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(資料②)(「岩波講座世界歴史18 ウィーン体制」より)
問① 地図を見て、ウィーン会議後、領土を拡大したのはどのような国々だと考えられるか。
問② ナポレオン戦争前にはあったが、ウィーン会議後復活しなかった国はどこか。
問③ この地図から、ウィーン体制とはどのような性格を持っていたかを考えよう。
(解説)
 問①は、戦勝国の領土が拡大されたことである。さらにウィーン議定書によれば、ロシアはワルシャワ公国の大部分を併合してポーランド王国をつくり、ロシア皇帝が王位を兼ねる。さらにフィンランドを併合する。プロイセンはザクセンの北部・ラインラント・ワルシャワ公国の一部を得る。オランダはオーストリア領南ネーデルラントを併合し、ネーデルラント王国と称する。オーストリアは南ネーデルラントを放棄するかわりに、ヴェネツィア・ロンバルディアを得る。イギリスはケープ植民地・セイロン島・マルタ島を得る。問②は、神聖ローマ帝国で、ドイツではオーストリア・プロイセンをふくむ35の諸邦国と4つの自由市とが集まって、ドイツ連邦を形成する。問③は、ヨーロッパの列強が民族解放運動を押さえ込んで領土を拡大し、列強間の勢力均衡と平和主義を基調とするもので、革命運動や民族解放運動を押さえ込む保守反動的な体制である。
 ウィーン体制について、斉藤孝氏は「岩波講座世界歴史18 ウィーン体制」のなかで、「正統主義を原則とするウィーン体制も、神聖ローマ帝国をもはや再現することなく、フランスの復古王政が市民社会の理念をも含む憲法をもつことを認め、また、ヨーロッパの領土的処理においても現実的利害に基づく顧慮を優先させていたのであった。そのような意味ではウィーン体制は単純な復古そのものではなかった。」と指摘する。
2 ウィーン体制の維持
問 ウィーン体制を維持するために作られた組織を二つあげなさい。またそれは、それぞれどのような組織だったのか調べてみよう。
(解説)
 ウィーン体制は、革命の方向に逆行する、復古主義的な国際政治体制であった。これを維持していくには、各国の指導者が協調をはかって、諸国内に台頭しつつある自由主義運動を抑圧しなければならなかった。ウィーン体制の指導者メッテルニヒは、神聖同盟と四国同盟を利用して、体制の維持をはかった。
 神聖同盟は、1815年9月、ロシア皇帝アレクサンドル1世の提唱で成立したが、それはキリスト教の正義・友愛の精神をもって、列国君主が強調し、平和の維持をはかろうとするものである。イギリス・ローマ教皇・オスマン帝国以外の全ヨーロッパの君主が参加した、保守的な国際協調精神のあらわれといえる。
 四国同盟は、1815年11月、メッテルニヒの提唱により、イギリス・プロイセン・ロシア・オーストリアの4か国の間で成立したが、1818年にはフランスもこれに加盟し五国同盟となった。これは、ヨーロッパの現状維持とウィーン体制の擁護を目的とし、自由主義・国民主義運動を抑圧した。
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 「ウィーン体制をどう教えるか」は、2015年11月24日に大阪歴史教育者協議会世界史部会で私が報告したものです。
【授業のねらい】
① ウィーン会議は何の目的で開かれ、その指導理念となった正統主義とは何か。
② ウィーン体制とはどのような体制であったのか、そして、その支柱となった神聖同盟や四国同盟とは何か。
③ ウィーン体制のもとで、ドイツではブルシェンシャフト、イタリアではカルボナリ、ロシアではデカブリストの乱が起こったが、それはそれぞれどのような運動であったか。
④ ウィーン体制のもとで、なぜラテンアメリカ諸国の独立が達成されていったのか。
⑤ ウィーン体制のもとで、なぜギリシアが独立を達成できたのか。
【授業展開】
 Ⅰ ウィーン体制の成立
1 ウィーン会議
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(資料①)(ウィーン会議の風刺画)
問① 左の6人の人物は誰か、次の中から選びなさい。〔ザクセン王・カースルレー(英)・
アレクサンドル1世(露)・オーストリア皇帝・プロイセン王・タレーラン(仏)〕
問② 彼らは何をしているのか。
問③ この会議の目的は何か。
問④ この会議を指導したのは誰か。
問⑤ この会議はなぜ進展しなかったのか。
問⑥ この会議の指導理念となった正統主義とは何か、また、それを主張したのは誰か。
(解説)
