<   2015年 10月 ( 9 )   > この月の画像一覧

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(「ダイヤモンド社 地球の歩き方 イタリア共和国」より)
 私たちはカプリ島の港から午後1時発の船でソレントへと向かった。
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(カプリ島からソレントへ)
 船は30分でソレントの海岸に着いた。
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(ソレントの海岸)  
 ソレントの港からシャトルバスで走った後、再び私たちのバスに乗り込んだ。
 ソレントは古い歴史を持った町だ。ギリシア神話によれば、ソレントの海の中には、美しい歌声でユリシーズ(オデッセウス)を誘惑しようとしたセイレーンと呼ばれる上半身が人間の女性で下半身が鳥の姿をした妖精たちが住んでいたという。だが、誘惑に失敗して失望した彼女たちは岩礁に姿を変えた。それが現在のソレントからナポリ湾一帯にあるガッリ諸島になったと言いつたえられている。そして、セイレーンからソレントという名前になったのである。「帰れソレントへ」というイタリア民謡(カンツォーネ)は1902年9月15日にソレントを訪れた、時のイタリア首相ジュゼッペ・ザナルデッリのために作曲されたものである。 
 私たちはソレントからバスで世界遺産のアマルフィへと向かったが、バスの中ではイタリア民謡(カンツォーネ)が流れていた。
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(ソレントからアマルフィへ)
 先日の山火事のために、小説や映画の舞台となっている華やかなリゾート地であるボジターノを見渡せる絶景ポイントを通ることができなかった。私たちのバスは山火事のために別のルートを通ってアマルフィへと向かった。狭い道をくねくねと回りりながらバスがアマルフィ海岸に到着したのは午後3時45分頃であった。ここでは午後5時まで自由散策となっている。
 私たち夫婦はここで最も有名なドゥオーモ(大聖堂)へと向かった。
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(アマルフィのドゥオーモ)
 残念ながらドゥオーモのなかに入ることができなかった。このドゥオーモは9世紀に建設されたが、7回も改修され、ロマネスク、バロック、イスラーム、ロココ、ゴシック、ビザンチンなど様々な建築様式が混在したものであるらしい。私たちはドゥオーモの脇を抜けて坂道を上がっていったが、そこにはアマルフィの町をコンパクトにあらわした模型が置かれていた。
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(アマルフィの町の模型)
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(アマルフィの町の模型)
 私たちは白い壁に細い路地が続く旧市街をさらに上っていった。
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(細い路地が続く旧市街)
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(細い路地が続く旧市街)
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(家が崖に沿って建てられている)
 
 
 
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 青の洞窟見学で不思議に思ったことがある。ナポリからカプリ島行きのフェリーには沢山の観光客が乗っていたのに、青の洞窟に向かったのは日本人ばかりであった。日本人以外の観光客には青の洞窟は魅力がないのか、それとも日本人が「カプリ島の見所は青の洞窟」という宣伝にあおられているだけなのかよくわからない。もし中国人や韓国人のツアーが青の洞窟に魅力を感じて殺到してきたら大変なことになる。私たちのツアーの参加者で青の洞窟見学に来たのは3回目で、三度目の正直でやっと洞窟の中に入れたという人がいた。今後、地球温暖化によって海水面が上昇すると青の洞窟にはますます入れなくなってしまう。そうすると洞窟見学ツアーは成り立たなくなり、船頭さんの仕事もなくなってしまう。添乗員さんの話によると、「東日本大震災」の時に、ここの船頭さんたちが中心となって支援のカンパを送ってくれたとのことである。
 今回、私たちは添乗員さんが1番のくじを引いてくれたおかげで真っ先に洞窟見学ができた。私たちが洞窟見学をした後に波が高くなり、その後洞窟見学は中止となったらしい。私たちは本当に幸運であった。洞窟見学ができただけではなく、カプリ島の見学までできたのである。
 カプリ島の道路が狭いため、専用の小型のバスに乗らなければならない。私たちはこの島の一番高いソラーロ山に向かって専用の小型バスに乗り、さらにリフトに乗り換えて山頂をめざした。
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(リフトから眺めた景色)
 カプリ島は古代ローマ時代のアウグストゥスやティベリウスなどの皇帝が愛し、別荘を建てた島として有名であるが、今もこの島には富豪の別荘がある。
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(リフトから富豪の別荘が見える)
