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4 琉球王国と蝦夷地
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
1) 近世の琉球王国
 琉球王国は、14世紀末から明に朝貢するという形をとっていたが、1609年に薩摩の島津氏の侵攻を受けて以後、薩摩藩の役人が那覇に常駐して監視された。明に代わって清が琉球王国に朝貢を求めてくると、幕府が清との争いをさけてこれに応じさせたために、琉球王国は薩摩と清にそれぞれ服属することになった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 しかし実際には、清には琉球王国と薩摩の関係を秘密にしながら、薩摩に支配された。琉球王国は、年貢の納入やキリシタン禁制を強制され、黒砂糖や中国産生糸、薬剤などを島津氏に献上させられた。
 また、幕府の将軍の代替わりを祝う慶賀使(けいがし)と、琉球王国の代替わりを感謝する謝恩使(しゃおんし)を島津氏の同行のもと江戸に派遣させられたが、この江戸上(のぼ)りは1634年から1850年の間に18回も行われた。この時に琉球王国の使節には中国の衣裳で参府(さんぷ)させたが、その理由は薩摩藩や幕府の権威を高揚させるためであった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2) 近世の蝦夷地とアイヌ
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 米を生産できない蝦夷地の大名となった松前氏は、幕府からアイヌとの交易の独占権を与えられた代わりに、日本人が蝦夷地に渡ることを監視するように命じられた。松前氏は、1640年に渡島(おしま)半島和人地(わじんち)をもうけ、アイヌの漁場である商場(あきないば)からあがる鮭や鰊(にしん)・昆布などの交易で財政を維持した。
 また、家臣にも商場を与え、アイヌと交易させたが、これを商場知行制と呼び、交易での利益が家臣の収入となった。交易品は、アイヌ側が干鮭・干鰊・干鱈(たら)・串鮑(あわび)・昆布などで、松前藩側は米・糀(こうじ)・古着・酒・木綿・鍋・鎌・椀類であった。
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(東京書籍「図説日本史」より)
 しかし、松前藩が交易の独占権を握るとともに和人の不正が増えていき、アイヌの不満は強くなった。部族ごとに分かれていたアイヌはしだいに結びつきを強め、1669年、大首長シャクシャインが、全アイヌに決起を呼びかけて蜂起したが鎮圧された。
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(三省堂「日本史B」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)

 次回の第37回日本史講座は、3月26日(土)午後2時より行う予定です。
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3 江戸時代の国際関係
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
1) 中国の変動
 中国では李自成の乱によって明朝が滅亡すると、中国東北地方(満州)に建国したしていた女真族の清が乱に乗じて中国に進出し、北京を都として中国を統一した。明に好意的であった幕府は清との対立をさけ、国内体制を整備するとともに、沿岸防備や貿易の管理・対外関係の制限を厳しくした。
2) 四つの窓口
 鎖国成立以降の日本と外国や他民族とのつながりは、オランダ・中国と貿易だけを行う長崎口と、朝鮮との対馬口、琉球との薩摩口、蝦夷地との松前口の4か所になった。幕府は長崎だけを直轄支配したが、それ以外は朝鮮や琉球・アイヌとつながりの深かった宗(そう)、島津、松前の各外様大名に支配させた。
3) 長崎貿易
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(三省堂「日本史B」より)
 長崎のオランダ人は、長崎奉行に監視されながら、狭い出島で不自由な取り引きと生活を強いられたが、アジア各地のオランダ商館と比べて治安がよく、貿易額も圧倒的に多かった。また、長崎町内に雑居していた中国人も、1688年、漢訳のキリスト教関係の書籍の流入など密貿易を恐れる幕府によって、唐人屋敷に移されるようになったが、貿易はいぜん活発で、オランダをしのぐほどの貿易額となった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
