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2 武士の生活と武芸

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(東京書籍「図説日本史」より)

1) 農村支配
 
 開発領主の系譜を引く武士は、自分の本領の要地に土塀や堀・土塁をめぐらした館(やかた)をかまえ、門田(かどた)・門畑(かどばた)など年貢・公事を国衙や荘園領主から免除された直営地や名田を下人・所従(しょじゅう)や周辺の農民を夫役(ぶやく)と称して耕作させていた。

2) 惣領制

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(東京書籍「図説日本史」より)
 
 
 
 武士の一族は強い血縁的統制を特徴としており、宗家(本家)と分家は一門・一家(いっか)と名乗り、宗家の長を惣領(そうりょう)とあおいでその命にしたがった。分家である庶子(しょし)は惣領から所領を分け与えられた分割相続がおこなわれ、そのかわりに惣領が持つ各地の所領の支配に派遣されるなどの奉公にはげみ、「いざ鎌倉」という戦時には惣領の指揮のもとで団結して戦わなければならなかった。一族の団結を強めるために、館の近くに氏寺や神社がつくられ、その仏事や祭祀(さいし)をとりおこなうのは惣領であった。このような惣領を中心とした一族の支配体制を惣領制という。
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(東京書籍「図説日本史」より)

 
 しかし、時代が経つにしたがって分割相続を行うことが困難になってきた。惣領が庶子に田を分け与えていけば、その分惣領の所領は細分化されてしまい、その一族は弱体化してしまう。そこから田を分ける者は「たわけ者」つまり愚か者という言葉が生まれたという説がある。分割相続が行われなくなるとその一族の所領は惣領が独占することになり、誰が惣領となるのかという一族内部での争いが起こり、庶子も惣領のいうことに従わなくなるのである。このような惣領制の崩壊の中で、南北朝時代という動乱時代が始まったのである。

3) 日常の訓練
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(東京書籍「図説日本史」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)

 武士の生活は武術をみがくことが最も大切なこととされ、馬のあつかいと弓術が重視され、日頃から犬追物(いぬおうもの)・笠懸(かさがけ)・流鏑馬(やぶさめ)など騎射三物(きしゃみつもの)とよばれる射芸(しゃげい)を習練して戦時にそなえた。そのため、館の近くに矢場(やば)がもうけられたり、山には狩猟や軍事訓練の場として狩倉(かりくら)が置かれた。幕府も卷狩(まきがり)などをしばしばもよおして、御家人たちに武術を競わせた。

 次回の第21回日本史講座は、6月13日(土)午後2時より行う予定です。
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3 京都と鎌倉
1) 京都
 京都は政治だけでなく、経済の中心地としても発展しつつあった。京都市中は、大路(おおじ)・小路(こうじ)などの道路に沿って町屋がつくられた。武士と商工業者の増加はいちじるしく、武士の多くは六波羅探題(ろくはらたんだい)や京都大番役につとめ、屋敷をかまえる者もいた。さまざまな職種の手工業者や貴族・武士・寺院・神社などの使用人として働く者もおり、猿楽(さるがく)や田楽(でんがく)などの芸能を専門とする芸人も生まれた。
2) 鎌倉
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(三省堂「日本史B」より)

 鎌倉は武者(むしゃ)の都とよばれ、政治都市として発展し、若宮大路(わかみやおおじ)を中心に計画的な街路がつくられ、市中は保(ほ)という行政区画に分けられた。保には保奉行人(ぶぎょうにん)がおかれ、盗賊・悪党の逮捕や路上での売買の取り締まりも行った。また、港湾を整備し、海運で物資が鎌倉に集められるようになった。幕府は交通路や宿駅を整備したが、京都と鎌倉を結ぶ東海道の軍事的意味を重視して、沿道の守護に宿駅を支配させた。宿駅は交通の要地にももうけられたため、守護や地頭の館(やかた)がおかれ、定期市がひらかれて地方都市として繁栄していった。国府の所在地も、国衙や守護所を中心に市や宿屋がもうけられ、地方の政治・経済の中心地として発展した。

