<   2016年 05月 ( 24 )   > この月の画像一覧

 キューケンホフ公園の見学後、私たちはバスでアムステルダムに戻った。アムステルダムに着いたのは12時10分頃で、レストランでランチを食べた後、いよいよこのツアーの最後となるアムステルダム観光へとバスで向かった。先ず、マヘレの跳ね橋が見える場所へと案内された。
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(ブルーブリッジから見えるアムステル川の風景)
 この橋は運河クルーズの時にも紹介したが、改築前は青い橋だったのでその名がある。遠くに見えるのがマヘレの跳ね橋)
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(マヘレの跳ね橋)
 この橋も運河クルーズの時に紹介したが、1670年頃に建てられ、1772年に複葉式の跳ね橋となった。現在、アムステル川にかかる橋としては、唯一の木造跳ね橋である。
 次にムントタワーが見えた。
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(ムントタワー)
 ガイドブックによると、「17世紀にアムステルダムの町が大発展を遂げると、それまでシンゲル沿いに町を取り囲んでいた城壁は取り払われた。その残った塔の上に時計台を付けたのが、このムントタワー。ムントとは貨幣のことで、1672年にフランスがアムステルダムを侵略したとき、この塔の中でお金を造ったことからこう呼ばれている。」と書かれている。
 運河には私たちがクルーズで乗った同じようなボートが見えた。
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(運河クルーズのボート)
 次にダム広場へと向かった。
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(ダム広場)
 観光局によると、「アムステルダムの地名の由来にもなっている、ダム広場は、1270年頃、アムステル川にダムが築かれたのが始まりです。町の中心的な広場として、長い間栄えてきました。」と書かれている。広場の中央にあるのが戦没者慰霊塔(ナショナルモニュメント)で、「第二次世界大戦で亡くなった方を悼むため、1956年5月4日に建てられました。毎年、5月4日には、オランダ王室などが慰霊に訪れます。」と書かれている。
 次に私たちは現地ガイドの中川さんの案内で、国立美術館に入った。
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(国立美術館)
 国立美術館には、フェルメールの『手紙を読む青衣の女』や『牛乳を注ぐ女』、またレンブラントの『夜警』『自画像』など有名な絵画がたくさん展示されていた。私はここで日本のガイドブックを購入したので、このガイドブックを用いて絵画を紹介しよう。
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(レンブラントの『夜警』)
 5月28日(土)午後10時にテレビ大阪で放送された『美の巨人』という番組で、レンブラントの『夜警』が取りあげられていた。この絵画は、ダビンチの『モナ・リザ』ベラスケスの『ラス・メニーナス』とともに古くから世界三大絵画と呼ばれている。なぜこの絵画がそれほど素晴らしいのかをこの番組は詳しく説明していたが、この番組を見てから旅行に来ていたら、この絵画の見方も変わっていただろう。
 ガイドブックによると、「1642年、レンブラントは、今日では『夜警』という名で知られる、アムステルダム火縄銃手組合の集団肖像画を完成した。本作品は、フランス・バニング・コック隊長とウィレム・ファン・ラウテンブルフ副隊長を前面に出し、残りの隊員は、2人の背後でアーチ型の門の幅広い階段に整列している。レンブラントは、隊員をばらばらに配置させることにより、非常にダイナミックな効果を与えている。主役の周囲にいる多様な脇役達もまた、この絵にエネルギーを注いでいる。1715年、『夜警』はアムステルダム市庁舎に移された。市庁舎で用意していた場所には、大きすぎて納まりきらなかったため、本作品の四方が切り詰められた。」と書かれている。
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(市警隊の中央にいる少女)
 ガイドブックによると、「市警隊の中央にいる、輝かんばかりに明るいサテンのガウンを着た少女の帯には、死んだ鶏がぶら下げられている。鶏の爪は火縄銃手の象徴であり、以前の市警隊は、これで身を守っていた。」と書かれている。しかし、私が見たテレビ番組では、この女性はレンブラントの亡くなった妻であり、彼女を絵の中に潜り込ませるために、注文された隊員の人数を膨らませたのだと説明していた。
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(覗き込んでいる男)
 ガイドブックによると、「騎手と、光り輝くヘルメットを被る隊員の背後から、ベレー帽の男が覗き込んでいる。これはレンブラント本人かもしれない。」と書かれているが、テレビ番組でも同じ解説が行われていた。
 
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 ウィキペデアによると、キューケンホフ とはオランダ語で「キッチンガーデン」(台所公園)のことである。15世紀の猟場を敷地にし、ここで栽培したハーブがジャクリーヌ・ド・ナノーの居城の台所に花を届けたことから「キューケンホフ」 (台所に花を届けた敷地) という名前がついたという。総面積 32 ヘクタール (79 エーカー) の園地に植えつける花の球根は毎年700万球にのぼるといわれている。
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 チューリップの原産地はトルコのアナトリア地方とされ、トルコ国内の宮殿(トプカプ宮殿等)やモスク(ブルーモスク等)に貼られたタイルに描かれている。語源辞典によると、チューリップの学名は「ツゥリッパ」でトルコ語で頭巾を意味する。イスラム教徒が頭に巻くターバンと花びらが似ていることから名付けられたといわれている。チューリップがオランダに伝わったのは16世紀頃で、オランダの気候はチューリップ栽培に適しており、それまでになかった品種が次々と開発されていった。
