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(観光10日目)
 10月20日(火)午前9時、私たちはホテルからバスでミラノ観光へと出発した。ミラノはローマ帝国時代の313年にコンスタンティヌス帝によってキリスト教を公認したミラノ勅令や、ファッションのミラノコレクションなどでも有名な都市である。私の娘も語学留学として2か月だけだが滞在したことがある。
 この都市の歴史は古く、紀元前600年のケルト人の町を元にしている。4世紀のテオドシウス帝の頃には西ローマ帝国の首都でもあった。現在はイタリア第2の都市として商業、工業、金融、観光としても繁栄し、大阪市の姉妹都市でもある。
 今年の5月から10月に渡って開催されたミラノ万博の会場が見えた。
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(ミラノ万博の会場)
 ミラノ万博は「食」をテーマとしており、日本食ブームを背景に日本館の人気がすごいと現地ガイドさんが説明してくれた。
 まず最初に私たちが訪れたのはスフォルツェスコ城である。
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(スフォルツェスコ城)
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(スフォルツェスコ城)
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(スフォルツェスコ城)
 この城は、1450年にミラノ公爵のフランチェスコ・スフォルツァがヴィスコンティ家の居城を改築して建設したものである。その後、16世紀から17世紀にかけて改装・増築され、ヨーロッパでも有数の規模の城塞となった。1796年この地を征服したナポレオンによって一部の施設が破壊されたが、1891年から1905年にかけて、建築家ルカ・ベルトラミらによって修復された。もともとは星型の形状の広大な城郭であったが、現存しているのは元々の面積の4分の1程度以下であり、残りの敷地は公園や道路となっている。
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(スフォルツェスコ城)
 城を見学した後、私たちはバスでドゥオモ(大聖堂)へと向かったが、途中珍しい建物を発見した。
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(珍しい建築物)
 この珍しい建物はマンションであろうか、さすがはファッションの都市ミラノである。バスはまもなくドゥオモ広場に着いた。私たちはドゥオモ広場のそばにあるビットリオ・エマヌエーレ・2世ガッレリアと呼ばれるアーケードにやって来た。
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(ビットリオ・エマヌエーレ・2世ガッレリア)
 ガイドさんの話ではガッレリアとはもともとはトンネルという意味らしい。このアーケードは初代イタリア国王に因んで名付けられたもので、最初に1861年にデザインされ、イタリアの建築家ジュゼッペ・メンゴーニによって1865年から1877年の間に建設された。
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(ビットリオ・エマヌエーレ・2世ガッレリア)
 中央の十字路部分はガラス製のドームで覆われている。この八角形のガラスドーム広場の床面には、中央にイタリア王国の紋章、その周囲に各都市の紋章が描かれている。
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(ミラノの紋章)
 私たちはアーケードを通ってドゥオモ(大聖堂)へと歩いた。ドゥオモの前には大勢の観光客がいた。
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(ドゥオモ)
 このドゥオモはにミラノの君主ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの命により、1386年に着工されたものである。しかし正面が完成したのは19世紀初め、イタリアを征服したナポレオンによってであった。全長158m、翼廊の幅93m、全高108.5mの世界最大のゴシック建築で、聖堂としてはローマのサン・ピエトロ寺院に次いで2番目の1万1700㎡の広さを誇る。
 内部は広くて天井も高く、たくさんのステンドグラスが美しい。
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(ドゥオモの内部)
 ドゥオモの内部を見学した後、自由時間があったので私たち夫婦はドゥオモの屋上に上ることにした。切符を買って屋上に上るとミラノの町がきれいに見えた。
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(屋上に上る途中の景色)
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(屋上から見た景色)
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(屋上から見た景色)
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(屋上から見た景色)
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(屋上に上って)
 ミラノが私たちのイタリア観光の最後であった。レストランでの昼食後、私たちはミラノ空港に行き、イスタンブールを経由して関空に着いたのは10月21日午後7時頃であった。

