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3 室町幕府
1) 室町幕府の成立
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(東京書籍「図説日本史」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 南北朝の内乱は、足利尊氏の孫足利義満が3代将軍につくころからおさまってきた。義満は、京都の室町に「花の御所」と呼ばれる邸宅をかまえて政治を行ったので、この幕府は室町幕府と呼ばれている。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

2) 有力守護大名の抑圧
 義満は、有力国人(こくじん)らを奉公衆(ほうこうしゅう)にして直属軍とし、守護どうしの対立や一族の内紛を利用して守護の勢力を弱め、1391年に山陰地方の山名氏清(やまなうじきよ)を滅ぼしたが、これを明徳の乱と呼ぶ。山名氏は、全国の6分の1に当たる範囲を領有したことから、六分の一殿(ろくぶのいちどの)と呼ばれた。また、1399年には中国地方の大内義弘(おおうちよしひろ)を討ったがこれを応永の乱と呼ぶが、このようにして室町幕府は地方支配を強化していった。

3) 幕府の支配機構
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 幕府の支配機構もととのえられ、政務の中心をになう管領(かんれい)に足利氏一門の斯波(しば)・細川・畠山の三氏(三管領)が交代でつき、大きな権限を持った。管領につぐ重職は、軍事・警察の任務をつかさどる侍所(さむらいどころ)の長官で、有力守護の山名・一色・赤松・京極の四氏(四職)が任命され、土岐(とき)氏もつくことがあった。

4) 南北朝の合体
 義満は、南朝方との和平交渉もすすめ、1392年、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に譲位するという形で南北朝の合体がなされた。

5) 幕府の財政基盤
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 幕府の財政基盤は、御料所と呼ばれる直轄領からの収入が少なく、高利貸しの土倉(どそう)・酒屋からの土倉役・酒屋役、交通の要地にかかる関銭(せきせん)・津料(つりょう)といった金融や商業・運輸の業者からの税収が中心であった。また全国の荘園や公領に課す臨時課税である段銭(たんせん)、日明貿易からもたらされる利益などでの臨時収入が多かった。

 次回の第25回日本史講座は、9月12日(土)午後2時よりおこなう予定です。8月は夏休みで、日本史講座も「うたごえ」もお休みです。

 
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2 南北朝の内乱
1) 南北朝の対立
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 足利尊氏は京都を占領し、1336年にあらたに持明院統系の光明天皇をたてた。このため、後醍醐天皇は大和の吉野の山中に逃れて朝廷をたてた。こうして建武の新政はわずか3年で終わり、これ以後、60年近く京都の北朝と吉野の南朝とが両立してはげしい戦いがつづく南北朝の内乱となった。
 南北朝時代が成立したことは歴史的事実であるにも関わらず、明治時代の末期に国家主義が台頭すると、万世一系であるはずの天皇が南北に分裂したことは認められないとして、南朝を正統と見なし北朝を閏位(じゅんい)つまり正統でない君位であるとする南北朝正閏論がおこった。これについては、下の資料に詳しく書かれてあるのでそれを参照してほしいが、とにもかくにも国家が学問や教育に干渉することは大きな問題といえるであろう。
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(山川出版社「詳説 日本史研究」より)

2) 幕府の開設
 尊氏は、建武式目を制定して政治の基本方針を示し、1338年に征夷大将軍となって京都に幕府を開き、足利氏一門を守護に登用して地方支配の強化につとめた。

3) 観応の擾乱(じょうらん)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 初期の幕府政治は、尊氏と弟の足利直義(ただよし)とが職務を分担して行う二頭政治であった。尊氏は軍事指揮権をにぎり、全国の御家人を支配した。直義は裁判権や行政権を行使した。しかし、急進的な改革をのぞむ尊氏の執事高師直(こうのもろなお)と、これまでの秩序を維持しようとする直義とが対立し、1350年、観応の擾乱と呼ばれる幕府を二分するはげしい争いとなった。高師直と直義がともに亡くなり、争いはいったんおさまるが、両派の対立はその後もつづき、幕府の混乱ぶりをついて南朝方が京都を一時占領するなど、内乱はさらに長期化した。
 南北朝内乱期は今までの価値観が大きく変化した時代であり、武士の朝廷に対する見方も大きく変わった。
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(山川出版社「詳説 日本史研究」より)

 また、当時、佐々木道誉(どうよ)に代表されるような婆娑羅(バサラ)大名とよばれる者も現れた。バサラの語源はサンスクリット語にあるとされるが、その意味は華美な服装で飾り立てた伊達な風体や、勝手気ままな遠慮のない振る舞いなどを言う。佐々木一族の豪勢な暮らしぶりは有名で、いつも金銀・あや・錦で飾り立て派手な服装をして、京都の内外をのし歩いた。彼にまつわるエピソードを載せてみるが、この話からこの時代がいかに今までの価値観と違っているかを感じ取ってほしい。
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(ほるぷ出版「日本の歴史2」より)
 