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(桜も満開だった)
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(お菓子で造られた造花)
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(レンブラントの『夜警』と花)
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(フェルメールの『牛乳を注ぐ女』と花)
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(公園内で生け花の実演が行われていた)
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 17世紀にはオランダではチューリップは富の象徴となった。人気のある品種の値段は当時の平均年収の8年分の価格となったこともあり、高級品種の球根ひとつと、家が交換されることもあった。このようなチューリップ・バブルは崩壊したが、その後ヨーロッパではチューリップが爆発的な大人気になり、多量のチューリップが求められた。それに対応できたのは、一足先に栽培に成功していたオランダだけだった。オランダはチューリップを中心に、花の国際的な生産で70%近く、貿易では90%のシェアを占めている。
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公園には木で造られた迷路があった。
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(木で造られた迷路)
 私たち夫婦は3時間の公園の散策を終えてバス乗り場へと戻ったが、公園の入口付近は観光客でごった返していた。
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第8日目(観光7日目)
 4月18日(月)午前7時45分、私たちはアムステルダムエアポートホテルからバスでキューケンホフ公園へと向かった。距離で約41㎞、所要時間は約1時間の行程である。
 私たちはバスの運転手さんのご厚意でキューケンホフ公園の裏道を通り、公園へ花を供給している花畑をバスの中から見学することができた。
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(公園へお花を供給している花畑)
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(公園へお花を供給している花畑)
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(花畑から花を公園へ運ぶ作業をしている)
 私たちは午前8時35分に公園の入口に到着した。
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(公園の入口)
 私たちがバス乗り場に集合する時間は午前11時30分で、公園での散策時間は約3時間もあった。
 オランダ観光局によると、「キューケンホフ公園では広大なお花畑の海を漂流しているような気分になるでしょう。色とりどりの庭園やパビリオン、数百万本のチューリップや他の花をご覧いただけます。キューケンホフ公園は毎年異なるテーマを掲げ、一度として同じテーマになることはありません。世界でも有数なこの公園には、毎年数百万人が訪れます。チューリップは3月中旬から5月中旬まで花が咲いています。公園はこの開花期間中だけ開園しているため、お見逃しなく。」と書いてある。
 私たち夫婦はチケットとともにもらった公園の案内図を見ながら公園の散策へと向かった。
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(公園の案内図)
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(きれいなお母さんとかわいい子ども達)
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(ボートに乗っている先ほどの母子)
 公園の奥には大きな風車があった。
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(大きな風車)
 風車を登ると私たちがバスで通ってきた花畑を見ることができた。
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(バスで通ってきた花畑)
 
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 ザーンセ・スカンスを見学した後、私たちはバスでアムステルダムへと向かった。距離で約21㎞、所要時間は約30分の予定である。
 バスがアムステルダムに到着したのは午後5時前であった。アムステルダムの運河クルーズは、午後5時30分出発の団体予約を取っていた。そこで、午後5時出発のボートに乗れないかと添乗員の中川さんが交渉してくれたがだめだった。私たちは約30分待ってアムステルダム運河のクルーズへと乗り込んだ。
 アムステルダムは、13世紀に河口に築かれたダムの周りに発展した町である。アムは川を意味し、ステルは港、ダムは堤防のことであるから、「河港の堤防」という意味になる。町の南には、アムステル川が流れ込んでいる。
  運河クルーズの出発地点は、アムステルダム中央駅の前にあるボート乗り場であった。
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(アムステルダム中央駅)
 中央駅の駅舎は、オランダの有名な建築家であるカイペルスとファン・ゲントによって設計された、レンガ造りの3階建ての建物である。これまで有名な建築家によって設計された駅舎は他になく、ネオゴシックとネオルネサンスを融合させた様式である。東京駅の駅舎はアムステルダム中央駅をモデルにしたとされているが、それは間違いで東京駅はビクトリア様式である。
