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3 惣村の形成と町衆の登場
1) 惣村の形成
 農業生産が増大するにつれて、農業用水の利用をめぐる争いや、草木灰(そうもくかい)などを求める農民の共同利用地である入会地(いりあいち)の境界をめぐる争いがおこるようになった。
 室町時代後期には、小百姓(こびゃくしょう)や下人(げにん)が独立して寄合に加わり、村落運営に参加するようになった。農民は領主の不当な要求や隣村との争いや農業の共同作業などをとおして、村落全体の団結を強めながら、惣村(そうそん)とよばれる自治的村落をつくりあげた。惣村の指導者は地侍(じざむらい)とよばれる武士的な性格を持つ有力な名主たちであった。彼らの中から番頭・沙汰人(さたにん)・おとななどとよばれる村役人が選ばれ、惣村は彼らを中心として寄合によって運営された。村の寄合は宮座(みやざ)の建物で開かれることが多く、祭礼の執行はそのおもな仕事であった。そして共有財産の管理・入会地や用水の管理・秩序維持や村の防衛・道路の修理など、村の運営に関する多くのことがらが決められた。もし、村掟(むらおきて)にそむいた場合は寄合への出席を停止されたり、罰金を課されたり、場合によっては村から追放されたりした。
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(三省堂「日本史B」より)

 惣村の活動は、年貢の納入にまで及んだ。年貢は個々の農民が領主に納入する代わりに、百姓請(地下請)といって、惣村が責任を持って年貢を請け負う制度がおこなわれるようになった。さらに惣村では年貢の軽減などを領主に求め、要求が聞き入れられないときには、起請文を作成して「一味神水(いちみしんすい)」(神社の神水に起請文を焼いた灰をまぜて全員で飲み回し、団結して行動する決意をあらわすための儀式)し、逃散や強訴などの抵抗をしばしばおこなった。
2) 町衆の登場
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(東京法令日本史のアーカイブ」より)

 商工業の発展によって、京都や奈良でも都市住民の自治的な結合が強まった。なかでも、全国経済の中心地京都では町衆とよばれる有力住民があらわれた。彼らは商工業者が中心で、同じ地域に住むことでつながりを深めながら町組織をつくり、常設の店舗からなる町を単位とした自治組織をきずいた。後に戦国時代になって廃れていた祇園祭も町衆によって復興されたのである。
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 第26回日本史講座は9月26日(土)午後2時より、受講者9名でおこなわれました。

2 商工業の発達
1) 商品の流通
 農業の発達によって、農村でも手工業が生まれ、農具や鍋・釜などの日用品生産が各地でさかんとなり、その一部は商品として流通するようになった。
2) 産業の発達
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 この頃には日本全国で産業が発達し、各地に特産品が成立していった。製塩業は、塩が食物の保存や調味料として需要が多かったために盛んになった。方法としては、塩田に海水をくみ上げて濃い塩水をつくり、これを煮つめて塩をつくる揚浜式が普及した。酒造業では灘や京都で発展の基礎がきずかれ、絹織物では京都西陣や博多で生産がすすみ、麻織物や紙・陶器・鋳物・油などの特産品が各地に生まれた。また中国から大鋸(おが)が伝わり、製材業がおこった。
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(東京書籍「図説日本史」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)

3) 商業活動の発達
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 手工業生産が活発になると三斎市(さんさいいち)だけでなく、月に6回市を開く六斎市(ろくさいいち)も始まるなど、商業活動もさかんになった。座も独立性を強め、石清水八幡宮を本所とする山城大山崎の油座など、営業税をおさめて販売などの独占権を認めてもらうものが多くなった。この頃、民衆も夜間に灯火を用いて生活し始めていたため、灯火用の油の原料である荏胡麻(えごま)をあつかっていた山城大山崎の油座は、幕府から西日本での荏胡麻の購入と灯火用油の販売の独占権を与えられた。問丸から発展した卸売り業者である問屋や活発な金融活動を反映して酒屋などの中には、土倉(どそう)とよばれる高利貸しを兼ねる者もあらわれた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