 問①は、左からタレーラン・カースルレー・オーストリア皇帝(フランツ1世)・アレクサンドル1世(露)・プロイセン王(ヴィルヘルム3世)・ザクセン王(アウグスト1世)である。問②は、各国の皇族・王族・貴族が社交として宴会や舞踏会に集い「会議は踊る」光景である。しかし、その背景にはフランス革命やナポレオン戦争で追いやられた封建的・絶対主義的勢力が復活した喜びをあらわしているのではないか。問③は、フランス革命・ナポレオン戦争後のヨーロッパの国際秩序を再建するための国際会議である。問④は、オーストリアの外相メッテルニヒである。問⑤は、領土をめぐる大国間の利害が対立したからである。問⑥はタレーランで、その内容は、フランス革命前の王位・王国を正統とし、革命前の国際秩序に復帰させようとする主張である。フランスは敗戦国でありながら、出席を許され、タレーランは、列強の対立を利用した巧みな外交手腕を持ってフランスの利益を守った。
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5)共和政の成立
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(資料7)(第一学習社「最新世界史図表」より)
問① (資料7)で処刑されているのは誰ですか。
問② なぜ処刑されたのですか。
問③ 彼の処刑によってフランスの政治はどのようにかわりましたか。
問④ 彼は処刑されるべきであったと思いますか。
問⑤ 彼の処刑の歴史的意味について考えよう。
(解説)小林氏の前掲書によると、国民公会では約400名の平原派がいて議場の真ん中に座っており、それをはさんでジロンド派が右にそして左にジャコバン派が座っていた。それぞれ約150名から200名ほどにまとまって座っていた。保守派を右派、革新派を左派と呼ぶのはここからきている。ジャコバン派というのはジャコバン=クラブからきた呼び名で、ジャコバン派の最も急進的な一派は議場の高い位置に席を占めていたので、山岳派(モンタニャール)ともいわれるが、この山岳派をさしてジャコバン派と呼ぶことも多い。このような党派は現在のような政党ではなく、分類不可能な行動をとる者もいた。
6)ジャコバン派の独裁
(解説)
遅塚氏の前掲書によると、国民公会では、はじめジロンド派が平原派を取り込んで優勢であったが、93年1月に国王の裁判に際して、即時処刑を主張する山岳派が優勢となった。さらに、同年春、イギリスが第1回対仏大同盟による戦局の悪化と反革命派の内乱の激化という、内外の深刻な危機を前にして、山岳派はパリの民衆を動員して議会に圧力をかけ、ジロンド派の主要な議員を議会から追放し、ジャコバン派独裁と呼ばれる政治状況が生まれた。しかし、小林氏の前掲書によると、ジロンド派追放の焦点となったのは、累進強制公債であった。累進強制公債は「革命税」と呼ばれ、臨時的な強制借りあげで集めた資金を、ヨーロッパ全体を相手とする戦争のための軍事費と、どん底に落ちた下層民の生活救済に使うものであった。これに対してジロンド派が徹底的に反対し、国民公会の議決に破れると、徹底的に反抗し、それに対する反撃として、山岳派、ジャコバンクラブが、その他の過激派の勢力と手を組み、パリの武装市民を動員して国民公会を包囲した。その圧力によって、ジロンド派追放を国民公会に決議させたのであると指摘している。『理解しやすい 世界史B』によると、ジロンド派を追放したのち、「ロベスピエールを中心にマラー・ダントン・エベールらを指導者とする、ジャコバン派の独裁がはじまった」とあり、次に「ジャコバン派は、強力な独裁体制を樹立するために、いっさいの権力を公安委員会に集中した。警察機関として保安委員会を設け、さらに革命裁判所を設置して、政敵や反革命の容疑者を容赦なく弾圧・処刑し、いわゆる恐怖政治を現出した。恐怖政治は、革命裁判所による治安維持だけでなく、きびしい経済統制をもふくむ、一種の戦時非常態勢であった。」とある。しかし、小林氏前掲書によると、「いわゆるジャコバン派の独裁はなかった」と主張する。「たしかに、公安委員会は、臨時行政会議と称する事実上の内閣を監視し、指導して、強力な権力を発動した。しかし、保安委員会は公安委員会から独立していて、警察権力を発動した。今日の言葉でいうならば、警察権力を内閣から除外したことになる。これではたして独裁といえるかどうか。…財政委員会は、当時実質的な大蔵省であり、国家財政の収入支出はすべてここを通して行なわれた。公安委員会にまかされた資金は、取るに足らない額であった。したがって個人や企業との契約にたいして、国家の資金を支払うかどうかの決定は、公安委員会の権限にあったのではなくて、財政委員会の権限にあった。…しかも、この財政委員会は、ジャコバン派の指導権のもとに入ったことがなかったのである。…このようにみてくると、どこに独裁があったのか疑わしくなる。事実は、公安、保安、財政の三委員会の権力であった。三つの権力機関の存在と独裁という言葉とは矛盾する。…この時期の権力の性格を正確に表現すると、ジャコバン派と、平原派の連合政権と定義できる。」と指摘している。しかし、遅塚氏の前掲書によると、公安委員会が国家権力の中枢機関として「革命政府」を指導し、憲法で保障される基本的な人権や三権分立は、一時棚上げされた。と指摘しており、やはり独裁政治は行われていたと考えられる.