4) 朝鮮との関係
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(東京書籍「図説日本史」より)
 日朝貿易は、己酉約条(きゆうやくじょう)に基づいて、釜山の倭館(わかん)に常駐する宗氏の家臣をとおして、朝鮮から米や木綿・朝鮮人参が、対馬(日本)からは東南アジアの胡椒や薬剤・染料の蘇木(そぼく)・銅・錫などが交易された。また朝鮮からは、将軍の代替わりを祝う朝鮮通信使が1607年から1811年の間に12回来日したが、使節団一行は、彼らから大陸の学術情報を得ようとする日本の人々に歓迎された。
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(東京書籍「図説日本史」より)
 
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2 正徳の治
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
1) 新井白石の政治
 1709年、綱吉が亡くなると、甥の家宣(いえのぶ)が甲府からはいって6代将軍となり、それから4年後には家継ぐ(いえつぐ)が7代将軍の地位に就いた。この7年間にわたり将軍を補佐したのが儒学者の新井白石(あらいはくせき)であり、この間の政治を年号にちなんで正徳の治と呼ばれている。白石は側用人の間部詮房(まなべあきふさ)と協力して幕政の刷新にあたったが、その政治の特徴は、儒学にもとづく理想主義的な政治を推進したことにある。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2) 政策
 白石は、まず生類憐みの令を廃止し、幕府の儀式などを整備して将軍の威信の回復に努めた。さらに財政の再建をめざして、朝鮮通信使の接待を簡素化した。当時、通信使に対する接待費は1回ごとに100万両にのぼる盛大な歓迎式であったが、財政赤字のために歓迎式は中止となった。さらに白石は、閑院宮家(かんいんのみやけ)の新設や、7代将軍家継と皇女との婚約など、綱吉と同じように朝廷との協調に務めた。白石はまた、経済の混乱を解決するため、勘定奉行の荻原重秀をやめさせて貨幣改鋳をおこない、1714年に良質の正徳小判などの貨幣を発行した。さらに、長崎貿易による金銀の海外流出を防ぐために海舶互市新例(かいはくごししんれい)を出して輸出を制限した。この新例は、1685年に1年間の貿易額を、唐船銀6000貫目(もんめ)、オランダ船3000貫目としていたが、白石は、中国船30隻、オランダ船2隻と入港船数にも制限を加えたものである。
 こうして正徳の治によって幕政は一応の安定をみることになったが、白石の理想主義的な政策は実情にあわないことが多く、側近政治への幕臣らの反発も強かった。また、貨幣の改鋳をおこなったものの、発行量が現実の需要にみあわなかったために、かえって経済の停滞を招く結果となった。
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(山川出版「日本史研究」より)
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 第36回日本史講座は3月12日(土)午後2時より、受講者11名で行われました。
 第12章 幕藩体制と上方文化
 Ⅰ 綱吉の政治と白石の政治
1 将軍綱吉の政治
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(山川出版「日本史研究」より)
1) 5代将軍綱吉
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 4代将軍家綱の死後、家綱に子がなかったため、その弟で上州館林(たてばやし)の藩主であった徳川綱吉が跡を継ぐに及んで、文治政治が一層強力に推し進められた。綱吉は、将軍権威の確立をめざして、大老酒井忠清(ただきよ)をはじめ前代からの権力者を幕府の閣僚から追放し、側用人柳沢吉保(よしやす)を登用し、また、親藩・譜代大名の改易や減封を盛んに行う反面、外様大名の優遇をはかったりした。
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(山川出版「日本史研究」より)
2) 儒学の興隆