 長い間「イタリア旅行記」を読んでいただいてグラツィエ(ありがとう)、それでは皆さんアリヴェデールチ(さようなら)


 

 

 
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 私たち夫婦はサンタ・ルチア駅の近くにあるコープ(生協)を探し、そこでお土産のレモンリキュールや山羊の乳から造ったチーズであるペコリーノなどを買った。買い物を済ませた後、私たちはサンマルコ広場の近くにあるホテルに帰ることにした。再び大運河(カナル・グランデ)に架かる橋を渡ったが、橋から見えるヴェネチアの風景は他の町では見ることができない趣があった。
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(橋から見えるヴェネチアの風景)
 大運河をボートに乗っていけばわずかな時間でサンマルコ広場に行くことができるが、歩くと1時間近くかかる。しかし、ヴェネチアの町の路地を歩くのも楽しいものですぐに小さな運河に出会う。
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(小さな運河)
 細い路地を歩いていると時々カンポ(広場)に出てくる。
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(広場)
 広場には古い教会のような建物があった。
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(古い教会の建物か)
 町を歩いていると仮面を作っている工房を見つけたので、許可を得て写真を撮らせてもらった。
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(仮面工房)
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(仮面工房)
 私たちはリアルト橋の近くまで戻ってきたが、橋の近くにはサン・ジャコモ・リアルト教会があった。
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(サン・ジャコモ・リアルト教会)
 この教会は、12世紀に建てられたベネチアにおいて最古の教会である。ゴシック様式の教会であり、ファサード(建物正面)に大きな時計と3つの鐘がある特徴的な外観をしている。
 橋の近くのサン・バルトロメオ広場にはカルロ・ゴルドーニの像が建っていた。
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(カルロ・ゴルドーニの像)
 カルロ・ゴルドーニは18世紀に、ヴェネツィアの大衆的な即興仮面劇を芸術的な喜劇にまで高めた人物である。リアルト橋の周辺は、オペラ・演劇が興隆した中心的場所でもあった。今もオペラや演劇を上演する劇場があり、彼の名前を付けたゴルドーニ劇場も残っている。
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(オペラ劇場入口)
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(ゴルドーニ劇場)
 1時間以上歩いてサンマルコ広場に到着した。広場にある喫茶フローリアンでは演奏が行われていた。
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(喫茶フローリアンでの演奏)
 私たち夫婦はいったんホテルで休憩した後、再びサンマルコ広場から海岸へと向かった。途中にきれいな景色が見える運河の写真を撮った。
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(きれいな運河の景色)
 海岸に到着すると帆船が停泊していた。
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(帆船が停泊)
 午後2時半にホテルに集合となっていたので、私たち夫婦は時間ぎりぎりまできれいな海岸を歩き回った。
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(海岸から鐘楼が見える)
 私たちは予定通り午後2時30分にホテルに集合し、来たときと同じように専用バス乗り場までボートに乗った。
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(バス乗り場までボートに乗った)
 海にはクルーズ船が見えた。
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(クルーズ船)
 これでヴェネチアともお別れである。私たちはボートからバスに乗り換えて次の目的地であるミラノへと向かった。
ヴェネチアからミラノへは約271㎞、バスで約4時間の行程である。ミラノには午後7時に到着し、レストランで食事をした後、ホテルに到着したのは午後9時であった。


 
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 私たち夫婦はサンマルコ寺院の鐘楼からリアルト橋まで歩いたが約20分ほどかかった。リアルト橋は残念ながら工事中であった。
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(工事中のリアルト橋)
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(工事中のリアルト橋)
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(工事中のリアルト橋)
