<   2016年 04月 ( 7 )   > この月の画像一覧

 私たちは現地ガイドの古賀さんの案内で、「愛の湖公園」から徒歩でマルクト広場へと向かった。ブルージュ歴史地区は世界遺産に認定されているだけあってどこを見ても絵になる町である。古賀さんによると運河沿いに見える建物は聖ヨハネ病院である。
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(聖ヨハネ病院)
 この建物の右端に小さく隔離されているように建てられているのが、ライ病患者の建物である。ガイドブックによると、この建物を利用して、ブルージュで活躍した画家メムリンクの主要作品や病院の史料などを展示したメムリンク美術館がある。少し歩くと町で最も短いボニファシウス橋があった。橋の向こう側から大勢の観光客がこちらに向かって写真を撮ろうとしているので、私たちは急いで橋を渡った。
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(ボニファシウス橋)
 この橋はガイドブックにも載っているが、橋の反対側から写真を撮れば聖母教会がきれいに見える。
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(ボニファシウス橋 ガイドブックより)
 私はこの橋を急いで渡っていったので、この橋の反対側がこんなにきれいな風景だとは気が付かなかった。しかし、歩いていくうちに聖母教会の塔が見えてきた。
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(聖母教会の塔が見える)
 ガイドブックによると、聖母教会は「もとささやかな礼拝堂があったことから、9世紀に建てられたもので、始めは運河によって区切られていた町の外にあった。礼拝堂が重要性を増してきたのでローマ様式の教会に建て直された。そして、賢いブルージュの人々によって、運河の流れは変えられ、12世紀には町の城壁の真中に存在している。これは13世紀に作られたユニークなゴシック様式の建造物であり、ほとんど煉瓦だけで作られており、その後、何回か改築されている。大きな塔の高さは122mあり、煉瓦の塔としてはオランダ領で一番高いものである。」と書かれている。ブルージュはベルギーなのにオランダー領と書かれているのはどのような意味があるのか、ベルギーは一時オランダの支配下に入っていたので、ベネルクス地域で一番高い塔という意味なのか、それとも単に間違っているだけなのかわからない。
 運河のそばにひっそりと銅像が立っていたので、古賀さんに尋ねると、この人はビーベスという思想家である。
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(運河と銅像)
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(ビーベス)
 後に電子辞書で調べてみると、「スペインのユダヤ系人文主義者、哲学者。エラスムスやトマス・モアの友人。アウグスティヌス≪神の国≫注釈、≪学問論≫(1531年)などで知られるほか、ペトルス・ラムスに受け継がれる論理学の革新者、女子教育の先駆的論者として有名。」と書かれている。なぜ彼の銅像がここにあるのかとネットで調べてみると、彼は人生の後半をここブルージュで送ったとのことである。私はエラスムスやトマス・モアはよく知っているが、ビーベスという人物については全く知らなかった。
 マルクト広場の近くに来ると、数字が書かれた建物が目についた。
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(1608と書かれた建物)
 古賀さんの説明によると、この数字は建築された年代をあらわしている。マルクト広場の近くに魚市場があった。
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(魚市場)
 私たちは聖血礼拝堂の建物を通ってマルクト広場へと入った。
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(聖血礼拝堂 ガイドブックより)
 聖血礼拝堂とはガイドブックによると、12世紀に十字軍に遠征したフランドルのティエリー伯爵がコンスタンティノープルから持ち帰った「聖血の遺物」を飾るために建てられた礼拝所である。建物の中にはイエスの像や礼拝所があった。
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(イエスの像)
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(礼拝所)
 
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(観光2日目)
 4月13日(水)の午前7時30分、私たち夫婦はブルージュの朝の散歩に出かけることにした。
 添乗員さんが配布した地図を頼りに、旧市街の端にあるゲント門へと向かった。ブルージュの旧市街を歩いたが、あまり人影を見かけなかった。
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(人通りのない旧市街)