 Ⅳ 中世に生きる人びと
1 中世社会の身分
1) 公家
 公家は古代以来の支配者で、朝廷から官位を与えられていた。すでに摂政や関白の職が藤原北家(ほっけ)から分かれた近衛(このえ)・鷹司(たかつかさ)・九条・一条・二条の五摂家(ごせっけ)にかぎられるようになるなど、それぞれの家が特定の官職を世襲するようになった。また、政治の実権が幕府ににぎられるようになると、活動も停滞的となり、朝廷の儀式や先例などの有職故実(ゆうそくこじつ)の研究などにむかうようになった。
2) 武士
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(東京書籍「図説日本史」より)

 武士は戦闘を職業とする身分と見なされ、低くはあったが、朝廷から官位を与えられた。彼らの多くは御家人であったが、幕府に属さず、貴族や大寺院・大神社などに属する非御家人もいた。武士は幕府や主人の兵役をつとめるとともに、地頭や荘官として荘園や公領の実際的な支配を行った。
3) 百姓
 公家や武士に対して、百姓は年貢・公事(くじ)を負担する者を総称した身分で、農民のほかに、漁民・山民(さんみん)・商人・職人らがいた。百姓と武士ははっきりと区別され、御成敗式目(ごせいばいしきもく)では、罪を犯すと、百姓は拷問(ごうもん)などの肉体刑が課せられたのに対し、武士は財産の没収だけですむことが多かった。
4) 下人
 公家や武士・名主などに隷属した下人(げにん)は、年貢・公事を負担しない代わりに、主人に一定の労働を提供し、ときには売買の対象ともなった。
5) 周辺世界の人々
 こうした人々の他に、各地を遍歴(へんれき)・流浪(るろう)して生活せざるをえない者もかなりいた。京都や奈良などの都市や交通の要地では、物乞(ものごい)やきよめ(掃除)で生計を立てる非人(ひにん)とよばれた被差別民もいた。なかでも、きよめはろじの掃除や牛馬の死骸処理、葬送(そうそう)などにたずさわり、乞食(こじき)らとともに社会の最底辺の身分とみなされた。 
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 第20回日本史講座は5月23日(土)午後2時より、受講者10名でおこなわれました。

2 定期市と地方都市
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(東京書籍「図説日本史」より)

1) 定期市
 農業・手工業などの発展は、地域のなかだけでなく、地域と都市との交易を活発化させた。交通の便の良い荘園や国衙領では、月に三回市を開く三斎市(さんさいいち)などの定期市や常設の見世棚(みせだな)が生まれ、周辺の生産物や都市から行商人らによって運ばれた鉄製農具や大陸から輸入された陶器・織物などが交易されるようになった。
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(東京書籍「図説日本史」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)

2) 貨幣経済の発達
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 商品の取引には日宋貿易によって輸入された宋銭が使われた。しかし、宋銭が輸入されるようになったのは、平安末期に末法思想の普及により仏像が大量に制作されると、原料となる銅の必要から宋銭が輸入されるようになったのである。ようやく鎌倉時代になって貨幣としての必要から宋銭が大量に輸入された。また、輸送上の不安から、遠隔地との取引に為替(かわせ)がもちいられ、借上(かしあげ)とよばれる高利貸しを職業とする金融業者もあらわれた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)
3) 商業・交通の発達
 貨幣経済が広まってくると、京都や奈良・鎌倉などの都市に住む荘園領主らは多くの貨幣を必要とするようになり、鎌倉時代後期には年貢や公事を銭(ぜに)にかえて納入させる銭納(せんのう)もはじまった。都市と農村とを結ぶ商業活動の活発化によって、港湾など交通の要地で年貢物の保管や運送を業務とする問丸(といまる)は、販売も引き受けて営業活動も行うようになった。
 都市に住む貴族や僧侶、武士のもとには、各地の荘園からさまざまな物資が集められた。そのため、商業が盛んになり、有力な貴族や寺院・神社を本所とあおいで座(ざ)という同業組合を結成し、本所に座役(ざやく)を納める代わりに、保護と仕入れや販売などの商工業活動の独占権を保証してもらう者もあらわれた。
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 Ⅲ 鎌倉時代の産業と都市
1 農村の変容
1) 荘園の支配関係
 この時代の社会の基盤は農村であり、そこには農業にたずさわる農民はもちろん、武士・僧侶・商人・手工業者らも住んでいた。農村の多くは荘園で、なかには国司の支配する国衙領で、郷(ごう)・保(ほ)などと呼ばれたところもあるが、実質的には荘園とおなじであった。
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(山川出版社「日本史研究」より)

