<   2016年 06月 ( 26 )   > この月の画像一覧

3 文人画・写生画・錦絵の誕生
1) 文人画
 文人趣味の浸透は、芸術のさまざまな分野に大きな影響をおよぼした。絵画では、漢詩文的素養と中国南画(なんが)を基礎にした個性豊かな文人画が生まれた。池大雅(いけのたいが)や与謝蕪村(よさぶそん)は、中国南画の画法に、伝統的な画法や西洋的な遠近法をも取り入れた独特の画風を創造した。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2) 写生画
 伝統的な絵画では、清の画家沈 南蘋(ちん なんびん)の影響を受けて、事物をありのままに描く写生画が広まった。伊藤若冲(じゃくちゅう)は尾形光琳の装飾性に写実性を加えて独特の画風を生み出した。円山応挙(おうきょ)は写生画的な画風を完成させ、蕪村に学んだ松村月溪(げっけい)(呉春)(ごしゅん)は応挙の影響を受けて写生画に転じ、四条派を形成した。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
3) 洋風画
 西洋図画のさし絵や銅販画の真にせまる表現に魅せられた人々の間から、日本初の腐食銅販画(ふしょくどうはんが)を創製した司馬江漢(しばこうかん)や、『解体新書』のさし絵を描いた小田野直武(おだのなおたけ)らのすぐれた洋風画家が生まれた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
4) 錦絵
 画風革新の風潮のなかで、鈴木春信は錦絵とよばれる多色摺(たしょくずり)の画法を完成させ、浮世絵に一大変革をもたらした。特殊な色彩効果を上げる版画の技法が工夫されたので、絵師の才能を存分に発揮できるようになった。なかでも喜多川歌麿(きたがわうたまろ)や東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)は、上半身を大きく描き、市井(しせい)の美人や役者らを個性豊かに表現した大首絵(おおくびえ)の画風を創造した。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 次回の第43回日本史講座は、7月9日(土)午後2時より行う予定です。
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2 社会批判思想と町人思想のめばえ
1) 社会批判思想
 百姓一揆や打ちこわしなどによって、社会不安が高まるにつれて、社会や政治に関心を向けて、制度や社会のしくみを研究し批判する人々があらわれた。
 富永仲基(とみながちゅうき)は『出定後語(しゅつじょうごご)』を著し、儒教・仏教・神道などの思想や宗教の通念を排して、それにかわる規範として「誠の道」を説いた。三浦梅園(ばいえん)は天地創造の理に疑問をいだき、天地の間にある道理にもとづいて宇宙の構造を説明する条理(じょうり)学を提唱するとともに、労賃の変動の原因を追及して『価原(かげん)』を著した。
 安藤昌益は『自然真営道(しぜんしんえいどう)』をあらわし、身分制を否定してみずから耕作して平等に生きる「自然の世」を説き、封建制を鋭く批判した。しかし、農本主義を主張するあまり、商工業の存在を全く否定しており、また、直接に幕府の政策を攻撃するまでにはいたっておらず、近代的思想にはつながらなかった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 また、竹内式部(たけのうちしきぶ)は神道を学び、儒教のなかの大義名分論による尊王論を主張して、幕府の専横をおさえ朝廷の力を復活させようとした。1758年には、式部が京都で公家達に尊王論を説いたために追放されるという宝暦事件がおこった。1767年には、山県大弐(やまがただいに)が江戸で兵学を講じ、幕政の腐敗を攻撃したために死刑にされた明和事件がおこっている。
2) 町人思想のめばえ
 町人らの心をとらえたのは石田梅岩(ばいがん)の心学(しんがく)であった。農民出身で京都の商家に奉公した梅岩は、儒教・仏教・神道の三つの思想を取り入れ、人は身分に応じて生活すべきだとする立場から、商業活動を正当なものとして認め、商人の生きる道を分かりやすく説いて、町人らの支持を得た。梅岩の後、手島堵庵(てしまとあん)が諸国に心学舎の建設と教化活動にのりだし、ついで中沢道二(なかざわどうに)がこれを継承・発展させ、心学舎の数は全国で180余りに達するほどの発展をみせた。しかし、心学はしだいに現世に対する不満や批判をそらす消極的なものとなり、やがて民衆から見捨てられていった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京書籍「日本史図説」より)
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 Ⅲ 江戸町人の文化
