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2 承久の乱
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

1) 幕府の動揺
 1219年、将軍実朝が右大臣任官の拝賀式で、頼家の子の公暁(くぎょう)によって暗殺され、公暁も殺されると、正統の源氏の血筋がここで絶えた。このような将軍家暗殺事件の背景には、有力御家人の深刻な対立があり、その過程で北条氏が権力を掌握していったのである。北条義時は後鳥羽上皇に皇子の将軍職就任を要請したが拒否された。一方、上皇は院警護のための西面の武士をおいて兵力を増強し、幕府打倒をめざし、自分に関係する荘園の地頭職の停止を要求するなど、幕府との対立を深めた。
2) 承久の乱
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(三省堂「日本史B」より)

 1221年、上皇は、西面の武士や畿内近国の武士らに対して義時追討の宣旨を出したが、多くの武士は、頼朝以来の御恩にこたえよという北条政子のよびかけに応じて幕府に結集した。義時の弟の時房(ときふさ)と子の泰時(やすとき)に率いられた幕府軍は、東海・東山・北陸の三道に分かれて京都を攻め、わずか1か月で反乱を鎮圧した。これを承久(じょうきゅう)の乱と呼んでいる。
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(三省堂「日本史B」より)

3) 乱後の措置
 乱後、幕府は後鳥羽上皇を隠岐(おき)へ、順徳上皇は佐渡へ、土御門(つちみかど)上皇は土佐への配流(はいる)などの処分を強行し、仲恭(ちゅうきょう)天皇にかえて後堀河(ごほりかわ)天皇を立てた。また、上皇方の貴族・武士の西国を中心とする所領3000か所あまりを没収し、戦功のあった東国の武士を新たに御恩として地頭に任命したがこれを新補地頭と呼ぶ。時房と泰時は乱後も京都に留まり、六波羅探題(ろくはらたんだい)をもうけて、朝廷の監視や京都の警備、尾張以西の国々の御家人の統轄に当たった。新補地頭と六波羅探題の設置によって、幕府の西国支配は飛躍的にすすみ、朝廷の権威が衰える一方で、幕府の全国支配が一層強化されることとなった。

 次回の第19回日本史講座は、5月9日(土)午後2時より行う予定です。
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 Ⅱ 執権政治の確立
1 北条氏の台頭
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(三省堂「日本史B」より)

1) 軍事独裁から合議へ
 1199年1月、源頼朝は前年の12月の落馬が原因となって53歳で突然死んだ。相続者の源頼家は18歳であり、『吾妻鏡』によると彼はとても将軍の器ではなかったらしい。頼朝の妻で頼家の母であった北条政子は、頼家の独裁をおさえ、政子の父の北条時政を中心とする13人の有力御家人の合議によって政務を運営するようにした。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

2) 執権政治
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(三省堂「日本史B」より)
 
 1203年、時政は、頼家の妻の実家である有力御家人の比企(ひき)氏を滅ぼして、頼家を伊豆修禅寺(しゅぜんじ)に幽閉(ゆうへい)し、頼家の弟の源実朝(さねとも)を3代将軍につけた。そして、時政はみずから大江広元(おおえひろもと)とならんで政所別当に就任し、政治的地位を高めた。さらに時政の子の北条義時(よしとき)は、1213年、有力御家人の和田義盛を滅ぼして、侍所別当の職も獲得し、政務と軍事の要職を手中(しゅちゅう)におさめた。こうして確立した北条氏の政治的地位を執権といい、以後、北条氏が代々受け継ぐことになった。
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 第18回日本史講座は4月25日(土)の午後に、受講者の豪邸の庭で八重桜のお花見をしながら豪華なお弁当をいただいた後に行いました。受講者は11名でした。
4 幕府と朝廷
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(東京書籍「図説日本史」より)神護寺の古い記録によると、藤原隆信が5人の画像を描いたとあり、現在、この寺には源頼朝、平重盛、藤原光能の像があるが、これがそれに当たるのではないかと考えられている。この画像が、源頼朝であるという証拠はないが、『吾妻鏡』『平家物語』などの書物の記述から、彼の性格とこの画像の受ける印象が何となく一致するように感じられることから、頼朝の似絵(にせえ)とされている。(家永三郎編 日本の歴史より)