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(リフトから富豪の別荘が見える)
 スキー場にあるような1人乗りのリフトに10分ほど乗っているとようやく頂上に着いた。山頂から眺めた景色は最高だった。
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(山頂から眺めた景色)
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(山頂から眺めた景色)
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(島の向こう側に見えるのが歌で有名なソレント半島)
 私たちは再びリフトで集合場所であるリフト乗り場へと下った。
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(私たちが乗ったリフト)
 私たちはカプリ島のレストランで早めのお昼を食べてフェリーでソレントへと向かった。
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(お昼を食べたレストラン)
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(観光3日目)
 10月13日(火)の午前7時に私たちはホテルを出発し、バスでナポリのベヴェレッロ港へと向かった。港には30分足らずで到着したが、港から見た朝日を浴びたヴェスヴィオ山はとてもきれいだった。
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(港から見える朝日を浴びたヴェスヴィオ山)
 私たちは港からフェリーに乗ってカプリ島へと向かった。
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(私たちが乗ったフェリー)
 1時間30分でフェリーはカプリ島のマリーナ・グランデ港に到着した。ここから私たちはモーターボートに乗り換え、青の洞窟の近くまで行く。昨日は波が高かったので洞窟には入れなかったという情報を聞いた。今日、入れるかどうかは行ってみなければわからないということだ。ボートからアナカプリの丘が見えた。
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(ボートから見たアナカプリの丘)
 また、ボートからカプリ島に残る古代ローマの遺跡も見えた。
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(古代ローマの遺跡)
 青の洞窟の近くに行くと手漕きのボートに乗り換えなければならない。今日は幸運なことに洞窟に入れるらしい。ただし、波が高くなるとせっかく洞窟の手前までいっても引き返さなければならないときもあるらしい。私たち夫婦はもう一組の夫婦4名でボートに乗り込んだ。添乗員さんのアドバイスで船頭さんには1人1ユーロのチップをあげてくれということであった。
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(洞窟の前でボートに乗り込んだツアー仲間)
 洞窟の入口が狭いため私たちはボートに寝ころばなければならない。私たちの船頭さんは洞窟を2周するからチップを2ユーロにしてくれと交渉してきた。私たちは承諾していよいよ狭い洞窟の入口へと向かった。船頭さんは洞窟の入口に来ると櫂を手放して、洞窟につながれている鉄の鎖を引いて洞窟の中へと入った。
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(青の洞窟の中)
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(青の洞窟の中)
 洞窟の中は広く、何台かのボートが入っていた。洞窟のなかは暗く、海面をのぞいてみると神秘的な青色をしていた。洞窟の海面が青く見えるのは、洞窟の狭い入口から差し込む太陽光線が石灰岩の白い海底に反射し、青く輝いて見えるのである。
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(洞窟内の海面)
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(洞窟内の海面)
 船頭さんはボートを漕ぎながら、ナポリの歌謡である「フニクリフニクラ」を歌ってくれた。私も一緒に大きな声で日本語で歌い出すと、船頭さんは大変喜んでくれた。ボートは洞窟内を2周すると再び鉄の鎖を使って洞窟の外へと出た。私たちはチップを1人2ユーロずつわたすと船頭さんは喜んでくれ、特に私には握手を求めてきた。
 ところで、「フニクリフニクラ」はナポリ民謡ではなく、1880年にヴェスヴィオ山の山頂までの登山電車が敷設されたときに創られた世界最初のコマーシャルソングである。今の日本の若者はこの歌を知らないが、曲は「鬼のパンツ」としてみんな知っている。
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(洞窟の上の方から見た洞窟見学の様子)
 青の洞窟の見学には大変時間がかかる。なぜなら洞窟に入れるボートの数が限られており、また入口が狭いためボートの出入りに時間がかかるからである。今日の午前中に、青の洞窟の見学に来た日本のグループは5組もあり、そのグループの添乗員さんたちのくじ引きによって行く順番を決めるのである。私たちの添乗員さんは1番のくじを引いたおかげで、私たちは待たずに洞窟にはいることができたのである。早く青の洞窟の見学ができたために、カプリ島の見学をすることが可能になった。私たちはアナカプリの丘への見学へと向かった。
 