4) 交通網の発達
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 遠隔地取り引きが広まり、年貢米などの輸送にはもっぱら船が使われた。明との貿易港である博多や堺、機内の物資集散地である兵庫津(ひょうごつ)(摂津)だけでなく、中国と畿内を結ぶ瀬戸内海や、日本海、鎌倉と京都を結ぶ太平洋などの沿岸でも港町が生まれ、交易網が整備された。陸上では、馬の背に荷を負わせて運ぶ馬借(ばしゃく)や牛馬に荷車を引かせて運ぶ車借(しゃしゃく)などの運送業者もあらわれた。
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(三省堂「日本史B」より)

5)貨幣の流通
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 貨幣の流通がすすみ、為替(かわせ)や年貢の銭納め(ぜんのう)も広まった。室町幕府が貨幣を鋳造しなかったため、商取引にはもっぱら宋銭(そうせん)や明銭が用いられたが、数量がかぎられていた。そのため、粗悪な私鋳銭(しちゅうせん)も出回って受け取りを拒否されるなど、円滑な流通が行われなくなった。そこで幕府や守護大名らは、極端に粗悪な私鋳銭を指定して流通を禁止し、それ以外の私鋳銭を一定の割合で良賎と混ぜ合わせて流通させるようにする撰銭令(えりぜにれい)をたびたび出して、貨幣の確保と流通を促したが、効果はなかなかあがらなかった。
 
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  第9章 下克上の社会と室町文化
 Ⅰ 産業の発達と民衆
1 農業の発達
1) 稲の品種改良
 鎌倉時代末期から室町時代にかけて、戦乱や自然災害が数多く発生したにも関わらず、農業では、農民らの努力によって稲作を中心に生産が増大した。
 稲の品種改良がすすみ、早稲(わせ)、晩稲(おくて)だけでなく、中稲(なかて)も栽培され、気候に応じて作付けができるようになった。中国から大唐米(だいとうまい)も伝わり、西日本を中心に広まった。大唐米はベトナムのチャンパから伝わったのでチャンパ米ともよばれ、13世紀頃に中国から日本に伝わった。収穫量が多く、虫害や日照りなどにも強い品種で、15世紀には各地に広まった。しかし、粘りけがなく味も淡泊であったため、領主や都市の消費者には人気がなかった。江戸時代には赤米(あかごめ)とよばれて下等品扱いされた。
2) 灌漑施設の整備
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 農業で最も必要な水の問題は、用水路や溜池などの灌漑施設の整備によって解決されていった。川や溜池から水をくみ上げるなげつるべや竜骨車(りゅうこつしゃ)などの揚水具(ようすいぐ)も使われるようになった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

3) 肥料の改良
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 肥料の問題では、鎌倉時代にひきつづいて刈敷(かりしき)や草木灰(そうもくかい)が用いられたほか、人糞尿(じんぷんにょう)や厩肥(きゅうひ)なども広く用いられるようになった。
4) 農具の発達
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 農具も鋤(すき)・鍬(くわ)・鎌(かま)などが広く流通して手に入りやすくなり、上層農民のなかには牛や馬に引かせる犂(からすき)や馬鍬(まぐわ)などを使う者もあらわれた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

5)二毛作の普及
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 こうして、稲作を中心に生産が増大し、全国的に米と麦などの二毛作が広まった。来日した朝鮮使節の宋希璟(そうきけい)の記録によると、機内では米・麦・蕎麦の三毛作もおこなわれていたという。

 次回の第26回日本史講座は、9月26日(土)午後2時よりおこなう予定です。
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4 蝦夷地とアイヌ
1) 鎌倉~室町時代
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 鎌倉幕府滅亡後も安藤(安東)氏の津軽地方の支配は続いていた。その本拠地は土三湊(とさみなと)で、日本海航路の代表的な港であるとともに、北方のアイヌも往来しており、サケや昆布、毛皮などの北海の産物が日本海を通って京都に送られた。
2) 渡島(おしま)半島への進出
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(三省堂「日本史B」より)