1) 鎌倉幕府
 鎌倉幕府の支配の中心は、鎌倉殿と呼ばれた頼朝と武士との間に結ばれた主従関係を基礎にした御家人制によって支えられていた。
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(東京書籍「図説日本史」より)
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(三省堂「日本史B」より)御

 頼朝は、御家人の先祖伝来の所領の支配を保証する本領安堵(ほんりょうあんど)とともに、戦功のあった者に所領を与えたり、地頭に取り立てる新恩給与(しんおんjきゅうよ)などの御恩(ごおん)をほどこした。これに対して、御家人は、平時には京都大番役や鎌倉番役などの警護役を務めるとともに、戦時の「いざ鎌倉」という時には一族を引き連れ命をかけて軍役を務めるなどの奉公に励んだ。御家人は、賜(たまわ)った領地を一族存続のよりどころに、命をかけて守ろうとしたが、そこから「一所懸命」という言葉が生まれた。現在の資本主義の時代はお金に命をかけるが、、このころは領地(土地)に命をかけたのである。
 このように土地の給与を通じて、主人と従者が御恩と奉公の関係によって結ばれた制度を封建制度というが、西ヨーロッパににも同じような制度があった。
2) 朝廷
 朝廷は勢いを衰えさせたが、いぜん国司を任命し、広大な国衙領を支配していた。上皇や天皇のもとには膨大な荘園群があつめられ、権門勢家(けんもんせいけ)と呼ばれた有力貴族や大寺院・大神社も多くの荘園をもち、幕府に属さない武士である非御家人や僧兵などの私的な兵力を保有していた。幕府は、朝廷の政治に介入しないことを原則としていたため、幕府と朝廷の二つの政権が全国をそれぞれ支配した。幕府の経済基盤は、朝廷と同じように数か国の知行国(ちぎょうこく)である関東知行国・関東御分国と荘園である関東御領で、首都は国ごとに、地頭も荘園や国衙領を単位に任命されることが多かったので、両方とも荘園公領制を基礎とした権力であった。
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3 守護と地頭
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