 リアルト橋はヴェネチアにある大運河(カナル・グランデ)に架かっている最も有名な橋である。この橋の周辺は海抜が比較的高く洪水の被害も少ないため、ヴェネチアでは最も早くこの周りに集落ができ商業の中心地となった。 最初は木製の跳ね橋で、銀行や商品取引所で賑わっていたため「富の橋」と呼ばれた。しかし、火災やパレードの見物人の重みで崩壊したので、石造りの橋に変えようと提言された。1557年、ヴェネチア共和国は橋の設計案を一般から募集したが、その中にはミケランジェロもいた。結局、採用されたのはアントニオ・ダ・ポンテの案だった。4年後には長さ48m、幅22m、水面からの高さ7.5mのそりの大きい太鼓橋が完成した。
 私たち夫婦は太鼓橋の上を歩いたが、橋の下には商店街が並んでいた。
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(橋の下の商店街)
 リアルト橋を渡ってしばらく歩いていると若者の集団と出会ったが、彼らは中学生でヴェネチアに遠足に来たのであろうか。
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(若者の集団)
 私たち夫婦がリアルト橋を見学した後に向かったところはサンタ・ルチア駅である。私が若い頃に見て大好きとなった「旅情」という映画には、サンタ・ルチア駅が出てくる。この映画はキャサリン・ヘップバーンが扮するアメリカの女性がヴェネチアに観光にやってきて、ヴェネチアングラスを販売している商店の主人と恋をする。しかしいろいろなことがあり、最終的には女性は彼氏と別れてアメリカへと帰ることを決意する。ラストシーンがこの駅で列車に乗った主人公と彼氏との別れの場面である。
 ヴェネチアは運河の町で船に乗っていくと簡単に目的地に着くことができるが、細い路地を歩いていくと迷路のようでどこを歩いているかわからなくなる。
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(迷路のような細い路地)
 少し歩くとすぐに運河に出会う。
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(小さな運河)
 細い路地を歩いていると仮面を売っている店を見かけた。
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(仮面を売っている店)
 仮面はヴェネチアのカーニバルで被るもので、カーニバルは2月末から3月初めの2週間行われる。
 私たち夫婦は1時間近くヴェネチアの町を歩いてやっとサンタ・ルチア駅に到着した。
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(サンタ・ルチア駅)
 サンタ・ルチア駅へ渡る橋から駅周辺の町の様子を撮影した。
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(サンタ・ルチア駅周辺の町の様子)
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(サンタ・ルチア駅周辺の町の様子)
 駅の構内には切符を買わなくても入ることができる。「旅情」という映画に出てくる駅の構内とはだいぶ様子が違っていた。構内には近代的な列車が並んでいた。
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(列車が並んでいる)
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(列車が並んでいる)
 
 
 
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(観光9日目)
 10月19日(月)
 朝から雨が降っており、せっかくのフリータイムというのに傘を差して歩かなければならないと思った。ところが、朝食を終えて部屋に戻って外を見ると雨は止んでいた。
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(ホテルの部屋の窓から見たヴェネチアの運河と橋)
 私は妻にホテルの外に出て部屋から顔を出している私を撮影してくれるように頼んだ。
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(外からホテルの部屋から顔を出している私を撮影)
 私たち夫婦はサンマルコ広場にある鐘楼に上るためにホテルを出た。サンマルコ広場には歩いて5分ぐらいで着いたが、午前9時前の広場にはほとんど人はいなかった。
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(サンマルコ広場と鐘楼、奥にサンマルコ寺院が見える)
 本島に宿泊する観光客が少なく、また今日が月曜日であり早朝に雨が降っていたことが重なったために観光客の数が少ないのであろうか。映画「旅情」に出てくる喫茶店「フロリアン」の店も閉まっていた。
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(広場にある喫茶店も閉まっていた)
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(喫茶店 フロリアン)
 昨日は観光客でいっぱいだったサンマルコ寺院の前も空いていた。
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(サンマルコ寺院)
 寺院の前にテーブルのようなものが置かれているが、それは海水が満潮になると周りが水につかってしまい、テーブルの上を人が歩くのだとガイドさんが教えてくれた。3日前までここは海水が浸かっていたとのことである。そういえばフィレンツェからヴェネチアに向かう時に、ヴェネチアでは長靴を買わなければならないかもしれないと添乗員さんが話していたことを思い出した。