7)93年憲法の制定と革命政策の実施
(解説)
 国民公会は、ジロンド派を追放した後の93年6月に、93年憲法を制定した。この憲法は遅塚氏によると、成人男子の直接普通選挙が実現され、人権宣言の「人間は権利において平等である」との理念がやっと実現されたこと。さらに93年憲法は人民の蜂起(反乱)の権利つまり抵抗権を承認したことにより、直接民主制を認めたものであること。さらに現在でいう生存権を認め今日の福祉国家の理念を先取りしたものであったと指摘している。93年憲法は平和の到来までその実施が延期され、94年のテルミドール反動でついに実施されないまま終わった。しかし、この憲法と草の根のデモクラシーと言える新しい政治文化が、全国的に広がり、その後のフランスに重要な遺産として残った。1830年の7月革命、1848年の2月革命、1871年のパリ・コミューンに継承されたと遅塚氏は指摘する。
 『理解しやすい 世界史B』によると、ジャコバン派独裁のもとで行われた政策として、①封建的地代の無償廃止、②自作農の創設(国外に逃亡した亡命貴族や教会の土地・財産を没収、それを分割売却して自作農の成立を促した。)③その他として、革命暦の制定・メートル法の採用・最高価格令による経済統制・徴兵制による近代的国民軍の編成・キリスト教を排斥して理性崇拝の宗教の創設・普通教育の開始、などをおこなったとしている。しかし、封建的地代の無償廃止は、小林氏や遅塚氏も述べているように、1792年のジロンド派政府によって提出されたものを再度確認したものである。私は今までこの政策はジャコバン派によって初めて提出されたものであると思っていた。そして、これによって農民が土地を手に入れて小土地所有者となったものと思いこんでいた。しかし実際は、貢租(年貢)の支払いが廃止されただけで、小作農や貧農は自分の土地を獲得できなかった。また、小林氏によると、「国有財産の売却は、ほんのわずかの小土地所有農民の形成を実現しただけで、あとは大土地所有、あるいは中規模所有を再生したに過ぎない。」そして小林氏によれば、フランス革命によって小土地所有農民は形成されなかったのであると指摘している。
4 革命の終結
1)恐怖政治
 (解説)『理解しやすい 世界史B』によると、「1973年の後半には、①戦局の悪化、②マラー暗殺後の急進派エベールと穏健派ダントンとの対立、アシニア紙幣の乱発によるインフレーションの激化など、共和国は危機に陥り、ロベスピエールは、ダントン・エベールらの政敵を処刑、独裁化をすすめた。」とある。しかし、小林氏の前掲書によれば、「エベール派が…国民公会全体にたいする反乱を宣言し、武装蜂起を呼びかけた。この運動は国民公会の平原派もジャコバン派も含めて、もろともに打倒しようというものであり、ロベスピエールも公安委員会全体も打倒すべき目標とされた。…エベール派の反乱は成功せず、3月21日エベールとエベール派の指導者が逮捕され、…処刑された。」また、「公安委員会と保安委員会によると、ダントン派議員が腐敗議員の集合体であり、その頂点にダントンがいるという認識であった。」とし、ダントンの逮捕に対してロベスピエールはむしろためらったために逮捕令が遅れたと指摘し、「ロベスピエールがダントンらの政敵を粛正したと書いて、それをロベスピエール個人の行為であるかのようにいう表現は正しくない…」そして、当時ダントン派議員は権力の中枢にいなかったので彼らを粛正してみても、独裁の強化にはつながらなかった」と主張する。確かに恐怖政治をロベスピエール個人の責任にすることはできないが、この頃に恐怖政治が行われたことは間違いない。遅塚氏の前掲書によると、93年3月から94年8月までに、各地の革命裁判所で処刑された者は合計1万6594人で、その他に裁判なしで処刑されたり獄死した者を加えると、恐怖政治の犠牲者の総数は、3万5千から4万人に達すると指摘している。
2)テルミドールのクーデター
(解説)『理解しやすい 世界史B』によると、「恐怖政治への不満が高まり、農民のなかにも、保守化し、革命の進展を望まぬ者もふえた。」とある。しかし、小林氏や遅塚氏よれば、94年の春、共和国軍の勝利によって内外の反革命派の脅威が薄らいだので独裁や恐怖政治をつづける必要がなくなったことをあげている。また、農民が土地を手に入れてこれ以上の革命を望まず保守化したことについても、農民は土地を手に入れることができなかったとして農民の保守化も小林氏は批判している。それではロベスピエール派の失脚の要因は何か、小林氏によると、ヴァントーズ法(反革命容疑者の財産を無料で貧民に分け与える)を実行に移そうとしたことが、国民公会の中で孤立し、山岳派の多数をも敵にまわしてしまったことが原因であると指摘する。
このような理由で1794年7月27日(革命暦テルミドール9日)、ロベスピエールは反対派に捕らえられ、翌日処刑され、革命の急進的発展と恐怖政治は終わった。
5 フランス革命の歴史的意義
① 啓蒙思想で主張された自由・平等などの人権を求めて民衆がブルジョワとともに闘いに参加して「フランス人権宣言」や実施はされなかったが「93年憲法」が制定されたことは、フランスだけでなく世界に大きな影響を与え、その理念は今の国連憲章や日本国憲法の中に生きていること。
② フランス革命は、普通教育の普及、度量衡にメートル法の採用、徴兵制などにより、フランス人としての意識を高め、国民国家を推し進めた。しかし、一方で革命戦争は、従来の絶対君主による戦争とは異なり、国民戦争の性格をもつようになった。