 安東氏が土三湊から蝦夷地の渡島半島南部に移ると、次々と移り住むものが現れ、各地の有力者は館主(たてぬし)とよばれる領主となった。こうした動きは、以前から住んでいたアイヌの人々に強い抵抗を引き起こ、1457年には首長コシャマインが蜂起した。この蜂起のきっかけとなったのは、和人の鍛冶屋がアイヌの男性を刺殺したことから始まった。当時、鉄製技術を持たなかったアイヌと鉄製品を交易していたが、アイヌの男性が鍛冶屋に小刀を注文したところ、できあがった製品の質が悪く、価格が高すぎたため争いとなった。怒った鍛冶屋がその小刀でアイヌの男性を殺したのである。1456年に起こったこの殺人事件の後、アイヌは首長であるコシャマインを中心に団結し、1457年5月に和人に対する戦端を開いた。アイヌ軍は当時和人の拠点である道南十二館の内10までを落としたものの、1458年に指導者であるコシャマイン父子が武田(蠣崎)信宏に弓で射殺されるとアイヌ軍は崩壊した。
 この鎮圧にあたった有力館主の蠣崎(かきざき)氏が安藤氏にかわって渡島半島南部の支配を始めるが、その後もアイヌの抵抗は続いた。この蠣崎氏が江戸時代に名前を松前と改め、蝦夷地における唯一の大名となったのである。
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3 琉球王国の成立
1) 成立
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 琉球の国家形成はかなりおくれていたが、14世紀半ば頃に中山(ちゅうざん)・北山(ほくざん)・南山(なんざん)の3王国が成立し、按司(あじ)とよばれる地方豪族がそれぞれ勢力を競っていた。1429年、中山王の尚巴志(しょうはし)が3王国を統一して、首里(しゅり)に王府を置く琉球王国を建設した。
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(三省堂「日本史B」より)

2) 貿易
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 琉球は、海禁政策をとる明王朝になりかわって東南アジアと交易して、明では入手しづらい産物を明に送り込むという役割を担わされていた。そのため、明からジャンク船を与えられるなど朝貢国のなかでもとくに優遇されていた。琉球は明との朝貢関係を中心にしながらも、東アジアと東南アジアとを結ぶ地理的条件を生かして、日本や朝鮮、ルソンやシャム、スマトラとの交易をさかんにおこない、王国を発展させていった。 
 足利将軍は琉球王国に対し、「りうきう国」のよ(世)のぬし(主)へ」という宛名の文書を出し、一応外国の君主であることを認めていた。しかし、当時の東アジア世界での外交文書が共通語としていた中国語(漢文)ではなく、日本と琉球との間では日本語が使われるなど、日本と琉球とは文化的な近隣関係があったと考えられている。
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(山川出版社「日本史の研究」より)
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2 日明・日朝貿易
1) 日明貿易
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 足利義満が将軍になった1368年、中国では朱元璋(洪武帝)が元を北方に撃退して、明王朝を建国した。明は、異民族の支配下にあった漢民族の王朝であったため、中華思想による国際秩序である冊封(さくほう)体制をめざし、明に朝貢する国とだけ国交を持った。さらに明は北方民族や倭寇の活動に苦しめられていたため、自国民の自由な海外往来や民間交易を禁じる海禁政策をとった。
 明は日本にも倭寇の取り締まりと朝貢を促した。1401年、足利義満は交易による経済的利益と九州支配の強化を図って、明との国交を開き、1404年から日明貿易がが始まった。この貿易は、「日本国王」である義満が明に朝貢し、明の皇帝が返書と暦(こよみ)を与えるという形式だったため、公家の一部には当初から強い反発があった。また、暦の授受は、宗主国の皇帝が服属国の時間をも掌握することを意味した。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 この貿易には勘合符が用いられ、1404年から1410年まで6回の交易船が派遣された。しかし、4代将軍義持は、卑屈な態度をきらって対明貿易を中止した。だが幕府財政の窮乏により貿易の利を必要とし、6代将軍義教(よしのり)は1432年、日明貿易を再開することにした。貿易の規定もこの時に改定され、10年1回、船は3隻、乗組員は300人とし、勘合符を用いて貿易することになった。これを勘合貿易といい、以後1547年まで11回にわたって勘合船が送られた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 勘合符とは、明が東アジア諸国と行った統制貿易に使用したもので、日明間では、「日本」の2字をわけて日字号勘合、本字号勘合とし、紙に「日字壱号」というように墨印をおし、それを折半して、一方を勘合符、他を勘合底簿とした。日本戦は本字号勘合をたずさえ、明では本字底簿と照合した。明からは日字号勘合を持ってくるわけであるが、実際には来航しなかった。勘合船は10年1回といっても厳密には守られず、船数も1回で10隻に及んだことさえあった。
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(三省堂「日本史B」より)