 私たちは午前9時に鐘楼のチケットを購入してエレベーターで頂上に上った。チケット代は一人8ユーロだった。雨上がりのヴェネチアの町は霞んでいた。
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(鐘楼の頂上から見たヴェネチアの町)
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(時計塔の屋上とサンマルコ寺院の屋根が見える)
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(サン・ジョルジョ・マッジョーレ島が見える)
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(サン・ジョルジョ・マッジョーレ島が大きく見える)
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(サンマルコ寺院の屋根が見える)
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 (小広場の円柱とゴンドラが見える)
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(サンマルコ広場が見える)
 鐘楼には大きな鐘があった。
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(大きな鐘)
 鐘楼を見学した後、私たち夫婦は観光名所となっているリアルト橋へと向かった。
 
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 サンマルコ寺院を見学した後、私たちは寺院の隣にあるドゥカーレ宮殿の外観を見学した。残念ながらこの宮殿の内部見学はツアーには入っていなかった。
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(ドゥカーレ宮殿)
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(ドゥカーレ宮殿)
 ドゥカーレ宮殿は、ヴェネチア共和国総督の政庁として9世紀に建てられたが、何度かの火災により14~16世紀にかけて現在の形に改修された。ゴシック風のアーチが連続し、イスラム建築に見られる細やかな装飾が施されている。
 ドゥカーレ宮殿のすぐそばに溜息橋と呼ばれる橋があった。
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(溜息橋)
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(溜息橋)
 ドゥカーレ宮殿の尋問室と牢獄を結ぶこの橋は、16世紀に白い大理石で造られ、橋には格子のついた窓が付けられている。ため息橋からの眺めは囚人が投獄される前に見るヴェネツィアの最後の景色であった。ため息橋という名前は、独房に入れられる前に窓の外からヴェネツィアの美しい景色を見られるのは最後であるというので囚人がため息をつくというところから付けられたものである。
 溜息橋を見た後、海岸の方に目をやるとサン・ジョルジョ・マッジョーレ島にある同名の教会がきれいに見えた。
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(サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会)
 サンマルコ湾に浮かぶ島の教会は、ベネディクト派の教会として建造されたが、1566年にパッラーディオのもと新たな教会の建設が始まり、1610年にルネッサンス建築を代表する壮麗な建築物として完成されたものである。
 サンマルコ広場の北側には時計塔があった。
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(時計塔)
 15世紀末に完成したこの時計塔の上部にはサンマルコを表す翼のあるライオン像が飾られている。屋上にはブロンズ像の二人のムーア人の自動人形があり、正午になると大きな鐘を打ち鳴らすとのことだが、私たちは鐘の音を聞くことができなかった。
 この後私たちはヴェネチアングラスの工房見学へと向かった。ヴェネチアの運河は道路のようなものであり、絶えずゴンドラが行き来していた。
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(絶えずゴンドラが行き来している)
 ゴンドラの中には楽器を演奏する人もいた。
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(アコーデオンを演奏しているゴンドラ)
 ヴェネチアングラスの工房見学後、私たちもゴンドラに乗り込むために、ゴンドラ乗り場へと向かった。
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(ゴンドラ乗り場)
 ゴンドラは6人乗りで、色はすべて黒と決められている。作家の塩野七生さんの「イタリア異聞」という本によると、ゴンドラは11世紀頃に史料にあらわれたが、12人の漕ぎ手を必要とした大きなものであったらしい。16世紀になると現在の小舟となるが、ゴンドラは金色に塗ったものや内装にも豪華なものまであらわれたらしい。当時のヴェネチアには自家用とタクシーとをあわせて計1万のゴンドラがあったらしい。そしてゴンドラの豪華さを競うようになり、ヴェネチア政府はこれに対し、ゴンドラを黒一色にする法令を出すにいたったということである。
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(ゴンドラに乗って)
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(ゴンドラがつながっている)