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 第24回日本史講座は7月25日(土)午後2時より、受講者9名で行われました。
 
 Ⅱ 南北朝の内乱と室町幕府
1 建武の新政
1) 後醍醐天皇の専制政治
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 
 後醍醐天皇は、延喜・天暦(えんぎ・てんりゃく)の治(ち)を天皇みずから政治を行った理想の時代とみなし、公家と武家とを統一した新しい政治を行おうとしたが、これを建武の新政をと呼んでいる。
 天皇は中央には記録所と、倒幕に参加した武士らの恩賞要求にこたえるために恩賞方(おんしょうがた)を設けた。しかし、最終決定にはすべて天皇の命令を直接伝える文書である綸旨(りんじ)が必要だったため、政務の停滞をまねいたことにより、新たに所領関係の裁判を行うための雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)が設けられた。
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(東京書籍「図説日本史」より)

 各国には国司と守護を置いて統治するとともに、鎌倉幕府の拠点であった奥羽や東国をおさえるために、北畠顕家(きたばたけあきいえ)が陸奥将軍府をつくると、足利尊氏の弟の足利直義(ただよし)も鎌倉将軍府をつくり争った。

2)新政府への不満
 建武の新政は後醍醐天皇の専制政治であったため、武家社会の慣習を無視した政策が多く、また、天皇が家柄や官位を無視して、自由に官職の任免を行ったので、武家だけでなく公家の反発も強かった。さらに、大内裏造営や新政策を実施するための費用を増税によってまかなおうとしたので、農民からも不満の声があがった。若狭国(わかさこく)太良(たら)荘の農民が領家の東寺に提出した申状(もうしじょう)によれば、新政権になって生活が楽になるかと期待したが、新しい税が課されて、ますます困窮したと不平を述べている。
 新政府に対する不満は有名な二条河原の落書(らくしょ)にその具体例をうかがうことができる。
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(三省堂「日本史B」より)
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(山川出版社「小説日本史研究」より)

3) 足利尊氏の挙兵
 建武の新政に対する不満が高まるとともに、倒幕の功労者である足利尊氏と護良親王(もりよししんのう)とが鋭く対立しており、政治運営は混乱し、各地で反乱が起き、1335年には北条高時(たかとき)の子時行(ときゆき)が関東で大規模な反乱を起こした。この反乱を中先代の乱と呼ぶが、それは、北条氏を先代、足利氏を後代とし、その間にあって、一時的に鎌倉を支配したことから中先代の乱と呼ばれている。幕府の再興をめざした足利尊氏はこの反乱を鎮めるという口実で、鎌倉に下り、反乱鎮圧後、建武の新政に反旗をひるがえした。
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6 鎌倉幕府の滅亡
1) 後醍醐天皇の討幕運動
 後醍醐天皇は、幕府の全国支配がゆらいでいる情勢をみて、1324(正中元)年と1331(元弘2)年の二度にわたって倒幕計画を推し進めたが失敗した。これを正中の変、元弘の変と呼んでいる。後醍醐天皇は、1332年に隠岐に流され、持明院統の光厳(こうごん)天皇が即位した。
2) 反乱の拡大
 しかし、これをきっかけに北条氏に不平を持つ武士、とくに畿内の悪党の動きは活発となった。後醍醐天皇の子護良親王(もりよししんのう)が僧兵を動員して倒幕を呼びかけると、河内の悪党と思われる楠木正成は千早(ちはや)城を拠点としてこれにおうじた。幕府はこの鎮圧に手こずり、鎌倉から鎮圧軍を派遣した。
3) 鎌倉幕府の滅亡
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(三省堂「日本史B」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 しかし、有力御家人で反乱鎮圧の指揮官であった足利尊氏(あしかがたかうじ)が天皇方についたため、六波羅探題が攻め落とされた。東国でも上野(こうづけ)の御家人新田義貞(にったよしさだ)が反駁府の武士とともに鎌倉を攻めて北条氏を倒し、九州でも有力武士が鎮西探題を攻略した。こうして、1333年、約150年つづいた鎌倉幕府は滅亡した。

 次回の第24回日本史講座は、7月25日(土)午後2時よりおこなう予定です。
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5 両統迭立と幕府の動揺
1) 天皇家の対立
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(三省堂「日本史B」より)