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(運河クルーズの乗り場)
 運河クルーズの所要時間は約1時間である。日本語の音声ガイドもあったが、聞き取りにくかった。
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(アムステルダムの智頭『地球の歩き方』より)
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(ボートから見える町の建物)
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(聖ニコラス教会)
 この教会はネオ・バロック様式で1887年に建てられた、アムステルダムでは珍しいカトリックの教会である。聖ニコラスは船乗りたちの守護聖人であり、また、子供達の聖者としても有名で、サンタクロースの元となった聖人で今のトルコあたりに住んでいた。しかしオランダでは、11月下旬にスペインからやって来て、12月6日のシンタクラース祭に向けて白馬に乗って各地を練り歩き、12月5日の夜に、オランダの子達にプレゼントを配る。
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(運河のボートハウス)
 アムステルダムの運河にはたくさんのボートハウスがあり、そこで生活している人も多い。
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(運河に架かっている小さな橋)
 アムステルダムはヴェネチアと同じような運河の町で、小さな橋がたくさんある。橋の上にたくさんの自転車が置かれている。
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(傾いている建物)
 オランダの国土の四分の一は干拓されたものであり、年々地盤が沈下していき、このような傾いた家が多い。
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(ブルーブリッジ)
 この橋はアムステル川に架かっている立派な橋で、改築前は青い橋だったのでその名がある。この橋の向こうがわに小さく見えるのがアムステルダムで最も有名なマヘレの跳ね橋である。
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(マヘレの跳ね橋)
 この橋は1670年ごろに建てられ、1772年に複葉式の跳ね橋となった。現在、アムステル川にかかる橋としては、唯一の木造跳ね橋である。
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(バッグ・ミュージアム)
 このミュージアムは女性用のバッグと財布ばかりを集めた面白い博物館である。
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(ボートから見える街並み)
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(西教会)
 この建物は、1631年建設のオランダ最大のプロテスタントの教会である。塔の高さは85mあり、塔の上に付いている王冠は、15世紀末にこの地方を支配していた神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世を記念したものである。
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(アンネ・フランクの家)
 アンネ・フランク一家がアウシュビッツ強制収容所に送られるまでの2年間を、この隠れ家で暮らしていた。
 運河クルーズの終了後、私たちはレストランで中華料理を食べたが、ヨーロッパのどのツアーに参加しても中華料理は必ず付いている。食事の後、私たちはアムステルダムのホテルへと向かった。
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 クレラー・ミュラー美術館での鑑賞後、私たちはバスで、アムステルダム近郊にある風車の村ザーンセ・スカンスへと向かった。美術館から距離で約98㎞、所要時間は約1時間30分の予定である。途中、レストランでランチを食べ、ザーンセ・スカンスに到着したのは午後の3時頃であった。
 ザーンセ・スカンスはザーン川の沿岸に誕生した村で、16世紀のオランダ独立戦争では村を守るために防塁(スカンス)を築いたことから、この名前がつけられた。17・18世紀には、この地域に600基以上の風車がひしめいていて、世界初の「工業エリア」を形成していた。これらの風車では、木材板、絵の具、マスタード、油や紙などを生産していた。しかし、20世紀にはいると古い風車は姿を消していったので、1950年以降、ザーン地方の風物を保存するため、5基の風車や白と緑で統一された美しい木造家屋などが近郊から移設さたのである。
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(ザーンセ・スカンスの風車)
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(ザーンセ・スカンスの風車)
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(ザーン川の向こう岸に見える家並み)
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(ザーン川の向こう岸に見える家並み)
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(川の向こうに水車が見える)
 この村の家々は、チーズや木靴などのお土産を売る店ばかりで、たくさんの観光客が訪れていた。
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(観光客用のお店が並んでいる)