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(ゴンドラに乗って)
 ゴンドラの漕ぎ手をゴンドリエレと呼ぶが、彼らが着ているシャツは皆同じであった。ゴンドラに乗った時間はわずか30分ほどであったが、ヴェネチアの運河めぐりを充分満喫できた。
 ゴンドラを体験した後、私たちはレストランで夕食にシーフードフライを食べたが、私の皿にはメインのイカのフライが全くなかった。イタリア人は本当に適当な人達が多く、仕方がないので妻のイカフライをひとつわけてもらったが、美味しかった。夕食後、私たちはサンマルコ広場の近くにあるホテルに泊まった。添乗員さんの話によると、毎年ヴェネチアに来ているが本島に宿泊するのは5年ぶりとのことである。本島は何でも高くつく、ホテルに荷物を運ぶにしても、ボートで運ばなければならないし、橋をわたるにしても大変である。また水も運んでこなければならないので、トイレ代もイタリアの他の地域では50セントだったが、ヴェネチアでは3倍の1、5ユーロもかかる。だから私たちが本島に泊まることができたのは本当にラッキーであった。
 明日の午前中から午後2時30分までフリータイムになっている。明日が楽しみだ。
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 (観光8日目)
 10月18日(日)午前8時、私たちはバスでヴェネチアへと向かった。フィレンツェから約255㎞、約4時間の行程である。
 私たちのバスは午前11時30分頃にヴェネチアに到着した。その後、バスから小さなボートに乗り換えてヴェネチア本島へと向かった。
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(ボートで本島へ)
 ボートから眺めたヴェネチアの町並みはきれいだった。
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(ヴェネチアの町並み)
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(ヴェネチアの町並み)
 ヴェネチアの町には自動車が走るような道路がなく、ゴンドラやボートが自動車の代わりに走っている。
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(ゴンドラが活躍)
 ボートから大きな建物がが見えてきたが、あれはサンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会である。
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(サンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会)
 この教会は、ペストの終焉を感謝して聖母マリアに捧げられた教会である。建築家バルダッサーレ・ロンゲーナの設計で、聖堂が完成したのは1681年である。
 私たちはお昼の12時頃に本島に到着し、早速有名なサンマルコ広場へとやって来た。
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(サンマルコ広場)
 さて、ヴェネチアは英語でベニスと呼び、シェークスピアの「ベニスの商人」は有名である。この町は都市共和国として発展し、13世紀の第4回十字軍では大きな役割を果たすなど、海洋国家として発展した。その歴史は古く、伝説によるとフン族の侵攻を防ぐために本土の住民が干潟(ひがた)へと移り住んだ425年がヴェネチア誕生の年とされている。その後製塩業と水上運送業で発展すると、彼らは12のおもな島からの護民官たちを中心とした政府を組織した。アドリア海沿岸地域は元々東ローマ帝国の支配下にあるため、名目上は東ローマ帝国に属したが、実質的には自治権を持っていた。697年、ヴェネチア人は初代総督を選出して独自の共和政統治を始めた。これがヴェネチア共和国の始まりである。9世紀初め、フランク王国がヴェネチアに侵攻してきたためにヴェネチアの人々はリド島から防衛の容易な現在のヴェネチア本島のリアルトに移してフランク軍を撃退した。
 さて、私たちはサンマルコ広場の近くのレストランで昼食を食べたが、昼食のメニューは名物のイカ墨パスタとひらめのムニエルで、デザートはチョコレートシュークリームだった。昼食後にサンマルコ寺院を見学したが、残念ながら寺院の内部の撮影は禁止されていた。
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(サンマルコ寺院)
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(サンマルコ寺院)
 9世紀になるとヨーロッパ各国では守護聖人を求める風潮があったが、ヴェネチアでも守護聖人を求めていた。その頃、聖マルコの遺骸がエジプトのアレクサンドリアにあり、イスラム教徒に奪われる恐れがあることを聞きつけ、828年にそれをイスラム教徒のタブーとされている豚肉に隠してヴェネチアに運んだとされている。この時よりヴェネチアでは聖マルコを守護聖人とすることになったのである。
 このサンマルコ寺院は聖マルコの遺体を納めるために建てられたビザンチン建築を代表する記念建築物である。サンマルコ寺院の前には立派な鐘楼が建っていた。
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(サンマルコ寺院の鐘楼)
 この鐘楼は高さ98,6mもある。1514年に現在の形で完成しているが、1902年に崩壊したため現在サンマルコ広場に建っているのは1912年に再建されたものである。
 サンマルコ広場から海岸を見ると、小広場に2本の円柱が見えた。
