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2 支配機構の整備
1) 職務の整理
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 幕府の職制の整備もすすめられた。「庄屋仕立て」といわれるように、幕府の職制は三河の土豪時代の小さな組織が、必要に応じてしだいに拡張・整備されたもので、その性格は軍事的・実際的なもので、ようやく3代将軍家光の頃に完成された。
 1635年、家光は、年寄を新たに老中とし、2万5000石以上の譜代大名の中から任命された。必要に応じて臨時に老中の上に大老が置かれたが、10万石以上の譜代大名が担った。老中の職務は、大名統制・外交・財政などの重要政務を担当させ、老中を補佐する若年寄を設けて旗本らの統制にあたらせた。老中のもとには多くの役職が置かれたが、寺院・神社の管理と統制を行う寺社奉行や、天領の行政と財政をつかさどる勘定奉行、江戸市中の警察と行政を担当する町奉行は、特に重職で三奉行と呼ばれた。
2) 幕政の運営
 権力の集中を防ぐため、老中は4~5人で構成され、月ごとに当番を決めて政務の責任をとらせ、司法や警察の重要事項については、老中に三奉行や大目付らが加わった評定所で採決するようにした。
3) 直轄地の支配
 江戸以外の重要な幕府の直轄地には、京都所司代のほか、京都・大坂・駿府(すんぷ)などに城代や町奉行を、貿易拠点の長崎や、宗教上の要地、伊勢神宮の宇治山田や東照宮のある日光、金山の佐渡などには遠国(おんごく)奉行を設け、それ以外の天領には、郡代や代官を配置した。
 次回の第34回日本史講座は2月13日(土)午後2時よりおこなう予定です。
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 Ⅱ 幕府の全国支配
1 全国支配の強化
1) 秀忠の政策
 1616年、家康が亡くなると、翌1617年、 2代将軍秀忠は大名・公家・神社の領地を引き続き認める文書を出し、徳川家が天下の支配者であることを再確認させた。秀忠は、1619年に西国支配の拠点として大坂を幕府の直轄地とし、豊臣色を払拭するために西国大名らに手伝い普請(ぶしん)を課して、秀吉が築いた大坂城を上回る大城郭を大坂に造り上げた。また、1623年には将軍職を子の家光に譲り、みずからは大御所として幕府の基盤強化につとめた。
 1627年、秀忠は禁中並公家諸法度を制定したにもかかわらず、天皇が幕府に相談せずに高僧に高徳の象徴である紫衣(しえ)を与えたことは違法だとし、これに抗議した大徳寺の高名で漬け物のたくあんの由来とされている沢庵僧侶らを流罪にし、天皇の勅許よりも幕府の法令が優先することを示したが、これを紫衣事件と呼ぶ。この事件をきっかけに、後水尾(ごみずのお)天皇は娘の明正(めいしょう)天皇に譲位したとされている。
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(東京書籍「日本史図説」より)
3) 家光の政策
 1632年に秀忠が亡くなると、家光が幕政を主導した。家光は、1635年に武家諸法度を改め、大名の妻子を人質として江戸に住まわせ、大名には江戸と国元とを1年おきに居住させて、将軍へ拝謁させる参勤交代を制度化した。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京書籍「日本史図説」より)
 家光はまた、大名への監視を強め、跡継ぎがなく臨終まぎわに相続人を願い出た大名や幕府法令に違反した大名らをとりつぶすなど、幕府法令が何にもまして優越することを徹底させた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 またこの頃、寛永通宝が本格的に鋳造されて流通するようになったが、これは幕府発行の貨幣への信頼が高まったことを示している。
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5 キリシタン禁制
1) キリシタン禁制
 家康は、はじめは貿易による利益を重視し、貿易と布教活動とを一体とするポルトガルやスペインのキリスト教宣教師の活動を黙認していた。その結果、1610年頃にはキリシタン信者の数は70万人に達しており、家臣のなかにも信者がいることを知った家康は、1612年、天領にキリスト教の信仰を禁じる禁教令を出し、翌1613年にはこれを全国に広げた。