 私たち夫婦は10分足らずでゲント門に到着した。
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(旧市街から見たゲント門)
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(新市街から見たゲント門)
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(運河に架かっている橋から眺めた景色で、左側が新市街右側が旧市街)
 ブルージュとは橋という意味で、町を流れる運河には、50以上の橋が架かっている。旧市街は卵形の運河で囲まれており、町と外部を結ぶ橋には13~14世紀に城門が築かれた。南東に築かれたのがゲント門で、東にあるのが十字の門、北西にはロバの門がある。
 ブルージュで購入したガイドブックには、この町の古い地図が載っている。
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(ガイドブックより)
 この本によると「これは7世紀から9世紀にかけてツィン川の河岸に小さな居住地ができたことに始まる。最初、この地に住みはじめた人々は、ここをブリーギアと呼んだ。そこにはフランドル伯爵によって建設されたブリュグと呼ばれる城塞がありそれを取り囲んで町ができ、この町は海に続く航路となる川があったおかげで、商業の重要な中心地となった。そしてブルージュは、ついにフランドル伯爵が住居を構え、独自のお金を発行するほど、重要な町となった。そして13世紀頃、ブルージュは国際港となっていた。しかし15世紀頃より、ツィン川が埋まり、グルージュは経済的衰退やむなきにいたった。そしてアントワープがブルージュにとってかわった。」と書かれている。
 私たちは現地ガイドの古賀さんの案内で、午前8時30分頃に徒歩でブルージュの町を散策した。古賀さんはベルギー人の男性と結婚して子供4人のお母さんである。古賀さんは若い頃から剣道をやっており、ご主人とは日本で剣道を通じて知り合い、結婚してこちらで道場を開いている。ベルギーでは剣道がとても人気があるらしい。
 私たちが最初に訪れたのはベギン会修道院である。
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(ベギン会修道院)
 ガイドブックによると、「ベギン会修道院は、フランドル伯爵夫人によって1245年に建設された。・・・ベギン会修道女たちはグランドゥ・ドゥモワゼル(司祭か?)の監督のもとに生活していた。祈りの他に、ベギン修道院に沿って流れる運河の水で、彼女たちは織物をするための羊毛を洗ったりしていた。フラン周防、フィリップ・ル・ポールが、このベギン会修道院から、ブルージュ行政官の司法権を取り除いたこの時より、<君主のベギン会修道院>という肩書きを授与された。そして、ブルージュにおけるベギン会修道会が絶えたのは、1928年であった。1930年にはベギン修道院は宗教的雰囲気を取り戻した。それは、そこにベネディクト派の修道女たちが入り、ベギン会修道女たちの住居を改造し住んでいる。」と書かれている。
 ネットによるとベギン会とは、「中世に起源をもつ,女性による半修道会的集団。修道会のような入会誓約は課されないが,厳格な共同生活規約をもち,神秘的な瞑想による静穏な修道生活を理想とし,首導者のもとに,処女または寡婦の会員たちは,隔絶された会院内で起居した。ただし,個人的財産は所有されたままで,共同財産に組みこまれず,また脱会によって結婚することもできた。」と書かれている。ガイドの古賀さんによると、最初ここに入った女性たちは十字軍の未亡人が多かった。ベギン会修道院の周りには野生の水仙がきれいに咲いていた。
 次に私たちはベギン会修道院の近くにある「愛の湖公園」と呼ばれる場所へと向かった。
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(公園から見える景色)
 ここは中世ブルージュの内港だった所で、今では運河と水門で仕切られた湖となっている。
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(「愛の湖公園」の水門)
 「愛の湖公園」にはたくさんの白鳥が泳いでいた。
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(「愛の湖公園」の白鳥)
 なぜ「愛の湖」という名がついたのかとかとガイドの古賀さんに聞いてみると、「昔ここは共同の貯水池で、ベルギーでは、共同というのはミネンという言葉で、そこには愛という意味が含まれており、このように名付けられた。」という答であった。
 
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 私たちがデルフトで最初に訪れたのはマルクト広場で、その西側には赤いよろい戸が目を引く市庁舎があった。
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(マルクト広場)
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(市庁舎)
 この市庁舎は、17世紀初めの大火で焼失した旧市庁舎の跡地に、彫刻家のヘンドリック・カイセルによって建造された。ルネサンスとバロックの混合様式で、塔は唯一焼け残った13世紀のものである。
