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4 建築と工芸
 建築や工芸でも、武士の時代にふさわしく、力強さと写実性と人間味を特色とする文化が生まれた。
1) 建築
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 建築では、治承(じしょう)・寿永(じゅえい)の内乱で平家によって焼失した東大寺の再建のために、僧侶の重源は宋から取り入れた大仏様(だいぶつよう)(天竺様)と呼ばれる大陸的な力強さにあふれた建築様式で東大寺南大門を完成させた。また大陸から円覚寺舎利殿(えんがくじしゃりでん)にみられる禅宗様(唐様)と呼ばれる禅宗寺院特有の整然とした建築様式も入ってきた。さらに鎌倉末期には和様に大仏様や禅宗様を取り入れた折衷様が生まれた。

2) 彫刻
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(東京書籍「日本史図説」より)
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(東京書籍「日本史図説」より)
 彫刻では、運慶(うんけい)・湛慶(たんけい)父子や快慶(かいけい)らがでて、力強さに満ちた写実的な仏像や肖像をつくった。

3) 絵画
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 絵画では個性が重視されるようになり、藤原隆信(たかのぶ)・信実(のぶざね)父子が似絵(にせえ)と呼ばれる肖像画の名手として活躍した。禅宗では、高僧の肖像画(頂相)(ちんそう)を描いてそれを崇拝する風習も生まれた。

4) 書道・工芸
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 大陸から陶器の新しい西方が伝来したり、喫茶の風習が伝えられ広まった。書道では尊円法親王(そんえんほっしんのう)が青蓮院流(しょうれんいんりゅう)をおこし、工芸では、武具製作が重要な産業となり、粟田口吉光(あわたぐちよしみつ)・長船長光(おさふねながみつ)・岡崎正宗(おかざきまさむね)らが甲胄や刀剣に名作を残した。

5) 絵巻物
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(東京書籍「日本史図説」より)
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(東京書籍「日本史図説」より)

 絵巻物は前代に引き続き優れた作品が生み出された。『平治物語絵巻』では、平治の乱が躍動感豊かに描かれている。『蒙古襲来絵巻』では、元寇で奮戦する武士の様子が描かれている。『一遍上人絵伝』では、定期市や武士の館、踊り念仏が描かれている。
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 第22回日本史講座は6月27日(土)午後2時より、受講者7名で行われました。
3 文芸と芸術の新気運
1) 軍記物・説話集
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 平安時代末に生まれた軍記物や説話集は、鎌倉時代においても魅力ある作品を生み出した。軍記物では『保元(ほうげん)物語』や『平治物語』についで書かれた『平家物語』は、仏教にもとづく無常観を背景に平氏の興亡を簡潔な文章で生き生きとえがき、盲目の僧侶の琵琶法師(びわほうし)によって語られたが、これを平曲(へいきょく)と呼び各地で親しまれた。
 説話集では『宇治拾遺(うじしゅうい)物語』・『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』・『十訓抄(じっきんしょう)』・『沙石集(しゃせきしゅう)』などが生まれた。『宇治拾遺物語』は『宇治大納言物語』からもれた話題を拾い集めたもので、インド・中国・日本三国を舞台とし、「あわれ」「をかし」「恐ろしき」話など多様な説話を集めたものであるが、平安末期に書かれた『今昔物語集』とは同じ説話が80余りも重複している。芥川竜之介の短編小説「芋粥」の題材もここから取られている。また、民間伝承には、「わらしべ長者」「雀の恩返し」「こぶとりじいさん」など有名な昔話がある。ところが、受講者の多くの人が「わらしべ長者」の題名は知っていたが、内容は知らなかった。また、「雀の恩返し」は題名も内容も全く知らなかった。

2) 隠者の文学
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(東京書籍「図説日本史」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 俗世間と縁を切り、隠者(いんじゃ)となって和歌や文学をたしなむ人々もあらわれた。西行(さいぎょう)は北面の武士をやめて出家し、諸国を流浪しながら歌を詠んだ。
 鴨長明(かものちょうめい)は『方丈記(ほうじょうき)』をあらわして人間の一生などすべてを無常であると説いた。彼は京都日野山に一丈四方の狭い庵(あん)をむすんでこの随筆を書いたので、書物の名がここからとられている。
 鎌倉時代末期には卜部兼好(うらべけんこう)があらわれ、社会と人々を鋭く観察した随筆『徒然草(つれづれぐさ)』を残している。ところで、吉田兼好と呼ぶのは江戸時代の俗称であるといわれている。
3) 和歌集・歴史・学問
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 貴族の間では漢詩文にかわり、後鳥羽上皇の命令で藤原定家(ていか)らによって『新古今和歌集』が編纂された。優美で技巧的な歌風は新古今調と呼ばれたが、彼の歌をまねたものが多くなり、歌壇はしだいに停滞した。一方、西行が『山家集(さんかしゅう)を出し、3代将軍の源実朝(さねとも)が万葉調の和歌を詠み『金槐和歌集』をつくるなど歌壇に新風を送った。
 歴史では僧侶の慈円(じえん)が承久の乱の直前に『愚管抄(ぐかんしょう)』をあらわし、武士社会への移り変わりを「道理」と説いた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 武士の間でも和歌などのたしなみが重んじられ、学問に関心をよせる北条実時(さねとき)のような武将もあらわれ、武蔵金沢に多くの書物を集めた金沢文庫がもうけられた。幕府は頼朝挙兵以来の幕府の歴史を『吾妻鏡(あづまかがみ)』にまとめた。
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 Ⅴ 鎌倉文化
1 貴族文化と武家文化の融合
1) 鎌倉文化の特色
 鎌倉幕府の成立は、政治・経済の分野だけでなく、文化の面でも新たな傾向を生み出した。文化の担い手はいぜん貴族が中心であったが、幕府の政治的な権威の高まりによって、武家社会の生活倫理や価値観が社会や文化の面にも影響を与えるようになった。また、貴族の側でも政治的な後退のなかで、歴史や文化の変化を直視し、現実的な理解をめざそうという傾向が生まれた。
2) 災害と祭礼・信仰
 一方、この時代の人々は、いぜん気候によって生産や生活が左右され、天然痘やはしかなどの病気も周期的におこったため、それを神仏の罰やたたりのせいとして恐怖した。人々は、病気や飢饉、神仏の罰から逃れ、自分を救済するために、神や仏を深く信仰し、生産や季節の節目にはさまざまな祭礼を行った。朝廷や寺院・神社だけでなく、武家社会でも五節供(ごせっく)などの年中行事が定着した。五節供とは、1月7日を人日(じんじつ)、3月3日を上巳(しょうし)、5月5日を端午(たんご)、7月7日を七夕(たなばた)、9月9日を重陽(ちょうよう)を指す。これらの行事は中国から伝わったものである。民衆も五節供に生産や生活にもとづく祭礼などを取り入れた年中行事を行うようになった。