 禁教令を出した背景には、神の教えを絶対とし、その掟にはずれることは、たとえ支配者の命令でも従わないというキリシタンの強い信仰と団結とは、封建支配者にとって重大な脅威であった。また、遅れてやって来たオランダ人が敵対するスペインやポルトガルに領土的野心があると幕府に中傷したことも、禁教令を出す要因となった。 
2) 元和の大殉教
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 禁教令により、教会の破壊・信徒の改宗を強行し、それに従わなかった高山右近ら140余名を、翌年マニラやマカオに追放するという措置をとった。
 偶然にも日本史講座の行われた2016年1月23日の朝日新聞に、前日の22日に高山右近がローマ教会によって福者(ふくしゃ)と認定されたという記事が載っていた。福者というのはカトリック教会において、死後その徳と聖性を認められた信者に与えられる称号である。高山右近は摂津高槻の城主で、父の影響を受けてキリシタンシン大名となったが、禁教令により大名の地位を捨てて信仰を守り、マニラで病死した人物である。
 2代将軍徳川秀忠もこの方針を受けつぎ、1622年には55人に及ぶ宣教師・信者を長崎で処刑したが、これを元和の大殉教(げんなのだいじゅんきょう)と呼ぶ。この処刑は火刑25名で斬首30名であり、4歳の子どもまで殺された。この殉教者たちは1868年、ローマ教皇ピウス9世によって福者と認定された。
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4 朱印船貿易
1) 貿易の展開
 家康は、豊後(大分県)の臼杵湾に漂着したオランダ船リーフデ号の航海士でオランダ人のヤン=ヨーステンとイギリス人のウイリアム=アダムズを外交や貿易の顧問として、その本国との通商を斡旋させた。アダムズは三浦半島に領地を与えられて三浦按針といい、一方、ヨーステンの屋敷地は海に近く、耶揚子(やようす)河岸と呼ばれ、それが現在の八重洲(やえす)の地名に転訛した。
2) 朱印船貿易
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(東京書籍「図説日本史」より)
 家康は秀吉にかわって、西国大名や畿内・長崎・博多などの豪商らに渡航許可証である朱印状を与え、中国と盛んに交易していたルソン(フィリピン)・安南(ヴェトナム)・カンボジア・シャム(タイ)など東南アジア各地との貿易を促した朱印船貿易を行った。豪商の中には京都の角倉了以(すみくらりょうい)のように、私財を投じて大堰(い)川や高瀬川の開削を行い、「水運の父」として尊敬されている人物がいる。また大坂の豪商である末吉孫左右衛門は「末吉船」と呼ばれる大船を仕立てて南洋方面に出かけて貿易をしたが、大坂の松屋町に架かっている末吉橋は彼によって架けられたと伝えられている。
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(東京書籍「図説日本史」より)
 貿易は活発になり、幕府が1604年から1635年の鎖国までのの32年間に発行した朱印状は、少なくとも350通を超え、10万人の日本人が渡航した。また、海外に移り住む日本人も増え、各地に日本町が生まれたが、そこには7000人から1万人が居住していたといわれている。この頃日本町で活躍した人物に山田長政がいる。彼は駿河(静岡県)の人で、1611年に朱印船でシャム(タイ)に渡りアユタヤ日本町の長となった。シャム王室の内分の解決に尽力し、リゴールの太守(長官)に任じられたが、後に陰謀により毒殺された。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
3) 糸割符制
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(東京書籍「図説日本史」より)
 この頃、日本の商人たちが求めたものは、生糸であった。大名や豊かな町衆が絹織物を多く買うようになったが、原料である生糸は質のよい中国産生糸である白糸(しらいと)が、ポルトガル商人を通して膨大に輸入されていた。家康は、ポルトガル商人を排除して貿易を独占し、同時に、商人統制をはかった。1604年、幕府は京都・堺・長崎の特定の商人に糸割符仲間(いとわっぷなかま)をつくらせて、生糸を一括購入させ、価格は幕府が決定するようにしたが、これを糸割符制と呼ぶ。こうして幕府は、ポルトガル商人の排除に成功するとともに、特定の日本人商人に特権を与えて、幕府へ献金させる仕組みをきずいた。