 市庁舎の向かいに建っているのが新教会である。
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(新教会)
 名前は新教会と付けられているがデルフトにあるもう一つの古い教会よりも新しいというだけで、創建されたのは1381年と古く、増改築を重ねて15世紀に完成した。ここには建国の父オラニエ公ウィレム1世が埋葬されたことから、オランダ王家のメンバーは、この教会に葬られるようになった。また、フェルメールが洗礼を受けた教会でもある。108.75mもの高さがある鐘楼から美しいカリオンの音色が聞こえてきた。この教会の横には大きなグロティウスの銅像が立っていた。
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(グロティウスの銅像)
 1583年にデルフトで生まれたグロティウスは神童で、11歳の若さで大学に入学した。彼は哲学者、劇作家、詩人でもあり、『戦争と平和の法』を著して、自然法に基づく国際法の基礎を作ったことから、「国際法の父」と称されている。彼もこの教会に眠っている。
 マルクト広場から美しい運河沿いの旧市街を6分ほど歩くと、旧教会が見えてきた。
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(運河沿いの旧市街)
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(旧教会)
 旧教会はその名のとおり古い教会で、13世紀から15世紀の2世紀にわたって建てられた。この教会は増築と修築を何年にもかけて行われたが、地盤沈下を防ぐことができず塔は傾いている。フェルメールはこの教会に眠っている。
 現地ガイドの中川さんの話では、この運河を真っ直ぐ行くとフェルメールが描いた『デルフトの眺望』の場所に行くことができると教えてくれたが、残念ながらその場所には行くことができなかった。
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(『デルフトの眺望』へと通ずる運河』
 オランダはチーズの盛んな国で、店の前に牛の置物のあるチーズ屋さんがあった。
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(チーズ屋さん)
 次に私たちはバスでデルフト焼きの工房見学へと向かった。17世紀にオランダ東インド会社から船で運ばれた明の景徳鎮の陶磁器や日本の古伊万里や柿右衛門の絵付けが模倣され、デルフト陶器を生み出した。
 デルフト焼きの工房では、絵付けの様子を見学することができた。
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(絵付けの様子)
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(デルフト焼きで造られた『レンブラントの夜警』)
 工房見学の後、私たちはバスでベルギーの都市ブルージュへと向かった。デルフトから約195㎞、所要時間は約3時間である。
 シェンゲン協定により国内旅行と同じようにオランダからベルギーに行くことができる。バスは高速道路を走っており、いつ国境を越えたのかわからなかった。バスは予定通りベルギーの街ブルージュに到着した。ブルージュのレストランで夕食をとったが、レストランの横には池があり、そこにはたくさんの白鳥が泳いでいた。
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(レストランの横の池)

 
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 次に私たちは、やはり17世紀のオランダの画家であるヘラルト・テル・ボルフの作品『子供の髪をとかす母(ノミ取り)』を鑑賞した。
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(子供の髪をとかす母(ノミ取り))
 ガイドブックによると、「女が優しく注意深く、子供のノミや寄生虫を取っている。女が除去に集中している間、着ているスモックから男児と推測される子供は、それが終わるのを我慢強く待っている。ヘラルト・テル・ボルフは、このような風俗画で人気を博した。その美しい作品の中で、音楽、読書或いは単に家事といった動作に熱中する主人公を生き生きと描いている。微妙な光描写が、慎重に扱った題材と顔の見事な表現力を際立たせている。目の保養になるこのタブロー(絵画)はまた、道徳も論じている。ノミ取りは、17世紀の画家や詩人にとって切り盛りのうまい主婦の美徳の一つ、秩序と清潔への関心を象徴していた。ヘラルトは、芸術を愛した父から激励され、妹ヘジーナと弟モーゼスと同様に画家となった。ヘラルトは、風俗場面に傑出した才能を発揮し、肖像画にも優れていた。」と書かれている。
 次も17世紀のオランダの画家であるパウルス・ポッテルが制作した『若い雄牛』という作品である。
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(若い雄牛)