 勘合船は明の寧波(にんぽう)で査証をうけ、北京で交易にあたった。日本からのおもな輸出品は、銅・硫黄・金・刀剣・扇・漆器などであり、輸入品は銅銭・生糸・絹織物・綿糸・砂糖・陶磁器などであったが、最も利益があったのは生糸で、4~5倍から20倍もの利益があったという。貿易の実権は、初めは幕府の手にあって、幕府の直営船を中心とした。大名や寺社の船も参加を許されたが、応仁の乱後は、大内氏やそれと結ぶ博多商人、細川氏と結ぶ堺商人がもっぱら貿易にあたるようになった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

2) 日朝国交
 南北朝が合体した1392年、朝鮮では、倭寇の鎮圧で武名をあげた李成桂が高麗を滅ぼして朝鮮を建国した。1395年には首都を漢城(現ソウル)とした。朝鮮も日本と国交を開き、交易が始まった。しかし、倭寇の勢いはさかんで、1419年に朝鮮が倭寇の本拠地である対馬を討とうとして、兵船200隻余り、軍兵1万7000名をひきいて襲ったが、これを応永の外寇(がいこう)という。一時、日本との間に緊張が高まったが、両国の通交はつづけられた。
 九州・中国地方の大名たちがさかんに朝鮮に使節を送って貿易の利を得ようとしたので、朝鮮は対馬の宗氏にその統制を依頼し、1443年、宗氏と癸亥約条(きがいやくじょう)(嘉吉条約)を結んで、宗氏の船は1年50隻とし、通信符を用いて貿易することにした。また貿易港も富山浦(ふざんほ)など三浦(さんぽ)に限り、三浦と漢城に倭館を置いた。三浦に定住する日本人は増加し、15世紀末には3000人をこえるにいたった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 朝鮮への輸出品は、銅・硫黄のほか、胡椒・薬材・蘇木・香木などの南海特産物であった。これら南海の産物は琉球の商船が、博多に来航してもたらしたもので、これを博多商人が朝鮮に中継したものである。輸入品の中心となったのは木綿製品であったが、大蔵経も大量に輸入された。木綿は湿気の多い日本の社会に受け入れられ、この後の日本の衣料に大きな影響を与えた。
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 Ⅲ 東アジアとの交流
1 倭寇
1) 中国・朝鮮との交流(13世紀~14世紀)
 日本と中国・朝鮮との交流は、元寇以後も正式の国交はなかったが、いぜん活発に行われていた。僧侶や商人だけでなく、鎌倉幕府・室町幕府も元と交易し、多くの経典や宋銭・元銭、陶磁器などがもたらされ、それらは日本社会に大きな影響を与えた。
 足利尊氏も1341年には、後醍醐天皇の冥福をいのるために建てようとした天龍寺の造営費用を得る目的で、天竜寺船を元に派遣し、銅銭5000貫を獲得した。これは、1325年に鎌倉幕府が建長寺の再建費調達のため、銅銭3000貫の献上を条件に元に派遣した建長寺船にならったものである。
2) 倭寇
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 しかし、14世紀なかばの南北朝内乱で生活を乱された九州や瀬戸内海沿岸の武士や商人のなかに、壱岐・対馬・肥前松浦地方などを根拠地に大陸や朝鮮半島の沿岸で人や米などを略奪する海賊行為や密貿易を行う者が現れた。彼らは倭寇とよばれて人々から恐れられた。倭寇は朝鮮や明の人々がよんだ日本人の海賊の名称である。倭寇の活動は、14~15世紀にかけて日本人が中心であった前期倭寇と、16世紀にかけて中国人が中心となる後期倭寇とに分けられている。
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6 幕府政治の展開
1) 3大将軍足利義満
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 3大将軍となった義満は幕府を安定させるために二つの方法により専制的な政治を行った。その一つは有力守護を武力によって抑えることである。1390年には、美濃・尾張・伊勢三国の守護土岐康行(ときやすゆき)を徴発してこれを討伐し(土岐氏の乱)、翌年には山名氏清(うじきよ)を徴発して倒し(明徳の乱)、1399年には大内義弘を刺激して、これを堺に攻め滅ぼした(応永の乱)。