1 文人趣味と新しい学問・思想の形成
1) 儒学
 儒学では、荻生徂徠(おぎゅうそらい)の古文辞(こぶんじ)学派が大きな影響を与えた。荻生徂徠は聖人の道は経世済民の人為的な道であるとして、この確立を将軍に期待した。彼が吉宗に奉った「政談」は、封建社会が商業資本によって食い荒らされたことを論じ、強い復古主義を唱え、武士の帰農と町人の利殖抑制を説いた。しかし、現実の商業資本の発達はとうてい抑えることはできず、徂徠の継承者太宰春台は、「経済録」において、諸藩は積極的に経済活動を行うべきだという政策論を提言した。しかし春台ののち、経世学としての発展性はなく、服部南郭(なんかく)を中心とする詩文鑑賞に重きを置く派がこの学派の主流となっていった。
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(東京書籍「日本史図説」より)
2) 国学
 儒学がしだいに形式化していったのに対し、歌学の革新からはじまった日本の古典研究は、しだいに文学趣味から脱して復古主義的思想の学、国学として体系をととのえはじめた。その立場をはじめて明らかにしたのは京都の神官荷田春満(かだのあずままろ)であった。彼は「古事記」や「日本書紀」の研究を通じて神道思想を取り入れた復古主義を唱えた。ついで、遠江(静岡県)の神官賀茂真淵(かものまぶち)は、「万葉集」の研究を中心として、儒教や仏教などの外来思想が伝来する前の上代人の精神にたちもどることを説いた。国学の大成者は伊勢松阪の商家に生まれ、医者を生業とした本居宣長である。彼は「万葉集」「古今和歌集」「源氏物語」などの古典研究を大成するとともに、34年間をかけて大作「古事記伝」を69歳にして完成させた。宣長は昼間は医師としての仕事に専念し、自身の研究や門人への教授は主に夜に行った。71歳で亡くなる10日前まで患者の治療にあたっていたことが記録されている。宣長は、「古事記」をはじめとする古典にみられる「真心(まごころ)」に人間の真情を求め、古代日本の精神に立ち返ることを主張した。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
3) 蘭学
 一方、漢訳洋書(かんやくようしょ)の輸入制限がゆるめられると、西洋の知識や学問への関心が高まり、医者やオランダ通詞(つうじ)らを中心に蘭学が発展した。医師の前野良沢(りょうたく)や杉田玄白(げんぱく)らは、人体解剖に立ち会って西洋の解剖書どおりに人間の体が成り立っていることに驚き、1774年にオランダ語訳のドイツの解剖書『ターへル・アナトミア』を翻訳して『解体新書』を完成させ、西洋医学を摂取する道が開かれた。杉田玄白は、苦労して翻訳した『解体新書』の苦心談を『蘭学事始(らんがくことはじめ)』に著した。
 『解体新書』をきっかけに、蘭学は医学・本草学・天文学・地理学などの分野で急速な発達をみせるようになった。仙台藩医大槻玄沢(おおつきげんたく)はオランダ語の入門書『蘭学階梯(かいてい)』を著し、玄沢に学んだ稲村三伯(さんぱく)は日本初の蘭和辞書『ハルマ和解(わげ)』を完成させた。
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(東京書籍「日本史図説」より)
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(東京書籍「日本史図説」より)
4)自然科学
 自然科学に関する翻訳も長崎のオランダ通詞らによって行われた。本木良永(よしなが)はコペルニクスの地動説を紹介し、志筑忠雄(しづきただお)は『暦象新書(れきしょうしんしょ)を著してニュートンの物理学などを紹介した。
 本草学(ほんぞうがく)がさかんになったが、高松藩の下級武士の家に生まれた平賀源内(ひらがげんない)は本草学だけでなく、旺盛な好奇心から「エレキテル(摩擦起電機)(まさつきでんき)」を製造して人々を驚かせ、絵画や文芸にも才能を発揮した。
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(東京書籍「日本史図説」より)
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 第42回日本史講座は6月25日(土)午後2時より受講者9名で行われました。
5 外圧の激化と蝦夷地の防衛
1) 松平定信の老中辞職
 松平定信は厳格に質素・倹約をすすめてきたため、ぜいたくを好む11代将軍家斉(いえなり)との関係を悪化させた。さらに1789年、朝廷は光格(こうかく)天皇の実父に大上(だいじょう)天皇の尊号を与えることを幕府に願い出たが、定信はこれを認めず責任者を処分したがこれを尊号一件と呼ぶ。また、家斉が実父一橋治定(はるさだ)を大御所にしたいという希望にも、大御所は前将軍の呼称であるとして反対し家斉と対立したため、1793年、定信は老中を辞職した。しかし、他の老中らは留任したため、改革は定信腹心の老中松平信明(のぶあきら)に引き継がれた。