 ガイドブックによると、「マウリッツハイスの現在の来場者の大部分はレンブラント、フェルメール、ヤン・ステーン、フランス・ハルスのタブロー(絵画)鑑賞が目的であるが、18世紀と19世紀にはパウルス・ポッテルの『若い雄牛』が人気であった。このタブロー(絵画)は、実物大の判に奇抜な写実主義で扱った表情豊かな素材を組み合わせている。雄牛の湿った鼻面と体毛にとまったハエは、オランダ絵画の模範そのものであった。ポッテルが描いたのは、実存した雄牛であったと考えられていたが、数年前にその説が覆った。注意深い観察から、体の様々な部分は一体の動物に由来するものではないことが明らかになった。角と胸垂は2歳の動物、6本の永久歯のある歯列は3歳または4歳の雄牛のものである。前躯は発達しているが、後躯は凹凸が少ない。その他、前躯と後躯が斜めであるのに体の中心部がカンヴァス画面と並行であるであるため、遠近法が損なわれている。これらのことから、様々な動物の習作を合体させてこの雄牛を描いたと結論付けられる。」と書かれている。
 次にレンブラントの弟子ホフェルト・フリンクの『椅子の傍らの少女』という作品を鑑賞した。
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(椅子の傍らの少女)
 ガイドブックによると、「氏名不詳の少女は、1630年から1640年代にかけて流行したペプラムのある白い上着とエプロンを着け、花冠と緑色のベールのついた小さな白い帽子を被っている。子供の肖像画では、モデルは当時若さと一体化させた白を着用することが多かった。長い紐の縁には、端に貴石をあしらったガラガラが下がっている。ガラガラで子供は歯を鍛えたが、幼児死亡率が高かった時代に病気や事故から守るためのお守りとしても使われた。幼児用椅子の傍らに立つ少女は、腕に麦わらかごを持ち、手にはイチジクとみられる果実を握っている。背景と腰掛けはレンブラント風筆触りでゆったり描かれているが、顔は丁寧に表現され、灰色と青の念入りなアクセントで際立つ。ホフェルト・フリンクの作風は、1640年代にゆっくりと変わっていった。レンブラントは彼に鮮明な筆遣いと茶色い色調の使用を教えたが、その年代の流行に合わせるように徐々にその絵画は滑らかになり、構図に気品が出て、色は明るくなった。」と書かれている。
 次にヤン・ブリューゲル(父)及びペーテル=パウル・リュベンスの作品である『楽園のアダムとエヴァ』を鑑賞した。
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(楽園のアダムとエヴァ)
 ガイドブックによると、「この堂々たる作品は、当時の偉大なフランドル画家二人の協力の結実である。ピーテル=パウル・リュベンスが2体の裸体を描き、ヤン・ブリューゲルが風景、植物及び動物を担当した。リュベンスの鷹揚(おうよう)な筆触りは、「ビロードのブリューゲル」と呼ばれたその凝った絵画と鮮明に区別できる。前景のアダムとエヴァの存在は、リュベンスの作風の典型である。馬、蛇、木も彼が描写した。様々な詳細から、この二人の協力が極めて密接であったことがわかる。構図全体はブリューゲル作と思われるが彼の描いた獅子と虎はリュベンスのタブロー(絵画)の引用で、作品にはこのような表現が複数含まれる。非凡な技術で鑑賞者の心を奪うこのタブロー(絵画)には、二人の作者が多数の象徴を挿入している。左端のリンゴにかぶりついている小さな猿は、原罪を予想している。それは禁断の木の実を食べようとするアダムを描写する、このタブロー(絵画)の題材である。17世紀、身体的に人類に近くても善悪を判断する資質のない猿は、悪を表すことが多かった。アダムの頭上に生い茂った葉の中で光を浴びるブドウの房は、原罪を贖(あがな)い十字架にかけられて死ぬキリストを象徴している。」と書かれている。
 私たちはマウリッツハイス美術館で約1時間30分の絵画の鑑賞を終えて外に出た。外には池があり、池から眺めたビネンホフと美術館の建物群はとても美しかった。
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(池から眺めた景色)
 私たちはバスに戻ってハーグを後にし、次の目的地であるデルフトへと向かった。ハーグからデルフトへは約14㎞、バスで約30分かかる。途中、デルフト近郊ののどかな村にあるレストランで昼食をとった。
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(デルフト近郊のレストラン)
レストランの横には川が流れており、近くにはたくさんの動物が飼われていた。その中に孔雀が羽を広げていた。
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(レストランの横の川)
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(孔雀)
 フェルメールが生まれ育ち、彼の風景画にも描かれたデルフトという街は、運河のある古い町並みが残っている本当に美しい所であった。また、この町は「デルフト焼き」という陶器で有名であるとともに、オランダ建国の父であるオラニエ公ウウィレム1世が住んだことでも有名である。
 
 