 川原には牛が放牧されていた。
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(牛の放牧)
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(大きな風車)
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(風車が並んでいる)
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(大きな風車)
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(観光地の案内図)
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(風車の内部)
 観光地では有料で風車の内部の見学や説明、さらに風車の上にも昇ることができる。
 ところで、なぜオランダは風車の国として有名なのか。実はオランダという国の正式名称はネーデルランド王国で、語源となったホラントはオランダの一州名である。ネーデルランドとは低い土地という意味で、国土の大部分は低地で、四分の一は海面より低い。そのため海上から吹く風を利用した風車が昔から多く造られてきた。19世紀、最も風車が活躍した時期に、オランダ全土で約9000もの風車があったとされている。
 それでは風車は何の目的で造られたのか。風車の最も重要な役割は排水用として造られた。オランダは国土の四分の一が海面より低いため、常に水との闘いに明け暮れていた。洪水の恐怖から逃れるには湧き出る水を排出しなければならないからである。また、風車は粉ひきなどの動力としても使用されたのである。
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(風車が並んでいる)
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(風車が並んでいる)
 私たちは1時間30分ほどのザーンセ・スカンスの自由散策を終えて、アムステルダムへと向かった。




 
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(プロヴァンスの干し草の山)
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(夜のカフェテラス)
 『プロヴァンスの干し草の山』は1888年の6月に描かれ、『夜のカフェテラスは』9月に描かれている。ウィキペデアによると、「南フランス・アルルの星空の下、人でにぎわうカフェテラスが描かれている。この絵でゴッホは初めて黒をあまり使わずに夜空を描いた。夜のカフェテラスに描かれている背景の星座は定かではないが、秋の星座には違いない。モデルとなったカフェはアルルのプラス・デュ・フォルムという広場に面した店で、『カフェ・バン・ゴッホ』という名で現存する。」と書かれている。
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(ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女)
 この作品は1888年12月のもので、ウィキペデアによると、「アルルで近所に暮らしていたルーラン家の夫人をモデルにして描かれた。花が描かれた壁紙を背に椅子に座る女性が手に揺りかごを揺らす紐を持っている。ゴッホにとっては母性のシンボルであると言われる。」と書かれている。
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(ジョゼフ・ジヌーの肖像)
 この作品も1888年12月に描かれたものである。
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(郵便配達人ジョゼフ・ルーラン)
 この作品は1889年4月のもので、モデルとなったのはルーラン夫人の夫ジョセフ・ルーランで、ゴッホは書簡で郵便配達人としているが、実際には駅の郵便物取扱係だったとされる
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(日の出の春小麦の畑)
 この作品は1889年5月から6月に描かれたものである。
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(糸杉と二人の女性)
 この作品は1889年6月に描かれたものである。
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(オリーブ畑)
 この作品は1889年6月半ばに描かれたものである。
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(刈る人と太陽のある麦畑)
 この作品は1889年7月初頭に描かれたものである。
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(沈む夕日と赤い空に松の木々)
 この作品は1889年11月に描かれたものである。
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(摘む人々のいるオリーブ畑)
 この作品は1889年12月に描かれたものである。
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(アルルの女ジヌー夫人)
 この作品は1890年2月のもので、モデルはゴッホが出入りしたフランス・アルルのカフェの経営者であったとされる。構図の基となった素描はポール・ゴーギャンが1888年に描いたものとされ、ゴッホの筆による同様の構図の絵が複数(4点とされる)ある。そのうちで特に傑作とされるものが、衣服がピンク色の1点である(他の3点は衣服が黒い暗色である)。
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(サン=ポール病院の庭の松の木とタンポポ)
 この作品は1890年4月から5月に描かれたものである。