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 ここで購入したガイドブックによると、古い街は、バリサーロとカヴェオーソと呼ばれる区域に分かれ、巨大な峡谷に沿って形成されている。
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(グラヴィーナ渓谷)
 カヴェオーソ地区にサッシ住宅を再現した資料館があるが、これは1956年まで住居として使われていたとのことである。この資料館は「カーサ・グロッタ(洞窟の家)」という名で1700年初期に造られたものである。
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(洞窟の家の入口)
 私たち夫婦は以前チュニジアで穴蔵住居を見学したが、今回のサッシはそれとは大きく異なっていた。一番驚いたのは、この狭い洞窟に馬などの家畜と一緒に住んでいたことである。
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(家畜との同居)
 狭い洞窟での家畜との同居は、生活空間をより効率よくしなければならないためにトイレを設置することができなくて、ベッドの横に便器を置いている。女性もこの便器で用をたすのであろうか。
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(ベッドの横に置かれた便器)
 室内のスペースがないために日常生活に必要な道具は洞窟の壁に掛けられていた。
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(壁に掛けられた道具類)
 室内には機織りの道具も置かれていた。
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(機織りの道具)
 機織りの横には洗濯板やバケツが置かれていた。
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(洗濯板やバケツ)
 室内には木製のタンスもあった。
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(木製のタンス)
 室内には台所が設置されていた。
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(台所)
 「カーサ・グロッタ」を出ると、グラヴィーナ渓谷がすぐ近くに見えた。
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(グラヴィーナ渓谷)
 私たちはお昼を食べにレストランへと向かったが、その途中で博物館のような立派な建物の入口に書かれた「マテーラ 2019」という文字が目についた。ガイドのルナさんに聞いてみると、マテーラが2019年のヨーロッパ文化首都に選ばれたとのことである。
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(「マテーラ 2019」と書かれている建造物)
ところでルナさんの母親はこのサッシに住んでいたので、彼女もサッシについてはかなり詳しく知っていた。サッシには道路や水道はなかったが、ムッソリーニの時代に造られたということだ。サッシには貧しい人が住んでいたので、平均の子ども数は6人ぐらいだったらしい。サッシがスラム化したので政府は1956年までに強制撤去をおこなったが、1980年代になってサッシを改造して貸し出すようになり、現在、サッシには50%の人が住んでいるとのことだ。
 ガイドブックによると、マテーラという名の由来には、母なる大地という意味を持つ「MATHER」に由来するというもの。または、ローマ時代の歴史的な町「マテオラ」からというもので、この名はギリシア語の「MATAIOS OLOS)(地理学上では、この地域は完全に空虚であるという意味)からついたもの。最近の別の説によれば、ラテン語の「MATERIA-AE」に由来するものだということであり、これはこのあたりが広く森に覆われていることを強調する。次ぎにマテーラの人口は約58、000人。サッシの住民は、サッシが放棄される前は23,000人だったが、今は約350家族が住んでいる。サッシで撮影された映画で有名なものは、「パッション」であると書かれている。
 レストランのテラスからバリサーロ地区のサッシが見えた。
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(バリサーロ地区のサッシ)
 レストランでの昼食後、私たちは「サン フランチェスコ アッシジ教会」を撮影した。パンフレットによると、この教会は13世紀の初めに建立されたが、バロック様式のファサード(正面)が造られたのは1750年のことである。
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(サン フランチェスコ アッシジ教会)
 ファサードにには聖フランチェスコの像がたっており、他方には聖アントニオ、その間には聖母マリアの像がある。
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(サン フランチェスコ アッシジ教会)