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 現地ガイドの中川さんによると、都市ハーグの人口は約50万人で、毎年2~3万人増加しているとのことである。しかし、ネットで調べてみると2008年の統計では約48万人となっており、8年前から2万人増えたに過ぎない。最近では不法滞在者や難民が増えており、都市人口が増加していることは間違いないであろう。
 私たちはビネンホフの近くにあるマウリッツハイス美術館へと歩いた。
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(マウリッツハイス美術館)
 マウリッツハイス美術館の前には近代的なエレベーターがあった。
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(マウリッツハイス美術館の前のエレベーター)
 マウリッツハウスは17世紀半ば、ヤーコプ・ファン・カンペンの設計で建てられたもので、オランダ古典様式建築の代表作とされている。この建物はオランダ領ブラジルの総督であったヨハン・マウリッツ伯爵の私邸であったが、19世紀にオランダ国王は王室の絵画などを収蔵するためにこの建物を買い取り、現在は王立美術館となっている。
 この美術館は、17世紀オランダ・フランドル絵画の名作が収められている。おもなコレクションは、フェルメール、レンブラント、ルーベンス、ファンアイク、ヤン・ステーンなどの作品である。私はここで日本語版の『マウリッツハイス』というガイドブックを購入したので、以後の絵画の解説はおもにガイドブックと作品の解説がないものはネットを使っている。
 現地ガイドの中川さんの案内により、最初に鑑賞した作品はヨハネス・フェルメールの『ディアナとニンフたち』である。
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(ディアナとニンフたち)
 ガイドブックにはこの作品に対する解説がないのでネットを参考にする。この作品は、1655から1656年頃にキャンパスで油彩で描かれたフェルメールの最初期の作品ではないかとされている。ディアナとはローマ神話に登場する、狩猟、貞節と月の女神であり、ニンフとはギリシア神話の精霊のことである。女神ディアナの、神話でよく知られているドラマティックなエピソードを描いているのではなく、女性とその侍女が身づくろいをしているような静謐な印象を与える作品である。このような、女性の静謐な個人的な瞬間を切り取ったように見える作風は、年を経るにつれてフェルメールの作品に色濃く表れるようになっていった。
 次の作品はフェルメールで最も有名な『真珠の耳飾りの少女』である。
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(真珠の耳飾りの少女)
 ガイドブックには、「耳にかけた真珠と同じように目を輝かせ、口を半分開けたこの若い女性は誰であろうか。ある作家はフェルメールの娘の一人であると言い、・・・下女フリートであると考えている。白絵具の点が印象的な立体感を与える真珠については、象徴的重要性を見出すものが多いが、美徳の寓意であろうか、それとも逆に淫欲であろうか。実際はこのタブローは肖像画ではなく、空想上の姿「トロニー」(顔)を描いている。この様式は、1630年頃レンブラントのアトリエで出現した。肖像画と歴史画の間のこれら習作は、異国風の豪華な服を着たモデルが想像上の東洋を想起していると言われることが多い。フェルメールのすべての技量が、一筆一筆をじっくり熟慮したようなこのカンヴァス画に集中している。地味で抽象的な背景とともに描かれたモデルはカンヴァスの右側にやや寄っており、内面から輝きを放っているような顔を際立たせている。」と書かれている。
 次もフェルメールの作品で『デルフトの眺望』である。
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『デルフトの眺望』
 フェルメールが制作した作品は35点しか残されておらず、その中でも風景画は特に少ない。ネットによると「この風景画はフェルメールが生まれて生涯を過ごしたデルフトの街並みを描いた風景画であるが、街の前景に影を、後景に光を当てる光彩描写や、理想的な美しさを求め現実の街の姿を変革し描いた表現は、同時代に制作された風景画の中でも特筆に値する出来栄えを示している。画面中央の石橋の左右に配されるスヒーダム門(時計塔)、ロッテルダム門は本来この視点からだと平行に見えるはずであるが、構図的により調和性を求めたフェルメールは、右側のロッテルダム門を外側を向くように再構成している。また17世紀当時デルフトの象徴であり同地の英雄オラニエ公ウィリアムが埋葬された新教会は、朝日に照らされ画面内で最も輝きを放っている。本作は描かれた16世紀当時から評価が高く、1696年におこなわれた画家作品の競売では最高価格200ギルダーで、1822年にマウリッツハイス美術館が購入した際には2900ギルダーの値がつけられたことが資料に残されている。」と書かれている。
 次に案内されたのはレンブラントの部屋で、最初に鑑賞した作品はレンブラントの出世作となった『トゥルプ博士の解剖学講義』である。
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(トゥルプ博士の解剖学講義)