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東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 まもなく改革の成果があらわれ米は増産となったため、米あまりとなって米価が下落しだし、幕府や藩の財政に深刻な打撃を与えた。幕府は、江戸や大坂の商人に米の買い取りを奨励して価格の上昇を試みたが失敗した。そのため、米に代わる国産品の販売に一段と力を入れる藩が多くなった。
2) 外圧と蝦夷地の防衛
  対外的にも難題に直面した幕府は、最上徳内(もがみとくない)や近藤重蔵に千島列島を調査させた。徳内は出羽(山形県)の貧農出身であるにもかかわらず、たばこ行商などをしながら独学で学び、1781年に江戸に出て、29歳で本多利明の音羽塾に入り、天文・測量を学び、長崎へ算術修行にも行っている。利明の推薦により幕府の蝦夷地探検に参加した。1826年には江戸に来たシーボルトのアイヌ語辞典編纂などにも協力した。晩年は江戸浅草に住み、1836(天保7)年、82歳で亡くなっている。
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(ウィキペディアより)
 また、近藤重蔵は江戸駒込に与力の三男として生まれた。幼児の頃から神童といわれ、8歳で四書五経をそらんじ、17歳で私塾を開き、生涯、60余種1500余巻の著作を残している。1798年蝦夷地視察の一行に加わり、翌年、松前蝦夷地御用となって以降蝦夷地・千島方面を探索し、高田屋嘉兵衛の協力を得て択促(えとろふ)島でロシアの標柱を廃して「大日本恵土呂府」の標柱を建てるなど、ロシアの南下政策に対抗する北辺警備に尽力した。1808年には書物奉行となったが、自信過剰で豪胆な性格がわざわいし、1819年に大坂に左遷される。この時、大塩平八郎と会ったことがあり、重蔵は大塩に「畳の上では死ねない人」という印象を抱き、大塩もまた重蔵を「畳の上では死ねない人」という印象を抱いたとされている。晩年は長男の近藤富蔵が起こした一家殺害事件の連座で他藩に預けられ、1829(文政12)年、59歳で亡くなっている。
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(ウィキペディアより)
 1799年に東蝦夷地を直轄地とし、海防を強化した。1804年、ロシア使節レザノフがラクスマンの信用状をもって長崎に来航し通商を求めると、幕府は拒絶した。これをきっかけに、ロシア船が蝦夷地沿岸に出没したため、幕府は、1807年に蝦夷地全域を直轄地とし、間宮林蔵に樺太(からふと)を調査させた。林蔵は常陸の国(茨城県)の農民の子として生まれた。1790年頃に江戸に出て地理学を学び幕府の下役人となった。1800年には蝦夷地御用雇いとなり、蝦夷地測量中の伊能忠敬に測量術を学び、、蝦夷地や択促島をを測量している。1808年に幕府の命により樺太を探検し、樺太が島であることを確認した。このことは1832年、シーボルトによって間宮海峡の名で世界に紹介された。歴史の皮肉なことに、林蔵は幕府の隠密であり、シーボルト事件の密告者は彼であった。林蔵は自分が密告した人物によって世界に名を残せたのである。
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(東京書籍「日本史図説」より)
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(東京書籍「日本史図説」より)
 1811年に幕府がロシア軍人ゴローニンを監禁すると、翌年、ロシアも択促航路を開拓した高田屋嘉兵衛を抑留したために、両国間の緊張は高まるが、嘉兵衛の努力でゴローニンも釈放され事態はおさまった。しかし、樺太や千島列島で小競り合いがおきるなど日露両国にいぜん緊張がつづいた。
 また、1808年にイギリス船フェートン号が長崎湾に侵入する事件が起こった。目的は、本国がフランスの統治下にあったオランダの海外活動拠点を占領することだった。この事件は日本が欧米列強間の影響を受けることになったことを幕府に自覚させる事件でもあった。
 
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4 外圧の高まりと海防の強化
1) 列強の東アジア進出
 18世紀後半になると、オランダはイギリスにやぶれて、アジアでの経済的な権益がせばめられたため、オランダ東インド会社が経営難に陥った。オランダに代わって、東アジア世界に進出したのはイギリスだった。
2) ロシアの南下政策
 この頃、ロシアは最大の輸出品の毛皮を得るために北太平洋まで進出したが、冬期しかシベリア大陸を横断できなかったため、生活物質の調達が重要課題となった。18世紀半ばには、ロシアは千島列島から蝦夷地にまで南下し、本国では日本人漂流民を教師とする日本語学校を設立して通商に備えた。