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(2本の円柱) 
 これは、ヴェネチアが海洋国家として発展していた12世紀に建造されたものである。円柱には翼のあるライオンが乗っているが、これは聖マルコをあらわしている。もう一つの円柱に乗っている人物はギリシア出身の聖テオドールである。サンマルコがヴェネチアの守護聖人となる前の守護聖人である。


 
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 私たちはウフィッツィ美術館での鑑賞を終えて、ヴェッキオ橋へと向かった。橋は大勢の観光客でごった返していた。
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(ヴェッキオ橋の人混み)
 前にも書いたように、ヴェッキオ橋には貴金属や宝石店が軒を並べていた。
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(貴金属や宝石店が並ぶヴェッキオ橋)
 橋の上では操り人形などの大道芸人がいた。
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(橋の上での操り人形)
 ヴェッキオ橋からアルノ川とフィレンツェの町がきれいに見えた。
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(アルノ川とフィレンツェの町)
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(アルノ川とフィレンツェの町)
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(アルノ川とフィレンツェの町)
 私たちはヴェッキオ橋から再びシニョーリア広場に来た。前にも触れたが、この広場はフィレンツェにとって最も重要な場所であった。そして広場にはたくさんの彫刻が並んでいおり、ネプチューンの噴水もある。
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(ネプチューンの噴水)
 この彫刻は1575年にバルトロメオ・アンマナーティによって作られた作品である。また、コジモ1世の乗馬像もある。
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(コジモ1世の乗馬像)
 この彫刻は1594年にジャンボローニャによって作られた作品である。しかしこの広場で最も重要な作品は、ミケランジェロのダビデ像であろう。
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(ダビデ像)
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(ダビデ像)
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(ダビデ像)
 ダヴィデとは旧約聖書に出てくるイスラエルの王となった人物である。彼はベツレヘム村に住む羊飼いの少年であったが、ペリシテ人の巨人ゴリアを石投げで倒し、イスラエルを救ったという伝説が残されている。ミケランジェロがフィレンツェ市民からこの作品を依頼されたのは、フィレンツェを追放されたメディチ家が、教皇などと手を結んでフィレンツェへの侵略を推し進めようとしており、それを市民の力で阻止していた時期であった。つまりこの作品は、フィレンツェ共和政の自由と独立を守った記念として造られたものであり、市庁舎前に置かれたのである。市民は高さ5,4mの巨大な大理石像を見たとき、これを室内に入れようとした。それはあまりに素晴らしい作品であったので、雨ざらしにするのを避けたかったからである。しかし、ミケランジェロはそれに反対した。なぜなら、この像はフィレンツェ共和政の自由と独立の精神を象徴するものであり、常に市民の目に触れる場所に置きたかったからである。だから今もダビデ像はここに置かれている。ただし現在、本物はアカデミア美術館に置かれておりこの像はレプリカである。
 シニョーリア広場にはこのほかにもたくさんの彫刻が置かれていた。
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(メデューサの頭を掲げるペルセウス)
 この彫刻はギリシア神話の英雄を扱ったベンヴェヌート・チェッリーニの作品である。
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(サビニの女たちの略奪)
 この彫刻は古代ローマの伝説の挿話を扱ったジャンボローニャの作品である。
 私たちはシニョーリア広場を後にして、レストランへと向かった。夕食はトスカーナ風ステーキであった。夕食後ホテルに戻ったが、明日はいよいよ私がこの旅行で最も期待していたヴェネチィアで、明日が楽しみだ。
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 第5~6室は国際ゴシック絵画の部屋であった。そこには、ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノの作「東方三博士の礼拝」があった。
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(ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノの作「東方三博士の礼拝」)
 作者は国際ゴシック様式を代表する画家の一人で、イタリア絵画の伝統と、細密な写実表現を特色とする北方絵画の影響を受けた作品を残した。この作品は、メディチ家のライバルの大富豪バッラ・ストロッツィがサンタ・トリニタ教会の礼拝堂を飾るためにこの豪勢な絵を依頼したものである。