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(糸杉と星の見える道)
 この作品は1890年5月に描かれたもので、ウィキペデアによると、「ゴッホは弟のテオドルスに宛てた手紙の中で、『いつも糸杉に心惹かれている。』と述べ、その『美しいライン』はエジプトのオベリスクのように調和がとれていると語った。ゴッホはフランスのアルルに滞在していた1888年から夜の糸杉を描くことを考えていたという」と書かれている。
 クレラー・ミュラー美術館には、ゴッホ以外にも有名な作品があった。
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(キュクロープス)
 この作品はフランス人オディロン・ディロンが1914年頃に描いたもので、キュクロープスとは一つ目の巨人のことである。
 美術館の鑑賞後私たちは美術館の周辺を散歩した。
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(美術館の周辺)
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(現地ガイドの中川さん)
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 百科事典によるとゴッホは、「ベルギー国境に近い小村のズンデルトという小村の牧師の子として生まれた。中学卒業後、美術商グービルのもとで働いたり、牧師職に就こうとしたが成功せず、1880年ブリュッセルの美術学校に入学した。暗い色彩の修業時代をオランダで過ごすが、1886年パリに出て、印象派や浮世絵の影響下に明るい色彩に転じた。その後、ゴーギャンとの交友・別離を経てオーベル・シュー・オアーズで狂気のうちに自殺を遂げるまで、アルルやパリ周辺の風景、自画像などを好んで描き、奔放なタッチと強烈な色彩により苦悩に満ちた魂を表出した。」と書かれている。
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(白い帽子をかぶった農婦の顔)
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(荷車、赤と白の雄牛)
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(3つの鳥の巣のある静物)
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(ジャガイモを掘る2人の農婦)
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(4本の木のある秋の風景)
 昨日紹介した『ジャガイモを食べる人々』や上の5つの作品は1885年にゴッホがニューネン時代に描いた作品で、農民画家としてのゴッホが形成されていった重要な時期である。
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(燻製ニシンのある静物)
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(ムーラン・ド・ラ・ギャレット)
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(風車のあるモンマルトルの眺め)
 上の3つの作品は1886年にゴッホがパリに出て来て描いた作品である。
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(4本の切ったひまわり)
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(アルルの跳ね橋・アルルのラングロワ橋と洗濯する女性たち)
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(花咲くモモの木・モーヴを思い出して)
 1887年のひまわりを切った絵は4つ描かれており、1888年のアルルの跳ね橋も5つ描かれている。ラングロワ橋はアルルの中心部から約3キロほど南西の運河に架かっていたものだが現存していない。しかし、現在、観光用に再現されたが、運河の堤などとの風景が異なり、絵画の雰囲気は再現されていない。次の作品『花咲くモモの木・モーヴを思い出して』はアルルの跳ね橋と同じく1888年3月に描かれている。
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第7日目(観光6日目)
 4月17日(日)午前7時、私たち夫婦は朝食後にマーストリヒトのホテルの周辺を散歩した。ホテルの周りには池があり、池の周りの空き地にアヒルが7匹いた。
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(池の周りの空き地のアヒル)
 池の中に巨大な昆虫のオブジェ(造形作品)があった。
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(昆虫の巨大なオブジェ)
 私たちは午前8時頃にバスでクレラー・ミュラー美術館に向けて出発した。マーストリヒトから北へ約178㎞、所要時間は約2時間30分の行程である。
 クレラー・ミュラー美術館は、オランダのヘルダーラント州のデ・ホヘ・フェルウェ国立公園にある。この公園は、5500ヘクタールにも及ぶ、オランダでも大きな自然保護区の一つであり、その真ん中に近代的な建物であるクレラー・ミュラー美術館がある。この建物と美術品は実業家であるクレラー・ミュラー夫妻が国に寄贈したのでその名前が付けられている。この美術館はゴッホのコレクションで知られ、その絵画87点におよぶ規模はアムステルダムのゴッホ美術館とならび、2大ゴッホ美術館と称されている。
 私たちは、以前にもハーグなどを案内してくれたオランダの国籍を持つガイドの中川さんの案内で、ゴッホの初期の作品から鑑賞した。
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(日暮れのポプラ並木)
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(初期の作品)