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(三省堂「日本史B」より)
 そして1792年ラクスマンが漂流民大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)をともなって根室に来航し、日本に通商を求めた。幕府は拒絶したが、長崎での交渉を約束した信用状をラクスマンに与えて帰国させた。
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(三省堂「日本史B」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
3) 海防の強化
 外国船の接近は外国や蝦夷地への関心を一段と高めた。仙台藩士の林子平は、『三国通覧図説』で、日本を取り巻く朝鮮・琉球・蝦夷地と小笠原諸島の情勢を著した。『海国兵談』では外国から攻撃を受ける危険性を指摘し、蝦夷地開拓と江戸の海防の必要性を説いた。幕府は、人心をまどわせるものとして子平を処罰し、その一方で、帰国漂流民から情報を収集するとともに、蝦夷地の調査や江戸湾岸の警備を強化した。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 第42回日本史講座は、6月25日(土)午後2時よりおこないます。
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3 寛政の改革
1) 松平定信の登場
 田沼意次が天明の飢饉による社会混乱の責任を問われて失脚した後、徳川吉宗の孫で陸奥白河藩主の松平定信が11代将軍徳川家斉(いえなり)を補佐する老中首座に就任した。その年は、1787年、6月、江戸・大坂に天明の打ちこわしがおこった直後であった。翌年、定信は幕政改革に着手したが、彼は吉宗の政治を模範として封建秩序の回復と財政基盤の安定をめざした。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2) 諸改革
 定信はまず、物価引き下げや米の買い占め禁止を行い、人心の安定ににつとめ、1789年には棄捐令(きえんれい)を出して札差に債権を放棄させてその救済をはかった。
 次に異学の禁を出して朱子学を正学とし、それ以外の儒学の学派を異学とし、林家(りんけ)の家塾聖堂学問所(かじゅくせいどうがくもんしょ)を官立の昌平坂(しょうへいざか)学問所にして朱子学をさかんにし、武士の気風の刷新をはかった。さらに、親孝行などを行った善行者らを表彰するとともに、華美な風俗や町人の文芸活動を取り締まって、社会秩序の再建をめざした。1791年、洒落本(しゃれほん)作家の山東京伝(さんとうきょうでん)や出版元の蔦谷重三郎(つたやじゅうざぶろう)は手鎖50日の処分を受けた。また、女髪結いなども禁じられた。
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(東京書籍「日本史図説」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 経済政策では、両替商からの献金の廃止や専売所の解散など、田沼意次が行った多くの政策を廃止して幕臣と商人の癒着を断ち切った。
 また、定信は、江戸の治安維持にもつとめ、石川島に人足寄場を設置して浮浪人や無宿人を収容して社会更正をはかった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 飢饉にそなえては、諸藩に囲米(かこいまい)を命じ、都市や農村でも社倉(しゃそう)(住民が分相応に穀物をだしあう)や義倉(ぎそう)(富裕者の義捐または課税による)を設けさせて穀物を蓄えた。江戸における七分積金(しちぶつみきん)も一種の囲米といえる。これは町入用の節約分の7分(70%)を米や金で貯えさせて非常の場合に役立てたものである。明治維新の際には170万両の余剰があり、東京市に接取され学校建設や道路整備に使用された。
 江戸に流れてきた農民には資金を与えて帰村を奨励する旧里帰農令(きゅうりきのうれい)を行った。
3) 結果
 幕府の年貢米はまもなく天明の飢饉以前の水準に回復したが、定信の施政に対する不満は各方面から反発が起こった。特に民衆は落首によって、息苦しい政治に強い不満を表明した。
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(山川出版「詳説 日本史研究」より)
 
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2 農村の荒廃と藩政改革
1) 農村の荒廃
 天明の飢饉後、東北や北陸、北関東の村では人口が激減して耕地が荒廃していった。このため年貢収納量が大幅に減少したため、多くの藩が極端な財政難に陥った。