4) スペインとの関係
 17世紀前半、白糸の需要は衰えず、支払いのために大量の金銀が国外に流出した。そのため、幕府は貨幣用の金銀に事欠くことになった。また、1610年に家康みずから銀の産出で有名なスペイン領メキシコに商人の田中勝介(しょうすけ)を派遣した。一方、外様大名の伊達政宗(だてまさむね)は家臣の支倉常長(はせくらつねなが)をスペインに派遣するなど、莫大な利益がもたらされる貿易には、商人だけでなく、大名や幕府も参加するほどであった。
 支倉の渡航は、慶長遣欧使節(けいちょうけんおうしせつ)と呼ばれた。使節の人数は180名で、先ず太平洋を渡ってメキシコへ行き、さらに大西洋を渡ってスペインのセビリアからマドリードへ、そこでスペイン王に謁見した。ここで支倉らはカトリックの洗礼を受けた後にローマに入り、ローマ教皇に謁見した。一行が帰国したのは1620年で渡航から7年も経っていた。帰国した頃、日本のキリシタンは厳しく弾圧されており、支倉常長は帰国してわずか2年後に失意のうちに没した。そして慶長遣欧使節は世の中から完全に忘れ去られてしまった。明治維新後、明治政府の中心人物が欧米に渡航したいわゆる岩倉使節団は、250年以上も前に日本の外交使節がスペインで外交交渉を行いローマまで派遣されていたという衝撃的な事実を知った。支倉たちの足跡を目の当たりにして、岩倉たちは大いに勇気づけられたという。
 ところで、支倉たちがセビリア近辺のコリア・デル・リオに長期滞在していた町には、支倉常長の銅像が建っており、この町には現在、ハボン(日本)姓の人が数百人住んでいる。彼らは仙台藩士や使節の現地人水夫、その支援者の子孫だといわれている。
5) イギリス・オランダのアジア進出
 ポルトガルやスペインに約1世紀遅れてアジアに進出したイギリスとオランダは、新しい商業組織である会社を作って、アジアでの貿易に参加した。1600年に作られたイギリス東インド会社と1602年にその10倍以上の資金で発足したオランダ東インド会社は、他国の商船を攻撃するなど戦闘的な商業活動を展開した。日本にも、1609年にオランダが、1613年にはイギリスが、幕府からそれぞれ許可されて肥前(佐賀県)の平戸に商館を開き、貿易に加わった。しかし、イギリスはオランダとの競争に敗れて対日貿易から撤退した。当時イギリスとオランダは貿易の利益をめぐっていわゆる英蘭戦争と呼ばれる闘いを展開していた。当時はオランダが圧倒的に有利であったので、イギリス人たちはオランダを大変嫌っており、そのため英語でオランダの別称であるダッチのついた言葉はすべてよくないことを指している。例えばダッチワイフ。ダッチコンサート・ダッチロウ・ダッチペイ(ダッチアカウント)などである。これらについては、私のブログの「歴史のとびら」の「なぜダッチワイフと呼ばれるのか」を読んで下さい。
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 第34回日本史講座は1月23日(土)午後2時より受講者9名で行われました。
3 家康の外交政策
1) 蝦夷地と琉球との関係
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 家康は秀吉と同じように、北方に対しては蝦夷地に蠣崎(かきざき)から改姓した松前氏を大名として配置した。一方、琉球王国に対しては、薩摩の外様大名島津氏による侵攻を許して支配させるようにした。1609年、島津氏は3000の兵と100余りの軍船を琉球へさしむけた。琉球王国は、15世紀に尚巴志王が統一して以来、100年以上も戦争がなく、武器を豊富に備えていなかったし、武士団を家臣として抱えてもいなかった。そのため島津氏の侵攻に対して強力に抵抗することができず、琉球王国は島津氏の領地となった。琉球の人達は、島津氏と琉球王国の二重の支配に苦しみ、毎年納める年貢は7公3民という非常に重い負担となった。
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(東京書籍「日本史図説」より)
2) 中国・朝鮮との関係
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(東京書籍「日本史図説」より)