 ガイドブックによると、「レンブラントがこの作品を完成させたのは1632年のことである。画家人生初期に受けた大きな注文であり、生まれ故郷ライデンを離れる理由のひとつになった。解剖実演のために組合が毎年集まるウァーグの広間にはすでに、1603年、1619年、1625年の集団肖像画が3点かかっていた。レンブラントはそれら作品を知っていたので、指揮する外科医を主要な位置に置きながらもすべての参加者に光を当てなければならないなど、芸術的自由を抑圧する流儀の制約事項を理解していた。黒い帽子を被ったニコラス・トゥルプは、場面の右に君臨する。レンブラントは一番奥に立つ外科医フランス・ファン・ルーネンの帽子の描写は放棄し、修正痕で隠した。一方、土壇場で参加したヤコプ・コルフェルトを左に加えた。ハルトマン・ハルトマンズは参加者名簿を持っているが、名簿の名前は後に別人が加筆した。リストには記されていないが、死者の名前はアーリス・キントという1632年に絞首刑に処せられた累犯者で、解剖学研究用に組合に亡骸が渡された。レンブラントはこの肖像画を、描写されることを誇りに思う著名人を併置する以上の作品にした。力強い構図は、動かない死者の手、解剖している外科医の右手、説明している左の手と3本の手を象徴的に中央に集めている。外科医たちの注意は、ソクラテスの言葉「汝、自身を知れ」を例証するようなこの魔法の三角形に注がれている。」と書かれている。
 次にレンブラントの「自画像」を鑑賞した。
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(肖像画)
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(肖像画)
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(肖像画)
 ガイドブックによると、「レンブラントが署名し日付を記した最後の自画像。オランダ黄金時代の最も偉大な画家は1669年10月4日に63歳で没した。当時、この年齢まで生きる人々はまれであった。最初の妻サスキア・ファン・オイレンブルフは29歳で亡くなり、事実上の後妻ヘンドリッキェ・ストッフェルスは37歳で、一人息子ティトゥスは27歳になる前に天に召された。愛する者たちの死や、自分の芸術所蔵品を売ったあげく1656年に破産するなど1655年から1656年の金銭的困窮を経ても、レンブラントはエネルギーを失うことなく、晩年においてもアムステルダムで始めた画家活動の初期同様、盛んに制作に励んだ。現在ロンドンにあるレンブラントのもう一点の自画像に1669年と記されているのが見つかった。ラジオグラフィーで明らかになった粗描は、手にパンフレットと筆を持った制作中の本人を表している。髪がやや短く顔は丸いため、デン・ハーグで描いた自画像のほうが後と思われる。従ってマウリッツハイス所蔵のカンヴァス画は、レンブラントの最後の自画像となる。彼は自らを疲弊した姿で描くことが多かったとされるが、常にエネルギーに満ち生き生きとしたそのまなざしはレンブラントが残した多数の自画像ように鑑賞者の胸を打つ。」と書かれている。
 
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(観光1日目)
 翌朝、私たち夫婦は朝の散歩に出かけた。先ず、ハーグ駅の見学に向かった。駅には改札口がなく誰でも停車している電車を身近に見ることができる。
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(駅の構内)
 オランダでは駅構内の上を電車が走っていた。日本ではこんな駅はないだろう。そういえばスキポール空港では、高速道路の上が飛行機の滑走路となっており、バスの車窓から高速道路の上を飛行機が飛び立つのを見た。
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(駅構内の上を電車が走っている)
 ハーグは北海に面するオランダ第3の都市で、国会議事堂など政府機関、各国大使館、国際司法裁判所などが集まっており、オランダの政治の中心地である。都市の正式名はスフラーフェンハーヘであり、「伯爵の生け垣(領地)」を意味する。オランダの名称の由来となったホラント伯爵が、13世紀にこの地に狩猟の館を建てたことに由来している。1588年にスペインから独立してネーデルランド連邦共和国が成立すると、ここに政府が置かれた。その後、19世紀にアムステルダムが首都となったが、政府はハーグに置かれたままとなった。1899年と1907年には万国平和会議がここで行われた。特に歴史の授業では後者の万国平和会議が重要である。日露戦争に勝利した日本が韓国を保護国化すると、韓国国王がこの万国平和会議に密使を送って、韓国の現状を訴えようとした事件である。これを日本史では「ハーグ密使事件」と呼び、これを知った日本は韓国国王を退位させ、韓国軍隊も解散させるという弾圧をおこなったのである。
 駅の近くには運河があったが、おそらく北海につながっているのであろう。
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(駅の近くの運河)
 運河の近くには旧市街があり、古いオランダの建物が並んでいた。
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(ハーグの旧市街)