 教会を撮影した後、私たちはバスに戻り、ナポリに向けて出発した。ナポリまでは約254㎞で、所要時間は約4時間の行程である。途中のトイレ休憩で眺めた景色は素晴らしかった。
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(トイレ休憩で見た景色)
 ナポリに近づいてくるとヴェスヴィオ山がバスの窓からきれいに見えた。
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(窓から見たヴェスヴィオ山)
 ナポリの町には午後6時頃に着いたが、交通渋滞が激しくバスは路面電車の線路の中を走っていた。
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(路面電車の線路の中をバスが走っている)
 ようやく午後7時頃にレストランに到着たが、夕食のメニューはナポリの代表的なピッツァマルゲリータであった。
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(マルゲリータ)
 マルゲリータは美味しかったが、余りの大きさに私は3分の2を食べるのがやっとだった。ツアーのほとんどの人が残していた。夕食後、私たちはホテルに入った。いよいよ明日はカプリ島の青の洞窟であるが、天候などのために洞窟にはなかなか入れないらしい。明日の幸運を祈った。
 
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 ホテルで朝食を食べた後、私たちはバスで世界遺産マテーラへと向かった。アルベロベッロから約70㎞、所要時間は約1時間30分の行程である。
 マテーラはバジリカータ州にある都市で、人口6万人のマテーラ県の県都である。ここが世界遺産となったのは、サッシと呼ばれる洞窟住居があるからだ。サッシの語源は岩山を意味するイタリア語のサッソの複数形である。サッシは凝灰岩でできており、ここの地層がかつて海の底に沈んでいた事実を示すかのように浮き出た貝殻の化石を見つけることができる。この町で購入したガイドブックによると、マテーラには旧石器時代から人々が住んでいた遺跡があり、青銅器時代の洞窟の遺跡も残されている。やがてローマ帝国の植民都市となったが、帝国の崩壊後は、多くの民族の支配下にはいった。1042年、ノルマン征服後、マテーラにはチヴィタと呼ばれる要塞型の都市形成が進んだ。さらにトルコがイスラーム勢力の支配にはいると、トルコから流れてきたキリスト教の修道士がサッシに住み着き、やがて多くの農民たちもサッシで生活するようになった。その後、サッシには貧しい人達が住み着くようになった。
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(マテーラで見た建造物)
 私たちは最初にマテーラの町を散策した。
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(マテーラの町の様子)
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(市庁舎)
 その後サッシがよく見える高台へと向かった。
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(サッシ群)
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(崩壊したサッシが見える)
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(サッシ群)
 第二次大戦後の1952年に衛生面や経済的な理由から、サッシの住民は一斉退去を余儀なくされ、無人となったサッシは廃墟群と化した。しかし、1993年に世界遺産に登録されると観光地として注目され、サッシ内には洞窟住居を改装したホテルやレストランもでき、今では金持ちがサッシに住んでいるということだ。
 私たちはいよいよサッシのなかを見学することになったが、ガイドをしてくれたのはルナさんという若い現地の女性であった。
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(ガイドのルナさん)
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(サッシの見学)
 サッシには住民たちの共同の庭であるビジナートがある。
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(住民たちの共同の庭ビジナート)
 サッシの壁には貝殻の化石が見えるが、この地層が昔海底であったことがわかる。
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(壁に見える貝殻の化石)
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(観光2日目)
 10月12日の午前7時から私たち夫婦はアルベロベッロの散策に出かけた。前日は日が暮れて写真撮影ができなかったアイアピッコラ地区を再び訪れたが、朝日に輝くトゥルッリはとても美しかった。
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(アイアピッコラ地区)
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(アイアピッコラ地区)
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(アイアピッコラ地区)