 家康は高度な文化や生糸・絹織物・綿花などの産物をもつ中国や朝鮮との友好を求め、国交を回復して貿易を盛んにしようとした。しかし、明は海禁政策をゆるめていたものの、秀吉の朝鮮侵略以来、日本への警戒心は強く、日本との国交は回復させなかった。明との交渉ができなくなった家康が、朝鮮に国交を求めると、朝鮮は日本に連行した陶工などの朝鮮人の返還を要求し、1607年に引き取りのための使節が来日するなど、両国の関係が好転する契機となったが、これが朝鮮通信使として制度化され、1811年までの期間に12回まで続けられた。しかし、朝鮮はつながりの深かった宗氏と、1609年に己酉約条(きゆうやくじょう)を結んで交易を再開したにとどまり、宗氏も釜山までしか入国できなかった。
 そのため、家康は、琉球を明に服属させて貿易を行わせた。また、平戸などでの唐人貿易や日本船と明船とがルソンなどでおちあう出会貿易のほか、東南アジアなどでの民間商人との間で貿易が行われた。
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(東京書籍「日本史図説」より) 
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2 初期の幕府政治
 初期の幕府政治は、三河の一大名であった頃の家政機関のもとに、本多正信らの年寄が一般政務を行い、僧侶の金地院崇伝(こんちいんすうでん)や儒学者の林羅山らが法令や外交文書を起草するなど、家康の側近によって運営されていた。
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(東京書籍「日本史図説」より)
1) 大名に対する法令
 大名に対して、1615年、幕府は一国一城令を出し、大名の居城以外の城を破壊させた。同年、幕府は、大名統制の基本法として武家諸法度(ぶけしょはっと)を出した。これには、武芸だけでなく学問を磨くことなど、大名としての心構えを示すとともに、城の新築や無断の修理を禁止し、また、大名間の婚姻には幕府の許可を必要とすることや、大名同士の徒党を禁じることなどを定めて、幕府の統制に従わせた。この頃、大名の重臣の子弟が人質として江戸に送られるようになったが、これを証人の制と呼ぶ。
2) 朝廷対策
 朝廷に対しては、家康が後水尾(ごみずのお)天皇を擁立するなど、天皇の即位や譲位までも幕府の意志に従わせながら、徳川氏の全国支配を権威づけるために用いられた。家康は、天皇の支配地である禁裏御料(きんりごりょう)や公家の領地を保障するとともに、武家伝奏(ぶけてんそう)を設けさせ、その動向を日常的に監視させて京都所司代と緊密な連絡をとらせるようにした。1615年には禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)を出し、天皇の生活や公家の家業・席次にいたるまで規制を加え、学問を学ぶことを天皇の最も大事な職務とし、天皇や朝廷を政治から遠ざけるようにした。また、幕府の推薦がなければ武家には官位を与えないようにし、天皇と大名とが直接結びつかないようにした。
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(三省堂「日本史B」より)
3) 寺院・神社対策
 寺院や神社についても、家康はそれぞれに領地を与えて、幕府政権の安泰を祈願することを活動の第一とした。寺院については、1615年頃から宗派ごとの諸宗諸本山法度(しょしゅうしょほんざんはっと)を出して寺院を序列づけ、本山・末寺の制を整えさせ、僧侶としての心得や儀式の行い方、衣服にいたるまで細かく指示した。一向宗に対しては、後継者争いの混乱に乗じて拠点の本願寺を東本願寺・西本願寺の二つに分け、それぞれを本山として力を弱めさせた。また神社や神主については、諸社禰宜神主法度(しょしゃねぎかんぬしはっと)を出して統制した。
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(東京書籍「日本史図説」より)
 次回の第33回日本史講座は、1月23日(土)午後2時よりおこなう予定です。
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 第11章 幕藩体制の成立と鎖国
 Ⅰ 江戸幕府の成立
1 江戸幕府の成立
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
1) 豊臣政権の分裂
 豊臣秀吉の死後、五大老や五奉行らの対立が深まった。政権の運営は、秀吉の跡を継いだ豊臣秀頼が幼かったため、五大老の筆頭である徳川家康が後見役として行っていた。