 後嵯峨上皇の死後、天皇家では後深草天皇にはじまる持明院統(じみょういんとう)と亀山天皇にはじまる大覚寺統の二つに分かれて、皇位の継承をめぐって争ったが、その背景には巨大な皇室領荘園の相続問題がからんでいた。幕府の調停によって、両統が交代で皇位につくようになったがこれを両統迭立(りょうとうてつりつ)と呼ぶ。
2) 後醍醐天皇の親政
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 14世紀初め、大覚寺統の後醍醐天皇は、皇帝が絶大な権力をもつ中国の宋の政治運営に強い影響をうけ、朝廷の人事を一新して、一般政務を行う記録所を再興し、天皇親政を強力に推し進めた。 
3) 幕府の動揺
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 このころ、畿内近国では、幕府に不満を持つ御家人や楠木正成(くすのきまさしげ)らの中・小武士が悪党と呼ばれる集団をつくって、幕府に反発する動きを強めた。
 1316年に北条高時が執権につくと内管領(ないかんれい)長崎高資(たかすけ)が政治を主導したため、御家人らの得宗専制への信頼は失われていった。そして、奥羽でも御内人の津軽の安藤氏が相続争いから周辺の蝦夷をまきこんで反乱を起こすなど、幕府の全国支配は大きくゆらいだ。
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4 永仁の徳政令
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(三省堂「日本史B」より)

1) 背景
 このころ、鎌倉幕府を支えていた御家人の生活が窮乏していった。その背景には商品貨幣経済の発展によって消費生活が向上する一方で、御家人に課される負担が増大していったからである。京都大番役や鎌倉番役、さらに蒙古襲来の出陣などにより多大の犠牲を強いられながら恩賞にあずかれなかった御家人も多く現れた。そのうえ、分割相続により所領の細分化によって収入はさらに不足し、所領を質に入れたり、売り払ったりして急場をしのごうとする御家人が増えつつあった。
 一方、商品貨幣経済の発展は武士だけでなく公家や寺院・神社にも影響を与え、荘園公領制がゆらいでいた。
2) 内容
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 幕府と朝廷はともに、裁判の公正化をはかったり、債務関係を取り消し、所領を元の所有者にもどしたりする徳政と呼ばれる政策をおしすすめて支配を維持しようとした。徳政とは、もともと仁政を意味する言葉であったが、しだいに復活・回復と同じ意味となり、さらに鎌倉時代には「本来あるべき姿にもどす」という為政者の政策の用語となっていた。
 ことに幕府は、1297年に永仁の徳政令を出して、窮乏した御家人の救済にに乗り出した。この法律は、御家人所領の売買と質入を禁止するとともに、御家人に売却した土地で売却後20年未満のものは無償で元の持主に返させ、非御家人や庶民に売却した土地はすべて無償で返却させたものである。その目的は、御家人の経済をすくい、その所領の喪失を防ぐことにあって、適用されるのは御家人の所領に対してであった。しかしこれは、一時的な救いとなっても、結局は御家人に対する金融の道をふさぐことになり、御家人の生活はさらに苦しくなったため、翌年には廃止せざるをえなくなった。
 一方、御家人社会内部では分割j相続によって所領が細分化され、御家人が共倒れになることを防ぐため、それを止めて1人の家督の相続者すなわち惣領(そうりょう)が家督と合わせて全所領を相続する単独相続が行われるようになり、庶子は惣領に完全に従属するようになっていった。また、それ以前に独立していた惣領家と庶子家とは互いに独立するようになり、武士団の結合が血縁的なものから地縁的なものへと移っていく傾向が生じた。
 ところで私の授業では、分割相続から単独相続への推移について「たわけ者」という言葉の語源を使って説明していた。つまり、田を分けていくと所領は細分化されて共倒れとなるため、田を分ける者は「たわけ者」つまり馬鹿者であるという説明である。しかし、今回の授業でそれを確認するためにインターネットで「たわけ者」の語源を検索してみると、「たわけ」という言葉は、「ばかげたことをする」「ふざける」という意味の動詞「戯く(たわく)」の連用形が名詞となった言葉であるため、「田分け」という説は俗説であると指摘していた。私はこの俗説を信じて生徒に説明していたことになる。しかしこの俗説はかなり広く浸透しているようである。
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 第23回日本史講座は7月11日(土)午後2時より、受講者8名で行われました。
3 幕府政治の変質
1) 得宗の専制
 元寇にさいして、幕府軍を指揮したのは執権北条時宗であったが、彼は北条氏の家督を継ぐ得宗でもあったが、得宗とは義時の法名から由来している。得宗の力は北条時頼の頃から強まっていたが、時宗の時には、得宗の私的な会議であった寄合が、評定会議に変わって幕府政治を主導するほどであった。さらに、得宗の家政をつかさどる家臣である御内人(みうちびと)が幕府政治にも進出して御家人との対立がはげしくなった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