 第二の方法は、天皇権威の利用である。義満は1394年、将軍職を子の義持に譲ると太政大臣に任ぜられ、1407年には自分の妻を皇后などに準ずる准母(じゅんぼ)とし、翌年には北山第(てい)に後小松天皇をむかえ、ついで自分の子の義嗣(よしつぐ)を親王の儀式によって元服させた。さらに彼は、上皇の尊号まで朝廷に要求したほどで、こうして皇室に接近することによって、自己の支配を権威づけようとしたのである。
2) 4大将軍足利義持
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(ウィキペディアより)
 4代将軍足利義持は、父の義満とは逆に、有力守護大名との合議によって政治をすすめ、幕府政治を安定させた。しかし、1416年、鎌倉公方足利持氏(もちうじ)に不平をもった関東管領上杉氏憲(うじのり)が鎌倉で反乱するという(上杉禅秀の乱)が起こり、鎌倉府との関係が問題になってきた。
3) 6大将軍足利義教(よしのり)
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(ウィキペディアより)
 5大将軍義量(よしかず)は、17歳で将軍となったが、在職3年で病死した。6代将軍となったのは天台座主(ざす)から還俗(げんぞく)した義教であった。義量の死後、実権を握っていたのは父の義持であったが、彼が危篤に陥っても後継者の指名を拒否したため、有力な群臣たちにより、義持の弟4名の中からくじ引きで決定された。そのため義持はくじ引き将軍と呼ばれた。くじで決定された将軍に対して鎌倉公方持氏は公然と反抗し、義教はまた将軍権力の強化をねらって専制政治を強行した。こうしてまず1438年、持氏の反乱、永享(えいきょう)の乱がおこった。義教は関東管領上杉憲実(のりざね)と協力の上、大軍を送って1439年、持氏を滅ぼした。そして、1440年には、下総(しもうさ)の結城氏朝(ゆうきうじとも)が上杉憲実に反抗し、持氏の遺子を奉じて幕府に対し反乱を起こした。この結城合戦で関東の豪族たちは二派に分裂して混乱状態となり、幕府や鎌倉府の支配力は衰えていった。
 義教のこのような専制政治は守護大名たちの反発を誘い、1441年、播磨・備前・美作(みまさか)の守護をかねていた赤松満祐(みつすけ)が、義教を自邸に招いて謀殺するという嘉吉(かきつ)の乱がおこった。幕府は、山名持豊(もちとよ)を派遣して、播磨にもどった赤松満祐を討伐し、かろうじて事をおさめたが、幕府権力の衰退は誰の目にも明らかとなった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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5 守護と国人
1) 武士社会の変化
 以前、私は第23回日本史講座のまとめ②の「永仁の徳政令」において、御家人の窮乏化の要因として、分割相続により所領が細分化されていったためであると説明した。そして、田を分ける者は愚か者であると言うところから、「たわけ者」という言葉が生まれたという俗説を信じて生徒に教えてきた。しかし、その語源を調べると、「たわけ」という言葉は、「ばかげたことをする」「ふざける」という意味の動詞「戯く(たわく)」の連用形が名詞となった言葉であることがわかった。
 さて、南北朝の内乱のころになると、分割相続から、嫡子(ちゃくし)がすべての所領を相続する単独相続が一般的となった。内乱が長期化するにつれて、武士は、各地に分散する所領を1か所にまとめ、周辺の中小武士たちを家臣にして強固な所領支配をめざすようになった。このような武士を国人(こくじん)とよんでいる。その名は、幕府・守護・荘園領主など外部の支配層に対抗する在地勢力の意味で使われたものである。こうした動きは、分散していた所領の支配を任せられていた庶子が惣領から独立するきっかけとなったため、血縁的な結びつきが弱まり、惣領制はしだいに解体していった。