 家康は三河の一土豪から身を起こし、織田氏と同盟して東海一帯に勢力を伸ばした。秀吉が台頭すると、秀吉の命令で東海の地を離れ、江戸の地に移り、関東6ヵ国240万石の大大名となり、朝鮮に出兵せずに勢力をたくわえていた。
2) 関ヶ原の戦い
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 五奉行の石田三成は家康の影響力が強まるのを恐れ、五大老の毛利輝元らとはかり、1600年に家康討伐の兵をあげた。家康も福島正則や加藤清正ら豊臣系の大名を見方にして応じ、三成方(西軍)と家康方(東軍)の両者は美濃の関ヶ原で激突した。西軍は8万5000、東軍は10万4000で天下分け目の戦いを展開したが、戦闘は西軍の小早川秀秋の裏切りにより東軍の大勝に終わった。
3) 幕府の開設
 家康は西軍の大名を処分し、1601年に京都所司代を設けて、西国や朝廷の動向を監視させた。1603年、家康は征夷大将軍となり、江戸幕府を開いた。しかし、関ヶ原の戦いでは豊臣系の大名の協力がなければ勝てなかったし、大坂には秀頼がおり、幕府の基盤は安定していなかった。そこで家康は、1605年にわずか2年で将軍職を子の秀忠に譲り、徳川家が将軍職を代々受け継ぐことを示した。みずからは大御所(おおごしょ)として駿府で幕府政治を主導した。
4)大坂の陣
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(東京書籍「図説日本史」より)
 一方、大坂城には豊臣秀頼がおり、摂津・河内・和泉3国、わずか65万石あまりの大名に成り下がったとはいえ、要害堅固な大坂城にあって、秀吉の残した巨万の財を有し、秀吉恩顧の大名・牢人群の軍事力を秘めていた。家康にとって豊臣氏の存在は全国支配の最後の障害であった。家康は、ついに1614年、方広寺(ほうこうじ)の鐘銘(しょうめい)事件をきっかけに、10月に大坂冬の陣の戦いを引き起こした。巧妙な家康は、同年12月、いったん和議を結んだが、その条件を無視して大坂城の堀を埋めて無防備とし、1615年4月、再び戦いを起こした。この大坂夏の陣によって5月に大阪城が陥落し、豊臣氏は滅んだ。
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(東京書籍「図説日本史」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)
5) 大名統制
 家康は幕府の基盤を固めるために、旗本・御家人と呼ばれる家臣団を組織しながら、関ヶ原の戦いや大坂の陣で敵方だった大名の取りつぶし(改易)や領地の削減(減封)(げんぽう)・所替え(転封)(てんぽう)を行った。家康はまた、没収した領地を東軍に加わった大名への恩賞としたほか、軍事・交通上の要地に徳川氏一門や有力家臣を親藩大名や譜代大名として配置し、関ヶ原の戦い前後から徳川氏に従うようになった大名を外様大名として遠隔地に振り当てるなど、大名を配置し直した。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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 第32回日本史講座は1月9日(土)午後2時より受講者9名で行われました。
 Ⅴ 南蛮文化と桃山文化
(時代区分について)
 文化の説明に入る前に、時代区分の問題について説明した。織田信長と豊臣秀吉の政権を織豊政権と呼び、この時代頃から日本の近世時代の始まりとされている。世界史でも近世と呼ばれる時代区分が行われているが、それはルネサンス時代から始まるとされている。
 さて、一般に日本史でも世界史でも原始・古代・中世・近世・近代・現代と時代区分されており、原始は無階級社会で、階級が成立し、国家が形成された時代から古代が始まる。日本史の中世は武家政権が誕生した鎌倉時代から始まるとされている。そして、近世は織豊政権の成立から始まるとされている。それは古代的な荘園・公領制が完全に払拭されて一円的な領主制が成立し、封建制が再編成された時代であると位置づけられている。そして近代は明治維新から始まり、現代はアジア・太平洋戦争が終わった戦後から始まるとされている。
1 南蛮文化
 南蛮人と呼ばれたポルトガルやスペインによって、鉄砲とともに、進んだ医学・天文学・地理学や航海術・西洋画の技法などのヨーロッパ文化がもたらされたが、これを南蛮文化と呼んでいる。
1) 出版
 九州の天草などでは、ヴァリニャーニのもたらした活版印刷器を使って、『伊曽保(イソップ)物語』や『平家物語』などの文学書・日本語辞典・宗教書などのキリシタン版出版物が発行された。