2) 藩政改革
 諸藩では、年貢増徴と殖産興業の推進、それにもとづく専売制の強化によって財政難の打開につとめ、農村を再編して農民層の分解を防止しようとした。熊本藩主細川重賢(しげかた)は有能の士を抜てきして要職にすえ、職制の整備、財政の緊縮、農村の復興、藩学時習館の設立など広汎な改革を断行して名君と讃えられ、松江藩主松平治鄕(はるさと)も農政振興・財政緊縮につとめ、人参・陶器・紙・蝋の生産などの殖産興業にもめざましい成果をあげた。
 東北諸藩にも名君があらわれ、商業資本と結びついて特産物を創出し、専売制を強化して財政難をきりぬけようとした。なかでも米沢藩主上杉治憲(はるのり)は藩学興譲館(こうじょうかん)の開設、農業及び国産の奨励、門閥勢力の排斥などに功績をあげて名君と称された。とくに養蚕・製糸を盛んにして藩の財政難を救った。秋田藩主佐竹義和(よしまさ)は、養蚕・織物・材木・鉱山その他の国産奨励、職制整備、藩学明徳館(めいとくかん)の設立などの業績を残した。専売強化と藩学の設立が盛んに行われているのもこの時期の特徴であるが、藩政を支え、富国強兵の実をあげるための人材育成に力が入れられたことが分かる。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(三省堂「日本史B」より)
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 Ⅱ 百姓一揆と寛政の改革
1 百姓一揆と天明の飢饉
1) 百姓一揆の激化
 幕府や藩による商品作物の統制は、農民の生活を圧迫した。追いつめられた農民らは、年貢の減免、商品作物への課税の軽減や撤廃を求めた請願を行い、幕府や藩が応じない場合は越訴や百姓一揆を起こした。一揆の形も強訴に加え、幕府や藩に加担した特権商人の家屋などを打ちこわす場合が増え、しだいに幕府や藩の領域をこえて大規模化していった。
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(三省堂「日本史B」より)
 幕府や藩によって処罰された一揆の指導者は、民衆の芝居や物語などによって義民として語りつがれた。代表的な人物に江戸時代前期に活躍した下総(しもうさ)の佐倉惣五郎がいるが、この物語は史実として確認できることは少ないらしい。佐倉藩の重税に苦しむ農民ために将軍への直訴によって処刑されたという物語は、江戸時代後期に形成され、実録本や講釈、歌舞伎などで広く知られるようになった。小学校の教科書にも載せられた『ベロ出しチョンマ』というお話は、この物語を元に書かれたものである。
2) 天明の飢饉
 「三年に一度の不作、二十年目の小飢饉、五十年目の大飢饉」といわれているように、飢饉は起こったが、この頃に発生した天明の大飢饉は未曾有の被害をもたらした。
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(東京書籍「図説日本史」より)
 百姓一揆が続発するなか、東北・北陸・関東では、1782年から数年にわたって極度の冷害にみまわれ、浅間山の噴火が加わり大凶作がつづいた。このため、米価が暴騰し、ぼうだいな数の餓死者が出た。特に津軽藩では、稲作に不適な気候だったこともあり、20万人もの餓死者が出たといわれている。さらに疫病も流行したため、全国で約92万人の犠牲者がでたと推定されている。
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(東京書籍「図説日本史」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)
 これに対して、幕府や藩は十分な救済策を講じなかったため、都市や農村では貧しい人々が米価の値下げを求め、米を買い占めた城下町の米問屋らに打ちこわしをかけた。1787年には、直轄地の大坂や江戸でも大規模な打ちこわしがおこるなど、社会不安はさらに高まった。
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(東京書籍「図説日本史」より)
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4 名産品の登場
1) 名産品の登場
 商品経済が活発になるにつれて、江戸の株仲間らの経済力が向上し、大坂から大量の下り物と呼ばれる高級な商品がもたらされた。また全国各地で生産される特産物が人気をよび、名産品としてもてはやされた。こうしたなかで、各地の名産品の生産現場を図解入りで分かりやすく紹介した『日本山海名産図絵』が刊行され、多くの人々に読まれるようになった。
① 木綿
 木綿では、九州・瀬戸内・畿内・東海に特産地が生まれ、河内木綿・尾張木綿・久留米絣(くるめがすり)・小倉絣などが有名となった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