1) 守護
 朝廷から地頭の設置を認められた頼朝は、国ごとに地頭を派遣したがこれを国地頭と呼ぶ。国地頭は荘園や国衙領のいずれからも1反あたり5升の兵粮米(ひょうろうまい)を取り立て、国内の田地を支配させようとした。しかし、兵粮米の徴収をめぐって、国司や貴族・大寺院・大神社などの荘園領主との間に争いが起こったため、かわりに国ごとに守護を置いた。守護は総追捕使(そうついぶし)とも呼ばれ、国衙の行政に介入したり、荘園・国衙領を直接支配することは禁じられていたが、のちには権限を拡大して国衙領支配にも影響を及ぼすようになった。
 守護には東国の有力御家人が任命され、国内の御家人らを指揮し、大犯三カ条(だいぼんさんかじょう)と呼ばれる大番催促(おおばんさいそく)と謀反人(むほんにん)・殺害人の逮捕などの治安維持が主な職務とされた。大番催促とは国内の御家人を朝廷警護のための京都大番役に招集・統率する権限のことである。
2) 地頭
 支配地の東国をのぞく平氏の没官領(もっかんりょう)や謀反人の所領跡に地頭を任命したがこれを荘郷(しょうごう)地頭と呼ばれた。荘郷地頭は所領の管理や年貢・公事(くじ)の徴収、治安維持にあたらせた。地頭の多くは、挙兵当初から頼朝に味方した東国の御家人が任命され、国司や荘園領主には地頭を罷免する権限がなかったので、地頭は現地での支配権をしだいに拡大していった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 次回の第18回日本史講座は、4月25日(土)午後12時30分に私の自宅に集合し、2台の車に分乗して山本さん宅でお花見をしたあとで行います。いつもの時間とは違いますのでお間違えのないようにしてください。
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2 鎌倉幕府の成立
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
1) 御家人制度
 頼朝は、挙兵以来、北条氏や三浦氏などの東国の武士たちと主従関係を結んで、彼らを御家人として組織した。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2) 中央機構
 1180年、御家人の統率と軍事・警察を担当する侍所(さむらいどころ)を設けて、有力御家人の和田義盛を長官に任命した。さらに1184年、一般政務をつかさどる公文所(くもんじょ)、のちに政所(まんどころ)と呼び名が変わったが、その長官として大江広元が、そして、裁判実務を担当する問注所(もんちゅうじょ)を開設したが、その長官には三好家康信(やすのぶ)がすえられた。
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(東京書籍「図説日本史」より)
3) 支配領域の拡大
 頼朝は後白河法皇の要請を受け、源範頼と義経に平氏追討を命じ、1185年、長門の壇ノ浦(だんのうら)で平氏を滅亡させた。後白河法皇は頼朝の権力拡大を恐れて義経を重用し、義経に判官(ほうがん)という官職を与えた。判官とは律令制における四等官の第三位の官のことであり、義経は九郎判官義経と呼ばれるようになった。ちなみに九郎というのは義経が源義朝の九男だったことに由来する。頼朝の許可なく義経が官位を得たことは頼朝の権威を否定するものであり、武士政権の確立をめざす頼朝にとって許し難い行為であった。頼朝は義経の領地を没収するなどの強行姿勢に出たため、義経はついに後白河法皇に頼朝追討の院宣を迫った。教科書には後白河法皇が義経に頼朝を討つよう命じたとあるのは正しくない。義経の謀反は失敗し、義経は頼朝の追跡から逃れるために各地を転々としたが、最後に奥州の藤原秀衡に救いを求めた。
 頼朝は親鎌倉派の公卿九条兼実(かねざね)から朝廷の重要政務を担当する役職に就かせ、義経の捜索を名目に国ごとに地頭を置くことを認めさせた。さらに1189年、頼朝は義経をかくまったことを口実に藤原秀衡の子の藤原泰衡(やすひら)を攻め、奥州藤原氏を滅ぼした。
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(東京書籍「図説日本史」より)
4) 鎌倉幕府の成立
 頼朝は東国や西国の多数の武士を御家人として組織しながら主に東国の支配を確立していった。1190年、頼朝は挙兵後はじめて京都に入り、右近衛大将(うこのえたいしょう)に任命された。彼は征夷大将軍の称号を欲したが、これに対して後白河法皇は最後まで認めなかった。しかし、法皇が亡くなったのちの1192年にようやく征夷大将軍に任命され、名実ともに鎌倉幕府が成立した。幕府というのは征夷大将軍が朝廷から委任された政府のことであり、ここに武士による幕府政権が誕生し、室町幕府・江戸幕府へと引き継がれていった。最近、鎌倉幕府の成立が話題になっているが、幕府という名前は征夷大将軍という称号が必要であるいう意味において、鎌倉幕府の成立は1192年とするのが妥当であると私は考える。
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(東京書籍「図説日本史」より)
 