③ フランス革命と明治維新との違い
 フランス革命は封建的な体制を倒す市民革命(ブルジョワ革命)であり、明治維新も幕藩体制という封建的な体制を倒す点では一致していた。しかし、根本的に違うのは、フランス革命は自由・平等などの人権を求めた闘いであったこと。そのような闘いであったことにより民衆も参加したのである。しかし、明治維新には自由・平等などの人権を求めた闘いでは全くなかったこと。そもそも維新を起こした下級武士の中にはそのような思想はなかった。明治維新の思想的な影響を与えた吉田松陰や橋本左内にも人権思想はなかった。むしろ維新によって生まれた明治政府は、日本で初めて人権思想をとなえた自由民権運動を武力で弾圧した。その結果、日本人には人権意識が弱く、本当の意味で民主主義が定着するのは第二次世界大戦後のことであると私は考える。
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2)憲法の制定
(解説)国民議会は、改革を次々と進めたが、その内容は①教会の土地・財産の没収・国有化、②それを担保にしたアシニア紙幣の発行、③国内関税やギルドの廃止、④メートル法による度量衡の統一、⑤地方行政改革などであった。
1791年6月、国王一家は王妃マリーアントワネットの生地オーストリアに逃亡しようとしたが失敗した。国王逃亡事件で国王に危機が迫ると、オーストリア皇帝とプロイセン国王とがフランス革命阻止のためにルイ16世への援助を宣言した。これにより国王に対する国民の反発が強まったが、議会は革命を終わらせるため、1791年9月、立憲君主政にもとづく憲法を制定した。この当時、国民議会を指導したのは、自由主義貴族・有産市民層を代表する立憲君主主義者で、王政を廃止する考えはなかった。
3) 革命戦争
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(資料6)(第一学習社「最新世界史図表」より)
問①(資料6)は何の戦いと呼ばれているものですか。
問② この戦いはフランスがどこの国と戦った戦争ですか。
問③ この戦争の意義は何ですか。
問④ この戦争で敵の軍隊にいた詩人ゲーテが「この日から、そしてこの地から、世界史の新しい時代が始まる」と述べたといわれているが、この言葉は何を意味しているのか考えてみよう。
(解説)憲法の発布と同時に国民議会は解散し、制限選挙制にもとづく立法議会が招集された。立法議会では当初、立憲君主主義者のフィヤン派が優勢であったが、内外の反革命勢力の動きが活発になるにつれて国民の愛国心が高まり、しだいに共和派の勢力が優勢となった。この頃指導権を握ったのは後にジロンド派と呼ばれた穏健共和派で、指導者にジロンド県出身者が多かったのでこの名がつけられた。ジロンド派は比較的豊かな商工業ブルジョワを代表していた。
 1792年春、政権をにぎったジロンド派は、戦争によって事態を打開しようとして、国王を動かしてオーストリアに宣戦させた。するとオーストリアと同盟関係にあったプロイセンがフランスに宣戦しフランスは両国と戦うことになった。フランス軍は敗退を重ね苦境に立った立法議会は、祖国の危機を宣言して義勇兵を募集した。各地から義勇兵が集まったが、この時にマルセーユの義勇兵を鼓舞するためにつくられたのが現在の国歌である「ラ・マルセイエーズ」である。しかし戦況はフランスに不利であった。その理由には軍隊に王党派の将校が多く、戦争に熱心ではなかったこと、また戦争の準備が整っていなかったことがあげられる。しかし、開戦5ヶ月めの9月20日、革命軍はヴァルミーの戦いで勝利をおさめた。市民・農民からなる軍隊が、オーストリア・プロイセン連合のプロの軍隊を打ち破ったのである。プロイセン軍の陣営にいた文豪ゲーテは、革命軍の勝利を目の当たりにし、「この日から、そしてこの地から、世界史の新しい時代が始まる」と述べたと伝えられている。
4)8月10日事件
(解説)1792年8月10日、国王が再び外国と通じるのを恐れたパリの民衆や義勇軍はテュイルリー宮殿を襲撃した。その結果、国王は幽閉されるとともに国王と結んだ立憲君主主義のフィヤン派は失脚した。立法議会は王権を停止後自ら解散し、翌9月、立法議会にかわって、世界初の男性普通選挙による国民公会の招集を可決した。
 小林氏の前掲書によると、8月10日事件の契機となった最も重要な点として、「フィヤン派と反対派(左派)の論争の焦点が、封建領主権の無償廃止であった。…フィヤン派は廃止に反対した。のちにジロンド派を作る左派(反対派)は無償廃止を主張して対立し、結局無償廃止が可決された段階で、フィヤン派は国王と結び、外国軍を引入れて反対派を撃滅しようとした。これに対する反撃として、8月10日のテュイルリー宮殿襲撃という事件がおきた。そこで、立法議会のあと国民公会が成立し、ジロンド派内閣が組織された段階で、領主権の無償廃止、つまり封建貢租の徴収権の無効が確認された。」と指摘している。これが正しいとすれば「8月10日事件」は大きな意味を持っていることになるとともに、ジャコバン派政権による1793年の「封建的特権の無償廃止」のもつ意味が重要ではなくなることになる。
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3)旧体制の崩壊と人権宣言の採択