2) 霜月騒動
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 時宗が亡くなり、14歳の北条貞時が執権につくと、御内人を代表する内管領(ないかんれい)の平頼綱(たいらのよりつな)と御家人に人望があった貞時の外祖父の安達泰盛(あだちやすもり)が幕府の主導権をめぐって争い、1285年、泰盛らが滅ぼされたが、これが11月におこったので霜月(しもつき)騒動と呼ばれている。貞時にかわって幕府政治を握ろうとした平頼綱が討たれると、幕府の権力は得宗の貞時のもとに集中した。

3) 全国支配の強化
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 その間、北条氏一門は、評定衆や引付衆の多くを占め、全国の守護の半数近くをにぎり、元の再来にそなえて設置された鎮西探題(ちんぜいたんだい)にも就任するなど、得宗による全国支配は一層強化された。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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  第8章 室町幕府と東アジア
 Ⅰ 蒙古襲来
1 モンゴル帝国の発展
 1206年、モンゴル高原では、チンギス・ハンが諸部族を統一し、その後継者は東ヨーロッパまで及ぶ大帝国を建設した。
 13世紀中頃には、孫のフビライは高麗や吐蕃(チベット)を服属させ、大越(ヴェトナム)にも侵入し、都を大都(北京)に移して、国号を元とし、江南に逃れた南宋や周辺諸国をおびやかした。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 元の侵略に対して、高麗では三別抄(さんべつしょう)と呼ばれる軍隊と、これを支持する民衆が江華島や耽羅(たんら)(済州島)などを拠点として抵抗をつづけ、大越(ベトナム)でも三度にわたる侵入を退けた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2 文永・弘安の役
1) 文永の役
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 元は日本にも朝貢を求めてきたが、幕府はこれを拒否し続けた。元は、三別抄の反乱をしずめると、1274(文永11)年、高麗軍を従え、3万あまりの軍勢で対馬・壱岐を襲い、博多湾にまでおしよせた。幕府は西国の御家人を動員して戦ったが、元軍の集団戦法や火薬を用いた兵器のために苦戦した。しかし、突如襲った大風のため、元軍は大被害を受けて撤退したが、これを文永の役と呼ぶ。

2) 幕府の防衛策
 幕府は、元軍の再来にそなえ、博多湾に石塁(せきるい)をきずいたり、異国警護番役(いこくけいごばんやく)を強化した。さらに幕府は、御家人以外の武士も守護の指揮下に入れ、九州などの守護を北条氏一門に入れ替えた。

3) 弘安の役
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 1281(弘安4)年、南宋を滅ぼした元は、14万の大軍で再び押し寄せてきた。しかし、元軍はまたも大暴風雨によって大被害を受け撤退したが、これを弘安の役と呼ぶ。この二度にわたる元の襲来を元寇と呼んでいるが、なぜ日本は元寇を退けることができたのか、これについて笠原一男氏は次のように指摘している。長い引用文になりますが、大変重要だと思われますので書いていきます。
「元寇は鎌倉武士の勇戦と、たまたまおこった暴風とによりしりぞけることができたが、元の日本遠征計画が挫折した背景には、高麗をはじめとする東アジア諸国の民衆の元への抵抗があったことを見のがすわけにはゆかない。モンゴルの高麗侵入は1231年から1258年まで6次にわたっておこなわれた。この間、高麗は激しい抵抗を示したが、ついに敗れてモンゴルに服属した。この時点でモンゴルは南宋と通交関係のあった日本の服属を求めることとし、高麗にモンゴルの使者の案内と、対日本・対南宋用の造船と徴兵を命じた。しかし、1269年高麗の内部では反モンゴル派のクーデターがおこり、モンゴルは兵をおくって鎮圧したものの、高麗軍の一部である三別抄が南朝鮮の農民一揆と結んで3年余りにわたって抵抗した。そのため、モンゴルの征日計画はおくらされたのである。三別抄の反乱は1273年におわった。ここでいよいよ文永の役がはじまるのである。また、つづく弘安の役は1279年の南宋滅亡をふまえて実施された。フビライの日本遠征計画はその後もあったが、元の支配に対する江南を中心とする中国民衆の一揆や反乱、さらにコーチ(現ベトナム)の反抗などがこれをさまたげたのである。」
 日本が元寇を撃退することができた背景には、朝鮮・中国・ベトナムの民衆の元に対する抵抗があったことを私たちは歴史の教訓として押さえておかなければならない。残念ながらその後の日本の歴史では、元寇を撃退したのは「神風」が吹いたからであると考え、日本は「神の国」と信じてあの無謀な「アジア・太平洋戦争」に突き進み、最後には「神風特攻隊」などで多くの若者を犠牲にしてしまった。歴史から何を学ぶのかということは現在を生きるうえにおいて重要である。

 次回の第23回日本史講座は、7月11日(土)午後2時よりおこなう予定です。
 
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