 部屋を出て、廊下に出ると廊下の窓からアルノ川やドゥオーモのクーポラさらにヴェッキオ橋やフィレンツェの町並みが見えた。
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(美術館の廊下から見えたアルノ川)
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(ドゥオーモのクーポラ)
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(ヴェッキオ橋やフィレンツェの町並)
 第10~14室はボッティチェッリの部屋であった。ここには世界的に有名な「ヴィーナス誕生」や「春」などの作品が展示されていた。
 ボッティチェッリは、初期ルネサンスで最も業績を残したフィレンツェ派の代表的画家である。
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(ヴィーナス誕生)
 「ボッティチェッリはこの作品を描くにあたって、古代の作家ホメロスとヴィルジニア、さらに彼の友人で詩人のポリッツィアーノの詩作からインスピレーションを受けており、キュテラ島からキプロス島にたどりつく神話の女神の別のエピソードを表現したものである」とガイドブックに書かれてある。
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(春)
 「この難解な寓意画はルクレツィオとオヴィディオの古典著作とポリッツィアーノの詩作の花で飾られた三美神とフローラを追いかけるゼフュロスのいる庭園の様子を叙述した詩編からとられた。」とガイドブックに書かれてある。
 第35室は「ミケランジェロとフィレンツェ絵画」の部屋であった。ここにはミケランジェロの「聖家族と幼い洗礼者ヨハネ」の作品があった。
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(聖家族と幼い洗礼者ヨハネ)
 この作品は、「フィレンツェに現存するミケランジェロの唯一の絵で、壁画以外に彼が描いたと断定できる唯一の持ち運び可能な作品であるとされている。当作品はフィレンツェの商人アニョロ・ドーニと妻のマッダレーナのために、娘マリアの誕生の際に描かれたらしい。
 第65室は「ブロズィーノとメディチ家」の部屋であった。ここにはブロズィーノの作品「エレオノーラ・トレドと息子ジョヴァンニの肖像」があった。
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(エレオノーラ・トレドと息子ジョヴァンニの肖像)
 「この肖像画には、メディチ家のコジモ1世の妻エレオノーラ・トレドが第二子のジョヴァンニと共に描かれている。豊穣をシンボルとするザクロの模様が衣装を飾り、高く評価されていた母親の役割を暗示している。また、メディチ宮廷の肖像画家として活躍したブロズィーノによるヴェッキオ宮殿内の彼女の礼拝堂の天井のフレスコ画にもザクロのモチーフが見られる。」と書かれている。
 第66室はラッファエッロの部屋であった。ここには有名な作品「ヒワの聖母」があった。
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(ヒワの聖母)
 この作品は「商人ロレンツォ・ナージの発注で、サンドラ・カニジャーニとの婚礼の際に描かれたものであるが、1547年に邸宅が崩壊し、板絵は損傷を受けた。1504年の末からフィレンツェに滞在した若きラッファエッロは、レオナルド風の背景をバックに、前面中央に人物グループをすえた構図に初めて取り組んだ。聖母は本を手にして座っており、その膝のあいだに立つ息子イエスは幼い洗礼者聖ヨハネが手に持っているヒワ鳥をなでている。」と書かれている。
 この部屋には「教皇レオ10世と枢機卿のジュリオ・デ・メディチとルイジ・デ・ロッシ」という作品があった。
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(教皇レオ10世と枢機卿のジュリオ・デ・メディチとルイジ・デ・ロッシ)
 「レオ10世の肖像画は1518年にローマからフィレンツェに運ばれた。近年の修復の結果、ラッファエッロではない別の画家が二人の枢機卿の姿を後に描き加えたのではないかという仮説が立てられている。」と書かれている。
 第90室はカラヴァッジョの部屋であった。ここには「メドゥーサ」という作品があった。
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(メドゥーサ)
 カラヴァッジョはバロック期のイタリア人の画家で、その作品に見られる肉体面、精神面ともに人間本来の姿を写実的に描く手法と、光と陰の印象的な表現はバロック絵画の形成に大きな影響を与えた。しかし、彼の私生活は波瀾万丈で、暴れて拘置所に何回も送られたり、喧嘩で人を殺したりして、ローマ教皇から死刑の宣告を受けるほどの人物であった。
 メドゥーサとはギリシア神話に登場するゴルゴーン(恐ろしいもの)3姉妹の三女にあたり、女支配者という意味である。この作品は、「ローマにいた呪われた画家カラヴァッジョが後援者デル・モンテ枢機卿からの注文でメディチ家の大公フェルディナへの寄贈品として制作した作品である。この凸状円形の小盾は1601年にペルシアのシャーから大公に贈られた近東製の鎧の片腕に付けられて、1631年にメディチ家の武器庫に展示された。」と書かれている。

 
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 智子さんご結婚おめでとうございます。
 
 素晴らしい結婚式・披露宴にお招きいただきありがとうございました。
 簡単なメッセージと感想を書きますので読んで下さい。