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(資料5)(文英堂『理解しやすい 世界史B』より)
問① (資料5)は何と呼ばれているものですか。
問② これが出されたきっかけとなったものは何ですか。
問③ これは歴史的にどのような意義を持っているのかを考えよう。
(解説) バスティーユ牢獄占領の情報が伝わると各地に革命が広がり、貴族の館がおそわれ、封建的負担の支払いが拒否された。こうした状況に応じて1789年8月4日、国民議会は封建的特権の廃止を宣言した。その内容は、①免税特権の廃止、②農奴制の廃止、③領主裁判権の廃止などであったが、年貢の負担はつづき、農民が年貢の支払いを廃止するためには年貢の数十倍の金を支払わねばならなかった。また、8月26日、国民議会は人権宣言を採択した。これはラファイエットらが起草したもので、人間の自由・平等、主権在民、私有財産の不可侵などを主張し、市民革命の原理を高らかに表明したものである。それは現在の国連憲章や日本国憲法などの原点になったものである。
3 革命の進展
1) ヴェルサイユ行進
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(資料6)(第一学習社「最新世界史図表」より)
問① (資料6)に描かれているのはどのよう人たちですか。
問② 何を求めてどこからどこへとめざしたのですか。
問③ これを一般に何と呼んでいますか。
問④ これはどのような結果がもたらされましたか。
(解説)当時のフランスでは、前年の凶作や政情不安のため穀物の売り渋りが横行し、食料品の価格高騰にパリ市民は苦しんだ。1789年10月5日の早朝、パリの広場に集まった約7,000人の主婦らが「パンを寄越せ」などと叫びながら、国王と議会に窮乏を訴えるため、ヴェルサイユに向かって行進を開始した。降りしきる雨の中、約20kmの道のりを6時間かけて行進してヴェルサイユ宮殿に到着した。これがヴェルサイユ行進と呼ばれるもので、これ以後国王も議会もパリに移されたが、国王はパリ市民の監視下に置かれることとなった。
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(資料3)(第一学習社 「最新世界史図表」より)
問① 人びとはどこに集まっているのですか。
問② なぜここに集まったのですか。
問③ 人びとはここで何を誓ったのですか。
問④ これを一般に何と呼んでいますか。
(解説) 三部会から独立して国民議会が組織されたが、第三身分の議場を国王が閉鎖したため人びとはヴェルサイユ宮殿内にある球技場に集まり、憲法を制定するまで国民議会を解散しないことを誓った。国王の解散命令を拒否し、貴族・聖職者にも同調者があらわれるようになって、国民議会は憲法制定議会と改称された。
2) 革命の勃発
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(資料4)(集英社新書「フランス革命の肖像」より)
問① 資料4は何と呼ばれる場所ですか。
問② この場所が襲撃されたのはいつですか。
問③ なぜこの場所が襲撃されたのですか。
問④ どのような目的で襲撃されたのですか。
問⑤ この襲撃をきっかけにフランス全土で何が起こりましたか。
問⑥ この襲撃はどのような歴史的意義を持っていますか。
(解説) 『理解しやすい 世界史B』によると、「ルイ16世は、特権身分に動かされて軍隊をヴェルサイユに終結させ、国民議会を弾圧しようとした。さらに民衆の信望を集めていたネッケルを罷免した。これに怒ったパリ市民は1789年7月14日、専制政治の象徴とされていたバスティーユ牢獄を攻撃・占領し、武器を奪った。」と書かれている。しかし、小林氏の前掲書によると、「(国王の)軍隊がパリをめざして進撃したので、これにたいする防御、反撃としての暴動がパリに発生した『武力で議会を弾圧しようとしたので』という説明が十分な内容をもっていない。議会は当時ヴェルサイユにあり、大軍がヴェルサイユに駐屯していたので、もし議会を弾圧するだけならばきわめて簡単なことであり、パリにむけて進軍しなくてもよかった。…国民議会が租税徴収権の宣言をしたことは、国家財政の実権を自分たちの手に握るという意思表示であったから、これは国王からみても宮廷貴族からみても一種の反逆であった。…ではなぜこの時点でパリが重要な戦場になったかといえば、パリに国庫、株式取引所、廃兵院、バスティーユがあったからである。前二つは財政、経済の中心であり、あと二つは武器、武力を意味する。」と述べている。さらにこの戦いで民衆が勝利した要因として小林氏は「パリの民衆は騒乱状態の中に参加し、その数と破壊力においては大きな役割を果たした。しかし反乱には軍の下士官、兵士も加わった。…一部の貴族(自由主義的貴族)も合流したそのために、反乱が成功すると、名門貴族ラファイエット侯爵が革命の軍隊である国民軍司令官に任命されたのである。…もし民衆の暴動だけであったならば、国王の軍隊と闘って勝つことは不可能であった。…バスティーユ占領は保守的な貴族に対するパリ民衆の対決ではない。反乱者の側は、パリの民衆以外に反乱をおこした下士官、兵士、一部の自由主義的貴族、その他の合流したものであった。」と指摘しているが、私にはこちらの説が正しいように思われる。
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2) 革命思想の影響