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 第17回日本史講座は4月11日(土)午後2時より受講者10名で行われました。
  講座の始まる前に受講者から歴史の学習の仕方がわからないから教えてほしいという質問が出された。私は、歴史の流れをおおざっぱにとらえることが大事であると指摘した。細かい歴史的事項にこだわるのではなく、どのように社会が変わってきたのかという大筋をつかむことが必要ではないかと考えている。なぜムラからクニへと発展し大和政権が誕生していったのか。今学習しているところでいえば、なぜ平氏が敗れ源氏が勝利し武家政権が誕生したのかをつかむことが大切であり、その背景には生産力の発展をおさえておく必要があるだろう。農業生産力の発展によって、田堵や名主といった勢力が増大し、彼らは土地の開発を進めて荘官や在庁官人となり、地方で私的な土地を拡大していったが、彼らは自分たちの土地を守るために武装化し、武士となっていった。律令制が崩れて私的な土地争いが絶えず起こったが、自分の土地を安堵してくれる武士の統率者を必要とし、このような武士を統率する棟梁が生まれた。その棟梁となったのが源氏と平氏である。平氏は保元・平治の乱で勝利したが、その一族は高位高官を独占し、貴族化していったことが敗北の大きな原因であると考えられる。源頼朝はこのような貴族化を避け、鎌倉に拠点を置いて地方武士の要求である土地の安堵を与えたことによって政権を維持することができたのであると私は考えている。

第7章 武家社会と鎌倉文化
Ⅰ 武家政権の誕生
1 治承・寿永の内乱
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

1) 平氏の専制

 さて、平氏の横暴ぶりは、後白河法皇や貴族のなかで反発が強まり、1177年には平氏打倒の計画がすすめられたが、これを鹿ヶ谷事件と呼ばれる。これに対して、平清盛は、1179年、後白河法皇を幽閉して院政を停止し反対派貴族を追放するという強行手段をとり、翌年には孫の安徳天皇を即位させた。

2) 諸国源氏の蜂起
 これに対し、新天皇を認めない後白河法皇の子以仁王(もちひとおう)は、平氏打倒の兵をあげた。この挙兵は失敗したが、以仁王の平氏打倒の命令である令旨(りょうじ)を受けて、伊豆に流されていた源頼朝や信濃の源(木曽)義仲ら諸国の源氏が挙兵し、地方武士や大寺院・大神社もこれに応じたため、全国的な内乱へと発展したが、これを治承・寿永(じしょう・じゅえい)の内乱と呼ぶ。

3) 平氏の衰退
 これに対し、平氏は体制を立て直すために都を平氏一門の別荘があり、大輪田泊(おおわだのとまりに近く、平氏の西国支配の拠点の一つであった福原に都を遷したが、貴族や寺院勢力の反対にあい、再び京都に都を戻すなど、平氏を取り巻く情勢は厳しくなった。

4) 東国政権
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(東京書籍「図説日本史」より)
 一方、源氏の嫡流(ちゃくりゅう)である源頼朝は、相模(さがみ)石橋山の戦いで平氏に敗れたが、鎌倉に入り、下総(しもうさ)の千葉常胤(つねたね)や上総(かずさ)の上総介広常(かずさのすけひろつね)ら有力武士団との関係を強めながら、東国諸国の国衙を支配下に治めていった。

5) 平氏の都落ち
 京都が大飢饉で混乱するなか、1181年に清盛が亡くなると、北陸各地の武士団を従えた源義仲らが京都に攻め込む動きを強めると、1183年、平氏は安徳天皇と三種の神器を伴って西国に都落ちした。同年、義仲軍は京都に入り、食糧不足もあって狼藉(ろうぜき)をつづけた。
6) 四勢力の分立
 このころ東北の陸奥・出羽を支配していたのは奥州藤原氏の藤原秀衡(ひでひら)であった。そして、平氏は体勢を立て直して、中国地方西部・南海道・西海道を支配していた。源義仲は、畿内・北陸地方・中国地方東部を支配していた。そして、源頼朝は、東国の東海道・中山道を支配していた。
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(三省堂「日本史B」より)