 ゴッホは木の根っこを描くのが好きだった。
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(浜辺の漁師)
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(浜辺の漁師の妻)
 初期の作品ではゴッホは顔をきちんと描いていなかった。
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(黄色い麦わら帽子のある静物)
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(ゴッホの風景画)
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(ニュネンの古い塔と農民)
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(床を掃く農婦)
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(土を掘る農夫)
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(ゴッホの『ジャガイモを食べる人々』)
 この作品はゴッホがオランダのニューネン在住時に描かれた、1885年の作品である。ゴッホは書簡では「ジャガイモを食べる人々がその手で土を掘ったということが伝わるように努めた」と書いている。彼は働く人を描くのを好んだといわれている。
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 オルヴァルのレストランでランチを食べた後、私たちはバスでマーストリヒトへと向かった。オルヴァルから距離で約182㎞、所要時間は約1時間30分の行程である。
 ベルギーの第5番目の都市であるリエージュを午後3時10分に通過し、国境を越えてオランダのマーストリヒトに到着したのは午後3時45分頃であった。
 マーストリヒトは、1992年にヨーロッパ共同体(EC)がヨーロッパ連合(EU)となった条約が結ばれた都市である。なぜこの都市で条約が結ばれたのかというと、この都市はヨーロッパの中で最も紛争が絶えなかった都市であり、20回以上も他国に占領された過去を持つ。そのためヨーロッパ統合をめざす国々にとって、条約を締結するにふさわしい都市と認められたからであろう。
 この都市の歴史は古く、西暦98年にオランダで最初にローマ帝国から都市権を得るよりも500年前には、ケルト人がつくった町が存在していた。名前の由来は、都市を流れるマース川をまたぐ(トリヒト)というところからきていると現地ガイドのオリバー・タニアさんが話してくれた。
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(タニアさん)
 タニアさんの案内で、私たちが最初に訪れたのは市の城壁の跡だった。
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(13世紀の城壁の跡)
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(13世紀の城壁の跡)
 16世紀には武器庫となっていた。
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(城壁の門)
 城壁の東の端には地獄の門という名前の門があった。
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(地獄の門)
 これは1229年に建造されたオランダ最古の市の門である。門の先には18世紀にペストハウスが建てられ、ペスト患者達はこの門を通ってペストハウスに送られて隔離された。そのため地獄の門という名前が付けられた。
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(地獄の門近くの景色)
 しばらく歩いていると古い水車が目に付いた。
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(古い水車)
 タニアさんによると、この古い水車は皮なめしに利用していたとのことである。
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(13世紀の城壁の跡)
 タニアさんが17世紀の水車を案内してくれた。
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(17世紀の水車)
 この水車は元は木製であったとのこと。この水車を使って小麦粉を作り、今でもパン屋を営んでおり、私たちはパン屋さんの内部を見せてもらった。
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(水車を使って小麦粉を作っている)
 その後私たちはカトリック教会のノートルダム寺院へと歩いた。
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(ノートルダム寺院)
 この寺院は12世紀のロマネスク様式で造られたもので、教会入り口脇の小さな礼拝堂には15世紀のマリア像があり、ろうそくの光のなかにかすかに見えた。
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礼拝堂)
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(マリア像)
 次に私たちはフライトホフ広場に行き、聖セルファース教会と聖ヤンス教会の建物を見学した。
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(聖セルファース教会)
 この教会はオランダで最も古いカトリック教会のひとつで、6世紀から建造が始められた。聖セルファースはマーストリヒトの守護聖人で、4世紀にマーストリヒトの司教となった人である。384年にこの場所に葬られたのが教会の起源となった。