 1683年には武家諸法度の第1条「文武弓馬の道、専(もっぱ)ら相(あい)嗜(たしな)むべき事」を「文武忠孝(ちゅうこう)をはげまし、礼儀を正すべき事」に改め、儒教の教えを取り入れて統治することを大名らに求めた。1690年には、林羅山(はやしらざん)の孫林信篤(のぶあつ)を大学頭(だいがくのかみ)に任じて朱子学を幕府の学問(正学)とし、林家の邸内にあった私塾を湯島に移し、湯島聖堂を開いた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
3) 秩序・儀礼の整備
また、応仁の乱で中断していた大嘗祭(だいじょうさい)を復興させるなど朝廷との協調につとめるとともに、儒教の教えを農民や町民にまで広めた。さらに1685年以来しばしば発令された生類憐(しょうるいあわ)れみの令を出して動物の殺生(せっしょう)を禁止してきびしく取り締まった。笠原一男著『日本史研究』によると「1685年の令は馬を乱暴に扱わぬ事、鳥や貝類を江戸城で食用に供さぬ事ぐらいのものであったが、87年になると生類一般に広まり、ヒステリックな愛護令がぞくぞくと出された。とにかく、犬を殺したために流罪や死刑になった者も多く、蚊をうち殺したためにお役御免になる武士もでたというから、全く正気の沙汰ではない。人々は犬を飼うのを恐れ、捨て犬が江戸市中を横行するようになると、幕府は四谷・大久保・中野に大きな犬小屋を建て、4万8700匹の犬を収容し、1日1匹に白米3合、味噌50匁(もんめ)、干鰯(ほしか)1合ずつを与えた。この莫大な費用は関八州の農民・江戸市民から徴収されたので、人々の怨嗟(えんさ)の声は一層高まった。」と書かれている。
4) 財政再建
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 明暦の大火で焼失した江戸の復興費用などで乏しくなっていた幕府の財政は護国寺などの寺社造営で赤字となった。しかも金銀の産出量が激減していたので、幕府は、勘定吟味役(かんじょうぎんみやく)荻原重秀(おぎわらしげひで)の意見を取り入れ、貨幣を改悪することに踏み切った。幕府は500万両の利益を得て一時の急をしのぐことができた。しかし、その結果、貨幣価値の下落により物価が急騰し、人々の生活は苦しさを増した。
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(山川出版「日本史研究」より)
 しかも、元禄末年から宝永年間にかけて、地震・噴火・大火などの天災があいつぎ、社会不安はつのる一方であった。1702(元禄15)年に起こった赤穂浪士の仇討ちは、このような幕府政治や社会に対する不満を持っていた民衆に大いなる支持を得たのである。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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 Ⅳ 寛永期の文化
1 学問と美術
1) 特色
 寛永期は幕藩体制が確立した時期であり、幕府や諸藩は封建教学として積極的に儒学を保護育成するとともに、徳川氏の霊廟として日光東照宮が建築されるなど、武家文化の特色を持つている。一方、桃山文化を継承し、京都の上層町人の洗練された王朝文化風の特色も兼ねそなえた文化といえる。
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(東京書籍「図説日本史」より)
2) 儒学
 学問の中心は儒学で、なかでも大義名分と身分秩序を重んじる朱子学が支配思想として台頭した。特に、朝鮮朱子学に影響を受けた藤原惺窩(せいか)の門人林羅山が幕府の顧問として重用され、子孫は幕府の文教政策を担当した。
3) 建築
 幕府は、家康を神格化するため、家康をまつる日光東照宮に装飾工芸の粋を集め、富と権力を象徴する豪華な霊廟建築を完成させた。
 一方、書院造りの中に茶室建築の趣向を取り入れた数寄屋造(すきやづくり)と呼ばれる建築が盛んとなり、庭園を調和させた桂離宮や修学院離宮など風流雅趣(がしゅ)をきわめた回遊式庭園が造られた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
4) 絵画
 絵画では前代に全盛をきわめた狩野派から狩野探幽(たんゆう)が出て幕府の御用絵師となり、活動の場を江戸に移して画壇の派遣を握った。しかしその画風はしだいに保守的になり、独創性を失っていった。