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(ハーグの旧市街)
 私たちは午前8時15分にバスに乗ってハーグ観光へと向かった。現地ガイドは添乗員と同じ名前の中川さんで、彼は親の仕事で5歳の時に日本を離れ、シンガポールやイギリスなどの国々に住み、その後オランダに住み続け、とうとうオランダの国籍を持つようになった。
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(真ん中の人が現地ガイドの中川さん)
 私たちがまず最初に訪れたのは国際司法裁判所が設置されている平和宮である。
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(平和宮)
 この平和宮の建物は、アメリカの鉄鋼王アンドリュー・カーネギーの寄付によって1913年に完成したものである。建設は、敷地をオランダが提供し、建物の内部の装飾品や建材の大理石などはすべて世界各国が寄贈したものである。
 次に訪れたのがビネンホフ(中庭という意味)と呼ばれる所で、国会議事堂や総理府などの建物が集まった場所である。その中で最も古いのが13世紀にフロリス5世によって建てられた騎士の館と呼ばれる国会議事堂である。
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(騎士の館)
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(ビネンホフ)
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(ビネンホフ)
 
 
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 この旅行記は、私たち夫婦が「JTB旅物語 春のオランダ・ベルギー・ルクセンブルク10日間」のツアーに参加してまとめたものである。参加者は男性4名、女性8名で、夫婦2組、姉妹2組、熟年女性の友人1組と個人参加者の男性が2人の合計12名のツアーであった。応募した人数は18名であったが、ベルギーでのテロ事件などによるキャンセルが増えて最終的に12名となった。添乗員さんは超ベテランの男性で話し上手で大変物知りであった。今回の旅行も天候に恵まれ、期待以上の楽しい旅行となった。
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(「地球の歩き方 オランダ ベルギー ルクセンブルク」より)
(旅程)
第1日目  関空 10時25分出発(所要時間 約11時間45分)→ アムステルダムへ 
        アムステルダム着 現地時間15時30分→ ハーグ
第2日目  ハーグ観光→ デルフト観光→ ブルージュ
第3日目 ブルージュ観光→ ゲント観光→ ブリュッセル
第4日目 アントワープ観光→ ブリュッセル観光
第5日目 モダーブ城観光→ デュルビュイ散策→ ルクセンブルク観光
第6日目 オルヴァル修道院見学→ マーストリヒト観光
第7日目 ゴッホの森 クレラー・ミュラー美術館→ ザーンセ・スカンス散策→ アムステルダムへ
第8日目 キューケンホフ公園見学→ アムステルダム観光
第9日目 アムステルダム スキポール空港→ 関空へ
第10日目 関空に14時40分到着予定
(第1日目)
 私たちが乗ったKLM868便は、予定通り関空を午前10時25分に飛び立ち、オランダのアムステルダムへと向かった。アムステルダムのスキポール空港はヨーロッパのハブ空港となっており、ヨーロッパ各都市へ向かう人で飛行機は満席であった。私たち夫婦の前の席には、三姉妹の子どもが座っていたが、お母さんが日本人で、お父さんがポーランド人でイギリスに住んでいる。末っ子は私の一番下の孫と同い年で1歳2か月くらいでとてもかわいかった。
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(三姉妹)
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(末っ子)
 飛行機は予定通り現地時間の午後3時頃にアムステルダムに到着した。4月から夏時間になっており、日本との時差は7時間である。アムステルダムからバスに乗りハーグへと向かい、ハーグのホテルに到着したのは午後5時30頃であった。私たち夫婦はホテルの部屋に荷物を置いて散歩に出かけたが、ホテルはハーグ鉄道の駅の近くにあった。オランダは自転車の盛んな国であり、駅前の広場には自転車がたくさん置かれていた。
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(私たちのホテル側から見た駅前の広場)
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(私たちが宿泊したバビロンホテル)
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(ホテルの近くの公園)
      
     
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