 そこでは平安後期以来、名主と呼ばれる地主層が土地経営の中心となっていた。彼らは荘園内に屋敷をかまえ、屋敷の一隅に下人・所従を住まわせた。これらの人々を使って佃(つくだ)を直接に経営し、残りの土地は請作(うけさく)に出して作人に耕作させた。
 名主のなかで有力な者で武士となった者は荘園領主から荘官に任命されたり、御家人となって幕府から地頭に任命されたりして、村の支配的地位を占めていた。

2)農民の負担
 名主や作人などの農民たちは領主に対して貢租を納めた。貢租には田地に課するものと畑地に課するものとがあった。田地に課する貢租には本年貢が中心で、名主は収穫の30~40%を領主に納め、作人は名主の倍以上を納めた。作人の負担には本年貢のほかに、小作料としての加地子(かじし)を含んでおり、加地子は名主の収入となった。畑に課する貢租は、作物によって差があり、麦ならば反別1~2斗、麦と蕎麦ならばそれぞれ6升ずつ納めている。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 農民の負担には、以上のほかに公事(くじ)と夫役(ぶやく)がある。公事とは塩・海苔などの海産物や薪炭・蔬菜など各地の特産物を納めるもので、税率は定まらず、内容も雑多であった。夫役とは人夫役のことで、そのおもなものは佃の耕作、堤防や地溝の築造・修理などの土木工事、領主の屋敷・倉庫の警備や貢租の運搬などであった。
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(山川出版社「日本史研究」より)

2 産業の発展
1) 農業生産力の発展
 鎌倉中期になると、農業生産は耕地の拡大にかわって一定の面積で多収穫をめざす集約的な方向にすすんだ。肥料としては人糞尿(じんぷんにょう)のほか、刈敷(かりしき)・草木灰(そうもくかい)の普及や、牛馬の使用などの農業技術の改良によって、平安時代後期に水田で麦を裏作とした二毛作が機内や西国で広く行われるようになった。畑作でも夏は豆類・冬は麦という二毛作が定着し、荏胡麻(えごま)や楮(こうぞ)・藍(あい)などの原料作物の栽培や加工も盛んになった。
2) 農村に手工業者の発生
 農村のなかに鍛冶・鋳物師(いもじ)などの手工業者も生まれ、絹や麻を織って武士や農民の需要に応えられるようになった。
3) 漁業の発達
 若狭(わかさ)や伊勢・志摩(しま)、瀬戸内海沿岸の地方では漁業を専業とする村も生まれた。漁村では刀禰(とね)と呼ばれる上層漁民らによって運営され、彼らは魚や貝、海藻(かいそう)塩などの海産物を年貢・公事として貴族や寺院・武士に納めたり、それらを地方の市に運んで交易した。

 次回の第20回日本史講座は、5月23日(土)午後2時よりおこなう予定です。
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4 地頭の領主化
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
1) 地頭
 「泣く子と地頭には勝てぬ」ということわざがあるように、承久の乱後、幕府の権威を背景に、地頭の非法や荘園侵略が活発になった。地頭は、百姓を私的な夫役にかりだし、それに違反すると罰金や身代(みのしろ)を要求して自分の下人(げにん)にしたり、逃亡した百姓の名田を地頭名に取り込んだ。地頭は、荘園経営にも干渉し、荘園の年貢を荘園領主に送らずに横領することが多くなった。