【メッセージ】
 
 智子さん、これからも末永く幸せな結婚生活を送っていくために必要なことは何だとおもいますか。それは相手に対する思いやりだと私は思います。思いやりとは何か、それは相手の立場に立って考えてみることだと思います。これは非常に難しいことでなかなかできないとは思いますが、感情的にならずに冷静になって相手の立場に立って考えて見て下さい。それが夫婦円満の秘訣だと思いますよ。
【感想】
 私は披露宴で二度感動しました。一度は、智子さんの親友の高橋由記さんのメッセージです。彼女のメッセージは、智子さんに対する熱い友情があふれており、智子さんはすばらしい友達を持ったと感じました。二度目は、智子さんの両親へのメッセージです。小学校で智子さんが学校に行けなくなったときに、母親が智子さんを励ますために手紙を書いたこと、そして智子さんがその手紙をその後も大切にして、時々その手紙を読んで励まされたというところですが、本当に母親の優しさを感じました。
【式・披露宴の写真】
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 ドゥオーモを見学した後、私たちはシニョーリア広場を通って、ウフィッツィ美術館へと向かった。シニョーリ広場には、大勢の観光客がいた。
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(シニョーリア広場)
 シニョーリアとはイタリア語で支配、統治、主権などを表す言葉で、古くからのこの広場はフィレンツェの行政の中心であった。共和政のもとでフィレンツェの人々は、ここに集まり議論を戦わせ、挙手によって採決を行ったといわれている。シニョーリア広場に面している要塞を思わせる建物がヴェッキオ宮殿である。
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(ベッキオ宮殿)
 ヴェッキオとは古いという意味で、1299年から1314年にかけてアルノルフォ・ディ・カンビオによって建設され、初めは、フィレンツェ共和国の政庁舎として使われ、一時、メディチ家もピッティ宮殿へ移るまでここを住居としていた。現在も、フィレンツェ市庁舎として使われている。ヴェッキオ宮殿の前にはダビデ像がある。
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(ダビデ像)
 このダビデ像も偽物で、本物はアカデミア美術館にある。ダビデ像の話は後に詳しく述べることにして、とりあえずはウフィッツィ美術館について話を進めたいと思う。
 ウフィッツィ美術館は大変人気があり、館内は大勢の人でごった返しているので、私たちは2グループに分かれ、それぞれガイドを付けて案内してくれた。ガイドさんは二人とも年配の女性で、とても上手に解説してくれた。ウフィッツィ美術館は、かつてメジチ家の事務所が置かれていたために、イタリア語で事務所のことをウフィッツィ(英語ではオフィス)と名付けられた。そのため館内にはメジチ家の紋章が飾られていた。
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(メジチ家の紋章)
 この紋章は丸薬を表しており、それはメジチ家がもともと薬屋から始まったからだという説がある。
 館内にはいると、廊下の窓からヴェッキオ橋がよく見えた。
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(ヴェッキオ橋)
 ヴェッキオ橋は名前の通り、アルノ川にかかるフィレンツェで最も古い橋である。13世紀には、なめし革屋や肉屋が軒を連ねて悪臭を放っていたといわれる。16世紀の終わりにメジチ家のフェルディナンド1世がこれらを立ち退かせて、代わりに貴金属と宝石商が集められ、現在にいたている。
 ウフィッツィ美術館の廊下の天井にはきれいな絵が描かれていた。
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(ウフィッツィ美術館の廊下)
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(廊下の天井の絵)
 私はこの廊下を見て30数年前を思い出した。30数年前にフィレンツェを訪れたときには時間がなく、ウフィッツィ美術館の廊下を走って鑑賞したことを。今回はガイドさんの案内で比較的ゆっくりと鑑賞できた。
 まず最初に入った部屋は第2室「1200年代絵画とジオット」である。
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(ジオット作オンニッサンティの聖母)
 ここで購入した『ガイドブック』によると、この絵画は1310年頃にジオットがオンニッサンティ教会の祭壇のために描いた作品である。「この大きな信仰画はマリアの処女性と母性と威厳に対する賛歌である」と書かれている。
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((ドゥッチョ作 マエスタ)
 この絵画は1285年頃にドゥッチョが、「サンタ・マリア・ノヴェッラ教会の聖母奉賛会の礼拝堂ために描かれた作品で、シエナ出身のこの画家の最初の大作である。」と書かれている。マエスタとは荘厳の聖母という意味である。
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(チマブーエ作 サンタ・トリニタ教会のマエスタ)
 この絵画は1280年~90年頃のチマブーエの作品で、「サンタ・トリニタ教会の大祭壇にどっしりと構え、多くの信者が同時に見ることができるようになっていた。聖母子の両脇に短縮法で描かれた8人の天使が対称的に並んでいる。」と書かれている。

 
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