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(聖ヤンス教会)
 この教会は聖セルファース教会の南隣にある。タニアさんによると、高さ70mの赤い塔をもつゴシック建築の教会は、1216年頃にカトリック教会として造られたが、17世紀にはプロテスタント教会として使用されるようになった。
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(聖セルファース教会と聖ヤンス教会が列んでいる)
 さらに私たちはマルクト広場にある市庁舎を見学し、夕食の後ホテルへと向かった。
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(市庁舎)
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 第6日目(観光5日目)
 4月16日(土)午前9時、私たちはバスでルクセンブルクのホテルからオルヴァルに向かって出発した。オルヴァルはルクセンブルクから西に約70㎞、所要時間は約1時間30分である。私たちは国境を越えて再びベルギーに戻ったが、ヨーロッパ連合の国々はほどんどシェンゲン協定に加盟しているため、パスポートなしで国内旅行のように自由に移動できる。
 バスは予定より少し遅れ、午前10時50分頃にオルヴァルに到着し、ここの専属のガイドさんの案内で古い修道院の廃墟などを見学した。
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(現在のオルヴァル修道院)
 オルヴァルはベルギーのワロン地域、リュクサンブール州にある地名である。ここに修道院が建てられたのは1076年と古く、イタリアからベネディクト派の修道士達がこの地に招かれ、修道院が開設され、建物が完成したのは1124年のことである。なぜこんなアルデンヌの森深い場所に修道院が設立されたのかというと、大変興味深いお話がある。それが、「マテルドの泉」伝説である。
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(マテルドの泉)
 1076年、この地方の領主であるイタリアのトスカーナからやってきたマテルド伯爵夫人が、狩りの途中に谷にあった泉のほとりに腰を下ろした時、ふとしたはずみで亡き夫の結婚指輪を泉の中に落としてしまったのである。悲しみにくれる夫人は、近くにあった祈祷所で、聖母マリアに祈りを捧げ、「指輪がかえってきたならば、この地に修道院を建てます」と祈願した。 泉に戻ってくると、突然泉から一匹の鱒(ます)が指輪をくわえ水面へと姿を現したのである。 マチルド夫人は喜び驚いて「本当にここは黄金(オル)の谷(ヴァル)だわ!」と叫んだ。 これにちなんで、この地をオルヴァルと呼ぶようになった。
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(マテルド夫人と鱒)
 この修道院は1132年にフランスからシトー会の修道士グループが来てベネディクト派と合流する。1252年には火災により焼失し100年かかって再建される。また1637年には三十年戦争の時に掠奪を受ける。さらに1793年のフランス革命時にフランス軍によって焼き討ちされ破壊される。
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(廃墟となった修道院の跡)
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(廃墟となった修道院の跡 赤くなっているところは火災の跡)
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(廃墟となった修道院の跡)
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(廃墟となった修道院の跡)
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(廃墟となった修道院の跡)
 ようやく1926年になってトラピスト修道院として新しく建設し再建が開始される。建設資金を得る手段として1931年にビールの醸造が開始され、翌年から販売を開始した。そして、ついに1948年に新修道院が完成した。
 現在オルヴァルは修道院よりもビールの銘柄として世界中に知られている。オルヴァルビールは、トラピストビールに属している。トラピストビールというのはトラピスト派修道会に属する修道院でつくられるビールのことで、そう名乗れるのは世界でたったの6ヶ所のみで、そのうちの5ヶ所がベルギー、あとの1ヶ所はオランダにある。
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(現在のオルヴァル修道院とビール醸造所の模型)
 見学後、この修道院が販売しているオルヴァルビールとグラスがセットになったものをお土産に購入した。
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(オルヴァルビールとグラスがセットになっている)
 ランチは修道院近くのレストランで郷土料理を食べたが、サービスにオルヴァルビールが付いていた。
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(オルヴァルビール)
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(前菜はパンプキンスープ)
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(メインはグラタン)
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(デザートはクリームブリュレ)
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(コースターには鱒が金の指輪を咥えている絵が描かれていた。)
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