2) 荘園領主の対応
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 そのため、領主のなかには支配を地頭に任せる代わりに、一定額の年貢の納入を地頭に請け負わせる地頭請(じとううけ)によって、収入のみを確保しようとする者もあらわれた。しかし、いぜん地頭の非法は収まらなかったため、荘園領主は不本意ながら、みずからの荘園の土地を二分して領主と地頭がそれぞれを支配し、お互いに干渉しない下地中分(したじちゅうぶん)という方法をとうようになった。下地とは、土地からの収益を上分(じょうぶん)というのに対して、土地そのものを意味する言葉であるが、この下地を折半して、地頭と領主とがそれぞれ土地・住民の半分ずつの完全支配権を認めあう方法である。下地中分は、幕府も認めるところであったから、各地で地頭の領主化が促進されることとなった。
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 第19回日本史講座は、5月9日(土)午後2時より受講者9名で行われました。
3 執権政治の展開
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(三省堂「日本史B」より)

1) 北条義時
 北条義時は、承久の乱の2年後の1223年、諸国の国衙に土地調査を命じて、土地台帳である太田文(おおたぶみ)をつくらせ、地頭の任命や御家人の軍役負担の基準にした。

2) 北条泰時
 義時は1224年に世を去り、第3代執権となったのは、その子の泰時(やすとき)である。この時に執権の地位をめぐって泰時と義時の後妻の子政村(まさむら)とが対立したが、政村をしりぞけて執権となった泰時は、その立場を強化するため、同じく六波羅探題であった時房(ときふさ)をむかえた。これが連署のはじめである。連署という名は幕府の公文書である下文(くだしぶみ)に執権とともに署名したところからおこっている。その後この職には、北条一門のなかでも有力な者が任ぜられた。
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(東京書籍「図説日本史」より)

 また、泰時は承久の乱にみられた北条独裁体制への反発をやわらげるために、有力御家人や政務にすぐれた武士を評定衆(ひょうじょうしゅう)とし、合議による政務と裁判を行わせた。こうして、執権・連署・評定衆とによる合議制にもとづく政策決定の体制が整えられ、幕府上層の集団指導体制による政治の安定期をむかえることになった。
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(三省堂「日本史B」より)

3) 御成敗式目(貞永式目)
 しかし、承久の乱後に設置された新補地頭(しんぽじとう)は、現地の荘官・農民や荘園領主との間に新たな紛争を生じさせた。1232年、泰時は、その紛争解決の基準や合議制にもとづく政治方針を明確にするために、最初の体系的な武家法典である御成敗式目(ごせいばいしきもく)(貞永式目)51か条を制定した。式目は、頼朝以来の幕府の先例や、道理といわれた武家社会における習慣や道徳を成文化したもので、守護や地頭の任務と権限、幕府の裁判手続き、御家人の身分と刑罰などについて、武家法独自の規定がなされている。当初は、その適応対象が幕府の勢力範囲に限られていたが、幕府の勢力が拡大するにしたがってその範囲も広がり、しだいに社会全体に影響を及ぼすようになった。御成敗式目は室町時代においても、武家の最高法典とされ、戦国大名の分国法にも影響を与えた。
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(東京書籍「図説日本史」より)

4) 北条時頼
 泰時の政策を受けついだ孫の北条時頼(ときより)は、1246年、前将軍の藤原頼経(よりつね)を陰謀の疑いで京都に送り返すとともに、1247年、これに関係したとされる最有力御家人の三浦泰村(みうらやすむら)を宝治合戦(ほうじがっせん)で滅ぼし、北条氏の地位を不動のものとした。また、1249年には評定衆のもとに引付衆(ひきつけしゅう)を設置して、御家人の所領に関する訴訟事務を専門に担当させ、公正な裁判とその迅速化(じんそくか)をはかって御家人の要望に応えた。さらに1252年には後嵯峨天皇の皇子宗尊親王(むねたかしんのう)を将軍にむかえて皇族将軍を実現し、幕府の権威を高めた。時頼のころに執権の地位の強化がはかられ、北条氏による専制体制が強まった。


  
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