2 鎌倉新仏教
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 鎌倉時代でも、仏教界の中心はいぜん天台宗・真言宗や南都の諸宗であった。興福寺や東大寺・延暦寺などの大寺院は多数の荘園を持ち、朝廷や貴族らに強い影響力を持った。
 しかしこの時代になると、人々が出家せずに普通の生活をしながら念仏などの経文を唱えることによって救われると説く、民衆救済を目的とする新たな仏教があらわれるようになった。このような仏教を鎌倉新仏教と呼ぶ。
 新仏教のなかで最初にあらわれたのは法然(ほうねん)の浄土宗であった。彼は身分・男女の性別にかかわらず、阿弥陀仏を信じ、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」(念仏)をとなえれば極楽往生できると教え、武士や民衆の心をとらえた。
 法然の弟子の親鸞(しんらん)は、どんな煩悩(ぼんのう)の深い悪人であっても、阿弥陀仏を信じる心をおこしさえすればただちに往生することができるとする悪人正機(あくにんしょうき)を説き、農民らの支持をえて、浄土真宗という教団の基礎をつくった。
 同じく阿弥陀仏への信仰を説いて時宗(じしゅう)の祖となった一遍(いっぺん)は、各地で布教し、信心の有無や身分の上下、男女・善人悪人の区別なく、すべての人々が極楽往生できるとし、とくに乞食(こじき)・非人らのような民衆をひきつけた。
 安房(あわ)の漁民の家に生まれた日蓮(にちれん)は「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」と題目を唱えることで即身成仏(そくしんじょうぶつ)できると説き、関東の武士や商工業者に支持をえた。しかし、日蓮宗だけが正しい教えであると主張して他宗をきびしく批判したため、幕府や他宗派から迫害を受けることとなった。
 関東で大きな勢力をもったのは、戒律と坐禅(ざぜん)による修行によって悟(さと)りを開くことができるとする禅宗であった。栄西は、宋で二度にわたって禅をおさめて臨済宗(りんざいしゅう)を伝え、将軍の源頼家や北条政子ら幕府の保護を受けた。
 道元(どうげん)は宋で禅を学んで曹洞宗(そうとうしゅう)を開き、ひたすら座禅すること(只管打坐)(しかんだざ)を説き、越前永平寺にこもって弟子を養成し、北陸の武士らの支持を集めた。

 次回の第22回日本史講座は、6月27日(土)午後2時より行う予定です。
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 第21回日本史講座は6月13日(土)午後2時より受講者8名で行われました。
4) 武士社会の女性
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(三省堂「日本史B」より)

 鎌倉時代の前期から中期までは、女性への差別はあったが、その地位は比較的高く、嫁いだあとも改姓せず、夫は妻の所領をかってに処分できないなど、夫婦別財産が原則で、武士の未亡人で地頭職をもつ者も少なくなかった。しかし、鎌倉時代後期になると、惣領制の家父長権が強化されるとともに、婿入婚から嫁入り婚が多くなり、女性の相続権がなくなったり、一代限りとなるなど、女性の地位はしだいに低下していった。

3 鎌倉時代の農村
1) 荘官と地頭
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(東京書籍「図説日本史」より)

 鎌倉時代の農村には、下司(げし)や公文(くもん)などの荘園領主から任命された荘官と、幕府から任命された地頭がともにいることが多かった。彼らは侍として現地の支配をそれぞれ行ったが、荘官と地頭は支配権の拡張をめざしてしばしば対立した。
 実際に村落の運営に当たったのは名主(みょうしゅ)であった。名主は名田の耕作と納税の責任を負うとともに、鎮守社(ちんじゅしゃ)の宮座で定期的に寄合(よりあい)を行い、農作業や祭礼などの重要事項を決定した。
2) 農民の抵抗
 災害や荘官・地頭の非法などにさいして、領主に年貢の減免や非法の停止を求めて百姓申状(もうしじょう)を出し、訴えが聞き入れられないときには、要求が正当であることを神仏に誓った起請文を書いて山野に逃散(ちょうさん)することも行われた。
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(三省堂「日本史B」より)
 
3) 小百姓と隷属農民
 農村には、百姓身分に属しながら自分の名田を持たず、名主の名田や荘官の給田を請作(うけさく)して生計を立てる小百姓(こびゃくしょう)や、名主・荘官・地頭に隷属する下人・所従がいたが、彼らはいずれも村落の運営からは排除されていた。
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