(問)「フランス人権宣言」の第1条に「人間はうまれながらに、自由かつ平等の権利をもっている。」と書かれているが、このような思想はどのようにして生まれてきたのか。
(解説) フランス革命に大きな思想的影響を与えた人物は18世紀のフランスの思想家ヴォルテールがあげられる。彼は合理主義を尊重し、言論・思想の自由を強調して封建制度の矛盾を批判した。同じくフランス啓蒙思想家であるモンテスキューは『法の精神』で専制政治を批判した。さらにルソーは『社会契約論』で人民主権にもとづく共和政を主張した。このように18世紀のフランスは多くの啓蒙思想家が活躍した場所であり、啓蒙思想の影響を受けた自由主義貴族やブルジョワがフランス革命を推進する担い手となった。さらに、アメリカの独立は、自由の勝利、啓蒙思想の実現として、フランス革命に大きな影響を与えた。

2 フランス革命のはじまり
1)絶対王政の危機
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(資料2)(第一学習社 「最新世界史図表」より)
問① 資料2は何と呼ばれる会議ですか。
問② この会議は誰が招集したのですか。
問③ この会議は何の目的で招集されたのですか。
問④ この会議で何が問題となったのですか。
問⑤ この会議から第三身分の議員が中心となり、自由主義貴族ミラボーの指導下に結束して組織された会    議は何ですか。
(解説)
 『理解しやすい 世界史B』(杉本淑彦監修 文英堂)によると「アメリカ独立戦争への参戦でフランスの財政は極度に悪化した。ルイ16世は、テゥルゴー・ネッケル・カロンヌらを起用して特権身分への課税などの財政改革にあたらせたが、貴族の反対で失敗した。貴族らの特権身分は、この機会に王権を制限して自らの政治的発言権を強めようとした。そのため、国王の行財政改革案を拒否し、三部会の招集を要求し、1798年5月、ネッケルの提議により、ヴェルサイユ宮殿において175年ぶりに三部会が招集された。」とある。ここでは三部会を招集したのは、国王の行財政改革案を拒否した貴族であり、招集の目的は貴族の特権を再確認させるために王権を制限させるためであったと解釈できる。しかし、一方で、財政改革にあたったネッケルが三部会を提議したと書いている。明らかに私には矛盾しているように思われる。小林氏の前掲書によると、国王ルイ16世がネッケルらを財務総監に任命したのは「反体制派の運動に押しきられての譲歩であるから、国王の意志ではなかった。むしろ、国王はただ沈黙して、改革派大臣のやりたいようにやらせたというのが本当の姿であった。」と述べている。また、「貴族の中では宮廷貴族の主流、最強の部分が三部会の招集に反対したのであり、それからはずれた貴族すなわち自由主義貴族、法服貴族、地方貴族の中には三部会招集の運動をすすめたものがいた。まただいたいにおいて、彼らがネッケルを支持したのであるから、ネッケルにたいする反対派が三部会の招集をすすめ、ネッケルの改革に反対しネッケルを追放した者(宮廷貴族の主流)は三部会の招集に反対した。」と述べている。三部会を招集したのは特権貴族の主流である宮廷貴族なのか、それとも財政改革を支持した自由主義貴族であったのか、私はこれ以後の歴史的な経過やネッケルが提議しているところから見ても後者であったのではないかと思われる。そして、会議の目的は、特権身分の再確認ではなく財政改革を推し進めることが目的だったのではないか、そのためにネッケルが三部会の招集を提議したのではないかと思われる。
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 「フランス革命をどう教えるか」は、2015年9月29日に大阪歴史教育者協議会世界史部会で私が報告したものです。
【授業のねらい】
① フランス革命前のアンシャン・レジームがどんな社会であったのか。特に第三身分のなかで、ブルジョアジーとよばれる商工業市民層が成長してきたことを理解させる。
② フランス革命の原動力となった自由・平等・人権などの革命思想はどのようにフランス社会に形成されていったのかを理解させる。
③ 三部会がなぜ招集されたのか、それがなぜ国民議会へと移行していったのか。そして国民議会を指導したのは自由主義貴族や有産市民であったことを理解させる。
④ フランス人権宣言がなぜ採択されたのか、それはどのような歴史的意義を持っているのかを理解させる。
⑤ 立法議会で指導権をにぎったジロンド派はなぜ革命戦争を起こしたのかを理解させる。
⑥ 8月10日事件がなぜ起こったのか。その頃にジロンド派によって出されたとされる「封建的特権の無償廃止」はどのような意義を持っているのか。
⑦ ルイ16世が処刑されフランス共和政が成立したが、なぜ国王は処刑されなければならなかったのかを理解させる。
⑧ ジャコバン派の独裁政治のもとで、93年憲法や革命的政策が実施されたが、それはどのような歴史的意義を持っているのかを理解させる。
⑨ なぜジャコバン派の独裁は恐怖政治を実現したのか、そして恐怖政治がテルミドール反動をもたらしたことを理解させる。
⑩ フランス革命の意義とは何かを考えさせる。
【授業展開】
1 アンシャン・レジーム
1) 革命前の社会
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(資料1)(第一学習社 「最新世界史図表」より)