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(東京書籍「図説日本史」より)
2) 外来語
 この頃にヨーロッパ人からもたらされたものには、パン・カステラ・タバコ・めがね・時計・ボタン・メリヤスなどがあり、その一部は生活のなかに定着した。
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(東京書籍「図説日本史」より)
2 桃山文化
 戦国大名と都市の豪商が権力と富を握った織豊政権の時代には、彼らの気風を反映して、現実的で力強い華麗な文化が花開いた。これを豊臣秀吉の居城の伏見の地が桃山にあったので桃山文化と呼ばれている。1) 建築・絵画
 桃山文化を代表するのは、寺院にかわって、城郭建築と障壁(しょうへき)画である。それまでの城郭は山城と麓(ふもと)の居館(きょかん)からなっていたが、この頃には平城(ひらじろ)へと移り、城主の権威を象徴するために、深い濠(ほり)と大きな石垣をめぐらし、天守閣を持つ豪壮な建築となった。城内には書院造りの居館が設けられ、内部の襖(ふすま)や壁・天井・屏風には濃絵(だみえ)と呼ばれる、金箔や華麗な色彩を使った障壁画が描かれた。また『洛中洛外図屏風』や『南蛮屏風』など都市や庶民の生活や風俗も多く描かれた。画家には、城郭絵画の創始者といわれる狩野永徳(かのうえいとく)とその門人の狩野山楽(さんらく)らの狩野派が、大和絵と水墨画を融合させた画風を確立し、長谷川等伯(とうはく)・海北友松(かいほうゆうしょう)らは濃絵のほかに水墨画にすぐれた作品を残した。
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(東京書籍「図説日本史」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)
2) 茶の湯
 室町時代におこった茶の湯は武士らの間で流行し、社交の場として茶会が頻繁に開かれた。秀吉に仕えた堺の千利休は質素・閑寂(かんじゃく)の侘(わ)び茶の茶風を追求し茶道を確立した。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
3) 陶磁器
 茶の湯の流行は、茶室建築や茶器・造園・の発達を促した。とくに朝鮮侵略のさいに連行されてきた朝鮮人陶工が有田(伊万里)焼・薩摩焼・萩焼などを、また、国内の陶工も美濃の志野焼・織部焼・、近江の信楽焼(しがらきやき)などを生み出した。
4) 芸能
 都市の発達とともに新しい民衆芸能も生まれた。出雲の阿国(おくに)がはじめた歌舞伎踊りがもてはやされ、堺の商人高三隆達(たかさぶりゅうたつ)が小歌に節を付けた隆達節(りゅうたつぶし)も人気をよんだ。室町時代に成立した語り物の浄瑠璃は、琉球の三線(さんせん)を改良した三味線(しゃみせん)を伴奏楽器にして人形浄瑠璃へと発展した。
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(資料⑤)スペイン統治下の社会構造(帝国書院「タペストリー」より)
問① ラテンアメリカ諸国の独立運動を指導したのはどのような人たちか。
問② なぜ彼らが独立運動の指導者となったのか。
問③ 彼らが指導したことによって、独立以後のラテンアメリカ諸国はどのような問題を残したか。
問④ ラテンアメリカ諸国の独立運動に対して、イギリスやアメリカ合衆国はどのように対応したのか。
問⑤ ラテンアメリカ諸国の独立は、ウィーン体制にどのような影響を与えたか。
(解説)
問①は、クリオーリョである。問②は、彼らが置かれていた社会的地位に由来する。植民地生まれの白人であるクリオーリョは、植民地体制のなかで、抑圧者であると同時に被抑圧者でもあるという二重性を帯びていた。彼らの多くは大土地所有者ないし大商人であって、植民地住民の圧倒的多数を占めるインディオ農民・黒人奴隷を直接収奪する植民地内の富裕な支配階級を構成していた。しかし、他方、植民地体制のなかで本国とクリオーリョとの間には矛盾が存在した。第一に、クリオーリョは植民地行政機関の上級官職から排除され、ペニンスラールから差別されており、第二に、多種多様な植民地課税に悩まされており、第三に、貿易・海運の本国独占、植民地産業の統制など本国本意の経済政策によって自由な経済活動を抑えられていた。このような不満のなかに本国に対するクリオーリョの抵抗の根拠があった。クリオーリョは、本国政府によるこれらの政策に対して、カビルド(市参事会)と呼ばれる自治組織を拠点として抵抗した。彼らが支配するカビルドは国王=副王の命令が彼らの利益に反すると考えた場合にはそれを無視した。しかし、国王の官吏がそれを強要するときには、カビルドはその官吏を罷免して政治権力を自らの手中に収めようとしたのであった。こうしてクリオーリョの反乱が始まった。