 アルベロベッロはイタリアの「かかと」にあたるプーリア地方のバーリ県にある小さな町である。
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(「イタリアのかかと」より)
 「陽子さんの店」で購入した「イタリアのかかと(アルベロベッロを拠点としたプーリア地方の歩き方)」という本によると、この町はアンドレア・マテオ伯爵が新しい領地に「森の女神・アルボルベッリ(ラテン語で美しい木の意味)」と名付け入植させたことに始まる。1600年頃には200人ほどの人口が住み着いていた。やがてこの地は1797年にナポリ王により、自由な独立した市であることが宣言され、翌年の市長選挙によって新しい自治体「アルベロベッロ」という名前が与えられた。「アルボルベッリ」がなまったものとされている。
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(「イタリアのかかと」より)
 トゥルロについては、「その語源であるソロスは、ギリシャ語で「円形の」「ドーム状の建物」といった意味を持つ。このように、建物の分野において、古代ギリシャ文化が地中海沿岸、イタリア南部に広く影響を及ぼしていたことは明らかである。トゥルロ建築の工程で石を一つ一つ積み重ねて球面状に屋根を造り上げていく工法は、墳墓のそれと酷似している。」と「イタリアのかかと」は述べている。
 私たち夫婦は、アイアピッコラ地区から町の中心となる聖メディチコズマエダミアーノ教会へと向かったが、その途中に「地方博物館」があった。
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(地方博物館)
 しばらく歩いているとこの町の大きな案内板が目についた。
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(アルベロベッロの案内板)
 さらに歩いていると町の清掃車を見たが、もう日本では見かけない小型の三輪トラックであった。
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(町の清掃車)
 いよいよ教会に到着したが、この教会は1885年にネオクラッシック様式で建立されたもので、守護聖人聖コズマと聖ダミアーノがまつられている。
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(聖メディチコズマエダミアーノ教会)
 私たちは教会を撮影した後、昨日も訪れた高台へと向かった。高台から見たこの町の景色はとても美しかった。
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(高台から見た景色)
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(高台から見た景色)
 美しい景色を見た後、私たち夫婦はホテルに戻った。
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(観光1日目)
 私たちは関空を10月10日午後10時30分に飛び立ち、イスタンブールで乗り継ぎ、ナポリに到着したのは11日の現地時間の午前12時であった。予定では10時45分と書いてあるので1時間15分も遅れたことになる。私たちはナポリの飛行場でバスに乗り換えてすぐにアルベロベッロへと向かった。ナポリから約319㎞、所要時間は約4時間の行程である。
 バスは午後4時30分にアルベロベッロのホテルに到着した。いったん各自の部屋に入って、30分後の午後5時に集合して世界遺産アルベロベッロの観光へと向かうことになった。今回のツアーでは大きなスーツケースはすべてポーターが運んでくれることになっていた。しかし、今は時間がないので私たち夫婦は自分でスーツケースを部屋に運ぼうとしたが、妻のスーツケースが見あたらない。空港でスーツケースをバスに積み込むときには確認しているのでなくなるはずがない。添乗員さんに調べてもらったら、バスにスーツケースが残っていたという。バスの運転手はサルバトーレというナポリの男で、とにかく話し好きであり、荷物を運ぶときもホテルの誰かと話しに夢中になって荷物をおろし忘れたのであろう。
 私たちは予定通り午後5時にホテルのロビーに集合して徒歩でアルベロベッロの観光へと向かった。この町が世界遺産となったのは、高い円錐形の屋根を持つトゥルッリがあるからである。私たちはトゥルッリがよく見える少し高台になっている所に行って写真撮影をした。
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(高台からトゥルッリがよく見える)
 その後は自由散策となったが、私たちは1000軒ものトゥルッリが並ぶモンティ地区へと歩いた。そこはお土産やさんやレストランが多いところで完全に観光化された地区であった。トゥルッリの屋根には模様が描かれていた。
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(模様が描かれたトゥルッリの屋根)
 この地区には「陽子さんの店」という日本人の女性が経営しているお土産屋さんがあり、そこのお店の屋上に上らせてもらった。
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(お店の屋上から見たトゥルッリの屋根)
 そこのお店でこの地方でしか手に入らない黒ワインを試飲させてもらったが、たいへん美味しかったので1本買うことにした。2本買うとかわいいトゥルッリの形をした瓶に入ったレモンリキュールをプレゼントするというので高い買い物であったが黒ワインを2本購入することにした。