 国人らは、守護に対抗して農民を支配するために、国人同士で連合した。これを国人一揆または国一揆(くにいっき)と呼んでいる。一揆とは、やり方や種類などが同じであるというような意味であったが、神前で誓約して一致団結した集団というように使われるようになった。
2) 守護
 守護は、元寇以後、鎌倉時代以来の大犯三カ条(大番催促・謀反人・殺害人の逮捕)などの治安維持が主な職務であったが、さらに、刈田狼藉(かりたろうぜき)つまり、所領紛争のさい、所有権を主張して、稲を一方的に刈り取ることであるが、これを取り締まったり、使節遵行(しせつじゅんぎょう)つまり、裁判の判決を強制的に執行する権限などが与えられた。
 南北朝の内乱のなかで、室町幕府は半済令(はんぜいれい)を出して、守護に任国の荘園・公領の年貢の半分を兵粮米(ひょうろうまい)として徴発(ちょうはつ)し、それを国内の武士に分け与える権限を与えた。さらに守護は、幕府が手にした段銭(たんせん)つまり、田畑の面積に応じて課し、貨幣で納めさせた臨時税であるが、この徴収をまかされるようになり、国内支配を強化していった。そして守護は、国衙(こくが)を掌握して国衙領を守護領とし、荘園領主らは年貢の徴収を守護に請け負わせるようになったが、これを守護請と呼ぶ。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 こうして室町時代の守護は、鎌倉時代よりはるかに強力なものとなり、有力な守護のなかには数か国の守護職をかねる者もあらわれた。このような守護を守護大名と呼び、その支配体制を守護領国制と呼んでいる。
 守護大名は、国人と主従関係を結んで彼らを支配下に置こうとしたが、国一揆と結んだり、将軍直属の軍隊である奉公衆に加わるなど、守護に強く抵抗する国人もいて、強固な主従関係を築くことは難しかった。こうしたことが、室町幕府に対する守護大名の反乱がいずれも失敗する一因にもなった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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 第25回日本史講座は8月の夏休みが終わり、9月12日(土)の午後2時より、受講者8名で行われました。
4 東国と西国
1) 鎌倉府
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 建武政権にかわって政権を握った足利尊氏は、幕府の拠点をどこに置こうとしたのか。彼は南朝を抑えておくためにも京都に幕府を置くことを考えたのである。しかし、東国支配のため鎌倉府を設け、長官の鎌倉公方(くぼう)には尊氏の子足利基氏(もとうじ)を派遣し、彼の子孫が代々世襲した。公方を補佐する関東管領には足利氏の一族である上杉氏が任じられた。
2) 東北の支配
 奥羽には奥州管領(おうしゅうかんれい)が設けられたが、管領職をめぶる争いがたびたび起こった。そのため、鎌倉府が一時、奥羽を管轄し、鎌倉公方の一族が派遣された。その後、奥州管領にかわって、奥州探題と羽州(うしゅう)探題が任じられたが、両探題とも実力がなく、名ばかりで、有力国人が勢力を伸ばしていった。
3) 九州の支配
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(今川了俊「ウィキペディア」より)

 九州には九州探題が置かれたが、南朝方の後醍醐の子である懐良親王(かねよししんのう)を中心とする征西府(せいせいふ)の勢力が強かった。そのため、幕府は今川了俊(りょうしゅん)を九州探題として送って制圧した。了俊は法名で、正式名は今川貞世(さだよ)である。彼はこの時代のスーパースターといわれる人物で、彼の力によって南朝勢力を制圧して九州に幕府権力を確立したのである。しかし、足利義満に疑われ九州探題を解任された。引退後も、和歌・連歌に才能を発揮しただけでなく、『落書露見』『難太平記』(なんたいへいき)などの著書も残している。彼は長生きして死んだのは87歳であったといわれているが、別の書物には96歳であったという説も残されている。
 彼が解任されると九州探題は衰え、有力守護が割拠するようになった。
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