問① 「革命前の風刺画」に描かれている第一身分・第二身分・第三身分とはそれぞれ何のことですか。
問② この風刺画は何をあらわしているのですか。
問③ 上の図でフランス人の頂点に国王がいますが、このような王政を何と呼びますか。
問④ このような王政の特徴は何ですか。
問⑤ なぜこのような王政がフランス社会の中で生まれたのかを考えてみよう。
問⑥ 上の図で、第三身分のなかから成長してきたのはどのよう人たちですか、彼らは何を求めたのかを考えてみよう。
(解説)フランス革命前の社会がアンシャン=レジームという厳しい身分制社会の絶対王政の時代であったことを生徒に理解させる。『岩波ジュニア新書 フランス革命』(遅塚忠躬著)のなかには、領主に対して民衆が土下座を強要させられていたという指摘もある。このような身分制社会のもとで、領主は農民から年貢(貢租)を徴収したり、商品の生産や流通にも重い貢租を課したりする権利(領主的諸権利)や領主裁判権などをもっていた。一方、第三身分のなかで、都市や農村でブルジョワとよばれる豊かな人たちが成長していった。農村のブルジョワは、領主制の下で大地主となって貧しい農民を小作人や日雇い農民として耕作させていた。また、都市のブルジョワは商工業の担い手として成長し、ブルジョワの一部には官職を購入して法服貴族となったものもある。
 ところで、小林氏の「高校世界史における フランス革命論批判 三一書房」では、「領主所有と土地所有の区別が正確になされていない」、「第一身分と第二身分の所有をみるならば、それは約30%の土地所有となり、この教科書の『多くの土地を所有し』という言葉とは矛盾する。」と指摘されている。私も今まで領主所有と土地所有の区別をしてこなかったので、後の「封建的特権の無償廃止」の意味を正確に捉えてこなかったことに気づいた。
 また、フランス革命の前提として18世紀末のヨーロッパ情勢を捉えておかなければならない。18世紀末にイギリスは、世界貿易の覇権と植民地の争奪とをめぐる戦いにおいて優位を占めた。この優位に支えられて、イギリスでは18世紀後半頃から産業革命が始まり、イギリスの経済力はさらに増大していった。このまま行けばフランスは経済的に後進国に転落することを意味していたから、フランス革命は、このような危機に追い詰められたフランスがその危機を克服するために、国内の古い体制の変革に踏み切ったものであるという点を押さえておく必要がある。
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3 秀吉の外交と朝鮮侵略
1) 秀吉の外交とキリシタン弾圧
 秀吉は積極的な外交政策をとったが、それは、海外貿易の利を自己の手におさめて統一政権の勢威の拡大をはかろうとするものであった。1588年に海賊取締令を発した秀吉は、1592年、長崎・京都・堺の商人に朱印状を出して貿易の発展を期待した。しかし、キリスト教に対しては弾圧政策をとった。信長は延暦寺・本願寺などの寺院勢力打倒のためもあってキリスト教を積極的に保護し、秀吉もはじめはこれを継承していたので、キリスト教はめざましい布教をみせた。信者の数は数十万にのぼり、キリシタン大名も10氏をこえた。このような情勢のなか、1587年、九州の平定途上に、突然バテレン追放令(宣教師追放令)を発した。その背景には、九州北部では布教をめぐる紛争があり、領主に対して信者たちが服従せず、大村領の長崎はイエズス会に寄進されており、ポルトガル船は日本人を奴隷として南方に売買するといった事情があったので、秀吉は統一支配の妨げになると考えてこの法令を発したのである。さらに、1596年のサン=フェリッペ号事件がおこった。これは、スペイン船が土佐に漂着したとき、船員が世界地図を示してスペインは植民地にするために宣教師を派遣していると発言した。これをきっかけとして秀吉は宣教師・信者のいっせい逮捕を命令した。こうして宣教師・信者26名が長崎で磔(はりつけ)にされるという26聖人の大殉教がおこった。
 秀吉の積極外交は南方にまで向けられ、1591年にはインドのゴアのポルトガル総督に貿易を促した。さらにフィリピンのマニラのスペイン政庁や台湾にも朝貢するようにせまったが、彼らはこれに応じなかった。
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(東京書籍「図説日本史」より)
2)朝鮮侵略
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(東京書籍「図説日本史」より)
 秀吉の強硬政策は、ついに朝鮮・明との戦端を開くことに発展する。1587年の九州出兵中、秀吉は朝鮮に日本への服属と明への先導を強要し、出兵計画をすすめた。1592年、秀吉は肥前の名護屋(なごや)に本営を置き、15万人あまりの大軍を朝鮮に送った。日本軍は釜山から北部へ兵を進めたが、李舜臣(りしゅんしん)率いる朝鮮水軍や明の援軍、義兵の反撃と抵抗にあって苦戦し、明との講話により休戦したが、これを日本では文禄の役(ぶんろくのえき)と、朝鮮では壬辰倭乱(じんしんわらん)と呼ぶ。