問③は、社会変革の課題を達成できなかったことにある。独立運動の指導勢力はクリオーリョであったが、彼らは大土地所有者・鉱山所有者・大商人などからなり、植民地の地主=ブルジョア階級であった。彼らの多くは、植民地主義者に代わって政治権力を握り、本国の貿易独占や産業規制を除去して国際市場に直接進出することを目的として独立運動に乗り出したのであった。彼らはあくまで本国の植民地支配からの離脱、つまり政治的独立を願ったのであって、社会革命を企図したのではなかった。このような立場から、下層民衆の力を独立運動に利用したが、下層民衆が社会革命を要求したときには弾圧によってそれを阻止した。独立戦争は大土地所有制に基づく私有奴隷制と債務奴隷制という植民地の社会構造の基本を変革することができず、それは独立後の諸共和国にほとんどそのまま持ち越された。こうして社会変革を欠いた独立革命は、逆に独立の達成が本来もっている進歩的意義を引き下げ、新たな従属への道の第一歩となる。独立によって政治権力を握ったクリオーリョ層は、大土地所有制に基づく収奪体系の一層の強化により国内の経済発展を妨げるとともに、自由貿易の展開によりますます国際市場への依存を深めていくが、その結果、政治的独立を達成したラテンアメリカ諸国は、今度はイギリスを中心とする世界資本主義のための原料資源の供給地、商品販売市場として経済的に従属し、事実上の植民地に転化していくのである。(「岩波講座世界歴史20 ラテンアメリカ諸国の独立と変容」参照)
問④について、イギリスは資本主義が発達し、たえず新市場の開発をねらっていたので、ラテンアメリカ諸国の独立を歓迎し、1822年には五国同盟を離脱した。アメリカ合衆国は、1823年に大統領のモンローがいわゆるモンロー宣言を発して、ヨーロッパとアメリカ大陸との相互不干渉を強く主張した。問⑤について、ラテンアメリカ諸国の独立によって、メッテルニヒの望む現状維持政策がくずれ、ウィーン体制は動揺をはじめた。

3 ギリシアの独立
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(資料⑥)(東京法令「世界史のミュージアム」より)
問① なぜドラクロワはこの絵を描いたのか。
問② なぜイギリスの詩人バイロンはギリシア独立戦争に参加したのか。
問③ ギリシア独立戦争にロシア・イギリス・フランスはどのような対応をしたのか。
問④ ギリシアの独立は、どのような歴史的意義を持っているか。
(解説)
問①について、この絵は1822年に当時オスマン帝国統治のギリシアのキオス島で独立派らを鎮圧するため、トルコ軍兵士が一般住民を含めて虐殺した事件の一場面をドラクロワが描いたものである。ギリシアは、15世紀末いらいオスマン帝国の支配下にあったが貿易活動で経済力を高める一方、ヨーロッパの自由主義・国民主義運動の影響を受けて、独立の気運が高まり、1821年より独立戦争を起こした。これに対してオスマン帝国による弾圧は「キオス島の虐殺」に見られるような過酷なものであった。この頃、ヨーロッパの知識人のなかに、ヨーロッパ文化の源泉とみなされたギリシアに対するあこがれが強く、ロマン主義の風潮が広がった。ロマン派の知識人は、異教徒・異民族に支配されたギリシアの現状に憤りをおぼえ、ギリシアの独立戦争を支持した。ドラクロワもこの絵を描くことにより、ヨーロッパ市民の目をギリシア独立戦争に注ぐこととなったのである。
問②について、この頃、ギリシアに対するあこがれとともに、異教徒支配からのキリスト教徒の解放という宗教的性格が加わって、ギリシアの独立戦争は、ヨーロッパで熱狂的な支持と同情を集めたが、ドラクロワと同じくイギリスのロマン派の詩人バイロンも自らギリシア独立戦争に投じ、ミソロンギで病死した。
問③について、ロシアは南下政策により、オスマン帝国に対して強硬な態度をとると、イギリス・フランスはこのロシアの野心を警戒し、ギリシアを援助した。その結果、1827年、ロシア・イギリス・フランス3国艦隊は、ナヴァリの海戦でオスマン帝国・エジプト連合軍を撃破した。1829年、ロシア・オスマン帝国間でアドリアノープル条約が成立し、翌年のロンドン会議でギリシアの独立が正式に承認された。問④について、ギリシアの独立により、ウィーン会議後はじめて、ヨーロッパ大陸における領土変更がおこなわれ、ウィーン復古体制は大きく動揺することとなった。