② 絹
 綿花栽培に不適な寒冷な信濃(しなの)・上野(こうづけ)・陸奥南部には養蚕・製糸業がおこり、生糸の国内需要をまかなえるほどになった。また、京都西陣から高機(たかばた)の技術を導入した地域では、複雑な文様を織ることが可能になり、地方色ゆたかな桐生(きりゅう)絹・足利絹や丹後縮緬(たんごちりめん)が有名になった。
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(三省堂「日本史B」より)
③ 麻
 麻も青苧(あおそ)と呼ばれる出羽南部産の良質な原料が越後にもたらされ、伝統的な技法に改良を加えて、清涼感ある肌触りの越後縮(ちぢみ)が夏の衣料となり、人々に喜ばれた。
④ 染料
 織物業の発達と友禅染など染色技術の普及は、染料生産の増大をうながし、紺色用の阿波藍(あわあい)と朱色用の出羽の最上紅花は品質の良さで人気をえた。
⑤ 磁器
 このころ、尾張瀬戸(せと)の庶民向けの磁器は瀬戸物と呼ばれて焼き物の代名詞になるほどの普及を見た。
⑥ 酒
 酒造業では、伝統的な摂津の伊丹や池田のほかに水車を使って精米し、良質の酒の大量生産を実現した同じ摂津の灘の酒は、樽廻船によって江戸へ運ばれ、灘の生一本と呼ばれて人気をはくした。
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(三省堂「日本史B」より)
2) 生産形態の変化
 需要の増大は経営の仕組みを大きく変えさせた。特に木綿織物では、家内工業による小経営に代わって複数の生産者に原料や道具を前貸しして、出来高によって賃金を払い、問屋が製品を引き取るという問屋制家内工業が生まれ、需要の増大に応えるようになった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より) 
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3 田沼意次の政治
1) 田沼意次
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 1745年、吉宗の子の家重(いえしげ)が9代将軍についたが病弱であったため、側用人が復活してその力が強まり、10代将軍家治(いえはる)の時には将軍側近の田沼意次(おきつぐ)が側用人から老中に昇進して権力を握った。意次は、年貢の増税はこれ以上無理だと判断し、商人の力を利用して財政再建をはかった。
2) 意次の政策
 意次は、江戸や大坂の問屋や仲買の商人だけでなく、在方町(ざいかたまち)の在方商人にも株仲間を広げ、彼らに営業を独占させるかわりに、運上金・冥加金(みょうがきん)を上納させるようにした。その後、大坂の二十四組問屋、江戸の十組(とくみ)問屋などが公認された。二十四組問屋は大坂の菱垣廻船を24の組に分けて海運業務を行った。十組問屋は荷物運送の株仲間を10組に分けて管理したものである。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 また、特定の商人に銅・鉄・真鍮(しんちゅう)・朝鮮人参などの座を設けさせ、幕府の専売品として増収をはかった。さらに、町人請負新田を増やし、下総(しもうさ)の印旛沼(いんばぬま)・手賀沼(てがぬま)の干拓などをすすめた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 意次は、銅や俵物などの海産物を輸出して、金や銀を輸入し、その銀で南鐐(なんりょう)二朱銀という金の単位をつけた定量貨幣を鋳造して貨幣の流通量を増やそうとした。
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(東京書籍「図説日本史」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)
 また、工藤平助の『赤蝦夷風説考』に影響を受け、俵物の産地である蝦夷地の開拓計画を立てて、シベリアに進出していたロシアとの交易をはかろうとした。
3) 影響
 商業活動が活発になったため、商人の社会的地位が高まり、武士と町人の交流がすすみ、町人の風俗になじむ武士が見られ、自由な町人文化が生まれる一方で、賄賂が横行し、武士の退廃が目立つようになり、田沼政治への批判がしだいに高まっていった。
4) 諸藩の殖産政策
 諸藩でも、経済を活性化させるため、稲作中心を転換して、木綿や藍(あい)・紅花・漆(うるし)・櫨(はぜ)(ろうそくの原料)などの商品作物が奨励された。また、諸藩では産物を国産品に指定し、城下の特権商人と組んで販売権を独占する専売制をしくなど、赤字財政を克服する殖産政策をうちだした。さらに、農民から商品を藩札で買い取る藩もあらわれた。
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