 京都に留まった後白河法皇は後鳥羽天皇を即位させ、寿永二年の宣旨で頼朝の東国での支配権を認めるとともに、頼朝の上洛を要請した。しかし、頼朝は東国の支配を固めるために鎌倉を動かず、かわりに弟の源範頼(のりより)と源義経を上京させ、1184年に義仲を打ち破った。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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 Ⅲ 院政期の文化
1 神事から芸能へ
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(東京書籍「図説日本史より)

1) 田楽(でんがく)
 平安時代後期には武士とともに、田堵(たと)や名主(みょうしゅ)などの庶民の活動は、それまでの貴族文化とは異なる新しい文化を生みだした。その代表が田楽である。田楽は田植えなどの農作業にともなう労働歌舞で、神に豊作を祈願する神事(しんじ)から発生したものであったが、しだいに芸能化して貴族らにも受け入れられていった。
2) 猿楽(さるがく)
 猿楽は奈良時代に唐から伝来した散楽(さんがく)から生まれた滑稽(こっけい)を中心とする雑芸で、民衆の娯楽として演じられた。
 田楽や猿楽は現在の能や狂言のもとになったものである。
3) 今様(いまよう)
 白拍子(しらびょうし)とよばれた遊女を中心に民衆の間で流行した歌謡(かよう)の今様も貴族社会にも広まり、後白河法皇によって『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』としてまとめられた。
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(東京書籍「図説日本史より)

2 説話集と絵巻物
1) 説話集
 『今昔物語』は12世紀のはじめにインド・中国・日本の仏教説話を集大成し、片仮名まじりの和漢混交文(わかんこんこうぶん)で書かれたものである。ここには生き生きとした民衆の姿や武士が描かれている。
2) 絵巻物
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)
 この頃、詞書(ことばがき)と絵とを交互に書き連ねながら物語の場面を展開させる絵巻物が成立した。代表的な作品は、貴族の絢爛(けんらん)たる宮廷生活を描いた『源氏物語絵巻』が有名である。
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(東京書籍「図説日本史」より)

 絵巻物にもさまざまな民衆や武士が描かれたが、応天門の変を題材にした『伴大納言絵巻物(ばんだいなごんえまきもの)』には、炎上する応天門から逃げる民衆と犯人逮捕に向かう検非違使が躍動的に描かれている。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 大和国の長者伝説をあつかった『信貴山縁起絵巻物』には、周辺の農民の様子が生き生きと描かれている。
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(東京書籍「図説日本史」より)

 動物を擬人化して描いて世相を風刺した『鳥獣戯画(ちょうじゅうぎが)』のような作品もあらわれた。
3 軍記物と歴史物語
1) 軍記物
 武士の登場と活躍は、軍記物という新しい文学を生みだした。平将門の乱を描いた『将門記(しょうもんき)』や、前九年の合戦の経過を記した『陸奥話記(むつわき)』は、ともに和風の漢文で書かれた軍記物の先駆けである。
2) 歴史物語
 歴史物語は、時代の転換のなかで過去の歴史をふりかえろうとする貴族社会から生まれた。『栄華物語』は藤原道長の一生を肯定的に描いている。『大鏡(おおかがみ)』は藤原氏の栄華や摂関政治を客観的・批判的にとらえている。
4 地方文化の発展
1) 阿弥陀信仰
 地方武士の成長は、都市文化の地方への伝播をおしすすめた。とりわけ、浄土教にもとづく阿弥陀信仰(あみだしんこう)が広まり、各地にすぐれた阿弥陀堂がつくられた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 奥州藤原氏が平泉に建てた中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう)や豊後(ぶんご)国国東(くにさき)半島の富貴寺大堂(ふきじおおどう)が阿弥陀堂として有名である。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

2) 平氏一門
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(東京書籍「図説日本史」より)

 平氏一門は、彼らの政治的基盤であった瀬戸内海に浮かぶ安芸(あき)国の厳島(いつくしま)神社を復興するとともに、豪華な装飾経である『平家納経』を奉納した。

 次回の第17回日本史講座は、4月11日(土)午後2時より行う予定です。
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