れる柳の木の下に座り、故郷マゾフシェの自然に耳を傾けるショパンをアールヌーヴォー様式で表現したものであるといわれている。この像は1926年に創られたが、1940年 ナチス・ドイツによってワルシャワが占領され攻撃された時、この像も破壊されてしまった。しかし、戦後ポーランド国民の熱望により、残った写真や複製の像によってオリジナルに忠実に復元され1958年にもとの場所に戻った。
 現地ガイドのアレキサンドラさんによると、5月から9月までの毎日曜日にショパン像の下でショパンコンサートが無料で行われていると教えてくれた。私たち夫婦は、次回は季節のいい時期にショパンのコンサートを聴きに来ようと話し合った。
 公園には可愛いリスがあちこちで見られた。
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(可愛いリス)
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(可愛いリス)

 リスは餌をくれるのを待っているのか私がカメラを近づけても逃げなかった。ワジェンキ宮殿の近くには孔雀が飼われていた。
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(ワジェンキ宮殿の孔雀)

 私たちはワジェンキ公園の見学を終えてワルシャワ空港へとバスで向かった。13時5分にワルシャワ空港を飛び立ち、ヘルシンキを経由して関西空港に到着したのは2月9日(月)の午前10時頃であった。
 「ちょいとポーランド7日間」というツアーであったが、結構充実した旅行であり、「ポーランド旅行記」も24回もかかってやっと大阪に帰ってくることができた。
 みなさま、ポーランド旅行記を読んでくれてディエンクゥイェン(ポーランド語でありがとう)それでは、ドヴィゼニア(ポーランド語でさようなら)
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