【課題】
① ウィーン体制を保守・反動的な体制として捉えてきたが、一方で第一次大戦に至るまでヨーロッパ全体にわたる規模の大戦争がなく、クリミア戦争にしても普仏戦争にしても比較的短期であり、全面戦争とはいえないところから、ウィーン体制によって100年の平和が実現できたことは確かであり、これを評価する見解もあるが、これをどう捉えるべきか。
② 教科書では、ラテンアメリカ諸国の独立をウィーン体制の動揺というところに入れているが、それでよいのか。入れるとすればどこがいいのか議論してほしい。
(参考文献)
「岩波講座 世界歴史18 ウィーン体制 斉藤孝」
「岩波講座 世界歴史18 ウィーン体制の変遷 斉藤孝」
「岩波講座 世界歴史20 ラテンアメリカ諸国の独立と変容 高橋章」
「文英堂 理解しやすい世界史B」
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Ⅱ ウィーン体制の動揺
1 ウィーン体制への反抗
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(資料③)(第一学習社「最新世界史図表」より)
問① 地図から、ドイツではどのような運動が起こっているか、それについて調べよう。
問② イタリアではどのような革命が起こっているか、それについて調べよう。
問③ ロシアではどのような乱が起こっているか、それについて調べよう。
(解説)
 問①は、ブルシェンシャフト運動である。ブルシェンシャフトとは1815年にドイツの統一と自由主義的な国家改造を目的として組織された学生組合のことである。1817年のルターの宗教改革300年記念祭を契機に気勢を上げたが、メッテルニヒが主催するドイツ連邦会議でのカールスバート決議により解散を命じられ、弾圧された。問②はカルボナリ革命である。カルボナリとは炭焼き人のことで、名前の由来は炭焼人のギルドを模した秘密結社がその源流とされる。この組織は1806年にナポリ王国において結成された。1820年ナポリで、ブルボン復古王政の専制打倒をめざし、さらに1821年トリノでも自由主義的革命政府の樹立をめざして放棄したが、オーストリアの武力干渉で失敗した。問③はデカブリストの乱である。ロシア語で12月をデカブリといい、デカブリストとは「十二月党員」という意味である。1825年12月、アレクサンドル1世の死を機に自由主義的な貴族や士官が農奴制・専制政治に反対して反乱を起こしたが、ニコライ1世により鎮圧された。
 これらの運動は弾圧されたが、自由主義的な改革を求める各国国民の運動をおさえることはできなかった。
2 ラテンアメリカ諸国の独立
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(資料④)ラテンアメリカ諸国の独立(東京書籍「新撰世界史B」より)
問① 地図を見て、ラテンアメリカ諸国のなかで、最も早く独立を達成した国はどこか。なぜこの国が最も早く独立を達成できたのかを調べよう。
問② 独立を達成したのは何年代が多いか、その背景には何があるかを調べよう。
(解説)
 問①は、ハイチである。ここでは、フランス革命の時にトゥサン・ルヴェルチュールの指導する黒人奴隷が反乱を起こし、ナポレオン軍を撃退して、1804年に独立共和国となった。問②は、1810年代から1820年代である。その背景にはスペイン・ポルトガル本国がナポレオンに占領されたのを機に、独立運動が進展したことがあげられる。特に1810年に始まる解放戦争は、北はメキシコから南は地理に及ぶ広大な内陸を舞台として展開された。解放戦争は三つの地域を中心に展開された。第一は、シモン・ボリバルの指導のもとに、コロンビア・エクアドル・ベネズエラを解放し、さらにボリビアに及んだ解放運動であり、第二は、サン・マルティンの指導のもとにアルゼンチン・チリ・ペルーを解放した運動であり、第三は、メキシコでイダルゴの革命運動に始まり、メキシコ・中米の解放を達成した運動である。さらに、本国スペインで1820年~23年にかけて、スペイン立憲革命が起こり、自由主義改革が一時的に成功したことを受けて、1820年代に独立運動が最も高揚した。
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