 講和交渉は秀吉の要求が入れられなかったために決裂した。そこで秀吉は、1598年に朝鮮半島の半分を領土にする目的で、14万人あまりの大軍を朝鮮に送った。日本軍はまたも苦戦を強いられ、翌1598年、秀吉の病死をきっかけに全軍が朝鮮から撤退したが、これを日本では慶長の役(けいちょうのえき)、朝鮮では丁酉倭乱(ていゆうわらん)と呼ぶ。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 前後7ヵ年にわたった朝鮮出兵は莫大な労力と経費とをつぎ込みながら、何ら得るところなく終了し、その失敗はそのまま豊臣政権の崩壊につながった。一方、朝鮮では耕地の荒廃や人口の減少をもたらしただけでなく、日本軍は仏像や金属活字などの文化財を略奪し、陶工や学者をはじめ2~3万人の人々を日本に連行するなど、多大な苦痛を与えた。朝鮮から連行された陶工により、日本では肥前の有田焼・薩摩焼き・筑前の高取焼きなどなどが始まるとともに、活字印刷も伝わった。このように朝鮮人の犠牲のもとに日本文化が発展したことをおさえておく必要がある。
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(三省堂「日本史B」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 大阪の民話に「大坂城の虎」というお話があり、私は「秀吉の朝鮮侵略」の授業ではいつもこの話を生徒に伝えている。秀吉は朝鮮の侵略が思わしく行かないのを隠すためでもあろうか、自己の権威を示すために朝鮮から生きた虎を持ってこさせて大阪城に檻を作って虎を飼うことにした。しかし、虎の食欲はものすごいもので、しかも生の肉しか食べない。そこで大阪の犬を生きたまま虎の檻に入れて餌とした。檻に入れられた犬は虎の恐ろしさにおびえて、抵抗することもなく食われてしまった。ところが、リキという犬が餌として檻に入れられたが、根性のある犬で恐れることなく虎の急所である首にかぶりついた。虎は苦しくなり爪でリキを離そうとするがなかなか離れない、とうとうリキは鋭い虎の爪で死に絶えたが、のどをかまれた虎はとうとう死んでしまった。飼い犬を虎に差し出す必要がなくなった大阪の住民たちは喜び、リキのためにお墓を作って弔ってやったというお話である。
 実際に生きた虎を持ってこさせという史料はないが、虎の肝は身体によいからということで、加藤清正などに虎狩りをさせたことは事実であるらしい。この話は強大な虎のような秀吉に対する、大阪民衆の抵抗という意味が隠されているのではないかと私は考えるがどうでしょうか。
 次回の第32回日本史講座は、来年の1月9日(土)午後2時よりおこなう予定です。
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 Ⅳ 太閤検地を朝鮮侵略
1 太閤検地と石高制
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
1) 太閤検地
 1582年以後、秀吉は支配地に検知を行い、全国におよぼした。これを太閤検地または天正の石直しと呼んでいる。検知では、地域により異なっていた面積の単位を統一し、検知役人が現地に出向いて田畑・屋敷地の面積や等級を実地調査し、一地一作人(いっちいっさくにん)の原則で耕作者を検地帳に登録し、耕作権を保障し、年貢負担の責任者とした。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 年貢米の計量などに使う枡(ます)の大きさも京枡に統一し、田畑の等級ごとに定めた1反あたりの石盛を面積に乗じて、米の生産高である石高を決め、石高に応じて年貢などを負担させた。検地帳は村ごとに作成され、年貢などは村単位にかけられ、検地帳に登録された農民が連帯で責任を負う村請制(むらうけせい)が行われ、年貢をとる領主も一地一領主が原則となった。
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(東京書籍「図説日本史」より)
 秀吉は、太閤検地をもとに荘園公領制を完全に崩壊させ、大名の領地の大きさを石高であらわし、その石高に応じて軍役を負担させた。こうして戦国大名の貫高制にかわって石高制が成立し、江戸時代に引き継がれた。
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(東京書籍「図説日本史」より)
 太閤検地の意義は、支配者の側から見れば、中世の複雑な土地領有関係を整理して統一権力者の絶対支配を確立し、近世知行地制度の基礎をきずいた点にあり、被支配者の側から見れば、中世の隷属的小農民が直接耕作者として自立した点にある。
2 刀狩と身分統制
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(東京書籍「図説日本史」より)
1) 刀狩り
 秀吉は、信長の政策を引き継いで一揆を弾圧するとともに、一揆を防止するために、1588年、大仏建立を名目に刀狩令を出して地侍や農民から武器を没収し所有することを禁止した。
2) 身分統制
 1591年に出された身分統制令によって、武士の身分の転換は禁止され、百姓は農耕を強制され、農民はこれにより土地付きのものとして、大名の領地替えの時にも移動することができなくなり、逆に武士は土着性を失って主君に従って移動し、城下町に集住するようになり、大名領国の中央集権化がすすんで、武士対農民の階級支配の体制が強化されることになった。
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