 大和絵の土佐派も、土佐光起(みつおき)が朝廷の絵所預(えどころあずかり)の地位を回復したが、その地位に安住して画風が停滞した。
2 町衆の文化
1) 京都の文化興隆
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 京都の町衆の間から、伝統的な様式に新たな時代感覚を加えた、装飾風の絵画と工芸が生まれた。本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)は気品の高い茶器を造るとともに、書道では光悦流と呼ばれる書風をはじめ、蒔絵でも傑作を残すなど寛永期を代表する文化人であった。
 彼の影響を受けた俵屋宗達(たわらやそうたつ)は桃山障壁画の洗礼を受けて独特の柔らかみのある装飾豊かな画風を生み出した。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2) 文学・芸術
 文学は室町時代のお伽草子の流れを受けた仮名草子は、教訓・啓蒙意図をもった通俗的作品で、文学的には未熟であった。
 連歌の発句(ほっく)だけを独立させた俳諧(はいかい)は、京都の松永貞徳によって確立され、貞門派をつくりだしたが芸術的な価値は乏しかった。
3) 陶磁器
 茶道の普及や暮らしの安定は、焼き物の需要を増大させた。特に、西国を中心に、秀吉の朝鮮侵略で連行された朝鮮人陶工(とうこう)の手による新しい窯業(ようぎょう)が生まれた。李参平(りさんぺい)が開いた肥前有田焼は、酒井田柿右衛門が上絵付けの技法による赤絵(あかえ)の磁器を完成させ、中国製品にかわって海外に輸出され、積み出し港の名前である伊万里焼きとして有名となった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 
 次回の第36回日本史講座は、3月12日(土)午後2時より行われる予定です。 
 
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2 文治政治の確立
1) 背景
 幕藩体制は3代将軍家光のときに確立したが、それまでの大名の取りつぶし、牢人の取り締まりなどの武断的な政策は、大量の牢人が発生して、社会に不穏な空気がみなぎりはじめていた。また、合戦の手柄による出世ができなくなった旗本や御家人のなかにも、幕政に不満を持ち、かぶき者と呼ばれる者もいた。彼等は異様な姿で群れをつくっておし歩き、旗本・御家人のかぶき者は旗本奴(やっこ)・六方(ろっぽう)とも呼ばれた。また、旗本奴に対抗した市井(しせい)のかぶき者を町奴・男伊達(おとこだて)と呼び、頭領の幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべえ)は、のちに芝居の主役にもなった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2) 契機
 1651(慶安4)年、家光が亡くなると、跡継ぎの将軍家綱はまだ11歳という幼年で、この機を捉えて牢人で兵学者の由井正雪(ゆいしょうせつ)は丸橋忠弥とはかって、幕府転覆の挙兵を計画したが失敗した。これを慶安の変という。しかし、1652(承応1)年には、再び牢人による老中襲撃を企てた承応(じょうおう)の変がおこり、さらに1657(明暦3)年には江戸の6割近くを焼いた明暦の大火がおこり、幕府の権力はゆさぶられた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
3) 政策の転換
 このような情勢に直面した幕府は、これまでの武断主義から文治主義へ政策の転換をおこなって危機のきりねけをはかった。慶安の変直後、幕府は牢人取り締まりをゆるめて牢人の救済にのりだした。また、大名・旗本の末期養子の禁制をゆるめて、大名の取りつぶしを減らすとともに、幕府に人質を出す証人の制を廃止した。また、主君が亡くなると、家臣が跡を追って切腹する殉死を禁止し、家臣は主君個人に仕えるのではなく、主君の家で組織することを義務づけた。さらに幕府は、主君と家来の関係や社会の秩序などを重んじる朱子学を取り入れて、制度や法令を整備していった。
4) 諸藩
 一方、諸藩では、藩主が有能な家臣を登用して領内の開発や民政に力を入れ、権力の強化と藩政の安定をはかる動きがおこった。なかでも、備前岡山藩の家田光政や加賀金沢藩の前田綱紀(つなのり)らは、儒学者を顧問にして、藩政の仕組みや支配の考え方を打ち立てた。
 
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