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(黒ワイン)
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(トゥルッリの形をした瓶に入ったレモンリキュール)
 この店の経営者である陽子さんは、11月10日頃のテレビ番組(こんな所に日本人妻という番組か?)に出るのでぜひ見て下さいといっていた。
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(陽子さん)
 その後、「CASA D'AMORE(愛の家)」という1797年の町の独立後建てられた最初の家(独立記念建造物」や市役所などを撮影した。
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(独立記念建造物)
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(市役所)
 ホテルへの帰り道は、400軒のトゥルッリが並びそのほとんどがお店やレストランではなく住居として利用されているアイアピッコラ地区を見学して帰った。


 
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 この旅行記は、私たち夫婦が「JTB旅物語 ボンジョルノ イタリア12日間」のツアーに参加してまとめたものである。参加者は男性8名、女性22名、合計30名という大所帯であったが、個人参加者が1人もいないという珍しいツアーであった。私は30数年前に一度イタリアに行ったことがあるが、その時に憧れのヴェネチアには行けなかった。今回のツアーにはヴェネチアだけでなくカプリ島やトスカーナ地方なども訪れるというので申し込んだ。何人かの参加者にこのツアーを選んだ理由を聞いてみたが、ヴェネチアとアルベロベロに行けるので申し込んだという人が多かった。かなり強行軍の旅行であったが、天候にも恵まれ、また青の洞窟にも入れるなど幸運にも恵まれた旅行であった。
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(添乗員さんが作成)
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(添乗員さんが作成)
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 Ⅱ あいつぐ土一揆と幕府の衰退
1 あいつぐ土一揆
1) 発生の背景
 貨幣経済の進展によって、領主や農民らは高利貸をいとなむ土倉や酒屋・寺院などへの借金返済に苦しんだ。領主は年貢を増やしたり、年貢徴収を高利貸に請け負わせたため、農民のなかには、年貢をおさめられない者や、高利貸からの借金を返せずに土地を手放す者が増えた。馬借や車借らも、領主があらたに関所を設けて関銭(せきせん)を徴収する動きに出たため、生活をおびやかされた。淀川の関所など1年間の通行税が1000貫にも達したというが、当時、米1石が約1貫であったから、現在の物価に換算すると(NHKによる)1石が10万円ぐらいで、約1億円の年収があった。一方、土倉・酒屋や寺院のなかには地主になる者まであらわれた。
2) 土一揆の性質
 畿内近国では、荘園や公領といったこれまでの領域をこえて結びつきを強めた惣村の農民や、運送業者らが土一揆(どいっき)を起こして、借金を棒引きにさせる徳政を要求した。
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(三省堂「日本史B」より)
 1428年、近江坂本の馬借の蜂起をきっかけに起こった正長(しょうちょう)の土一揆(正長の徳政一揆)は、徳政を要求して京都・奈良から畿内近国へと広がり、各地で酒屋・土倉・寺院などにおしよせて、貸借や売買に関する証文をやぶりすて、質物を奪った。正長の土一揆は将軍職が足利義教(よしのり)に代替わりするときにあわせて起こったが、1441年にも嘉吉(かきつ)の乱で義教が殺されて幕府が動揺している時に、嘉吉の土一揆(嘉吉の徳政一揆)が起こった。その背景には、支配者による債務の破棄などの政策が、貧民を救済する徳のある行為とみなされていたので、徳政要求は将軍の代替わりなどのさいに最も強くあらわれた。
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(三省堂「日本史B」より)
3) 幕府の衰退
 京都を中心に畿内近国で数万人が蜂起した土一揆は実力で債務を破棄し、幕府と交渉して徳政令を出させることに成功した。正長と嘉吉の二つの土一揆は、高利貸が被害をうけたため、彼らから土倉役や酒屋役という営業税をとっていた幕府の収入が減少した。畿内近国ではその後も土一揆がおこり、幕府に徳政を要求した。そのため幕府は、負債額や債権額の1割ないし2割をおさめれば、債務は帳消しになったり、債権は保障されるという分一(ぶいち)徳政令を出した。しかし、農民らが支払えることはまれで、結局、高利貸を保護し、幕府が営業税にかわる新たな収入源を確保したにすぎなかった。
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(山川出版「日本史研究」より)

 次回の第27回日本史講座は、10月24日(土)午後2時よりおこなう予定です。
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